むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

七里の渡し(三重県)

2021年03月26日 | その他
七里の渡ししちりのわたし
別名熱田の渡し・宮の渡し・間遠の渡し
構造海上路
年代1616年(元和2年)
指定史跡県指定史跡
場所 地図

東海道の熱田・宮の渡しから海上七里を3~4時間船に乗り、桑名の渡しに到着し、
このことから「七里の渡」と呼ばれ、東海道の42番目の宿場町として大賑わっていました。
ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。



東海道

ここは東海道五十三次で知られる桑名宿の渡船場です。
伊勢国の東の玄関口として位置付けられています。


防波堤

ここから外は揖斐川で船着き場にもなっています。


蟠龍櫓

蟠龍櫓の2階展望室が無料開放されており、桑名城のことや蟠龍櫓、水門の管理など、知ることが出来ます。
そこに居る係員さんが、尾張との境ある揖斐川・長良川・木曽川の「木曽三川」とここから見える山々の話や、
桑名は関西弁ですが、川の向こうの名古屋は名古屋弁で言葉の文化が大きく異なっているという
話をしてくださいました。
そして、屋根の上には蟠龍瓦(七里の渡し廻船の航海安全の守護神)が載っているので見つけてみて下さい。


水門

ここから見える揖斐川の水門の管理もここでされているとのことです。
川の水量の調整や管理をされているそうです。
ちなみにこの櫓は、観光用の建物ではなく国土交通省水門統合管理所(1階)なのです。


本多忠勝像

隣接する九華公園には、桑名城と桑名城下町を建設した本多忠勝の銅像があります。



水堀を使って場内にも通じていました。
当時の石垣も残っています。




令和2年7月25日訪問



真田氏居館(長野県)

2021年03月23日 | 陣屋・館
真田氏居館さなだしきょかん
別名御屋敷
構造居館
築城者真田幸隆
築城年代天文年間
指定史跡県指定史跡
場所長野県上田市真田町本原2984-1 地図

地元では御屋敷と呼ばれる館跡は、上田城築城以前の居館と考えられています。
真田本城の南西に位置し、北東背後には天白城を置き、西方には中原の町を形成して
一時期の間、真田氏の本拠とされていましたが、町は上田城下に移され真田氏の本拠地も上田へと移って行きました。
真田氏の居館は、角間・甲石等にもあったとされていますが、遺構が現存しているものは
ここしか残っておらず、中世豪族の館跡として貴重とされています。



大手門跡

大手門は枡形とありますが、縄張図を見ると丸馬出を逆にしたような造りであったことがわかります。
大手門から搦手門まで南から北へ館内を一筋に延びる道があります。
この道から東を東郭、西を西郭としています。


搦手門跡

石垣を使用し、土塁を高く盛っています。


案内看板

館は主に東と西の二段の郭から構成されています。
東郭から西郭へとゆるやかに傾斜しています。


搦手門跡

北の搦手門側は桝形にはなっていません。


西郭

西郭は、想像図を見ると主に馬場として使用されていたと思われ、
厩もあり、日々ここで騎馬戦に備えて訓練をしていたのではないでしょうか。




西郭にある厩跡はしっかり土塁が残っています。



西郭内側から大手門のある土塁を見ています。
認識しずらいですが、内側に丸く出っ張るように土塁が作られています。


鳥居

では、鳥居のある場所から東郭を散策してみましよう。
皇太神社は、真田昌幸が上田城に移る際に一族の繁栄を祈願して勧請したものです。
神社を配することで、この居館跡も残されてきたのでしょうね。


皇太神社

真田氏は、この居館を保存するために伊勢神宮の御分霊を歓請奉斎しました。
また、ここでは古式蒼然となる三ツ頭の獅子舞を奉納しています。
居館築造の際、地固めの祝いに舞ったのが起源のようです。


御北の松

長篠の戦いで戦死した真田信綱の正室が、亡き夫信綱を偲んで植えた松と伝わります。
樹齢は二百年を超えていると推定。
ちなみに、信綱の墓所は信綱寺にあります。


東郭

ここが居館の中心部となる皇太神社の境内です。



境内に想像絵図がありました。
この絵図を見ると館を囲う土塁はかなり高かったと想像します。
門の部分を見ても人より高い位置まで土塁の高さがあったように思えます。


東門

南東角にも小規模ながら門が設置されていました。
とは言え、櫓門だったように描かれているのでここも防衛ラインとして
攻撃や防御が出来る仕掛けがされていたと思われます。


