むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

祝!上野三碑

2017年10月31日 | 歴史のつぶやき
上野三碑(こうずけさんぴ)
山上碑(やまのうえひ)
指定史跡 国特別史跡
場所 高崎市山名町山神谷2104
【 地図 】

ユネスコの「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に!
国内候補の古代石碑群群馬県の「上野三碑(こうずけさんぴ)」が登録されました!


上野三碑は、飛鳥時代~奈良時代前期、今の高崎市内に建てられた山上碑(やまのうえひ)・多胡碑(たごひ)・金井沢碑(かないざわひ)の総称。
日本に18例しか現存しない古代(7~11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群です。


そのうちのひとつ、山上碑(やまのうえひ)がここにあります。


山名城祉根小屋城址に行く際に、この山上碑前を通過します。



石碑はこの長い石段を登りきった場所の古墳の隣の建物の中に大切に保管されています。



山上碑は三碑の中で最も古く、681年に刻まれたもので、
日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料です。


案内看板

上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、
飛鳥や奈良から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものです。


多胡碑は、18世紀以来、中国の「書」の手本となってきました。

金井沢碑は、この地での仏教の広がりを刻んでいます。

これらの三碑は、東アジアにおける文化交流の実像を示す極めて重要な歴史資料とされています。

高崎のこのあたりの城址を巡っていると上野三碑をちらほらと目にしたり、耳にしたりします。
時間に余裕がある方はぜひこの歴史にも触れてみて下さい。


ちなみに建物の中の石碑を撮影してみたのですが中が暗く、ガラスで反射してしまい
うまく撮影できなかったので写真は貼ってありません。^^;

あと、こちらにはボランティアガイドさんが居らしたので
詳しいお話はボランティアガイドさんに案内してもらうと良いですよ。


平成29年10月3日訪問


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日光東照宮(栃木県)

2017年10月26日 | その他
日光東照宮にっこうとうしょうぐう
別名
構造神社
造営者徳川氏
造営年代1617年(元和3年)
指定史跡国重要文化財 国宝
場所日光市山内2301 地図


日光東照宮は、1617年(元和3年)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。
徳川家康は、1616年(元和2年)4月17日に駿府城で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬されました。
そして御遺言により、一年後の1617年(元和3年)4月15日、久能山より日光に移されお祀りされました。


神厩舎(しんきゅうこ)

日光東照宮と言えば有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があります。
この三猿が訴えている意味とは、幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいいということだそうです。
昔から猿が馬を守るとされているところから、ご神馬をつなぐ厩(うまや)に猿の彫刻が施されています。


三神庫(さんじんこ)

この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められています。
上神庫・中神庫・下神庫を合わせて「三神庫」と呼ばれています。


唐門

全体が胡粉(ごふん)で白く塗られいます。
ここも修理中?色が塗られていないぞ!と思いきや、そうではありませんでした^^;


眠り猫

そして、ここにも東照宮の代表的な動物の「眠り猫」です。
猫の後ろには雀たちが飛ぶ姿も見られ、平和を象徴する表現する彫刻です。


五重塔

1650年(慶安3年)若狭の国小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。
文化12年火災にあいましたが、その後1818年(文政元年)に酒井忠進公によって再建されました。


陽明門が見たくて行ったはずが…平成の大修理中でした。
そして今年春、家康公400回神忌を経て約40年ぶりの大改修を経て一般公開となりました。
やっぱり近くで見てみたいですね。
また、この日は嬬恋村役場観光商工課・日本ロマンチック街道協会事務局主催のクイズラリーを
やる傍ら訪れたのが日光東照宮で、この日は他に上田城にも訪れました。
ロマンチック街道の中の観光地にちりばめられた問題を解きながらゴールを目指すというもので
観光しながら家族で楽しめました。
こんな史跡めぐりも楽しいものですよ



平成26年11月10日訪問
平成29年10月26日編集


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小和田 哲男
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寺尾中城(群馬県)

2017年10月24日 | 百名城以外の城
寺尾中城てらおなかじょう
別名
構造山城
築城者尹良親王
築城年代1398年(応永5年)
指定史跡
場所高崎市寺尾町 地図


寺尾中城は南北朝時代、南朝の拠点として世良田政義が整備して尹良親王を
迎え入れたと伝えられています。


駐車場

観音山ファミリーパークの駐車場に駐車して公園内にある寺尾中城祉へ。



公園内を北に向ってどんどん進むと自然の森入口のゲートがあります。


ゲート

ゲートは獣の進入を防ぐためゲートが設置されているので開けたら必ず閉めるようにして
出掛けましょう!



