むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

鉢形城(埼玉県)

2023年12月01日 |  百名城
鉢形城はちがたじょう
別名
構造平山城
築城者長尾景春、北条氏邦
築城年代1476年(文明8年)、1558年~1570年
指定史跡国指定史跡
場所大里郡寄居町鉢形 地図
スタンプ設置場所鉢形城歴史館

鉢形城は、山内上杉氏の家臣である長尾景春が築城したと伝わります。
北条氏によって整備され上野国支配の拠点となり、重要な役割を果たしていました。
豊臣秀吉による小田原平定の際、前田利家や上杉景勝らの大軍に包囲され
鉢形城に3000の兵とともに籠城、天神山城八幡山城などの守りを固めたが、
上野国松井田城が初陣だったといわれる真田幸村(信繁)をはじめとする
35000の北陸支隊に包囲され、北条氏邦は降伏開城し自刃しました。




河岸段丘を利用した城で、断崖絶壁の自然の水堀のごとく岸壁を利用。


笹曲輪の石垣

一部の石垣が残されている場所
笹の葉のように小さいという意味らしい。


伝御殿曲輪

角に石垣が見られ御殿があったとされている。


二の曲輪南側の馬出

ここから見える堀底にも畝を見ることができます。


復元された四脚門



石積土塁

階段状に積み上げられた石垣土塁


庭園跡

ここでは茶入れや茶道具が出土されていることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったとされる。


石組排水溝

石組の排水溝を復元


伝御金蔵曲輪馬出

堀底には畝があり、北条氏の城郭としての特徴がみられます。


二の曲輪

奥が三の丸、手前が二の丸で間を仕切る堀がる。
堀底には畝もあり、北条氏の城郭である特徴もよく見られる。





鉢形城歴史館

以前訪れた時の感想は、建物は立派だがもう少し資料が欲しいところだと感じましたが
今回は入館しなかったので現在の展示に関しては見所が増えているのかはわかりません。



平成22年9月26日登城
平成28年2月27日再登城
令和5年9月24日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

大洲城(愛媛県)

2023年02月21日 |  百名城
大洲城おおずじょう
別名
構造平山城
築城者宇都宮豊房、脇坂安治
築城年代14世紀前半 、1610年(慶長15年)
指定史跡県指定史跡 国重要文化財
場所大洲市大洲903 地図
スタンプ設置場所台所櫓入口(大洲城内入口)
城郭検定出題あり

守護宇都宮氏の時代には大洲は以前大津と呼ばれていたが、
脇坂安治の時代に近せ城郭として改修、地名も大洲と改められた。



暗り門跡

かつてここにあった櫓門は天守に至る最後の城門で、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていたことが暗り門の名の由来である。

サザンカの落ち花で作られたハート型。
もちろん、ここで二人で記念の写真を撮ったのですが恥ずかしいのでお見せできません(^^ゞ
「幸せになれますように。。。」


井戸

井戸丸の井戸は国内でも本丸井戸としては最大級として知られています。
かつては屋根が掛けられていたらしい。



高欄櫓

二階に縁と高欄がある櫓で、籠城の際の監視や月見の宴に使用されていた。


台所櫓

天守と多門櫓で結ばれていた台所櫓。
小天守の役割を担ったとされる。


石落し

外壁の一部を石垣上に張り出して、下に向けた開口部から攻撃できるように造られています。
外部は下見板張りになっています。


大洲城天守雛型

復元された現在の天守の木組模型。


武者走り

広くて明るい造り。


ふるさとからの旅立ち

原画制作 松本零士
松本さんが戦時中に疎開し通った愛媛県大洲市の新谷小学校にある壁画の原画です。
2013年に小学校の新校舎を建設した際に壁画として設置され、
小学校の許可が得られれば壁画も見られるそうです。


上棟札
大洲城天守閣復元工事の無事を祈願した札がある。


上棟祭用具

梁の上には平成15年4月4日の上棟式に使われた上棟祭用具が納められています。


破風の間

つい入ってみたくなる空間。ここからも敵を攻撃します。


鯱瓦

大洲藩お抱えの瓦師「原喜右衛門藤原政之」作と伝わる。





樹齢350年の木曽桧を使用。


本丸上段

本丸は二段に分かれており、二の丸は三段に分かれている。


500円で武将になれる!

職員の方が着つけてくれて、小道具は旗と刀を貸してもらえて本丸で自分のカメラで自由に撮影。(10分間)


野面積みの高石垣



苧綿櫓

元禄の古地図に記載されていることから元禄以前に建てられたと推定する。
現存する櫓は天保14年に再建されたものである。
二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けている。


お殿様公園
大洲城三の丸南隅櫓公園には大洲市埋蔵文化財センターと旧加藤家住宅主屋見ることができます。


三の丸南隅櫓

大洲高校のグラウンドに面した二重櫓。
明和3年に再建された櫓で、大洲城に現存する最古の建物です。


櫓一階



櫓二階

壁の下部は、中に小石や瓦を詰めて厚く造った太鼓壁になっている。
弾丸にも強い造りで蓋付きの狭間から銃撃できる仕組みになっていて、蓋で外からは狭間が見えない隠狭間が備えられている。

グラウンドの隣とあって、グラウンドに面している白壁にはボールの当たった痕があるとか。


旧加藤家住宅主屋

旧大洲藩主の加藤家が大正14年に建築した木造二階建ての住宅。



映画「男はつらいよ」の舞台となり撮影に使用された。



平成27年12月28日登城




日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

駿府城(静岡県)

2022年09月27日 |  百名城
駿府城すんぷじょう
別名
構造平城
築城者徳川家康
築城年代1585年(天正13年)、1607年(慶長12年)
指定史跡】―
場所静岡市葵区追手町 地図
スタンプ設置場所 東御門券売所
(月曜日休館 祝日、休日にあたる場合は営業。12月29日~1月3日は休館)
御城印駿府城公園 東御門・ 巽櫓・坤櫓・紅葉山庭園の各施設入場券販売窓口
城郭検定出題あり

駿府城は、徳川家康が幼少時代から多くの時間を過ごした城です。
天下統一後将軍職を息子の秀忠に譲り、1607年(慶長12年)駿府城の普請を諸国に命じて、
三重の掘に五重七階の天守を築き、立派な城が完成すると、江戸城から駿府城へと移りました。
その後家康の隠居とする駿府は、政治・経済・文化と発展し、
大御所時代の居城として城と町が栄えていきました。




入口は東西南北各所に門と橋が架かっているのですが、
駿府城と言えば、やはり東御門からが定番なので、今回もこちらから
アプローチしたいと思います。


二の丸東御門と巽櫓

10年ぶりにやって来ました!
ここはほぼ変わっていないですね。


葵船乗船所

載ってみようかなと思ったのですが、お盆休みだけにやはり満員御礼でした。
密になりたくなかったので、今回も見送りです。



枡形門になっていて三方向からの攻撃が待ち受けています🥶


本丸堀跡

駿府城の堀は三重だったのですが、この堀跡が一番内側の堀で
本丸を囲む堀となっていました。



児童広場にある売店にやって来ました。
「静岡おでん」の文字に惹かれて覗きに行ったのですが…さっき朝ごはん食べたばかりだよね?
ひと巡りしてからにしようね。と諭され、しぶしぶ先を急ぐことにしました。
結局歩き疲れてここに戻って来ることはありませんでした。無念…。



この先が二ノ丸橋になります。


二ノ丸御門



石垣モデル

地震で崩れた二ノ丸堀の石垣で再現された石垣です。
破損のため再利用出来なかったものを、ここで活用して石垣の積み方の説明をしています。


刻印

駿府城で発見された刻印は150種類以上だそうです。


坤櫓

こちらは前回訪れた時には無かった建物です。
早速中を拝見したいと思います。


入口

見た目は二階建てのように見えますが、中は三階建てになっています。
平時には武器庫として使用され、有事には物見として使用されていました。


券売機

入場券だけでなく、御城印も販売してます。
もちろん、御城印もゲットだぜ!


スタンプ

10年前に押したもの(私の)が1冊あるのですが、その後集め始めた主人と子供の分を押しました。






床が強化ガラスで床下が見えるようになっています。
上を見上げると、天井板がないので吹き抜けのようになっています。
どちらも建物の構造が見えるように出来ています。



土塁の上を歩きながら、発掘調査中の天守台跡の方へいってみましょう。


きゃっしる

駿府城跡天守台発掘調査現場内で発掘調査速報などを発信している
「発掘情報館 きゃっしる」へとやって来ました。
以前訪れた時と大きく景色が変わっている場所でもあるので一番注目していた所です。



中に入ると記念撮影スポットもあります。



雨ですっかり水堀になっています。



巽櫓に展示されている模型です。


晩年の家康公

家康は65歳から大御所として駿府で暮らし、75歳で亡くなりました。


家康公お手植えミカン

実は、この写真は10年前のものです。
今回撮影してきた写真と見比べると、ほとんど変わっていないのです。
みかんの木ってあまり成長しないものなのですね。


紅葉山庭園

今回は庭園まで足を延ばしてみました。
庭園は「里の庭」「海の庭」「山の庭」「山里の庭」と四つのテーマで構成されています。


里の庭

暑いうえに歩き疲れたので四阿で庭園を見ながら一休み。


茶室

暑さで喉も乾いてきたところだし、寄らない選択肢はない。
というわけで四阿で休んだばかりなのに…お茶を頂きに行こう!


立札席

夏限定の「清水冷煎茶」を注文しました。
普段だとお腹が弱いので冷えた飲み物は控えるところですが
「限定」という言葉にも弱いもので…😅
実はこの後、冷たいほうじ茶が無料で出て来ました。
どちらもさっぱりしていて美味しかったです🍵


山の庭

山の庭の中にある滝です。
まだ蒼い紅葉が涼しげに見えます。


二ノ丸水路

庭園を出て、次にやって来たのは二ノ丸水路。
なぜかここだけは強く印象に残っていたので懐かしい。
この水路は水堀なのかと思いきや、石垣はもちろん底も石が敷かれているという
正に水路とい構造になっています。


チケット売り場

東御門と巽櫓を見学するためのチケット売り場です。
100名城のスタンプと御城印もあります。



10年前に訪れた時は、ボランティアガイドさんに東御門で話を聞きました。


模型



棟札

10年前も沢山写真を撮ったはずが、失くしてしまったSDカード…。
でもそのおかげ?で最訪することになったので今回は前回の見逃し所も
しっかり写真に収めておきます。



以前ガイドさんから聞いた話をおさらいしよう!と思っていたのですが、
さすがに10年も経つと展示物が変わっていて内容も配置もすっかり変わっていました。
ちなみに当時は治水についての話を古地図を交えて説明して頂きました。









そして、ここからが前回訪れた時に建設予定があるよと言われていた巽櫓になります。
私にとって、この先は初の見学となります。


竹千代手習いの間

この部屋は家康が8歳から19歳まで今川家の人質として過ごした頃の
臨済寺の勉強部屋を臨済寺の許可を得て復元したものです。



臨済寺を開山した太源雪斎は今川義元の教育係であり、人質であった竹千代(家康)の
教育係も務めていました。


天井

天井には龍!
勉強部屋と言えど格式高いです。
絵師は狩野派でデジタル技術で再現したものです。



大手門跡

身分によって入る門が分けられていたという。
枡形になっている大手門は、東海道の要衝であるだけに堅固に造られています。


四脚門跡

大手門に並び東海道から駿府城へ入る重要な出入口のひとつです。



案内看板のある石垣の反対側をよく見ると、喫茶店が門の石垣にはまり込んで
いるのが面白い。
よくぞ石垣を壊さずに建設されました。





以前訪れた時からもう10年経っていたんですね。
記憶が曖昧にもなるよなあ。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」でも注目を浴びそうなので
もう一度おさらいしておきたかったので再訪しました。
正直、こんなに広かったっけ?見逃しだらけだったなあというのが感想です(^^;


平成24年6月23日登城
令和4年8月14日再登城


今回の参考本



熊本城(熊本県)

2022年09月27日 |  百名城
熊本城くまもとじょう
別名銀杏城
構造平城
築城者加藤清正
築城年代1607年(慶長12年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所熊本市中央区本丸 地図
スタンプ設置場所頬当御門・櫖方門・須戸門・不開門
御城印熊本城二の丸無料休憩所
城郭検定出題あり

熊本城は1607年(慶長12年)加藤清正が茶臼山と呼ばれる丘陵地に加藤清正が当時の最先端技術で城熊本城を築城しました。
その後、二代続いた加藤家が改易されると後豊前小倉城の城主だった細川忠利が肥後に入国しました。



