●東尋坊から福井へ
東尋坊からバスで三国駅へ、越前鉄道の電車で福井へ向かう。
●北の庄城跡
北の庄の地には、黒丸城主朝倉貞景の次男頼景が居館を築いて以来、天正元年の一乗谷の朝倉義景滅亡と同じくして北の庄朝倉氏も断絶した。
天正3年、越前一向一揆を平定した織田信長は、柴田勝家に越前8郡49万石を与え、越後の上杉謙信に対峙させた。
勝家は、入封早々から北の庄城を築城した。 しかし、僅か9年後の天正11年、賤ヶ岳の合戦に敗れ北の庄城も落城、勝家はお市の方共々自刃して果てた。
慶長5年、結城秀康が越前国主として下総結城より入封、新城(福井城)を築城して北の庄城は消滅した。
●福井の街
●福井城
福井城は、天正3年に柴田勝家が築城した北の庄城が前身である。
慶長5年、関ヶ原に勝利した徳川家康は、越前68万石を次男結城秀康を松平氏に改姓させ、下総結城から北の庄城に封じた。
秀康は、慶長6年より城の改修(築城)を始め、北陸の諸大名にも築城御手伝が命じられた。
2代忠直が乱行のため改易となり豊後に配流となり、弟忠昌が越後高田より55万石を領して越前3代目となった。 この忠昌が北の庄を福井と改名した。
越前松平家は、その後5代昌親の代に禄高は半知となるが、徳川御家門筆頭として明治まで続く。 幕末の動乱期には、16代藩主松平慶永(春嶽)が活躍したことで有名である。
●養浩館庭園
養浩館は福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」と称されていました。庭と密接な関連の基に建造された池の周囲の書院建築の数々と、広大清澄な園池を主体とした回遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)は江戸中期を代表する名園の一つとして広く知られていました。
福井大空襲で建造物が焼失しましたが、昭和57年に国の名勝に指定されたことが契機となって、文政6年の「御泉水指図」により近年、整備が行われました。現在では、建造物・池だけでなく玉砂利・石組・樹木も四季折々に風趣が漂い、庭園の趣を楽しめます。
●JR福井駅
12/07お城めぐり-21(北の庄城址、福井城址)
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