山道を散策です。歩きやすくなっています。


案内看板

寺尾中城跡の案内看板があり、ここからいよいよ郭のゾーンへ。



ここを登るとあっさり本丸です。


本郭

本郭からは高崎市内が一望出来ます。
記念写真用に木枠(フレーム)が設置されています。



本丸から北東に延びる細い尾根は5つの郭が設けられています。


二の郭

二の丸は道上にあって、こちらは手入れがされておらず草ボーボーでした。
登った道を引き返しコースに戻ります。



コース内の道は整備されているのでとても歩きやすいのですが
まったく人に会いません。


三の郭虎口

さて、三の郭が見えて来ました。


三の郭

クモの巣を掻き分け三の郭へ。
三の郭を覗いてまたもとのコースへ戻ります。


休憩場所

まだまだ郭は続きます。
途中、休憩用にベンチが用意されています。
木々が生い茂り森林浴~と言う感じですが、冬はここからも下界が見渡せるのかも。


土橋

長さ20mに及ぶ細い尾根を削り込んだ土橋。
転落注意の看板が迫力を増しています!



一本橋のような細い土橋。
ここが一番の見所でしょうか。


四の郭

土橋から間もなく四の郭にやって来ました。



下って来たかと思えばまた上り。
郭間は堀切で自然の要害を利用して区切られているので昇り降りしながら進みます。


五の郭

やっと五の郭に到着です。かなり歩いた気がします。
ここには「鍛冶平稲荷神社」があります。
新田義重に仕える鍛冶職人が良い鍛冶仕事ができるように祈念する神社として
創建されたと伝わります。



中央コースから北コースへ抜けて公園の方へ戻ります。



川を渡り、左手には城址の断崖を仰ぎながら帰り道をどんどん進みます。
ずっと下って来たので帰りは上り道です。



急な坂道を登りきると公園から続く舗装の道に出ました。
あづまやがありました!急な坂でめちゃめちゃ歩き疲れたので休憩…


北門

北ゲートです。ここにも獣除けのゲートがあり、横に通り抜けの扉が付いているので
そこから出入り出来ます。



公園に戻って来ました。
あの山の中(城址)を歩いて来たのですね。


自然の森マップ

公園内にあるクラフト工房でこのマップを入手しました。
このマップは登城前に入手しておくと目安になるので良いですよ。



前週に下見に来たのですが天気が良いと家族連れで大賑わいの公園です。
山行きの様相で歩いているとちょっと変な眼で見られてしまいます^^;
日を改めて登城したこの日は幸か不幸か雨で、公園には人がほとんどおらず、怪しまれることも
なく静かな城址を堪能できました。
人気の多い所が苦手なので丁度良かったかな



平成29年10月7日登城



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飯山城(長野県)

2017年10月23日 | 百名城以外の城
飯山城いいやまじょう
別名
構造平山城
築城者泉氏
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所飯山市飯山田町2753 地図


旧城主の泉弥七郎を城主とし、上杉謙信死去後はその家督をめぐって
上杉景勝と上杉景虎が争う御館の乱が起きました。
景勝が景虎に勝利すると甲斐の武田勝頼と和睦した際に、飯山城は武田氏に譲渡されました。
武田氏が滅亡し織田信長麾下の森長可の城となったが、本能寺の変で信長が死去すると、
長可は海津城に移り、飯山城は景勝の城となりました。
景勝が越後から会津に国替えになると飯山城は次々と城主が変わり、
享保2年から幕末までは本多氏の居城となりました。





