むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

中館(福島県)

2021年12月17日 | 陣屋・館
中館なかだて
別名江垂館・中館古城
構造平山城
築城者桑折元家
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所福島県南相馬市鹿島区江垂中舘 地図

中館は、南北朝時代に桑折元家が移り住み真野氏を称していました。
1542年(天分11年)相馬領内の反乱により中館に本陣を構え、反乱を抑えました。
この時城の修築とともに岡田堀切や大井堀切などを構築しています。
その後、真野氏は約2kmほど北に田中城を築き、田中城へ移ると中館は廃城となりました。



日吉神社参道

日吉神社を目指してやって来ました。
神社の参道があろいますが、横着者なので境内の方まで
車で移動してしまます。



日吉神社の境内近くまで来ると駐車場に車を停めて、
周囲を散策することに。


日吉神社

先ずは神社へご挨拶。
日吉神社は、陸奥国司北畠顕家が籠った霊山城落城の際、桑折五郎元家が
霊山城の守護神「山王大権現」と「熊野権現」を奉じて逃れ、この地に安置しました。
それが今の日吉神社になります。



この地に落ち延びる際に、主従7人と他に6人で七福神に扮して
「宝財獅子踊」を踊りながらこの地へやって来たと伝わります。
この踊りは、町指定無形民俗文化財として今でも大切に伝えられています。


日吉神社の大杉

境内には樹齢800年と推定される山王大杉があります。
実際は見てのとおり、樹齢800年よりはだいぶ若い感じがします。
とは言え、御神木なだけに貫録のある大きな杉の木です。


土塁

中館と北館の間にある空堀と土塁です。


北館

北館は広く、平で周囲には土塁が残っています。


土塁

二の郭と三の郭との間にある境目です。


案内看板

さて帰ろうと思っていたところに、看板発見!
あやうく見落とすところでした。


本来の縄張は土塁はもっと高く、堀はもっと深く段差のある造りであったのでしょう。
農地や宅地として使いやすく造り替えられていると思われるので、
自然な地形に見えて、ちょっと縄張が想像しずらかったです。


令和3年10月31日訪問




耳取城(長野県)

2021年12月09日 | 百名城以外の城
耳取城みみとりじょう
別名鷹取城
構造平山城
築城者大井行氏
築城年代1243~1246年(寛元年間)
指定史跡
場所長野県小諸市耳取 地図

耳取城は、岩村田を本拠とした大井光長の四男行氏に分治して配された城です。
これより耳取大井氏の始まりとなりました。
室町時代になると岩尾城、小諸大井氏は鍋蓋城、平原大井氏は平原城というように
領地の防衛のために積極的に築城して行きました。
応仁・文明の乱以降は増築を繰り返し、大きな城郭へと発展しました。




県道78号線を走っていると、耳取城の城址碑が目に留まります。
その脇道を千曲川川へと下ると西小屋曲輪へと到着します。


西小屋曲輪

鷹取山の断崖の中に、隠れ曲輪とも言うべき平場があります。
土塁と岩肌がむき出した壁のような要害、その奥の高まりは
望楼のような役割をはたしていたものと考えられています。


本丸虎口

西小屋曲輪を通過して奥の農耕地へ進むと本丸虎口があります。


本丸

西小屋曲輪より一段高くなっているこの平場が本丸になります。
千曲川を背後に、土塁が今でも良好に残されています。
農地としても風や冷気から守られる形になっているので都合が良かったのでしょう。


二の丸

本丸から東に向かって二の丸、三の丸、県道78号線を超えて馬場、
大手と東西に主要とする曲輪が広がっています。
手前の藪が本丸と二の丸の間の堀切、中間に二の丸、奥の高い段が三の丸になります。


旧道

県道78号線を超えて、旧道へやって来ました。
三の丸と馬場の間の堀を利用して引かれた道路で、この道がかつての堀の名残りです。
左手の道がかつて大手道として使われていた道で、右側が三の丸になります。