入角

内側に折れ曲がって角を欠いているのが入角です。
南東はの角は入角になっており、対角には厩があります。


土塁

居館の四方を囲んでいた土塁は、良好に残っています。


堀跡

先程の土塁の東側には堀があったとされていますが、言われないと判らないほど
現在は埋まってしまっています。


出陣広場

とてもきれいに整備されていますが、現在公園内の館跡はマレットゴルフ場として使われています。


親水広場

大沢川が天然の堀となって残っています。
石垣が幾重にも見えますが、これが当時からのものかどうかは疑わしいものです。
公園化する際に組まれたものかもしれません。


真田氏歴史館

せっかくなので、隣接する真田氏歴史館へ。


真田幸村騎馬像

この先の真田氏歴史館展示室は撮影が禁止となっています。
ロビーだけは撮影はOKなので、ロビーになあるこの銅像は撮影出来ます。


ロビー

展示室手前には大河ドラマ「真田丸」で訪れた俳優さんたちのサインなどが飾られています。
この先は…古文書や武具などの資料がてんじされており、コンパクトながら濃い内容ですので
ぜひ、御覧ください。一見の価値ありです。




上田方面へ向かう途中、通りすがりに看板を見てとても気になっていました。
もうだいぶ日が傾てしまいましたが、何とか時間を作って寄ることが出来ました。
山城だけでなく、このような場所にも居館を置き、
町造りをしていたこをここに寄ることによって知りました。
思ったより楽しめたので寄ってみて良かったです。


令和2年12月6日訪問


今回の参考本




小坂子城(群馬県)

2021年03月15日 | 百名城以外の城
小坂子城こざかしじょう
別名小坂小要害城・西新井城
構造丘城
築城者五十嵐氏
築城年代不明
指定史跡
場所前橋市小坂子町  地図

小坂子城は、嶺城の支城として築かれました。
城主の五十嵐氏は弓の名人で、大阪の陣で大手柄を立てています。
舌状台地に細長い形状で、並郭式の丘城の中央に主郭を置き堀と土塁で守りを固めています。
北の堀切は逆乙字形、西には二重の堀が巡っていました。



案内看板

入口にある案内看板。


堀切

トンネルのように畑に続くこの道は、
左にある主郭の南に築かれた堀切です。


主郭

上の段に出ました。左手と中央奥に土塁が残っているのが見えます。


土塁

当時は主郭を囲むように土塁があったのですが、
現在はL字型に一部残っているのが見えます。



この地区周辺には九つもの城や砦が築かれました。


土塁

主郭北側の土塁が残っています。
この先小屋の奥には鍵の手に土塁が残っています。



西側の土塁は北側に比べるとだいぶ低くなってしまっているようです。
しかし、小屋のある辺りを侵入するのは、物取りと勘違いされかねないので
これ以上勝手に踏み込むことは宜しくないなと思い、これ以上の土塁の状況確認は断念しました。



主郭から東側には外堡(別郭)と思われる茂みが見えます。



主郭の南側には二条の堀があったことが記録されていますが、入口のトンネルのような通路が
一本目にの堀で、もう一本堀がこの方向にあったはずですが…みつかりませんでした。


小坂子八幡神社

城の南端となる小坂子八幡神社へやって来ました。
この辺りまでが城域となります。


地蔵尊会館

小坂子城入口の案内看板に地蔵尊会館に碑文があると記されていたので
地蔵尊会館へやって来ました。



向かって右が延命子育地蔵で、左が子育地蔵です。
木の陰には小坂子城の城主の碑文があります。


地蔵尊

ここにある地蔵尊は前橋城主ゆかりのもので、酒井氏九代目の四男忠温の妻の産後の肥立ちが悪く
亡くなってしまったことを悲しみ、だれでも気軽に参拝出来るようにと、
子供の病気にご利益がある、子育て地蔵が祀られました。
後に延命子育て地蔵も奉納されました。