二ノ丸駐車場

天守から一番近い二ノ丸駐車場へ駐車出来ました。
公式ホームページより入園券事前購入で日時指定して購入しておいたので
スマホを見せてQRコードを提示して入城しました。





平左衛門丸







入城~♪
入口は小天守側にあり、出口は大天守にあります。


=穴蔵=
井戸

先ずは穴蔵と呼ばれる地下の層から入ります。
かつては土間になっていて台所として使用されていたため井戸もあります。


ダンパー



=1階=
模型

昭和35年の天守再建時に制作された建築設計検証用の模型です。


御上段模型




空中雪隠



=2階=

細川家の具足

2階は細川家が入城してからの様子を紹介しています。


日の出老松図屏風

本丸御殿の障壁画は細川時代のお抱え絵師、矢野吉重の描いたものと伝わります。


=3階=


3階は近代の熊本城の様子について紹介されています。
西南戦争によって天守が焼失。



昭和の再建の様子など紹介しています。


=4階=
復興城主デジタル芳名板



=6階=



小天守






銀杏の樹

加藤清正が御手植えしたという銀杏の木です。
西南戦争で天守と共に焼けてしまいましたが残った根元から新芽が芽吹き、
現在の大木へと成長しました。


闇り通路

本丸御殿は二つの石垣を跨ぐように建っているため、地下に通路を設けています。
昼間でも暗いことから「闇り通路」と呼ばれています。


井戸



本丸御殿



重要文化財平櫓群

平櫓が建ち並ぶ東竹の丸の櫓群です。
重要文化財に指定された現存の櫓ですが、こちらも地震により建物に傾斜が生じたため
倒壊防止のためワイヤー等で内側に引っ張って支えているのが見て取れます。





二様の石垣

右が古い石垣で、加藤時代に築いたと云われる石垣で勾配が緩やかです。
左が新しく足された石垣で、細川時代に増築したと云われる石垣勾配が急になっています。
二つの時代の石垣を比較しながら熊本城の代表的な撮影スポットとしても
お馴染みのポイントです。


数奇屋丸二階御広間

地震に寄って石垣の一部が崩落しています。
建物も歪んでしまっていますが、なんとか持ち堪えています。





加藤神社

熊本城内にある加藤清正を祀っっている神社が加藤神社です。


西大手門






長塀

坪井川沿いに延びる竹の丸の長塀です。
平櫓から馬具櫓まで約240mあります。





桜の馬場城彩苑

肥後の名物を求めてやって来たのは桜の馬場城彩苑。




森からし蓮根

1963年(寛永9年)に肥後入りした肥後細川家初代の細川忠利は病弱で、
蓮根を常食して健康になったことでというエピソードがあります。
それ以来、肥後細川藩の珍味栄養食となり、明治維新までは門外不出となっていました。
現代では一般庶民も味わえるようになり、肥後の名物となっているのでここで食べないわけにはいかない。


馬肉専門店 菅乃屋

加藤清正公が肥後の国を治めていた頃から、馬肉は薬膳料理として珍重されるようになったといわれています。
そこそこお腹も空いてきたので「桜うまトロ寿司」を注文してみました。





おみやげ

熊本城香梅庵の「誉の陣太鼓」をお土産に買いました。
見た目とネーミングが気に入って購入、その後もリピートしてしまいました👍


EVバス



熊本市役所



熊本城と高遠の桜















震災前に一口城主の振込用紙を取り寄せて、どのタイミング行こうかと思案中でした。
それから数年…やっと訪れることが出来ました。



令和4年5月2日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

名護屋城(佐賀県)

2022年08月03日 |  百名城
名護屋城なごやじょう
別名
構造平山城
築城者豊臣秀吉
築城年代1592年(天正20年)
指定史跡国指定史跡
場所唐津市鎮西町名護屋 地図
スタンプ設置場所佐賀県立名護屋城博物館
御城印佐賀県立名護屋城博物館
攻城団チラシ鎮西町観光案内所・唐津駅観光案内所

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に拠点として築いたのが名護屋城です。
当時の大坂城に次ぐ規模ながら、たった5ヶ月で築城し、全国の大名の陣が周辺に置かれました。
150以上とも云われる大名の陣には20万人もの人口で城下町が構成され大変賑わいました。
1592年(文禄元年)の朝鮮侵攻から秀吉の病死により撤退するまでの7年間戦いは続き、
名護屋城の役割を終えると、名古屋城は取り壊し、唐津城の資材となりました。



駐車場

一番近い、信号名「大手門」のから入る駐車場を利用しました。
駐車場からまずは名護屋城博物館を目指します。


大手口前井戸

駐車場から歩き始めて間も無く道下に井戸跡があります。


名護屋城博物館

ここでは日本100名城のスタンプと御城印をゲット!
もう夕方だったので閉館になる前に博物館を見学してから城址を散策することにしました。


常設展示

常設展示は朝鮮半島との交流の様子と名護屋城築城と周辺の陣など
古代から現代までの歴史をテーマごとに展示しています。


安宅船

「肥前名護屋城図屏風」に描かれたものを再現しています。
日本の船らしいというか、船に矢倉が載ってます。
そして現代ではエンジンで動く船が当たり前ですが、
この時代は50人から200人くらいの手漕ぎの船というからこれも凄い!


黄金の茶室

秀吉が名護屋城で披露した「黄金の茶室」を16500枚の金箔を使い5500万円かけて復元したものです。
黄金の茶室の復元て、大坂城の西の丸庭園でも見ましたがそれとは違うようですね。
意外にあったりしますね。


観光案内所

さて、日が暮れてしまう前にこの広い城址を見学してこなくては!
ゆっくり散策したいところですが、先を急ぎましょう。


大手口

正面にあるのが五つある虎口のひとつで大手口があった場所です。


大手道

大手口から東出丸まで約100mの直線の道で出来てます。
大手口は石垣があるものの、門に扉があったという跡がみつかっておらず
正面ながら開放的な門であったと今のところは考えられています。



東出丸の虎口です。


東出丸

右手の石垣は櫓台で、ここは大手口や三の丸を警護するための詰め所があったと考えられています。



ここではきっちり大手道を見下ろせる構造が分かります。
大手口の開放的な門の見張りはここでカバーしていたのかも。


三の丸虎口

三の丸の虎口です。
ここにも門跡が発掘調査でみつかっています。


三の丸

本丸の東の下段にあるのが三の丸です。
櫓台や多門櫓、それらを繋ぐ塀で囲まれた郭がありました。


三の丸井戸

築城当時のままと思われる井戸です。
現在は浅くなってしまっていますが、水の湧く位置まで掘っていると考えれば
かなり深いものであったのではないかと推定されていますが定かではありません。


本丸大手口

L字に曲がった階段を登ればいよいよ本丸です。
ここには伊達政宗が仙台城大手に移築したと言われる門がありました。
その移築門は第二次世界大戦までは現存していたのですが、残念なことに空襲で焼失してしまいました。
しかし、九州から仙台まで運んで来るなんてよほどその門が気に入ったのでしょうか。
別の理由があったにせよ、その労力を考えると凄いですよね。


本丸

本丸に到着しました!
とにかく広いです。


本丸御殿跡図




下を見て歩くと御殿などの建物跡のあった場所が示されています。


青木月斗句碑

「太閤が睨みし海の霞かな」
石碑に刻まれたこの句は、1933年(昭和8年)にここを訪れた青木月斗が詠んだものです。


天守台

ここからの眺めが最高です!
天気によっては遠くに対馬も望むことが出来ます。



5層7階の天守があった場所です。
地上6階、地下1階で石垣から約30m弱の高さがありました。
唐津城が建てられる頃には石垣までも完全に破却されてしまったようです。



名護屋城を取り巻く各地の大名の陣が見渡せます。
時間があれば全部の陣を巡って見たいものです。


遊撃丸

1593年(文禄2年)に明国の遊撃将軍(講和使節)が滞在し、
もてなしを受けたことからこの名が付いたと伝わります。


本丸多門櫓跡

屏風絵にも描かれている長屋状に造られていた櫓で、武器や食料の倉庫として使われていました。
芝生に丸石がゴロゴロしている部分が旧石垣、色の変わった部分から外側が拡張され多門櫓があった場所です。
本丸が一回り大きくなったということですが、なぜこのように広げる必要があったのか謎です。


本丸旧石垣跡

本丸ははっきりしたことはわかりませんが、築城後に何らかの理由で拡張されています。
その時にこの石垣ごと埋められ、この石垣より外側に本丸が広げられています。
そのことがわかるように築城当時の石垣が露出されているので、ぜひご覧あれ。


本丸新石垣櫓台

こちらは拡張された場所に造られた櫓台跡です。
櫓の周囲の通路にも玉石が敷かれていましたが、現在は保存のため埋め戻されています。


馬場

馬場を上から覗き込んでいるこの場所の下に、10mほどの高い石垣が眠っているようです。
拡張の際に石垣ごとそのまま埋められているので、見ることはできないものの、
旧石垣が保存されているということになります。
そして、後から築かれた石垣は御覧の通り破却されています。


一旦三の丸へ戻って、本丸北側へ下ってみましょう。


水手通路

本丸北側へ下り、水手曲輪方面へ廻り込んで来ました。
舗装路の方は現代の道で、石垣の沿いを通るのがかつての通路です。
舗装路と違って道は角々と曲げられています。


水手曲輪

城内に井戸を掘ってみたのですが水不足のためここに貯水池を造り
雨水を貯めて使用していました。



正面、天守台跡を見ながら真っすぐ遊撃丸へと進みます。


遊撃丸

先ほど本丸から見下ろした遊撃丸の内部です。






正面が天守台で、右側の石垣と真ん中のこんもりした土塁との間(虎口)に
門が設置されていたと推定されています。


二の丸

遊撃丸から二ノ丸へやって来ました。
本丸から見下ろしたとおりにとても広い曲輪です。


二ノ丸合坂

石垣や土塁の上に登るための石段が数か所設置されています。
雁木?と思ったのですが、ここでは「合坂」と呼ばれています。
これがあることによって、兵の移動が容易になっていたようですが、破壊されていたものを
現在はきれいに修復、このように展示されています。


二の丸長屋建物跡

発掘調査により、この掘立柱建物跡は名護屋城があった時代のものと判明。
建物は3棟あり、2棟の長屋は四つの部屋に区切られ、
築城時の仮設住宅?などまだどのように使われていたのか解かっていないことが多い。



こうやって見ると、二の丸かなり広い。


弾正丸

二の丸より一段高く、搦手の玄関口になっている弾正丸へやって来ました。
ここは、秀吉の正室ねねが出た浅野家が守備する曲輪で、浅野長政の官位が弾正少弼だったため
名付けられた曲輪です。


搦手口

大手口と違って、城の守りを固めるため喰い違い虎口になっています。
縁者となる浅野長政が守備を任されるという重要な虎口は敵の侵入を防ぐだけでなく
いざとなったらここから秀吉を逃がすという重要な役目も担っていたことも推測されています。


南側の石垣

当時は長く高い石垣がこの斜面を覆っていたのでしょう。
馬場下の石垣は破却され、石垣がV字に崩されているのが分かります。


上山里丸

現在の広沢寺の下段にあり、秀吉の居館や「草庵茶室」があった場所と推定されています。
能舞台や庭園なども備わっていたという。


山里口

上山里丸に通じる虎口で、こちらは積み直しはされていますがしっかり石垣が残っています。
破却が免れたこともあって、綺麗に修復されています。



大手口に相当する重要な場所だけに、二重の食違虎口で厳重にガードしている様子が分かります。







鯱鉾池から続く堀です。
正面には台所丸があり、その奥には殿町が続きます。


大野治長陣跡

名護屋城周辺には130ヶ所とも言われる全国から集まった諸将の陣屋跡が点在しています。
どこを向いても名立たる戦国武将の陣跡といった様子がちょっと周辺を周っただけで実感できます。


海の見える眺めの良い綺麗な城で、めちゃめちゃ良い場所だなあ、こんなところに
家が建てられたら最高だよなあと思いつつも、ここからは過酷な戦闘の拠点になっていたことに
何ともいえない複雑な気持ちが込み上げて来ました。
日本の戦国武将のオールスターがここに集結し、ここから海の向こうまで戦いに行っていたのかと思うと
何だか自分の小ささと、昔の人の大胆な発想といろいろ考えさせられました。


令和4年5月1日登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス



広島城(広島県)

2022年07月04日 |  百名城
広島城ひろしまじょう
別名鯉城・在間城
構造平城
築城者毛利輝元
築城年代1589年(天正17年)
指定史跡国指定史跡
場所広島市中区基町 地図
スタンプ設置場所1層ミュージアムショップ(休館日12/29~1/3)
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

広島城は、吉田郡山城を本拠としていた毛利輝元が1589年(天正17年)に築城を始め、
築城前に訪れた豊臣秀吉の聚楽第に感銘し、参考にして本丸御殿が建てられました。
天守、御殿の他に櫓88基、門10基、外観は下見板張に漆喰塗で統一された
築城当初から大規模な築城がなされていました。
築城中に豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われ、この時名護屋城へ向かう秀吉が広島城へ立ち寄ったと伝わります。
毛利氏が築き、福島氏、浅野氏と大大名に継がれ、浅野氏は12代(250年)続き、明治維新を迎えました。



二の丸平櫓と二の丸表御門



木橋

二の丸と三の丸を繋ぐ橋は木橋です。
ここでは敵の侵入を防ぐため、すぐに落とせる木製の橋を使っています。



広島城の別名(鯉城)にもなっている鯉が堀を泳いでいます。


平櫓

櫓の内部を見学出来るようになっているので
早速中を見学に行ってみましょう!