案内看板

本丸櫓台前に掲げられている案内看板。


葵神社

本丸には葵神社があります。
その名の通り、葵の御紋が堂々と掲げられています。


本丸櫓台

ここに立ち枡形虎口を見ると爽快です。
見事な枡形です。
ここ門があったことを想像するとワクワクします。


本丸枡形

とてもきれいな枡形です。
わかりやすいうえにかっこいいですね。


本丸石垣

お約束の石垣の角。
私は石垣の角が大好きです。
こちらはちょっと丸みがあって温かみを感じます。


二の丸跡

二の丸から見た本丸の石垣。


招魂碑

こちらも城址や公園にはよくある慰霊碑です。


三の丸跡

藤棚や水場、石碑など公園と化しています。


縄張図

これを見ると櫓や井戸が何ヶ所かあることがわかります。


井戸跡

ここにも井戸があったようですが、現在は公園化しているせいか井戸ではなく
ちょっとオシャレを意識したような水場になっています。


三年坂跡

通路が急勾配で二の丸御殿に登城するのが大変だったようです。
なぜこの名が付いたかは不明ですが古文書には三の丸へ通じるこの道を三年坂と記しています。


土塁跡

北中門へつづく道は切岸になっており、西側は土塁で切通状の狭い通路になっています。
土塁の上には狭間付きの土塀がめぐらされていました。


桜井戸跡

鎌倉幕府の御家人泉小次親衛は、専横を極めた北条義時を倒そうとしたが事前に発覚し、
追手を逆に斬倒して姿を消してしまったという伝説的な英雄。
その親衛が逃れて飯山の地にやって来た。
ふと、のどの渇きを覚えて辺りを見渡すが水がない。
そこで、桜の大木の幹に鶴岡八幡宮の御札をかけて祈り、
桜の根元を掘ってみると清冽な水がこんこんと湧き出てきた。
親衛は大喜びし、桜井戸と名づけ、館を建てて「大泉の館」と命名した。
江戸時代の歴代城主も、この桜井戸を大切に守ってきたと言います。
(案内板より)


南中門跡

弓道場建設に伴う調査で発掘された南中門跡です。
南中門に接して番所やかご部屋跡も発見されています。


復元城門

飯山市内の旧庄屋宅に払い下げられていたものを移築復元された門です。
江戸時代には城内に門が13ありましたが明治のはじめに
城内の建物や門は民間に売却されました。




門の中は解体して復元した跡が見られます。


石碑

城内にはいろいろな石碑が立てられています。


公衆トイレ

良い感じのトイレがあります。



雨上がりの朝、周囲は霧で真っ白。
幻想的ではあったのですが、やはり霧が邪魔をしてうまく写真が撮れません。
プロの写真家であれば、そんな霧も味方に朝もやのかかった幻想的な城址の写真を
撮れることでしょうが、そこは素人…霧が引くのを待ってから写真を撮り始めました。
それにしてもきれいな枡形で、ここに居た時間が一番長かったです。
また、ここは直江兼続の母親の出身城ではないかという話も聞きました。
なかなか見応えのある城址でした。


平成29年10月1日登城



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設楽原決戦場(愛知県)

2017年10月20日 | 古戦場
設楽原古戦場したらがはらこせんじょう
別名長篠の戦い
対戦者武田軍 対 織田・徳川軍
合戦年代1575年(天正3年)
場所新城市竹広 大宮清水1−9 地図

天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐって、
織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との間で行われた戦いです。
長篠・設楽原の戦いとも呼ばれ、織田軍が馬防柵で鉄砲三段撃ちを行ったことで知られています。



遠景

「設楽原をまもる会」が中心となって、馬防柵を再現しています。
概ね5年に一度、柵木を造り直しているそうです。


馬防柵

「馬防柵」は武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦とされています。



馬防柵の丸太は、戦国時代の設楽原一帯には大きな木々は少なく
信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。


いろはカルタ

長篠・設楽原の合戦を48句のカルタで詠み表したのが 「設楽原古戦場いろはかるた」です。


案内看板



名和式「鉄砲構え」

乾堀・馬防柵・土塁の三段構えによる防御設備が築かれていた様子が再現されています。



上から見た三段構え。
馬と言えば現在のサラブレッドなどの競争馬など想像しがちですが
当時武田軍が乗っていた馬は信州木曽馬で脚の短い小ぶりな馬で乗り降りが
容易で使い勝手が良いことで、馬防柵もこのくらいの高さで十分防御になるということですね。^^;





土屋昌次戦死之地

武田重臣・土屋昌次が柵に取りつきながら大絶叫を上げて討死したと伝わる場所です。


長篠・設楽原合戦屏風絵

馬防柵再現地入口に犬山城の成瀬家所蔵の合戦屏風絵図の看板が新設されました。



新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリアには上り線は武田軍、下り線は織田徳川軍をコンセプトに設計されています。
また下りPAからは信長戦地本陣跡行ける遊歩道が整備され、徒歩三分で行くことが出来ます。