五十嵐荘左衛門の碑

江戸時代、前橋城と関わりの深い小坂子城主、五十嵐氏の功績を称える碑文です。
五十嵐氏は弓の名人で前橋城の北条影秀に家臣として取り立てられ、
小坂子城の城主となったことが書いてあるようです。
また、この碑文を書いた人物は当時江戸で有名な儒学者、井上蘭台であるという。


以前から知っている道沿いなのに、意識していなかったのでここに城跡があったとは知らずに
通り過ぎていました。
山城だと、なんとなくあそこにありそうな…となって気になって検索するのですが
ここは視界に入ってもすぐに城址とは想像出来ませんでした。
それでもここに城址があると知れば行ってみようということで訪問しました。


令和3年2月7日登城


10038ヶ所の城が掲載⁉



大類城(群馬県)

2021年03月08日 | 百名城以外の城
大類城おおるいじょう
別名
構造平城
築城者大類伊勢守
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県高崎市宿大類町 地図

大類城は、長野氏の旗下であった大類伊勢守の城す。
箕輪城落城と共に没落すると、後に和田城の出城として二十数年間存在しました。
城の北・東・南にはそれぞれ堀を巡らせた屋敷がありました。
天正18年に廃城になると以後城としての機能は完全に失われました。



本丸跡碑

城址碑目指してやって来ました。
ここから周辺を散策開始!
さて、ここに本丸跡碑がありますが、本当の本丸跡はここではありません。


熊野神社

内宮とも呼ばれるこの神社も、かつては城内であったと思われます。



境内に残る低い土塁もかつての縄張の一部です。


本丸

熊野神社より南側の民家がある場所が本丸です。
民家が本丸なので、中を覗くことは出来ませんでした。
しかし、遠巻きに外から見ても土塁の一部が残っているのが見えます。



本丸南側の堀跡にある道路。
この先直角に曲がると大手道になります。
曲がり角が本丸虎口となり、民家の宅地部分がまさに本丸部分となります。
入口の門構えが城であったことを意識されての造りになっているように思われますので
代々この地を引き継いで守って来られた方のお宅ではないかと想像しちゃいます。(実際は調べていないです)


外堀

沢山の水堀が巡らされていたようですが、この川が大類城の外周を巡る堀です。
今回訪れていないのですが、更に南にの方に行くと大類館があり、
こちらも川を利用した堀が巡らされていました。


慈願寺曲輪

南東角に位置する慈願寺。
ここまでが城域となります。
東側の道路が堀となっていたので、道路をよく見ると暗渠があります。
(周辺道路はほとんどが堀跡にあたります)


山崎一氏が訪れた当時はもう少し遺構が残っていたようですが、藤の木門跡や、土橋跡といった遺構は
どこへやら…見つけることは出来ませんでした。
しかし、本丸にあるお宅は城址を意識して土塁などを残していらっしゃるのかなという
雰囲気が漂っているので、この先もぜひ後世に残していただけたらありがたいと勝手に願うばかりです。


令和3年2月7日登城


6月に発売になる注目の1冊が予約開始

日本に数多く残る城、城址の所在地・立地・年代・城主・遺構・概要など10,038箇所のデータを集めた書籍です。
これがあれば日本の城のほとんどを知ることができます。城ファンなら必ず持っておきたい一冊です。


屋代城(長野県)

2021年03月02日 | 百名城以外の城
屋代城やしろじょう
別名一重山城
構造山城
築城者屋代能登守信光
築城年代1504-55年(永正ー天文年間)
指定史跡市指定史跡
場所千曲市屋代 地図

屋代城は、村上氏の代官として活躍した屋代氏が応仁・文明の乱のころ築城したと伝わります。
村上義清の拠点であった上田地方の城が武田氏に落とされると、村上氏は塩田城へ逃走。
屋代氏は武田方に転身し、荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城となりました。
一重山に築かれた雛壇状の腰郭は屋代城の特徴で、戦国末期の改造の手が加えられていない
信濃の城郭の基準型で残る重要な山城でした。
現代になり、掘削され中間の馬の背と主郭から南側を失っています。