出入口

ここで、靴を脱いで中に入ります。
コロナ前はスリッパを使用していたようですが、今はスリッパが用意されているものの
感染予防のためスリッパは使用せず、靴を脱いでそのままで上がれます。
スリッパを履こうとすると、そのままでいいよ~と声を掛けられました。
(できれば靴下は履いていた方が良いかもね)


平櫓内部

まずは近い平櫓を見に来ました。
畳敷になっていて優雅そうに見えているのに、いくつもの狭間が目に入ります。
このギャップが面白い。


二の丸表御門内部

櫓門からはしっかり橋から攻めて来る敵を狙い撃ちする構造になっています。


棟札

平成になってからの復元なのでまだ新しい棟札ですが、次に解体する時が来たら
きっと歴史を感じる年代になり、この頃はお城ブームだったんだなあなんて語られる日があるのかな。。。
なんて想像しちゃいます。


多門櫓内部

多門櫓の内部は多くの展示物があります。


模型

平成3年に復元された二の丸の建物の構造模型がそれぞれ展示されています。


太鼓櫓内部

その名の通り太鼓で時を知らせたり、
太鼓の合図で城門の開け閉めがされていた場所です。
太鼓は1階に展示されていますが、当時は櫓の二階に釣られていました。


馬屋跡

二の丸は角馬出になっており、馬屋も設けられ馬出に兵を


中御門

本丸と二の丸の間にある土橋を渡ると、枡形に格式のある櫓門がありましたが
原爆で焼失してしまいました。


被爆した石垣

そして、原爆により燃えた石垣。
石の色が変色し、角が欠けて丸くなっています。


本丸下段

廃藩置県後広島県庁が置かれ、大日本帝国軍の建物が次々に建てられるようになり、
広島城の天守に付属していた小天守や多くの建物がこの時、取り壊されました。
日清戦争で広島大本営が置かれると、明治天皇が広島に滞在し、帝国議会も開かれました。


護国神社

プロ野球球団「広島東洋カープ」が必勝祈願に訪れることで有名な広島護国神社。
毎年5月5日に赤ちゃんの健康を願う「泣き相撲」が行われる予定で準備がされていました。



本丸は下段と上段に分かれており、売店隣の階段を登ると
いよいよ天守の見える上段になります。


本丸上段

太平洋戦争では本丸に中国軍管区司令部が置かれ、
そのために原爆投下の標的に!
爆心地の原爆ドームから約700m離れていたものの、下段にあった地下通信室(防空作戦室)から
見た光景はすべての建物が倒壊、残っていたのは石垣だけだったという惨劇でした。



広島城の縄張りは京都の聚楽第を参考とし、天守は大坂城を参考にしたといい、
豊臣秀吉との謁見は輝元にとって、相当の影響を受けたものと想像出来ます。


復元天守

目の前の石垣の上には、かつて南小天守がありました。
そして入口の張り出した屋根のある場所に天守と南小天守を繋ぐ渡櫓があったのですが、
南小天守が残っていたり、復元されていたとしたら
ここからの天守の見え方がぜんぜん違っていたでしょう。


100名城スタンプ

天守入口前の渡櫓跡に設置されている日本100名城のスタンプ台です。



ここから先は指定の場所以外は撮影禁止となっています。


攻城団チラシ

売店の前の柱に攻城団チラシが!!
どこに行っても大体他のパンフレットに紛れて探すのに少々時間かかるのですが
こんな単体で置いてあるとは👍(広島城好感度超アップ!)



中には撮影OKの場所も設けられています。



最上階の廻縁に出てみました。
華頭窓に装飾され、外観としてはやはり華頭窓は目立ちます。



こうやって中から城主気分で外を眺められるのもあと3年程しかありません。


原爆ドーム

爆心地からこの距離ですから、恐ろしいです。
原爆ドームには中学生の修学旅行で訪れているのですが、広島城がこの距離でも
やはり団体行動なので残念ながら見学叶わずでした。


天守礎石群

昭和33年の天守再建の際に、旧天守の柱が載っていた礎石をこの地に移しました。


東小天守跡

東小天守は戦災まで東廊下が残っていたのですが天守復元の際には
南小天守同様に復元されることはありませんでした。


お抹茶とお菓子

本丸にある売店で一休み。
お抹茶に添えられていたお菓子はもみじ饅頭。
やっぱり広島と言ったら、もみじ饅頭ですよね。


中御門桝形

中御門に門柱や扉に鉄板を打ち付け頑丈な鉄門が戦前まで残っていました。



広島城の特徴として、関ケ原合戦後に入城した福島正則による改修は膨大な数の二重櫓を置いたこと。
最も多い時で88棟もの櫓が造られ、要塞化し全国で最も櫓の多い城となりました。
しかし、1619年(元和5年)に幕府に届けず石垣を修復したことが武家諸法度違反となり、
改易となっています。
これが台風による水害で修復したというのだから、ちょっと理不尽な気もする。(個人的な感情)



沢山の櫓と二重の水堀で平城の守りを堅固にした広島城。


太鼓櫓

外から見た太鼓櫓。
太鼓櫓ってなんだか格好いい。
やはり時代が比較的新しい浅野氏の時代の建物だから違って見えるのかなあ。



耐震性を満たしていないことから2025年に復元天守閉館すると聞いて、これは行っておかなければ一生後悔する!
ということで今回の遠征で絶対外せない城となった広島城。
「広島城三の丸歴史館」を三の丸に建設して現在天守に展示しているものを展示するというのです。
願わくば、やはり天守の木造復元が叶うと良いですね。
たとえ、木造じゃなくても広島城には復元天守が必要だと思っています。
元国宝の広島城を吹き飛ばした憎き原爆の恐ろしさを後世に伝えて欲しいものです。



令和4年5月3日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

岩国城(山口県)

2022年06月03日 |  百名城
岩国城いわくにじょう
別名横山城
構造山城
築城者吉川広家
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所岩国市横山2-6-51 地図
スタンプ設置場所岩国城受付窓口(ロープウェイ運休日は休館)
城郭検定出題あり

関ヶ原の戦いの後、戦いに敗れた毛利輝元は石高を減らされ国替えとなり、
毛利氏に仕える吉川広家も石高を減らされて月山富田城から岩国に移って来ました。
横山山麓に居館を構え、有事の備えに5年の歳月をかけて山頂にも城を築いています。
しかし、その後たった7年で「一国一城令」により山頂部の城は破壊されてしまいました。
現在は昭和37年に本来の位置から30mずらして復興天守が建設され、
錦帯橋と共に天守を望む景色が定番の撮影スポットとして有名になっています。



錦帯橋

錦帯橋は大正11年3月8日に国の名勝に指定されました。
流されない橋を造りたいという思いから出来た美しいフォルム。


チケット

錦帯橋(往復)・岩国城ロープウエー(往復)・岩国城の3つがセットになった
チケットを1セット970円で購入しました。
ロープウェイだけの料金か?と思うくらいの値段で、だいぶお買い得な気がします。


錦川

とても穏やかな流れで、水もとても奇麗です。
時にこの川が氾濫して橋を流してしまうのですね。


吉川氏屋敷跡

錦帯橋を渡ると、城下には武家屋敷跡や建物があり、城下の武士や武家の居住区としての雰囲気が出ています。
この地は家老として勤めた岩見吉川氏の屋敷跡で、江戸中期頃建てられた長屋が
平成23年まで残っていましたが老朽化が進み解体されました。


香川家長屋門

岩国藩五家老のひとつである香川家の長屋門です。
香川家はこの長屋門のほかに通用門と平時門があり、身分や用件によって使い分けられていました。
香川家はもともと芸州の八木城の城主で、吉川広家が岩国に移封された際に、
当時客分から家老に取り立てられています。



この表門は昭和30年に香川氏から岩国市へ寄贈され、
昭和41年に県の指定文化財に指定されています。


ロープウェイ

ロープウェイを利用して山頂まで一気に登っちゃいます。



赤と青の二種類のロープウェイで、和風な柄がマッチしてます。



天守に向かって進むと、道が二つに分かれています。
左は平たん路 右階段ありの標柱があり、ここでどちらを進むか選択します。
左は観光客向けに道は整備されていて道幅も広く、歩きやすくなっています。
多くの人は左へ行きますが…ここはロープウェイを使った分、少人数派の右を選択。



階段ありの道は山城らしい道で、すぐに石垣も見えて来てテンションが上がります!



石垣の上に塀も見えて来て、いよいよ本丸が近い予感がしてきました。
山城と言えど、道はしっかり整備されているのでやはり観光地気分ではあります。


大手口

大手口の門は冠木門です。


二の丸

公園化されたことで大きく可変しているようです。



いよいよ天守目前です。


入口

入口受付で御城印を購入して、日本100名城のスタンプを押して
早速見学しがら最上階を目指します。


スタンプ設置場

スタンプは受付窓口で声を掛けてお借りします。



ありがたいことに、城内の展示物は撮影OKになっています。
刀剣や鉄砲、槍などの武器や甲冑など展示されています。


土州住秀弘

山内家土佐藩の刀職人の作で、反りが少ないのが特徴。


琵琶



火縄銃

岩国藩には、初代藩主吉川広家が創った岩国藩鉄砲隊があり、
その砲術流派は石田流を後継しています。
また、年に数回錦帯橋畔鵜飼広場で練習の模様が見られるとのことです。
(岩国藩鉄砲隊保存会のHPでご確認下さい)


甲冑



錦帯橋模型

50分の1の縮尺。


版画

白黒のものからカラーのものまで展示されています。
絵になる場所ということですね。



最上階へ到着しました。
展望台になっているのでぐるりと廻って景色を楽しむとしよう。


眺望

蛇行している錦川と、奥の方には瀬戸内海まで望めます。






麓には、先ほど渡って来た錦帯橋が見えます。
観光客が増えて来たのがここから見えて面白い。






下の階より上の階の方が張り出しているのが特徴の南蛮造り。
香川県の高松城と福岡県の小倉城も南蛮造りを採用していました。



北側から見た天守。



東側から見た天守。
錦帯橋側から見えている面がこちらになります。
この天守は錦帯橋との景観を考えて本来の天守があった場所から
見栄えの良い場所へずらして建てられています。


天守台

こちらがもともとあった天守台跡です。
現在の天守の場所より奥まった場所にあるので、確かに錦帯橋と絡めて撮影しようと思うと
天守全体は入らない写真になっていたのかもしれませんね。



この石垣は発掘調査をもとに積み直されたものです。





空堀

本丸と北の丸の間の空堀です。


北の丸

北の丸の一角には、隅に櫓があったとされています。
山麓の居館保護のために築城された頃の石垣が破却を免れ残っています。



井戸を見ながら戻るとしましょう。


大釣井

城内最大の井戸で、抜け道説や武器庫として使用されたという説があります。


イベント広場

ロープウェイのある広場まで戻って来ました。



では、ロープウェイに乗って帰ります。


錦帯橋と岩国城、この風景をこの目で直に見てみたくてずっと楽しみにしていたのですが
やっと念願叶いました。
萩城も見てみたかったので山陰、山陽どちらのルートを選択しようかと迷って、今回は広島城や福山城も
行っておきたかったので岩国城へということになりました。
やっぱり絵になる景色ですよね。とても美しい景色頂きました👍


令和4年5月3日登城


日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス



福山城(広島県)

2022年05月12日 |  百名城
福山城ふくやまじょう
別名久松城
構造平山城
築城者水野勝成
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所福山市丸之内1-8 地図
スタンプ設置場所福山城天守閣内
御城印福山城博物館天守閣受付(管理事務所)
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

1619年(元和5年)水野勝成が領主となり、武家諸法度後に1622年(元和8年)福山城が築城されました。
明治6年、廃城になると天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除きほとんどが取り壊しとなりました。
更に昭和20年の戦災により天守と御湯殿が焼失ししてしまい、焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は
現在、国の重要文化財に指定されています。




広島県立歴史博物館の有料駐車場を利用して城さんぽ開始です!
正面には現在耐震工事中の足場の組まれた天守が見えます。


案内看板




天守へと続く入口は、残念ながら現在立入禁止になっています。


案内看板

立入禁止場所の案内表示があります。


天守

耐震工事中の天守。
天守に入れないのは残念ですが、今回は令和の大普請を見に来たのでこれで満足です。
この時期でしか見られない光景なので会津の鶴ヶ城や姫路城、熊本城など、チャンスがあれば工事中に
狙って見に行くことにしています。


天守礎石

現在の天守を復興する際に、礎石保護のためこちらに移して保存しています。
天守北側の下でかつての天守の礎石をここで見ることが出来ます。


鬼門櫓跡

かつて、この先の角に鬼門櫓がありました。



これより本丸です!


