今回は天然記念物 塩竈さくらをご紹介します。
なお、本年度の撮影ではありません。
かもうな
すず風 第二之巻(八)
話は一年前、宝暦元年(1751)に遡る。
仙台は湧水が至る所にあり水が豊富な城下町である。それには地形が影響している。
高い所から「台原段丘」「上丘段丘」「中町段丘」「下町段丘」があり東南方向に傾斜している。
これを巧みに利用し仙台城下の水路網を完成させた川村孫兵衛重吉なる人物の功績は永代まで讃
えられてもしかるべきではないかと思う。
その豊富な水のお陰で城下の至る所には屋敷林が植えられ、後世の「杜の都」と称される仙台は
まさに治郎とすず風が青春を謳歌した此の時代にあった。
そのような仙台も豪雨には勝てなかったと歴史書には記述されている。
梅雨前線に向かって西から非常に湿った空気が流れ込み、閏六月二十七日仙台では翌日まで続く
豪雨に見舞われた。
城下の一部は水浸しとなり青葉川(広瀬川)も濁流となり氾濫した。青葉城大手門の石垣と堀が
崩れ落ち、青葉川(広瀬川)に架かっていた澱橋(よどみ)も流されてしまった。
その日から治郎は雨の音に怯えるすず風に二晩も付き添っていた。
雨の降りかたが尋常ではない。雨が降るのではなく雨が家や地面を叩く土砂降りである。
それが飛雨(ひう)となり、2日も続く連雨となる。治郎が経験したことのない始めての恐怖だった。
養母のお豊は鍋や壺を持ち出しては雨漏りのある所に置いて歩くのが精一杯である。
何しろただの雨ではない。
治郎はすず風の廐舎(馬小屋)に板戸を立てかけるともう濡れ鼠となった。
着替と玄関までたった一間走っただけでもこの始末である。
箕を肩から被り、陣笠を被り厩舎に行くとすず風が安堵したかのように首を挙げ尾毛を高く振りなが
ら軀を擦り寄せてきた。
馬は正直である。そのつぶらな瞳には治郎が映り、治郎の眼はそれを優しく受け止めていた。
豪雨は容赦なく仙台を襲う。
・・・続く・・・
文と写真は関係ありません。
南三陸町の惨状(写真初公開)
いま日本が揺れている。予測は尽き難いが何かが起こる可能性は十分ありえる。
こんなことを書くとオオカミ爺と間違えられるがあえて陳べたい
ロシア絡みの戦争かも、チャイナの台湾侵攻かも分からないが、巨大地震か噴
火が本土を襲って大津波が発生する可能性だってある。だから安心は禁物である。
忘れもしない2011年3月11日は家内と朝から散歩をしていたが寒かったので早々に
帰宅し、パーマ屋に行った母を迎えに行って帰宅したが正午ころであった。
昼食を食べて一服している所にあの巨大地震が襲ってきた。
幸い海抜20メートルの高台にある自宅は津波による被害は無かったがあの大地震に
はかって経験のしたことがない程の揺れだった。
(お役所は信頼できない)
電気と水そしてガスは止まり、町にはサイレンが鳴り響き「大津波に注意」との町
内放送が繰り返し叫んでいた。その40分後言語に絶する大津波が押し寄せた。
わが市では年に一度の防災訓練の度に、三日間分の食料は確保していると謳ってい
たが実際には市民の一日分の食料さえままならぬ状態だった。
この経験からお役所は信頼できないことが分かった。
(水、食料は備蓄せよ)
できる限り米、缶詰の類を買い求めて非常用としてダンボール箱に保管することである。
水は飲料用水として20リッター容器に少なくとも5~10は用意すべきであるが、スーパー
で販売している清涼飲料水を備えておけばなお良い。
汚れに使う場合は、空いたペットボトルに水を入れて軒下に並べて置くと意外と便利である。
重ねて云うが生き延びるためには全て自己責任となるのだ。
(ランタン、懐中電灯、電池、ライター、トイレットペーパー、紙タオル等用意せよ)
言うまでもないがこれらは生活の必需品である。さらに付け加えると手袋、タオル、水
のいらないシャンプーもあればよい。
(現金を用意せよ)
当たり前のことだが町の全ての商業活動が停止する恐れがある。もちろん電気が止まるの
だからクレジットなど使えなくなる。その時活躍するのが現金である。
(車にはいつもガソリンを満タンに)
東日本大震災の時には軒並みスタンドが休止しガゾリン不足に見舞われた。
ガソリンが無くなるときに重宝するのがガソリン携行缶である。これならスタンドが開いた
ときに携行すればガソリンが手に入る。
(ペットの食料)
これが意外と盲点である。スーパーも被害を受けて買い求めることが困難になる。
故に、一ヶ月ほどの備蓄は必要となる。
(トイレ事情)
震災では水洗が機能しなくなる。そんな時は学校のプールの水を利用することである。
それが出来ない場合にはペットボトルを増やし(家の周りに多く)ておく手がある。