かもうな
養子縁組 二之巻(続き)
日頃のご無沙汰を侘び、次いで近況報告があり最後に養子縁組の話が綿々と
書き綴られていた。
内容はこうである。
寛保三年(1743)不審火により白石藩勘定所が焼け、保管してあった諸記録
が消失する事件があった。(白石藩主片倉小十郎村兼の時である。)
当時、勘定方役であった佐藤長十郎が職務柄忘備録を記していたのが幸いして
その上役である宍戸七郎右衛門の首が繋がったこと、さらに長十郎の律儀さを
褒めその子ならばという文面であった。
兼ねてより宍戸七郎右衛門の高潔な人柄を高く評価していた時右衛門は夫婦で
白石に向かうのだった。
仙台藩道中物語の「上り新道中歌往来」から引用すると
長町や中田増田も早過ぎて 岩沼御経たて八楠木
船迫こゆる荷物は大河原 さけた財布も重い金ケ崎
宮でのむ酒は白石斎川 水おも入れずこす河の関
また東北の街道「大藩の気風」には
仙台藩は何事についても統制の激しい大藩である。
藩境には越河宿(こすごう)宿があり境目足軽が集住し、藩堺を越える人、者
を改を行っていた。
藩主の参勤交代時にはここまで重臣たちが送り迎えし、仙台城下まで各宿駅に
には重臣や家臣が斑を編成し詰めたのであった。
・・・続く・・・