かもうな
すず風 第一之巻(一)
江戸時代の仙台は良馬の生産地だったことは余り知られていない。
城下の「辻の札」(芭蕉の辻)から国分町にかけて馬市は近隣在郷から遠くの
在郷などから馬を連れ市にかける。それを「仙台馬市」と呼び、市は毎年3月
上旬から4月上旬まで国分町を上、中、下と分かれて一日交代で開催される。
仙台藩では藩行政の大きな柱として「仙台産馬仕法」を定め、勘定奉行の支配下
に馬生産方なる役目を置き、二歳駒の登録、馬市の開催を奨励したとある。
話が長くなったが現代では考えられない数百年前の仙台の姿である。
治郎の話にもどる。
仙台高橋家に治郎が養子に来てからはや四年がすぎ、寛延元年(1748)治郎は
十五歳、養父時右衛門の訓導、お豊の育愛をうけ治郎は利発な子の成長していた。
同じ年の四月治郎は養父と共に恒例の馬市に来ていた。
町には至る所に馬が繋がれており、それを品定めする馬買人やら他国から良馬を
求めにきた武士、駄馬を求める百姓たち等で町は大賑わいであった。
治郎が馬市の薄暗い北側路地を覗くと駄馬として売られるのだろうか薄汚れた馬
達が数十頭雑然と繋がれているのが見えた。
その軀は薄汚れ毛だまりがあり、おそらく駄馬として売られると思うと治郎は不
憫でならなかった。
その中の一頭の子馬(二歳駒)が治郎の眼に止まった。子馬の左右の瞳から涙が
一筋の帯となって流れていたのだ。
治郎は思わず子馬に駆け寄りその子馬を抱きしめた。
養子に入ってから四年、治郎は幼きながらも自分の境遇を甘受し、養父母の前で
は泣顔一つ見せずに生きてきた。それは治郎には戻るべき道が無いからである。
もし戻ることが出来たなら治郎の人生は大きく変わっていたことだろう。
治郎はその子馬に幼き日の自分を見たからである。
白石を出る前の晩治郎は泣いた。父は泣くなという、母は思い切り泣けという、
兄も泣いた、しかし父も泣いていた。
・・・続く・・・