屋代城北側登城口

成田山不動尊への登り口に駐車場があります。
ここから登ると今残る城域をすべて通過することが出来るルートとなります。
しかし、楽ちんしたい私は更に上まで車で登っちゃいます。



屋代城南側登城口へ。
ここにはゲートがあって一見ここまでか?と思ったのですが
よ~く見ると通過することが出来るので、ゲートの開け閉めだけは
しっかりルールを守って、ここより上に進みます。



大きなタンクが見えて来ました。
この付近に案内看板と共に登城口があります。
この先は墓地となるので、近くに駐車スペースも確保することが出来ます。
ちなみにここは、山が分断されていますが、南側の城が続いていた場所なのです。


屋代城南側登城口

ここを登ると主郭に直接出ることが出来ます。
と、言うのも本来は主郭から南にも城域が続いていたものの
東の地続きにある国指定史跡である森将軍塚古墳が大掛かりな土砂採取作業で古墳の崩壊の恐れが出たことで
屋代城の主郭より南側を採掘地とされ、城の半分を完全に失うこととなりました。
更に北側も採掘する恐れがあり、このような経緯から、急遽北側を文化財に指定して屋代城の保護した経緯があります。



道幅は狭く、落ち葉が積もって滑りやすいです。
でも、結構ハイカーさんがいるものですれ違うこともあります。



本来の搦手道はどうなだったのでしょう…。



間もなく、主郭に到着です。



主郭から登って来た方向を見ると、正面に有明山が見えます。
かつては有明山に向かって城が続いていたと思うと悔やまれてなりません。


主郭

てっぺんにある主郭は平坦になっています。
かつては周囲に土塁があったとも想定されていますが、畑があった時代に
土塁は破壊されたとも言われています。


案内看板

主郭にある案内看板。
その後ろが笹藪ありますが、この中に低い土塁か、土塁の名残が無いものか…。(未確認)





石垣

西側の端に立ち、ここからの景色を眺める。
最初は遠くばかりを眺めていて気付かなかったのですが、
石垣が足元にありました。



落ち葉が怖くて下に降りられず、横から覗き込むように撮影。
やっぱり正面から取りたかった。
夏は夏で緑が生い茂るんだろうなあ。


二の郭

主郭から二の郭を眺めています。
段になって北側に郭が伸びています。



今度は二の郭から主郭を見ています。
何やら看板があったようですが、今は文字が消えていて何が書かれていたのか分かりません。



二の郭と三の郭との段差が大きいです。


三の郭

更に前に出て覗き込むと、堀切と三の郭に土塁があるのが見えます。
ここは重要な防衛ラインですね。



そして、振り返ると先ほど上から見下ろした土塁がこんな風に見えます。
土塁の向こうは堀切になっています。
堀切に身を隠し、土塁を盾に侵入者を攻撃!!(な~んて想像してしまいます)


四の郭

船の先端のように突き出た四の郭。
ここからの眺めは、まさに物見として利用されていたと思われます。
木々があるものの、敵の侵入を見張るのに丁度良い眺めです。


五の郭

ここはまだ五の郭ですが、郭はまだまだ先まであります。
全部で15もあります。



五の郭の先も、かなり段差を付けて堀切で各段郭を区切っています。



この防御の仕方と郭の並びから見ても北側が大手のようです。
いつもながら、なぜか私は搦手側から攻める傾向にあります。
これを下っていくと先に車を停めた北側の入り口に出るのですが、そこからまた引き返して来る
体力と日没時間までに帰って来られる自信がないのでここで引き返すことに。


遠景

横から見ても、階段状になっているのがはっきりと見えました。
それにしても、中間にある馬の背と南側が破壊されてしまったことは悔やまれてなりません。


途中ですれ違ったハイカーさんの話だと、屋代駅から屋代城北側登城口へ。
そこから登城して屋代城南側登城口へ出て屋代駅へ下ると1周出来ると教えてくれました。
その方は身軽に立ち去って行きましたが、私が1週するとなると…休憩が何回も入るので…
やっぱり日が暮れてしまうかな😅
でも、この城の大きさを実感するとても良いコースだと思います。
電車で来られる方はぜひこのコースで1周してみてください。


令和2年11月22日登城


今回の参考本