本丸

本丸の東側、管理事務所までは入ることが出来ます。


福山城管理事務所

御城印は本来であれば天守入口の受付にて販売となっていますが、工事期間中はこちらにて販売されています。
日本100名城のスタンプや、パンフレットなどもこちらに置いてあります。


100名城スタンプ設置場所

日本100名城のスタンプはこちらにあります。
信長の野望のキャラクターパネルが飾られていたり、プレハブ小屋には天守から外された鯱が展示されています。




今回の工事で破損、劣化が見つかったので新しいものと交換することになりました。
平成からずっと見守って来た鯱です。
ご苦労様でした。


鏡櫓

廃城の際に取り壊されたが、昭和48年に復元されました。
現在は福山城関係の古文書などを保管する倉庫なっています。


月見櫓

こちらも廃城の際に取り壊されましたが、天守復興の際にこちらも復興されました。
眺望が良いため、藩主などの到着をここで見極めていました。


御湯殿

かつて国宝に指定されていた御湯殿は、伏見城の御殿にあったものを移築していました。
昭和20年の戦災によって焼失してしまいました。
福山城では、掛け造りになっているこの湯殿が一番見たくて楽しみにしていました。
中が見学できないのが残念ですが、次回へのお楽しみにとっておくことにします。


筋鉄御門

1602年(慶長7年)に再建された木幡伏見城からの移築門で、昭和20年の空襲での焼失を免れた
現存建物のひとつなのでじっくり見学したいところでしたが、こちらも外壁漆喰壁修復工事のため
足場が組まれ、残念ながら幕で見えませんでした。
でも、天守ともども工事が完了したらまたぜひ訪れたいと思います。


門扉

筋鉄御門の名前の由来ともなった門扉にが縦に筋鉄が打ち付けられているのが確認できます。


御湯殿

現在、御湯殿、月見櫓とも立入禁止区域内にあるので入ることが出来ないのですが
平時には貸会場として貸し出されているようです。


鐘櫓

鐘櫓、格好良いです!
ひとめぼれしました。
一部現存というか、空襲で残存した部分を生かして復興しているとのことですが
とにかく、一目見てこんな立派な太鼓櫓があるとは、流石に城内(本丸)にあるだけあって見た目が違うなあ。


伏見櫓

伏見城松の丸から移築された伏見櫓です。
二階の梁に「松の丸やくら」の墨書がみつかっています。
また、伏見城と言えば豊臣秀吉の指月伏見城を真っ先に思い浮かべるのですが、
ここに移築されている建物は、徳川家康が木幡山に再建した木幡伏見城のものです。


阿部正弘銅像

福山藩七代目藩主の銅像です。
阿部氏十代の中でも最も親しまれた城主様だったことが窺い知れますね。



次回訪れるのを楽しみにして、今回はここまで。


三の丸西御門櫓台

さて帰ろうと駐車場から車を出したところで、前方の鉄道高架下に段ボール??
いや、石垣?と近付いてみると、やっぱり石垣でした!



ここには重臣屋敷にあてられた三の丸の西御門があった場所で
新幹線工事の際発掘調査がされ、そのままこの地に保存されたということです。
櫓台は出枡形になっていて、この櫓台跡に連なる三之丸西外堀の石垣跡が
市営三之丸駐車場南西隅に現存しているとのことですが、こちらは後から知ったので今回見逃してしまいました。


今回は、工事の最中の登城となりましたが以前の私だったらとてもがっかりしていたのですが
だんだん考え方も変わって、この時期、この時代の改修、修理を見られるのは今しかないんだ!と考えるようになり、
見えない、入れないところは多いですがあえてこの時期を見計らってあしを運ぶことが楽しみになりました。
今回は念願の御湯殿の掛け造りが見れたので満足です(^-^)
次に訪れる時はがっつり見て周ることにします。

令和4年5月3日登城

日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
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松坂城(三重県)

2020年09月19日 |  百名城
松阪城 まつさかじょう
別名
構造 平山城
築城者 蒲生氏郷
築城年代 1588年(天正16年)
指定史跡 県指定史跡
場所 松阪市殿町 地図
スタンプ設置場所 松阪市立歴史民俗資料館 本居宣長記念館
(休館日は松阪市観光情報センターに設置)
城郭検定出題あり

1584年(天正12年)羽柴秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、
飯高郡矢川庄「四五百森」の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで
1588年(天正16年)に入城できた平山城がかつての松坂城です。
蒲生氏郷は後に会津若松へと移るため、松坂城に居たのはわずか2年でしたが
松阪開府の祖として今でも松阪市民に愛されています。



駐車場

以前訪れた時は、本居宣長記念館に駐車して散策した記憶がありますが、
今回はこちらの松阪市駐車場を利用しました。


大手

大手を真直ぐ城に向かって登城口へやってきました。


高石垣

石垣は穴太衆の野面積を中心に、算木積や打込接など時代の違う組み方が混在し、
幾度となく修復を重ねられていることがわかります。



反りのある高石垣、これは前回訪れた時の貴重な写真です。
この時は晴れていたのになあ。


表門跡

二階建ての本瓦葺の屋根の櫓門がありました。





井戸

城内では井戸が6基あったとされています。
築城当時からある井戸で、現在も水が湧いているという。


松阪市立歴史民俗博物館

1910年(明治43年)、皇太子の飯南郡への行幸を記念して、
飯南郡図書館として建設され、明治45年4月に開館しました。
100名城のスタンプもこちらに設置されています。
他にも、本居宣長記念館にスタンプが設置されており、
私は以前訪れた時に記念館の方でスタンプを押しています。


助左衛門御門跡

表二の門には、城主を務めた古田重勝の弟である古田助左衛門の
名が付いています。
表門と同じ櫓門があったとのことです。





本丸下段

本丸は上段と下段に分かれています。


月見櫓跡

松阪を舞台にした小説「城のある町にて」の一文が刻まれている梶井基次郎文学碑があります。





太鼓櫓跡

時を告げる太鼓櫓のあった場所です。



本丸下段から直接金の間櫓へと登れる階段です。
なぜか目にとまる石垣の階段で、前回訪れた時にも子供たちが
この階段を一生懸命登っていた思い出が残ります。


本丸金の間櫓跡

二層の櫓で、金箔の貼った黄金の間があったことから金の間櫓と呼ばれていました。


井戸跡

井戸跡と付近には排水溝とこれに続く暗渠排水溝が塀中門付近まで続いていました。
高い場所での水の対策(貯水と排水)が重要視されて造られていたのがとても特徴的です。


本丸上段

本丸上段の周囲の石垣は北廻多聞跡と北続多聞跡で、
中の広い部分は兵部屋敷跡(御殿跡)です。
この兵部屋敷跡は昭和25年から昭和58年まで上水道の配水池として使用され、
大きく掘り込まれてしまったことにより遺構は破壊され、消滅してしまいました。
しかし、兵部屋敷跡の周囲の部分には排水溝跡、礎石列、石畳等の遺構が確認されたのは不幸中の幸いです。


北廻多聞跡

北廻多聞跡は、敵見櫓北続多聞跡の北端から直角に西方向に延び、
金ノ間櫓跡と接続しています。
それにしても、この石垣の幅が気になるとこで、敵見櫓と金の間を結ぶ多門櫓だったとしたら
ただの塀しか築けないような幅しかないのに疑問を感じました。
ちょっと細過ぎやしませんか?


鐘の櫓跡

北廻多聞跡の上から下を覗き込むと、下の段に鐘の櫓跡が見えます。


藤見櫓跡

藤見櫓は、藤見の宴が催される櫓という説と富士山が見られる櫓という説があります。


敵見櫓北続多聞跡

先ほどの北廻多聞跡とは違って多聞があったことを想像出来るだけの幅が
あることが確認できます。
では、北廻多聞跡の石垣は細過ぎないかという疑問は…
石垣の内側(兵部屋敷跡)で一直線に並ぶ礎石がみつかっていることから
内側に張り出す形で2間(4m)の多門(渡り廊下)であったことが数字的には合っているとのこと。
敵見櫓北続多聞側でも一直線に並ぶ礎石がみつかっていることから、
更に広い3間(6m)の多門が築かれていたと推定されていることを知り、
北廻多聞跡の石垣の疑問がスッキリしました。


敵見櫓跡

天守跡より一段低い付櫓跡と続きにある敵見櫓跡は、
付櫓跡との間に石垣の区切りがあります。


天守跡

天正7年に織田信雄が築いた松ヶ島城から移築されたと思われる
金箔瓦などが出土しています。
また、中央を中心として、栗石がびっしりと敷き詰められていたことが
調査によって判明しています。


転用石

松坂城でも、松阪近郊の石という石が集められ
これだけの多くの石垣の中には転用石が使われている箇所があるので
探してみて下さい。
天守台には古墳時代の石棺の蓋が使われていますが
これが一番発見しやすいと思います。


天守への階段

天守台の階段は崩れかけているので
階段としてはとても歩きずらい形になっています。
それでも上から見た時は、何やらここを通過することが出来そう…と思い、
降りて来て振り返ってみると、やはり階段状になっていたことがわかりました。


天守台

最も古い石垣がこの辺りの石垣で、他の石垣に比べ古い積み方になっています。
しかし、出隅の石は割石が用いられ算木積みへの移行の様子がうかがえます。
付櫓跡の看板のある階段は、実は築城当時にはなかったもので付櫓は兵部屋敷に繋がっていました。


きたい丸

松坂城を完成させた3人目の城主、古田重勝の子どもの幼名が「稀代丸」だったので
その名が由来となっている曲輪です。
四角には隅櫓がありました。


眺望

天気があまり良くなかったので、遠くの山々などは残念ながら見えません。



駐車場が見えます。自分が乗って来た車もバッチリ見えています。


角櫓跡

ここにも櫓。
角にはなにかしらの櫓があったようで、
ここには特別な名は無い角櫓があったのですね。


梅林

約30本ほどの梅林園で、2月中旬から3月上旬には紅梅や白梅が花を咲かせます。


中御門跡(裏二の門)

こちらも枡形で二段に折れています。


隠居丸

かつて隠居丸には2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵がありました。
後に米蔵は御城番屋敷の敷地に移築したとされています。
現在の隠居丸には松阪出身の江戸時代の国学者本居宣長の旧宅「鈴屋」の保存を願い、
城下町にあった建物を移築保存しています。


二の丸

大坂夏の陣の後、城主であった古田重治は石見浜田へ移ると
松坂藩は廃され、紀州藩の直轄地とされました。
この二の丸には紀州藩の出先機関が置かれ、徳川陣屋(御殿)が築かれました。


藤棚

説明をよると、この藤はかなり古いもののようです。
そもそも、ここに寄贈される前が樹齢100年以上であり、
現在は通算300年以上という老樹です。


徳川陣屋跡

この二の丸には紀州藩の出先機関が置かれ、徳川陣屋(御殿)が築かれました。
松坂城は廃藩置県を迎えるまで続いたのですが、紀州藩の管轄になってからは
建物の整備がされずに荒廃し、天守も台風で倒壊したままとなり、
二の丸御殿は明治10年に失火で焼失してしまいました。


裏門跡

搦手側にあった城門で、表門同様に二階建ての櫓門がありました。



1646年(正保3年)の台風で櫓門の二階部分が破損し、
その後の改修は茅葺屋根となり、そのまま放置されることになりました。



御城番屋敷側から見た二の丸の石垣です。



写真のデータを失くして以来、ずっと再登城したくていたので
やっと願い叶ってすっきりした気分です。
前回は早朝に訪れ、腹痛に悩まされ急ぎ足で巡って来たこともあり
高石垣の印象しか残って無くて、こんな景色だったっけ?というところがあまりに多く驚きました。
その頃は100名城のスタンプ集めのことしか頭になかったんだなあと思い起こし、
なんてもったいない時間を過ごしていたのかと今となって残念な自分に猛省しました。
でも、こうやっていろいろな城を巡っているうちにいろいろと興味が移り変わり
見る目も変化してしていくものであるとも思います。
その時その時の楽しみ方も変化を遂げていくものなのですね。


平成25年5月4日登城
令和2年7月24日再登城


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安土城(滋賀県)

2020年04月05日 |  百名城
安土城あづちじょう
別名
構造山城
築城者織田信長
築城年代1576年(天正4年)
指定史跡国指定史跡
場所近江八幡市安土町下豊浦 地図
スタンプ設置場所安土城天守信長の館・安土城郭資料館・安土城跡信長廟前
城郭検定出題あり

琵琶湖畔に築かれた城の象徴でもある「天主」が岐阜城とともに起源となった城である。
信長の「天下布武」にかけた絢爛豪華な五重六階の(吹き抜け構造)天主は、
安土城完成から3年足らずで何者かの放火によってその見事な姿は消えてしまいました。
羽柴秀吉が後継者となり、甥の秀次に八幡山城を築かせると安土の城下町ごと移住させ
安土城と城下町は、その機能を失うこととなりました。



駐車場

この辺りはかつて琵琶湖の内湖で水堀になっていました。
この位置で見渡しても琵琶湖は見えないのでちょっとピンと来ないですが
ここで想像力を発揮させてみて下さい。
では、を持っていざ!!


