かもうな
養子縁組 第二の巻(続き)
白石城は標高76メートルの最項部には本丸、中の丸、西曲輪、中段には
沼の丸、南ノ丸、巽曲輪、廐曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は
空堀で斤陵を切断、館堀川で隔てた。平地には三ノ丸、外曲輪を配置し
た平山城である。本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を囲み、三階
櫓、巽櫓、坤櫓、裏大手門、裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物
があった。
二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわして崖を利用する等中世と近
世城郭を併用した縄張りであった。 以上白石城・歴史探訪から引用
大藩の多くが泰平の世に溺れ、武士たる者の本分が忘れ去られ、武士の一
分が形骸化されつつある世において白石武士はなお「尚武の気風」を保ち
続けた。
「尚武の気風」とは、心身を強く持ち、勇気を持つことであり、さらに武
を学び自己を確立し自立する大切さをいう。
(有)フジックス社長はブログで、「これには陰と陽がある。陽は武道の
技、それだけではなく陰の精神を尊ぶ心がけが必要」と説いている。
さて白石藩士佐藤長十郎の屋敷は城から東の八幡山の麓で南ノ丸お堀近くに
あり、至って質素な屋敷であったが、その佇まいは白石武士の質実剛健な気
風が感じられたものである。
・・・続く・・・