三の丸

三の郭に残る土塁。
しかし、縄張り図を見ると少し違っているように思えるので
正面のものは後世に作られた土地の区切りのようなものかもしれません。


観音堂曲輪

観音堂曲輪は、県道で分断されており、東の隅に鳥居が見えたので登ってみました。



ここに観音堂があったのかもしれませんが、現在はこのように
石仏や石祠が祀られています。
また、道の向こう側とこの高さで地続きになっていたはずです。


荒屋曲輪

旧道を挟んで東側にも多くの曲輪が配されています。
荒屋曲輪は墓地になっています。


藤棚曲輪(堀)

荒屋曲輪の裏にまわってみました。
お墓の見える左手が荒屋曲輪、右手が藤棚曲輪になります。
荒屋曲輪と藤棚曲輪の間の堀が良好に残っています。


藤棚曲輪

民家が見える高台が藤棚曲輪、正面のソーラーが見える更に奥が北曲輪、
右側が東曲輪、そして目の前は堀跡です。


隠居屋敷

この上の段が大手となり、隠居屋敷や馬場がありました。


馬場

住宅のある場所が馬場跡になります。
これより、南方面へ行って見たいと思います。


玄江院

南曲輪より南の城域先端にある玄江院へやって来ました。
大井政継の隠館といわれ、城館としてしていたと考えられています。


本堂

玄江院は、開基当時は臨済宗天竜山萬福寺と称していました。
兵火により焼失後、1555年(弘治元年)大井政継が山号を玄江院と改め、
上州甘楽郡陽雲寺の一派に属し、曹洞宗に改宗して、
松岩長伊和尚を迎え開山したという説があります。


玄江院経蔵内宮

経蔵内を見ることはできなかったのですが、
経蔵内宮殿は、間口55センチ、奥行49センチ、総高115センチの小型の厨子が安置されています。
室町中期の一流の作品と推定されています。


遠景

硲城の南西の千曲川から見てみると、
蛇行する千曲川に削られた断崖上に耳取城があるのが見えます。


道路で東西が分断されていますが、それでも周辺を散策するとかなり広く感じられます。
多くの遺構が残っていて、城跡の雰囲気は十分感じられます。


令和3年1月3日登城

今回の参考本



荒戸城(新潟県)

2021年12月02日 | 百名城以外の城
荒戸城あらとじょう
別名荒砥城
構造山城
築城者上杉景勝
築城年代1578年(天正6年)
指定史跡県指定史跡
場所新潟県南魚沼郡湯沢町 地図

荒戸城は、上杉謙信の相続争いとなった「御館の乱」の際に上杉景勝によって築かれた城です。
謙信が急の死を遂げると、謙信の養子であった景勝と景虎との間で家督争いとなり、
小田原北条家から養子となった景虎の援軍として北条軍が三国峠を越えて
越後へ侵攻して来るのを防ぐため、景勝は上田衆を総動員して三国越えの最前線に荒戸城を築かせました。



登城口

湯沢町の芝原トンネル手前を左に入った旧三国街道沿いを進むと
この場所が見えて来ます。
車が数台置けるスペースがあるのでとてもありがたいです。
11月に入ると冬支度がされていて、案内看板はすでにブルーシートで覆われていました。残念。



階段があるので車では無理ですが、車が通れそうな幅のきれいな道です。



少し登ると突当りを左に折れ、今度は横に歩きます。
すると、標柱が見えて来ます。


大手登口

大手の登り口にやって来ました。
ここからはひたすら登りますが、道も良いのでそれほど大変ではありません。
とは言ったものの、運動不足なのですぐにバテてしまいます💦



なんだか、鮫ヶ尾城を思い出させる風景です。
鮫ヶ尾城に行った時は、自分の体温調節が出来ず、知らず知らずに体調を崩していたこともあり
自分の体力を過信しないようにボチボチと登って行くようにしました。
(実際はそこまで大変な山じゃないですよ。)