大手道

約8年ぶりにやってきました。
その頃は山城歩きをしていなかったので、完全に運動不足でした。
今まで、この道中がものすごく疲れた印象しか残っていませんでした。
しかし、足元を見ると…当時より整備されているのが見受けられます。


伝前田利家邸

まずは右手にある伝前田利家邸です。
羽柴秀吉と向い合わせで夫婦ともどもとても仲良しだったようですね。
ところで、現在残っている絵図は廃城になってから1世紀後に描かれたもので
屋敷跡の名称は推定であって、正確なものではありません。
ということで屋敷名の頭に伝と付いています。
しかも…なぜか信長の側近でありながら明智光秀の屋敷が無いというのも
変ですよね。


伝羽柴秀吉邸

伝前田利家邸の向いにある伝羽柴秀吉邸は、上下二段になった
郭で構成され、二階建ての櫓門で石垣の上の階と繋がっていて、
渡櫓としては最古のであったとされています。


案内石板

ここでは最大の屋敷であったようです。
ここで屋敷跡の様子を確認します。


下段郭

下段郭の建物は、馬6頭を飼える厩があるだけでしたが、
厩の中には武士が控える遠侍が設けられるほどの大きさがありました。


上段郭

上段郭は居住区で、建物は3棟で構成されていました。
入口と奥に台所があり、主殿がありました。
それにしても、上下の段郭の石垣を見ただけでも凄いなあと思うし、
大そうな人物の敷地であることが感じられる郭です。


伝徳川家康邸

現在は摠見寺があります。
摠見寺には信長公所用の鉄鍔、陣羽織が伝わり、襖絵なども
不定期ながら、主に土・日曜日や祝日に特別拝観(抹茶付)500円で出来るそうです。
これは見逃した~ 


石仏

大手道の石材として石仏や五輪塔など使われたものがそのまま残されています。
石材が足りないので近隣の石仏までも使ってしまうとは信長らしいというか…。
「うつけ者」と言われてもおかしくないと思います。(城も燃えるわなあ)
と以前訪れた時はそう思っていたのですが、いろいろ巡っているうちに
転用石をいっぱい見て来た結果、信長だけがやったことではないし、
このころの事情や文化で、諸説ありますが無下にしている訳でもないことが
分かって来ました。
それにしても、石垣なら踏むことはありませんが、
下見て歩かないと、うっかり踏んでしまいそうになります。



石段の高さがまばらなのでとても疲れます。足腰にくる~。
以前に比べてかなり歩きやすく整備されていますが、前回はこれに
かなり体力を奪われました


摠見寺墓地

この奥には摠見寺の墓地があるようです。


伝武井夕庵邸

武井夕庵は美濃の斎藤氏から信長の側近になり
右筆となった人物です。


古井戸

この邸跡には古井戸?古池?の跡が見られます。



結構登って来ましたよ。


百々橋口道合流地点

天主と摠見寺跡へとの別れ道にやって来ました。
まずは本丸を目指すことにします。



では、天主目指して右の道を登りましょう!


七曲り道

伝織田信澄邸・伝森蘭丸邸の石柱があるこの場所は七曲り道の入口です。
覗いてみるも、この先は藪です。
現在、道は未整備のため通行不可になっています。
この先に伝織田信澄邸・伝森蘭丸邸への道があるということか。
森蘭丸ファンは多いと思うのだが…これでいいのか?(整備希望)


伝黒金門跡

巨石に囲まれた出枡形は、鉤の手に折れて門を入って行きます。
これより先は信長が側近たちと日常生活を送っていた中枢部となるだけに
使用されている石もこれまでの石よりも大きいものが使われています。



黒金門は櫓門と薬医門で構成されていたと推定されています。


伝二の丸(西の丸)石垣

人間と比較すと石垣の高さがよくわかります。


二の丸(西の丸)下

正面右側へ延びる階段の先は伝長谷川秀一邸跡があります。
ここまで登って来ると信長側近の屋敷が建ち並んでいることになります。


伝長谷川秀一邸

築城当初は側近の万見重元邸が置かれていました。
当時は、名物茶器や茶会を催される表座敷として使用されていました。
現在は、織田信雄四代供養塔が祀られています。



二の丸南下に回り込んで北に向って折れて二の丸、本丸の入口へ。


仏足石

なんと、この仏足石も石仏同様石垣のひとつとして使われていたもの
だそうです。
石仏や五輪塔が石垣の一部に使われているのはよく見掛けますが、
仏足石かいな!マジか…。
石仏と違ってそう沢山あるものではないのだから
どこから運ばれたものなのか手掛かりはないのだろうか。


蛇石

テーブルのようにある右奥の巨石は、
1万人が3日間昼夜をかけてここまで運んだといわれる巨石ですが、
150人以上の人が下敷きになって押し潰されたとされています。
この巨石が信長公記にある「蛇石」であるかどうか分かりませんが、
天主から最も近い巨石なので、話題のための石として?蛇石と呼ばれています。
実際はどこに使われているのかは、謎のままです。



この階段を登ると二の丸(西の丸)です。


二の丸(西の丸)

本丸下にある二の丸には秀吉が建立したという信長廟があります。
ここには信長愛用の太刀や烏帽子、装束などが埋葬されています。
そして、信長の本丸御殿はここにあったのではないかという声もあります。


信長廟所

本能寺で自害した信長の遺骨は発見されていないが、秀吉が一周忌の時に
この地に廟所を造りました。
信長の遺骨こそは無いが御霊はここで眠る…。



蛇石の東側にあるこの天主下の石垣は、よ~く見ると
火災による高熱によって表面がボロボロになり、
細かく割れていることがわかります。



この石垣の足元からは赤く焼け落ちた大量の瓦が発掘されています。
左が伝説の蛇石ですが思ったより大きく見えません。


本丸跡

二の丸から本丸へ。
ここが本丸御殿跡(南殿)といわれる場所で
信長は御所のような天皇をも凌ぐ御殿を建てようという構想も
あったようですが実現することはありませんでした。



この石垣の上には多門櫓が連なっていたことが想像できる
造りになっています。


伝搦手口

本丸跡の北東隅に、現在は封鎖されている搦手口があります。
鉤の手に折れて石段へと続く構えとなっているはずなのですが、
残念ながら、この先進入することが出来ません。
正面奥の石垣の上にも米蔵跡が残りますが、整備されていないので
こちらも見学不可です。


伝本丸取付台

この階段を登り、くの字に曲がって天主台へ。



直進は天主台へ。
右手に道があるのですが、立ち入り禁止になっているところが
気になります。覗いてみると…


この先八角平への道が続いていますが、現在未整備のため
通行禁止になっています。


天主閣址の石柱

いよいよ天主閣のあった天主跡です。


天主台礎石群

礎石部分が不等辺八角形平面の天主台。



中央部分には1個分の礎石が存在せず、そこには深さ1m程の穴が発見されています。
このことは吹き抜け構造を示すものなのか?
私ならその穴にこれでもかという太い立派な大黒柱を挿してしまおう!
と思ってしまうのですが。
素人なのでこんな考えをしてしまいます。^^;



山岳部を削り出し、石垣で囲まれた天主の基礎。
この部分は地下部分となり穴蔵になっていました。





帰路

帰路は百々橋口道を通って行きたいと思います



帰りは下るばかりと思いきや、
目の前には登りの階段が
また登り~心折れそうになりました。


摠見寺本堂跡

1854年(安政元年)に火災で焼失。
本堂は現在大手道のある伝徳川家康邸に再建されています。



天主と城下を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる
多くの人が摠見寺の境内を通過することになります。
本堂周辺からは多くの建物の跡がみつかっています。
後に、豊臣秀頼によって渡り廊下で結ばれた書院なども増築されました。


三重塔

この三重塔と、ここから下った先の二王門は
安土城築城以前の棟札がみつかっており、
摠見寺を建てる際に、甲賀郡から移築ものです。


摠見寺二王門

二王門は、金剛力士像を祀るための楼門です。
それにしてもこの急勾配、登りだったらきつかった



重要文化財に指定されている金剛力士像は1467年(応仁元年)に
因幡院朝によって作られたものです。


石部神社

百々橋口道入口にある石部神社は、信長が安土城の守護神として
安土城築城の際に修復した古くからこの地にある神社です。



百々橋口道入口で道路に出て百々橋の方へ行きたかったのですが
道路に出られないので、このまま大手道まで道路沿いに歩きます。


出口

本日は、いっぱい観させて頂きました。


スタンプ設置場所

安土城のスタンプは3ヶ所にあります。
そのうちのひとつがここ入場券売り場の出口です。


赤こんにゃく

滋賀県近江八幡市の名物である「赤こんにゃく」です。
私の住まいでもこんにゃくが名物ですが、このような赤いこんやくは
普段目にすることはありません。
地元では冠婚葬祭のご馳走に欠かせない食卓を彩る食材とされているようですが、
派手好きな織田信長が染めさせたという説もあるようで、
信長らしさが滲み出ているように思える御当地名物ですね。


立石

大手道脇の石垣に等間隔に配置された縦型の石は、
毛利氏配下の石工集団の特徴的な積み方を見ることが出来ます。


百々橋口道

現在は通行禁止となっている百々橋口道入口です。
城下の人々は百々橋を渡り、ここから百々橋口道へ進み、
摠見寺の境内を経て大手道へと合流します。


百々橋

この橋が安土城と城下町を結ぶ重要な橋でした。


ガイダンス施設

入館料大人200円、小・中学生100円、小学生未満無料と、有料ではありますが
安土城をがっつり堪能してくると、クタクタになってしまったので
ここでコーヒーを飲みながら、館長さんと談笑しながら休憩しました。
まだまだ整備されていない見所があるので整備をお願いしてみたのですが
年々予算が減ってしまって手が回らないのが現状だそうで…残念。


雛型模型

施設内では、安土城天主上層部7分の1雛型模型の展示をしています。
他にも、城下町での出土品が展示されていたり、VR安土城ダイジェスト映像が放映されています。


日本100名城のスタンプラリーを始めた頃に来た時には、とても運動不足で
大手道でへとへとになってしまって満喫どころではなかったです。
しかも、幼かった娘は身軽にどんどん走って先に行ってします。
それを追いかける体力すらなく、散々でした。
安土城と佐和山城はめちゃめちゃ疲れて、もっとちゃんと
見ておきたかったと後悔していたので、常々リベンジしたいと
思っていました。
8年越しにやっとリベンジ出来ました。
体力が着いたのか、整備が進んだからなのか前回に比べて
あれ?と思うくらい難なく行って来ることが出来ました。
そして、前回見られなかった百々橋口道の方へも行って来られて
とりあえず気が済みました。(^^)v(何回行っても良いです)


平成23年5月4日登城
令和2年1月4日再登城



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
クリエーター情報なし
学研プラス

観音寺城(滋賀県)

2020年01月17日 |  百名城
観音寺城 かんのんじじょう
別名佐々木城
構造山城
築城者佐々木氏
築城年代1335年(建武2年)?、1471年(文明3年)?
指定史跡国指定史跡
場所近江八幡市安土町石寺 地図
スタンプ設置場所石寺楽市会館(12月中旬~3月中旬は休業)・観音正寺・桑実寺・安土城郭資料館
城郭検定出題あり

観音寺城は、佐々木六角氏の本城で、現在の観音正寺である観音寺にありました。
城のほぼ中央には伽藍が設けられていて、西国三十三所の霊場として
繖山内に坊舎を構えていました。
石垣、石塁による城造りの拡張と改修が繰り返され、数多くの郭群が残されています。
織田信長が足利義昭を擁して上洛した際に、六角氏は観音寺城を追われました。


表参道有料ゲート

ここまで来たなら観音寺城リベンジ!と思ってやってきたのですが…。
ゲートは12月26日から冬期閉鎖になってました!