周囲には武田軍として戦った重臣や家臣の果てた地や墓が点在します。
我地元群馬や長野からも戦いに行って戦死している城主さまたちの墓もあり、
手を合わせて来なかったのが心残りです。


平成24年6月24日訪問
平成29年9月10日再訪問



古宮城(愛知県)

2017年10月19日 | 続百名城
古宮城ふるみやじょう
別名
構造平山城
築城者馬場信房
築城年代1571年
指定史跡市指定史跡
場所新城市作手清岳 地図
スタンプ設置場所作手歴史民俗資料館




古宮城は甲斐の武田信玄が侵攻するため、馬場信房に命じて1571年に築城させた城です。
県内唯一の甲州流の築城といわれ要害を誇った城ですが、1573年(天正元年)に
奥平・徳川連合軍の手によって落城しました。
今年4月、続100名城に選定されました。


遠景

目の前のこんもりとした山が古宮城です。
現在この辺り一帯は水田となっていますが、かつては湿地帯の中に浮かぶ城のようなもので
城の東側は今でも湿地帯となっています。


案内看板

白鳥神社の鳥居脇に立てられた案内看板。


山道入口

鳥居をくぐり、境内へと進みます。
さらに奥へ進み、白鳥神社境内右手の山道入口へ。


大ヒノキ

本丸南側の虎口にある大ヒノキ。
樹齢600年以上の市指定天然記念物です。
築城時にはすでに目印となる大木であっただろうと想像出来ます。


土塁

中央の大堀切(竪濠)で城は二つに分断されています。
一城別郭として造られたと思われます。
北側には6重の堀が設けられ、半分から西側(西城)は後から造られ
東側(東城)は古城を改修したものと思われます。


とにかく堀と土塁の組み合わせ多数に入り組んでがすばらしいのですが
夕暮れ時に忙しく城跡を駆け巡り、ゆっくり散策することが出来ませんでした。
これだけの造りであること、そして続100名城に選定されたことで
また訪問する機会もあろうことと思うので今回はサクッと下見訪問ということで。。。


平成29年9月10日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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上之段城(長野県)

2017年10月18日 | 百名城以外の城
上之段城うえのだんじょう
別名上の段城・上ノ段城・福島城
構造山城
築城者木曽義在
築城年代509年(永正6年)
指定史跡】―
場所木曽郡木曽町福島 地図


上之段城は、小丸山城の築城から約100年後に木曽家17代義在公が1509年(永正6年)に築城し、
館を移しました。
グランド南側の小山が本丸跡ですが、学校造成のために削られて帯郭のような形でしかなく
その形は原型を留めていません。


案内看板

関山公園に向うグランドと本丸の間の道に立てられた案内看板。


関山公園

本丸より高い位置にある公園。
位置関係から考えても、ここにも何かあったのではないかと思うのですが定かではありません。


石碑

一見、この公園が本丸跡か?と思わせる構造ですが、調べてみると本丸跡は
ここではありませんでした。


遊具

これだけの公園が造られるということは現在ほど広くはないであろうが、
ある程度平らな部分が残されていたのではないかと推定して、物見か何かがあったのではないかと想像してみる。


二の丸跡

こちらも小丸山城同様に木曽青峰高校の第二グランドになっています。
見事に小丸山城、上之段城、両方の城跡は木曽青峰高校の敷地と化しています。



本丸跡はかなり削られてしまったとみえて
本丸があったとおもえないほどの広さで、場合によっては土塁?(ちょっと大袈裟)
とさえ思えてしまうほどの広さになってしまっており、
本丸?どこ?どれ?公園じゃないの?って感じで特定するのに少々考えてしまいました^^;


遠景

小丸山城側から見た上之段城の本丸。
削られずに残った本丸側斜面は木が生い茂っています。
下には川が流れていて水堀の役割をしていたことと思われます。


子供釣り専用河川

本丸真下の河川にはこんな看板が!!
この川は子供が釣れるのか!!
思わず引き返してよ~く看板を見てしまいました^^;
あ~びっくりした
※ここは子供が釣りをする場所です。と書いてありました。