すると、なんだこりゃ!
誰が見ても分かりやすい凸凹が目の前にあるではなか!
いきなりこれですか!!
ここまでは、堀や土塁も見なかったのでここで圧倒されました。


虎口

目の前は堀、右は枡形虎口で馬出に入る仕組みになっています。


土橋

この土橋を渡ると二ノ丸です。
つまり二ノ丸の虎口なのですが、両サイドに門があったのかなと思わせるような石もあります。


二ノ丸跡



本丸虎口

ザックリと土塁を割られたような本丸の虎口です。
本丸の中の様子は外からではこの程度しか見えません。


本丸

中に入ると平らな広場になっています。


三ノ丸

本丸から下を覗いてみると…曲輪が見えます。
笹の間から標柱が見えるのですが、何が書いてあるのかまでは笹が邪魔で読めません。
本丸を散策してから、後で降りてみようと思います。


土塁

大手口側の土塁は高く盛ってあります。
やはり敵が攻めて来る側は中が見えにくい構造になってますね。



搦手側の土塁はなくなってしまったのか、三ノ丸との連携が取りやすく出来ているためなのか
土塁がありません。



本丸から三ノ丸の方へ降りて来ました。
至る所に掘り込んでいるのが見えます。


搦手口

本丸には無かった搦手側の土塁が、三ノ丸にはあります。
やはり虎口になっているところには土塁が構築されていたようですね。


標柱

笹を掻き分け標柱を確認しました!



このまま二ノ丸まで行って見よう!
と意気込んでみたものの、草を掻き分け進んでみたら…堀切に行く手を阻まれました。
なるほど、良く出来てます。
なんとなく二ノ丸まで行けるんじゃないかと思ってたけど、それにしては
どうしてここだけこんなに草が生えているんだろう?と思ったら、堀切が渡れないので
皆さんあまり通っていないということなのですね。
では、もう一度二ノ丸で確認してみよう!


本丸虎口

今度は本丸の内側から外を見た様子です。
正面には湯沢町の街並みが見えています。


眺望

湯沢町には上杉謙信が大石氏と栗林氏に命じて築かせた浅貝寄居城があり、
三国街道の監視と、謙信の関東出陣のための宿所がありました。
ここからも、北国街道を歩いている敵陣が見えたかもしれないですね。


二ノ丸

ではもう一度二ノ丸へ行って、三ノ丸とを分断している大堀切をみてみましょう。


堀切

渡って渡れないこともないけど…今は無理に渡らなくてもいいですよね。
きっと当時はもっと深く掘り込まれていたことでしょう。


横堀

そして下を見ると、横堀もあります。


馬出

二ノ丸から見た馬出です。


桝形虎口

二ノ丸虎口から見た様子です。
手前が土橋で正面は馬出です。
桝形になっているので真っすぐ降りられずに、道は曲げられています。


大手道

最初に登って来た時と違って、道が判りずらい印象です。
一瞬迷子になりそうな雰囲気でしたが、木にテープが巻いてあるのを頼りに
下って行けば迷子になることはなさそうです。
登りの時ははっきり道がみえていたはずなのに、下りは道のように見えない。
不思議な錯覚に襲われました。
そのために先人がテープを巻いてくれたのだと思うので、感謝です。
   

この日は、先に樺沢城へ行っていました。
その後に訪れたこともあって、なんだか物足りない気分でしたが
こうしてブログを書き始めたら、やっぱりなんか凄い城に見えて来ました。
結構素晴らしい造りしてましたよ。
しかも、これだけきれいに残っているので、初心者にもお勧め出来る城址です。
そう考えると、やっぱり樺沢城へ行く前にこちらに寄っていたら
これだけしっかり造り込まれていたら、感動も倍だったのかもしれません。


令和3年11月21日登城


今回の参考本


カレンダーが付いてます