五箇荘料金ゲート

気を取り直して、別ルートで行きましょう!ということでぐるっと回って
もうひとつのルートにやってきたのですが…あらら。
こちらも1月5日まで封鎖されています。


駐車場

封鎖されているにもかかわらず、駐車場には次々と車がやって来ます。
皆さんここから歩いてお参りに行かれているのでしょうか。


一度目は、100名城のスタンプを押しに石寺楽市会館を訪れ、
地元の方に観音寺城まで行くのは大変だよと言われ、子供も小さかったので行くのを
断念しました。
いつかリベンジとずっと思っていたので寄ってみたのですが、この時期は車で楽を
させてもらえないのですね^^;
歩いて行って帰って来るには時間が無いので、無理はせず今回も見送りということになりました。


平成23年5月4日登城
令和2年1月4日再登城




日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス

一乗谷城(福井県)

2019年08月31日 |  百名城
一乗谷城いちじょうだにじょう
別名
構造山城
築城者朝倉孝景
築城年代築城年代 1471年(文明3年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所福井市城戸ノ内町 地図
スタンプ設置場所「復原街並」入口(南・北)
御城印復原町並南入場口受付
城郭検定出題あり

一乗谷全体を城郭とし、越前朝倉氏の居城でした。
山麓の居館部と、詰城としての中世山城の一乗城で構成され
連郭式の縄張りで織田信長の侵攻に備えられた畝状竪掘群が見られます。
山麓では町屋や武家屋敷など復原されています。



案内看板

一城谷朝倉氏遺跡資料館にある案内看板です。
こちらで予習をし、パンフレットを入手していざ一城谷へ!


下城戸跡

一乗谷へ入ると石碑の立つ下城戸跡が見えて来ます。
これより特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡となります。


土塁

土塁と外堀、矩折形の城戸口があります。


木戸口

この敵の侵入を防ぐ、直角に折れている石垣がなかなかの迫力です。


平面復元地区

多くの家、屋敷が密集していたのがわかります。
一区画(一軒)はあまり大きくないですが、その数はかなりの戸数あると思われます。


井戸

とにかく井戸の多いこと。
各戸に井戸が設置されていたようです。
こんなに沢山の井戸が見られる場所はかつてあっただろうか…。
井戸があると必ず覗いてしまうのが性ですが、さすがにこの数は覗ききれません^^;



こんな井戸跡もあります。



この時代、各家庭に井戸があるなんて贅沢じゃないですか?
もちろん復元されているのは井戸だけでなく、便所や墓地といったものまで
復元され、町の様子や暮らしぶりが想像しやすくなっています。


御屋形橋
一乗谷川に架かる橋です。


堀と土塁

館を堀と土塁です。
右奥は「中の御殿」があり、朝倉義景の母である光徳院の屋敷跡と伝わります。


柳の馬場

「越前朝倉万灯夜」の開催期間に訪れたので、周囲は朝から準備に追われているようです。
また約15000個のキャンドルでライトアップされてるということで
歩く場所に沿ってキャンドルが並べられています。
この日は戦国時代行列で攻城団団員の瀬戸浩太郎さんが足軽として出陣するとのことでした。(団員総会談)
時間の都合でお会いすることは出来ませんでしたが活躍ぶりはネットを通して見られました


唐門

江戸時代に松雲院の山門として建てられた唐門は一乗谷城のシンボル的な門です。
本来ここには朝倉館の西正門が建てられていました。


朝倉館跡

館の柱跡、位置が分かるように復元しています。


蔵・武者溜・井戸

中門に向かって蔵・武者溜・井戸があります。


井戸

館内にある井戸は、しっかり残っているため
中を覗き込むと、今でも水が湛えられているのが見えます。


謎の宝箱
この宝箱…どこかで見たことあるような…。
そう、昨年11月に訪れた岐阜県の苗木城です!
このような謎解きイベントがあちこちで開催されているのでしょうか。
ちなみに、調べてみたら「戦国宝探し」という参加無料のイベントを9月23日(月祝)まで
行っているようです。
ファミリーで訪れた方はここで遊びながら散策するも良いのではないでしょうか。


朝倉義景公墓所

福井藩主松平光通によって江戸時代に建てられたと伝わります。
ここには当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれましたが、
義景の法名をとり「松雲院」となり、発掘によりそれぞれ移転し、
現在松雲院は心月寺と統合されています。


常御殿

手前の長方形の花壇が日本最古の花壇遺構です。
ちなみに残存花粉の調査から、キク科、ユリ科、アブラナ科の花が植えられていたようです。



建物跡には礎石群が露出展示されています。
本当は山の上にある一乗城へ行きたかったのですが、今回も断念しました。
いつになったら行けるのでしょう…^_^;


復原町並

発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、
柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。



以前訪れた時はこちらでお抹茶を頂きました。
しかし、この日はまだ入れる時間ではなかったため見学できませんでした。


復元された町並み

城下町の町並みや、武家や民の暮らしぶりが再現されていて
当時を偲ぶことができます。


甲冑着付け体験

大人用、子供用が揃っています。
段ボールで出来ていて実際の甲冑よりもかなり軽く出来ているので
子供でも楽に着ることが出来ます。





陣屋

以前訪れた時に宿泊した民宿です。
一城谷の中にあり、一乗谷川のせせらぎが聞こえるほど静かで長閑な場所です。
この日は御好意で二間貸していただけて広々と宿泊出来ました。
戦国時代の遺跡の中に建つ古民家だけあって雰囲気はバッチリですね。



とてもきれいな城祉風景です。
かつてソフトバンクのCMでも使われた場所です。
戦国時代にタイムスリップしたような城下町の復元は、異国に足を踏み入れたような
感覚になります。
現代を忘れて散策すると一乗谷の雰囲気を楽しむことが出来ます。
今回は一乗城に挑戦するつもりでしたが、急遽娘の用事が出来て
急いで帰宅することとなりました。
またもやお預けとなってしまいました。
しかしながら、前日登城したという攻城団団員のひよどり下総守さんに頂いた地図を見て
ちゃんと入口だけは下見しました。次回のお楽しみということで…。


平成24年5月3日登城
令和元年8月25日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

高知城(高知県)

2019年06月29日 |  百名城
高知城こうちじょう
別名鷹城
構造平山城
築城者山内一豊
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所高知市丸ノ内 地図
スタンプ設置場所本丸御殿入口
御城印高知城窓口
城郭検定出題あり

高知城は、大高坂山に山内一豊が築いた平山城です。
それより以前に長宗我部元親が築城するも、水害に見舞われ未完成のままでした。
山内一豊が浦戸城入封の際、長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こし
対立すると武力だけでなく、土佐の地に歩み寄った対策を成し浦戸城とは別に
大高坂山城に高知城を築くこととなりました。




現存している堀は江戸時代に比べて3分の1に減ってしまって、
堀幅においては半分ほどになってしまっています。


追手門

追手門の奥には天守も聳えます。
門前が枡形になっていて、石垣の上の狭間塀と門の二階から
攻撃出来る仕組みになっているので守りの要となる場所です。


城跡碑

背後の巨石には工事の際に印された「ウ」・「エ」・「ケ」・「シ」などの
刻印があるので探してみてください



両脇の石垣の上に渡櫓が載っています。
扉や柱には格式を高めるために、乳頭金具や飾金具などで装飾しています。
しかし、上を見上げると石を落したり、槍で突くといった攻撃が出来る
仕組みも持っているこわ~い門です。



内側から見た追手門。
この写真ではちょっとわかいりずらいのですが、
石垣からはみ出した右手前の梁の角には小さな屋根が載っているのが
面白いというか、かわいいと思ってしまいました。



高知城観光案内所で本丸御殿前までの無料ガイド(約50分)がお願い出来るとのことで
ここでガイドさんと待ち合わせ、追手門から案内していただきました。


石樋

雨水が石垣に沁み込まぬよう、前に突き出すように工夫された石で出来た樋です。
この真下には石樋から落ちる雨水を受ける場所も設けられています。


山内一豊の妻(千代)の像

内助の功を象徴する、名馬とともに千代の像が立てられています。
織田信長の「馬揃え」の際に貧しい一豊のために千代が持参金で名馬を手に入れ
信長に一目置かれ、出世したという伝説があります。


杉の段の井戸

かつてこの場所は杉の大木が鬱蒼と茂っていたことから杉の段と呼ばれるようになりました。
また、城内にある井戸の中では一番水質が良く、城主が暮らす二の丸御殿で使用する水は
この井戸から一日3回汲み上げられていました。



平成になって4年をかけて現代の穴太衆が積み直した石垣です。


鉄門跡

かつてここには入母屋造りの二階建、本瓦葺きの門がありました。


詰門(東側)

鉄門を抜けると早く天守に近付きたいあまり、こちらに向かって来てしまうのですが、
本丸へ行くには階段を登り、二の丸から廊下橋を渡らなくてはなりません。
平時は詰門の一階は塩蔵に使われていました。
内部は通り抜けできますが、筋違いになっていて本丸には抜けられずに
外へ出てしまう構造になっています。



本丸に行くにはこちらの階段を登って二の丸から続く廊下橋を渡らないと
辿り着けません。


二の丸

この広いスペースには二の丸御殿がありました。
藩主の居間や側室の奥御殿のほか、御殿女中も住まわせていました。


廊下橋(詰門二階)

万が一二の丸まで敵が攻めて来た際は、この櫓橋を落してしまい
籠城が出来る仕組みになっていました。



廊下橋入口です。



ちょっと変わった造りの廊下橋&詰門と廊下門。
とても重要な場所であることが、この複雑な構造でわかります。
いろいろな機能があって知れば知るほどおもしろい造りです。



廊下橋の両側にある小部屋は、家老・中老・平侍に分けられた家臣の積める溜ノ間になっています。



襖が無い方は小姓が控えた場所です。
このように二階部分は家臣が詰めていたことから詰門と呼ばれています。


天守

本丸は廊下橋(詰門)から一段高く造られていて、最後の砦として
門から侵入した敵を上から攻撃出来る仕組みになった重要な門となっています。
この門をくぐるように上に出ると、いよいよ天守のある本丸です。


100名城スタンプ設置場所

本丸御殿入口受付右側に設置されているスタンプです。


本丸御殿

現存する本丸御殿は懐徳館とも呼ばれる小ぶりな御殿です。
本丸御殿へ。


石落

現在は展示用に下が覗けるようになっていますが、
本来は開閉式に造られていました。


一階

一階は模型の展示がされています。
高知城の築城の様子が再現されています。


床下収納

床を見ながら歩いていると、取手の付いた床板がありました。
これは床板を外すことが出来て、床下収納となっている場所なのです。
非常時には食糧などの貯蔵が出来る造りになっていました。


破風内側

三階には破風の間があります。
ここから明かりを取っているので比較的明るい階になっています。


四階

壁は真壁造りで、表面は手すきの和紙(和紙張り壁)で仕上げられています。
この地方では和紙造りも盛んだったようです。
身分の高い家老が集い、作戦会議などを行っていた部屋とも云われています。


五階




下を向いて歩いていると、またまたみつけました!
節穴を補修した跡。
姫路城では遊び心でいろいろな形をしていましたが、高知城では綺麗な丸です(^^)


小屋の段
五階と六階との間にある隠し部屋のような空間は武者隠しの間です。
階段を登っている時には気付かずに上へと通り過ぎてしまったのですが、
帰りに階段を下っていて気が付き、慌てて撮ったのがこの写真。
前後に行列となって階段を下っていたので斜になってしまいました(>_<)


最上階

どこを向いても人・人・人。
とても賑わっています。


天井

天井は格天井で格式高い造りになっています。






廻縁と高欄

山内一豊が掛川城と同じ高欄を徳川家康に願い出て造ったという逸話があります。
現在の掛川城は、高知城を参考にして築城されています。
2004年の改修前は黒漆ではなくペンキで塗られていたため痛みも激しかったのですが
現在は築城時と同じ黒漆に戻され綺麗に修復されています。


眺望

昨晩泊ったホテルのある方角(西側)を望んでいます。
眼下にはこじんまりとした本丸全体を見下ろすことが出来ます。



北東側は二の丸、三の丸が見渡せます。
両御殿が現存していたら…と想像してしまいます。




一階まで戻って来ました。
ここから東多門櫓、廊下門二階部分へと進みます。


東多門櫓

右側(外側)の壁には蓋付の狭間があり、左側(本丸側)は引き戸になっています。
本丸側からは出入りが容易に出来る仕組みになっています。


廊下門
東多門櫓から廊下門へと進みます。
ここでは領民の生活の展示がされています。



一番奥の部屋には山内豊信所用陣羽織の展示がされています。


黒鉄門

二階建ての鉄門は、戦闘に備えられた造りで
石落しはもちろんのこと、門扉や二階の銃撃用の窓を西側に集中させて
寄せた造りとなっています。


黒鉄門内側

ここに階段を掛けて登っていたものと思われます。


鐘撞堂

最初は二の丸付近にあったのですが、移転を繰り返して
現在の地に落ち着きました。


矢狭間塀

ここで注目してほしいのが、塀に開いた狭間です。
天守東南矢狭間塀には横に細長く開いた狭間があり、これが物見窓です。
高知城にだけ残っている貴重なものです。



綺麗な蝶が飛んで来たので思わず撮ってしまいました


忍び返し

石垣を登って来る敵に備えて造られたもので、忍び返しと呼ばれる防御です。
石落しも張り出しています。


三の丸

かつてここには三の丸御殿がありました。
行事や儀式などが執り行われていました。
ここまで来ると子供たちは飽きてしまい、四葉のクローバー探しを始めてしまいました^^;
トイレとベンチのある三の丸に子供たちを残して私は更に外周を巡ることに。(なんて親だ


排水路

高知はとにかく雨が多く、この地の地盤も緩いこともあって雨水への
対策が良くされた城跡です。
一豊もこの対策をしっかりすることで長宗我部氏が断念したここで
築城を成し遂げられたのですね。


長宗我部期石垣

長宗我部元親は、岡豊城から、1588年(天正16年)大高坂山に移り築城しましたが、
水害などにより築城がうまくいかずにこの地を断念し、1591年(天正19年)に
浦戸城に移転しました。
その頃に構築された石垣が三の丸石垣改修工事の事前調査で発見されました。



下を覗き込んだら…あ、奥の方に三菱マーク!
いや、山内家の家紋です。


銀杏並木
石垣と銀杏並木のコントラストがとても美しい通りです。


紅葉並木
銀杏並木の一段下は紅葉並木です。
どちらも新緑の時期できれいですが、秋になれば黄色と赤でさぞかし
綺麗な道になるんだろうなあと想像します。



猫城主さま?かどうかはわかりませんが二の丸御殿跡へ上がるところのようです。
お城ではよく猫に出会います


詰門(西側)
先ほど見た詰門の反対側へやって来ました。
東側の詰門の出入口は少し右寄りにありましたが、こちら側はほぼ中央にに
出入口があることから真直ぐでなく筋違いになっているのが分かります。
こんな面白い構造なのに、中が見られないのが残念でなりません。


梅の段

現在梅の木が沢山植えられている梅の段は、かつての馬場でした。
ここから西へ下ると御台所屋敷跡や八幡宮跡、搦手門などが見られるのですが
三の丸に残して来た子供たちが待っているので三の丸へ戻ることにします。


はりまや橋

江戸時代初期に、豪商の播磨屋宗徳と櫃屋道清が往来のために架けられた橋です。



現存12天守のうち高知城が12番目の登城となり、
これでやっと現存12天守すべての登城を果たしました
山内一豊の城とあって掛川城を思い出しながら登城しましたが、かなり見応えがありました。
やはり掛川城を土台とし、更にパワーアップさせた感じが伝わって来ます。
やっぱり何と言っても詰門の存在はとても面白いものがあるし、防御策の塊のような造りが
されているのが一豊のこの地での用心深さが犇々と伝わって来ます。
また、三菱自動車に勤めた経験もあるので三菱のルーツに触れられたことにも
感慨深いものがありました。


令和元年5月3日登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社



小説 岩崎弥太郎--三菱を創った男 (河出文庫)
嶋岡 晨
河出書房新社

徳島城(徳島県)

2019年06月14日 |  百名城
徳島城とくしまじょう
別名渭山城・渭津城
構造平山城
築城者蜂須賀家政
築城年代1586年(天正14年)
指定史跡国指定史跡
場所徳島市徳島町城内1 地図
スタンプ設置場所徳島市立徳島城博物館受付カウンター
・徳島市教育委員会社会教育課カウンター・徳島中央公園東側駐車場入口事務所(いずれも年末年始休館あり。電話で確認のこと)
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

阿波踊りの発祥の城と言われる徳島城は、豊臣秀吉の四国平定で戦功をあげた
蜂須賀正勝の子家政が阿波一国を拝領し、一宮城に入城した後に
秀吉の命により急遽猪山に新城を築城することとなりました。
室町時代には山頂に渭山城(渭津城)、麓には寺島城と呼ばれる城が存在していましたが
長宗我部元親や小早川隆景、比叡山の僧徒らの援助により二つの城を合わせた大規模な
平山城の完成を迎えると、家政は居城を一宮城から徳島城へと移しました。




徳島中央公園東側駐車場を利用して徳島中央公園から入城しました。


城山の海蝕痕

岩の表面に出来た大小の穴は海の波に浸食された痕で、
かつて海面がここにあったことがわかる場所です。


城山の貝塚

古代人のゴミ捨て場でもあり、死者を埋没する場所でもあった貝塚。
そのせいか?この辺りの臭いも…。


隅櫓跡

この石垣の上には隅櫓、正面には旗櫓が建てられていました。


数寄屋橋

徳島城の鬼門にあたる門が、旗櫓の下にあった数奇屋門です。
不明門とも呼ばれ、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。


内堀(瓢箪堀)

「堀川」と呼ばれ、かつては表御殿庭園内の「心字池」と地下桶道で繋がっていて、
池の水位の上下で景趣に変化を求めるよう工夫されていました。
※現在、地下桶道は不通になっています。


旗櫓跡

左手の石垣の上に数寄屋門のとして載っていた旗櫓。
右手の石垣の奥は表御殿庭園になります。



表御殿庭園と東二の丸麓の道を通り、まずは100名城スタンプ設置場所である
徳島城博物館へと向かいます。


徳島市立徳島城博物館

表御殿の跡地には御殿を模した徳島城博物館があります。
この公園は徳島監獄署が置かれたり、天皇や皇太子の宿泊所として千秋閣が建設されたり、
進駐軍の宿舎だったり、市立図書館や市民会館に活用されたり、市立体育館だったりと
めまぐるしい移り変わりを経て現在に至ります。


スタンプ設置場所

100名城スタンプがこちらに設置されているのでまずはスタンプを押します。


旧徳島城表御殿庭園

桃山様式の大名庭園で枯山水と築山泉水庭から構成された回遊式庭園で
関ヶ原の戦いで西軍だった茶人で武将の上田宗箇が敗戦後に徳島に招かれ
その間に作庭したと伝わります。



大名庭園を眺めながらいただくお抹茶。
入館した人を対象に徳島城博物館のロビーで、呈茶を行っていて300円(お菓子、お茶代)です。
子供達は大名庭園を眺めながら優雅にお茶してました。


表御殿跡

親は…雨の中カメラを持って城さんぽです


黒門跡(大手門)

大手枡形になっていて四方を建物で囲まれていました。
大手口だけあって厳重な造りであったことが窺われます。


下乗橋(小見附橋)

藩主以外はここで馬を下りて入城することになっていました。
江戸時代には木造の太鼓橋だったそうですが、明治期には花崗岩の太鼓橋になり、
現在はこのような橋に架け替えられています。


鷲の門(内側)

三木曲輪内から見た鷲の門です。


飾り瓦

三木曲輪側の屋根の角をよく見ると狛犬が逆立ち?して載っています。
明治8年に鷲の門以外の建物はすべて撤去されました。
しかし1945年の徳島大空襲で焼失。
その後1989年に古写真を基に復元されました。


鷲の門棟札

見上げると屋根裏には棟札があります。


鷲の門(表)

この門は鷲を飼う建物として幕府に申請して建てたことから
鷲の門と名付けられたという説があります。
また、夕方から夜10時までライトアップされています。



今度は表側の屋根の角を見てみましょう。
こちらは鷲の門と言われるだけに、鷲が載っています。


舌石

太鼓櫓跡を右手に見ながら線路側に沿って歩いた所に旧寺島川沿いの石垣にある舌石を発見!



この石垣の上には「折れ曲がり塀」と称する屏風塀が設けられており、
塀を支えるための柱を受けていた舌石(台石)が残っています。


太鼓櫓跡

西の端には三重の太鼓櫓には多門櫓が接続されていて、東の端には二重の月見櫓がありました。
太鼓櫓は徳島城最大の櫓で、現在は昭和8年NHKの徳島放送局が開局した記念に設置された
ラジオ塔が建っています。


蜂須賀家政銅像

現在は蜂須賀家政の平和的な姿の銅像ですが、戦前には家祖の正勝の武装像があり、
戦時中に供出して無くなったので、現在のものに代わりました。



西廻りで本丸を攻めてみたいと思います。
左に見える建物にはSLが展示されています。



鉄道好きの方はぜひお立ち寄りください。


西坂口

階段が続きます。
歩きやすいと言っていいのか、しんどいと言っていいのか…体力奪われてしまいます。


西三の丸門の枡形

整備された階段を登りきった所に西三の丸門の枡形が待ち構えていました!


西三の丸跡

左側のフェンスの向こうは現在水道排水池になってしまっています。



正面左の石垣は帳櫓の石垣です。
帳櫓の石垣と正面石垣には鏡石がこれでもか!というほど主張しています。
しかも、全部で5個も



正面に見えていた鏡石に近付いてみると、矢穴があります。
鏡石に使うにはちょっと妙(残念)な石に見えるのですが?
え~、いいのか?この巨石で。


帳櫓跡
こちらしっかりと基礎ともなる礎石が残されています。


西二の丸跡
鉄砲櫓があった西二の丸跡。



正面の石垣にも鏡石が見えますね。
要所要所に鏡石が多用されているようです。
そして右の石垣は弓櫓で、初期の天守台とも考えられています。
この先右に折れて本丸へ。


弓櫓跡

最初の天守は本丸の弓櫓の位置するところにありました。
築城には勝瑞城や一宮城の廃材を使用して天守や櫓は質素なものでした。
その後、数十年で解体され東二の丸に新しい天守が築かれました。


本丸跡
本丸には本来天守があるところですが、この広い敷地には天守ではなく
御座敷や留守居番所、武具櫓や馬具櫓、弓櫓といった建物がありました。
では、天守が無いのかと思えばそうではなく、天守はここから一段下がった
東二の丸にありました。
ちょっと珍しい縄張りですよね。
平時は山麓に暮らしていた藩主ですが、本丸にも御座敷には
藩主専用の部屋や台所が設けられていました。


清玄坊神社

清和天皇を祖とする修験者清玄坊は、築城する際に立ち退きを拒否したために
弓で射て謀殺されてしまいました。
すると蜂須賀氏は清玄坊の崇りに遭い、前非を悔いて石碑をたて末代まで
供養することを誓いました。


埋門跡

本丸への出入り口は東西にあり、北側には非常時のための
御座敷の建物で隠されるように脱出口(埋門)が造られていました。


本丸北東の石垣

徳島城で最も古い石垣です。


東二の丸

明治初期の古写真には、まだここに天守が聳えているのが見られます。


天守跡
本丸から東二の丸に新たに築かれた天守は、
天守台もなく、そのまま平場に御三階櫓が建てられていました。
これも実に特徴的なところです。


東坂口

藩主や藩役人の登城口であった東坂口です。
こちらの登城口からなら天守までが近いです。
そしてここにも鏡石が使われています。



西から東へと山城を一周して来ました。
気軽に平城と山城を楽しめる一度に二度おいしい城跡でした(^^)v


弁天池


あいにくの雨でしたが、山頂まで行って来ました!
なかなか見応えのある城で、晴れていたらもっとじっくり時間かけて見ていたでしょうね。
庭園も見てみたかったけど、時間が足りなかったですね。
博物館に娘らを残して城さんぽしていたのですが、
娘たちは博物館では庭園を眺めながらお茶をいただき
お相手をして下さった博物館の呈茶ボランティアの方、ありがとうございました。


令和元年5月1日登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

丸亀城(香川県)

2019年06月04日 |  百名城
丸亀城まるがめじょう
別名亀山城
構造平山城
築城者生駒親正、山崎家治、京極高和
築城年代1597年(慶長2年)、1643年(寛永20年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財 
場所丸亀市一番丁 地図
スタンプ設置場所丸亀城天守(天守閉館期間中は丸亀市立資料館)
御城印丸亀城天守の入口
城郭検定出題あり

亀山に砦を築いたのがはじまりで、高松城の支城として築いたのが丸亀城です。
一国一城令で一度廃城になりましたが、その後山崎家治が再建し、京極氏が完成させました。
この時瀬戸内海を見張る要所であった丸亀城が幕府にとって重要と考えられ、
丸亀城再築と資金援助、参勤交代の免除という幕府からの特別待遇を受けていました。
現存する天守としては最小で、天守こそは小さいですが本丸を取り巻く石垣は偉大で圧巻です。



内堀

訪れたこの日は子供の日が近いため、内堀にこいのぼりが泳いでいます。


常盤橋

GWとあって朝からすでに賑わっています。


大手二ノ門

大手門はかつて搦め手側にありました。
京極氏の入城直後この地に移し、大手一の門と大手二の門、狭間塀で
枡形にして、鏡石を使い甲州流軍学に沿って構成されています。


高麗門

大手外門の高麗門は、切妻造りで左右に狭間塀を持ち、
内部の石垣は岩岐組みされています。


幸運の

大手二の門を入って正面の石垣にある二つの鏡石の間にある小ぶりのハート形の石です。
これを触ると良縁の御利益があるとか…


大手一の門

天守は最小ですが、そうとは思えないほど立派な大手門です。
これだけ見ればさぞかし大きな天守が待ち構えていそうな迫力の櫓門です。
ちなみに、枡形側には窓が8つ、城内側には窓が1つだけという特徴があります。
梁の太さも見事ですが、こちらも内と外では格好が違っています。


丸亀城内観光案内所

観光案内所を覗いてみると、重ね押しスタンプラリーというのをやっていて1枚200円で台紙を買い、
城内5ヶ所でスタンプを重ね押しすると絵が完成するというもので、収益金の一部は崩れた石垣の
復興事業に役立てられるということなので早速家族で各自1枚買ってスタート!
まずは観光案内所で押して次の太鼓門(大手一の門)へ。


大手一の門(太鼓門)

櫓門に入れたんですね。


重ね押しスタンプ

二つ目の重ね押しスタンプです。
次は丸亀城天守の1階と3階、最後は資料館です。


太鼓

1670年(寛文10年)頃に建築され、藩士が太鼓を打つことで刻を知らせていたことから
「太鼓門」とも呼ばれています。
2018年の時の日から正午を知らせる「時太鼓」が復活されているそうですが
残念ながら聞きそびれました。


石落し

お約束の石落しでーす!
下を通る人を狙いたくなる



外から見ても扉が見えます。
かつてはこちらも出入りに使っていたのでしょうね。


見返り坂

この写真、あまり坂のようにみえないですけど…
結構坂でキツイです。
ジグザグに歩く人もいるほどなんですよ^^;


二ノ丸南東隅櫓の石垣(打込接

石垣を築く名人と噂の羽坂重三郎に石垣の工事をさせると、
期待通り、素晴らしい石垣を完成させました。
これならば誰も登れる者はおるまいと褒めると、確かに登れる者はいないでしょう。
しかし私は鉄棒1本あれば容易に登ることが出来ます!と言って
石垣の間に鉄棒を刺して頂上まで見事に登ってしまいました。
それを見た殿様はやっと堅固な石垣が出来たと思ったのに、もし重三郎が
敵にまわったらこの城が危なくなると危機を感じ、内密に井戸から城外への抜け穴を
造って欲しいと呼び出し、井戸の底に降りた重三郎めがけて大きな石を落して
殺害したというエピソードが残っています。

まず、息を切らせて坂を登ってくると見える扇の勾配が見事な高石垣です。
下部は30°で立ち上がり、上部は70°に近い勾配です。
夜に来てもこの石垣はライトアップされています。



もうひと頑張り坂を登ると三の丸に到着します。



夜間登って来た時は暗くて本丸を目指していたので気がつかなかったのですが
とても綺麗な光景が見えて来ました。



ここからの眺望も見事です。
ここからの二の丸番頭櫓や高石垣もよく見えます。


三の丸

ここまで登って来ると月見櫓跡などから讃岐富士がよく見えます。


月見櫓跡

月を見るのに最適な位置にあった月見櫓は、城の東と南を見張るためのものでした。
月と言えば、丸亀市制100周年を記念して歌手のさだまさしさんの作詞作曲により
城のある町」という歌が2001年に作られました。
その歌詞の中に「秋は月見の天守閣 ふと だんをとるや月菜汁」と歌われています。
この「月菜汁」は実在せず、この歌に合わせて創作されたのがはじまりです。
現在では、汁物の中に月にみたてた団子や里芋などの丸いものと、菜を入れた新しい郷土料理として
市民に親しまれているそうです。
ちなみにここから讃岐富士もよく見えます!


延寿閣別館

麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部を移築したもので、
内部は藩政時代の大名の生活がしのばれるように昔のまま保存されています。


虎口

三の丸にある二の丸への西の虎口です。


二の丸

本丸を囲むように巡る曲輪です。
この辺りは蜂が多く飛んでいて、追い回されたので注意してください。


本丸虎口

虎口から入ってすぐに天守があります。


本丸

唐破風と黒い下見板張で小さいながらも威厳のある趣です。
白漆喰だけの面は、石垣上に建ち二重櫓と多門櫓(渡櫓)をつなぐ平家建ての建物で
連結されていたため、シンプルな壁になっています。



本丸の角には隅櫓が築かれていて、その間を多門櫓で繋いでいました。


天守

三重三階の天守は主として栂材を使用しています。
他にも檜と松も使われています。
夜は凛々しく、昼は温か味のある風貌です。



こちらも隅櫓の櫓台です。
本丸の隅櫓や多門櫓も明治初期まで残っていたそうで、
現在復元すべく、古写真を探されているそうです。
ぜひ、復元してほしいのですが写真が残ってないでしょうかねえ。


日本100名城スタンプ設置場所

前回は夜訪れたので、もちろんここは閉まってました。
あれから4年やっと天守の内部に入ることが出来ました。


二階

丸亀城内部は小ぶりなわりに柱の数が多いのが印象的です。
特に1階はその柱の多さが目につきます。


太鼓壁

長押の高さまでは壁を厚く塗り防御を固めています。
白い壁の横に黒くなっている部分(横の柱の下)は
壁の厚みで出っ張っている部分に埃が溜るせいか汚れているため、
この色の違いで壁の厚さ(出っ張り)が分かります。


最上階

屋根裏には案内板が掲げられています。
昭和の修理と丸亀城の特徴が掲示されています。


眺望

瀬戸内海側を大手にして正面とした城下です。
かつては城下に船入が設けられ海に出ることも出来ました。
現在はこのように埋め立てが進み海岸も遠くなってしまっています。
また、この方向にある丸亀港の船着場には、群馬県沼田城下に生まれた
塩原太助が江戸時代に最高額の80両を寄付したことにちなんで名付けられた
「太助灯篭」があります。
群馬県民なのにこれを見逃して来るとは…相変わらず詰めが甘いです


二の丸井戸

この井戸は日本一深い井戸と言われています。
水面は三の丸北石垣の真ん中ぐらい(30m以上)にあります。
深さは65mあり、石垣を築いた羽坂重三郎が殺された井戸がこの井戸です。


二の丸番頭櫓跡

二の丸にも本丸を囲むように角には隅櫓と櫓を繋ぐ多門櫓が接続していました。


長崎櫓跡

三の丸は二の丸を囲むように巡っています。
二の丸への虎口も二ヶ所あり、見返り坂を登りきって三の丸に入って直ぐの
西からの虎口と、ここ長崎櫓のある北側に虎口があります。


長崎櫓台の石垣

平成3年から4年に石垣修理の工事をしています。
この時に石垣内の構造も判明しました。



この石垣では石垣の隙間を計測する装置がいくつか取り付けられています。
最初は何かな?と思ったのですがテレビで和歌山城のものをやっているのを視ました。
このような装置は高石垣を採用している他の城跡でも見られるようです。


本丸姫櫓台の石垣

こちらの扇の勾配に積み上げられた高石垣も見事です。
とても美しい造りですよね。


戌亥櫓跡

明治2年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災で焼失してしまいました。
その焼跡が今でも石に残っているので足元の石の色をよ~く見てみて下さい。


排水口

丸亀城には全部で13ヶ所の排水口があります。


坤櫓跡

ここからは大きく崩れてしまって進むことは出来ません。
以前訪れた時は完全な形で、この先も進むことが出来たのですが、
これ以上元の姿が見られなくなってはと思い、今回現存12天守は
すべて見ておこうと思い四国の旅を選択しました。


搦手道

かつては大手道であった現在の搦手側へ下って行ってみたいと思います。


高石垣群

さすがに大手道だっただけに、こちら側もしっかり見せ場があります。
連続して石垣が見えるのでこちらもかなり迫力があります。


搦手口

山崎氏時代はこちら側が大手口でした。
京極氏になって大手は反対側に移されて現在に至っています。


馬場

ここまで来ると崩れた全体がみえますが…切ないですね。
まさかこんなことになろうとは最初に訪れた時にはまったく想像していませんでした。
後回しにするんじゃなかったと後悔しても遅いですね


排水口

見つけました!排水口。
このように全部で13ヶ所ある排水口も、
水捌けが追いつかずに石垣は崩れてしまったのですね…。


かぶと岩

この岩は火山の噴出口への通路部にある火成岩が浸食を受け、円柱状に露呈したものです。
かつてはこの岩の上に神祠が祀られていました。


丸亀市立資料館

この日はかなり日差しが強く、重ね押しスタンプラリーの最終地点でもあるここで一休み。
そしてここでは京極氏が大手枡形と石垣の新規造営の許可を幕府に申請すために作成されたという
木図が展示されています。



重ね押しのスタンプはいよいよここで完成です(^^)v
なかなか面白いし、仕上がりがとても綺麗です。
ぜひ、皆さんも楽しみながら石垣復旧のためスタンプラリーに参加してみて下さい。
良い記念になりますよ


玄関先御門

山下御殿玄関先の御門です。


番所長屋

御殿への出入りを監視するために門の脇にあるのですが、
表からは番所があることがわからないよう工夫されています。



とりあえず、1週して来ました。
結局半日を費やして存分に見て周ることが出来ました。
それもまだまだ巡っていたい感はあるなあ。(飽きない)


おまけ…



前日の夜、夜景をもう一度見たくて夜の丸亀城にやって来ました\(^o^)/



久々に登った見返り坂は…結構キツイ!
それでも以前のように寒くもなく、丁度良い気候だったので本丸まで風の抵抗無く
やってきました!



やっぱり良いですね。
一度来たことで、またこの夜景が見たいとずっと思っていて
とても楽しみにしていました。



そして、予定ではなかったのですが高知からの帰りは奥に見える
瀬戸大橋を渡って帰ることになろうとはこの時には知らずに瀬戸大橋を見て
やっぱり綺麗だねって夜景を満喫していました。
※帰りは高知から淡路の大鳴門橋を通って帰る予定でしたが横転事故があり
大渋滞だったため瀬戸大橋から本土へ渡りました。




以前訪れた時が夜で、ライトアップされていたので天守には入れないけど行ってみようよ
ということで夜の丸亀城登城が最初でした。
とても寒く風が冷たい中での登城でしたが、それ以上に美しくライトアップされた天守と
夜景に感動して、必ずまた来るぞと思っていました。
昨年の豪雨で石垣が崩れたのを見て、正直焦りました。
本当に行きたいと思う城は先に行っておかないとどんなことが起こるかわからない。
熊本城も行こうと計画していたさなかに地震の被害で見られなくなり悔しい思いを
しています。
いつ何時どんな災害に襲われるかわかりません。
自分もいつまで健康でいられるか、事故に遭ったりしないとも限らないので
今見ておかなければ後悔すると思って、現存12天守では丸亀城と高知城のふたつが
見学できていなかったので四国訪問を決行しました。
やっぱり丸亀城本丸からの夜景は何度見ても最高です。

観光案内所で買った「うちわ」が今とても重宝しています
とても気に入ってます!

平成27年12月28日登城
令和元年5月1日再登城
令和元年5月2日再登城


城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社