雨の中の夕暮れ時に訪れたため、良い写真は撮れず終いでしたが、そもそも
絵になる場所もなく遺構らしきものもなく小丸山城も上之段城も残念な結果に。。。
かと言ってまた行こうかなという感じでもないので次は城下の方を散策してみたいと思います。
ちなみに武田軍がこの辺りを侵攻してくる際に築いたという贄川砦が興味津津なのですが
はたして一生のうちに行けるのかどうか…。(素人には無理)



平成29年10月15日登城


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小丸山城(長野県)

2017年10月17日 | 百名城以外の城
小丸山城こまるやまじょう
別名八沢城・木曽小丸山城
構造山城
築城者木曽親豊
築城年代1394年~1428年(応永年間)
指定史跡
場所木曽郡木曽町福島 地図


木曽義仲より十一代目木曽親豊が居館を構えた頃「小丸山城」を築き、長子信道を住まわせ
小笠原氏、飛騨氏の侵攻に備えました。


案内看板

木曽青峰高校グラウンド側の道路(本丸と二の丸の間の道)に案内看板があります。


二の丸

二の丸は木曽青峰高校になっていて遺構はまったく残っていません。


本丸

道から一段高い場所にんNHKのラジオアンテナがあります。
ここは立ち入り禁止になっていて入ることが出来ません。


NHKラジオアンテナ

フェンスの外から敷地の中を見てみましたが、遺構らしいものは見当たりません。



本丸もアンテナを建てるための手が加えられ、史跡としての扱いは重視されることなく
開発されていったのでしょう。



上之段城の本丸下の道から見た小丸山城。
NHKのアンテナが見える場所が本丸になります。


宅地化が進み遺構はほぼ見られない。
地形で想像をしてみるしかないのですがこのあたりでは一番古い城跡として
ここを出発点とし、木曽義仲から武田の侵攻までを辿ってみることにしました。

いつものことながら学校周辺をカメラを持ってうろつく行動は怪しまれそうで
気が引けます。そこがまた更に怪しい人になってしまう…。
フェンス越しにカメラを構えるとドキドキです。
城址を巡っているとつきものの悩みです


平成29年10月15日登城



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替佐城(長野県)

2017年10月13日 | 百名城以外の城
替佐城かえさじょう
別名対面城
構造山城
築城者武田氏
築城年代1564年(永禄7年)
指定史跡市指定史跡
場所中野市豊津845 地図


この城は上杉方の拠点飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を東岸から押さえる壁田城と共に西側から押さえるもので、
北永江方面を経て上杉方の国境野尻城へも備えていました。
三つの曲輪(本丸,二の丸,三の丸)と、それを取りまく幾つかの帯曲輪,腰曲輪や堀切から成なっています。


駐車場

車数台停められて、トイレと水飲みがあります。


登城口

替佐城祉木碑と案内看板があります。
ここから本丸を目指します。


紫陽花畑

段々になった土手は紫陽花畑になっていて見ごろの時期に来ればよかったなあとも
思いました。


堀切

本丸と二の丸との間の大堀切。


本丸

堀切から左手に登ると本丸です。


あずまや

今は木々や草で視界があまり良くないですが隙間から見る景色は
当時見渡すことが出来る眺望が望める場所であったことが想像できます。


矢竹

曲輪内に竹を生やし、防御や矢、槍として使っていました。
これも武田の城によくある特徴でもあります。


本丸腰曲輪

草が生い茂り写真ではよくわからないですが本丸北側の腰曲輪です。



本丸から見下す二の丸との間の大堀切。
はっきりと区切られています。



二の丸側に登ってきました。
木が伸びてなければ眺めが良い場所です。


二の丸

ここには水飲み場や木のテーブルなどがあります。
先程の場所より一段高くなっているのですが下の段との段差がどのような意味をなされているのか
わかりません。


三の丸

三の丸は腰曲輪と間違えそうな造りになっていてそのまま北側へぐるりと回り込む形に
なっています。


腰曲輪

二の曲輪下、北側の腰曲輪です。
本丸、二の曲輪以外の下方の段々や竪堀など多数ありますが手入れがされていないので
上から覗き込んでみると草ボーボーで、見に行くにはちょっとためらわれてしまいます。
この先に五輪塔もあるらしいですが見送りました。



駐車場に戻って来ました。


武田方として上州国峰城の城主小幡氏が入城していたとの説もあり、ちょっと親近感を覚えます。
しかし、詳しいことはあまりよくわかっていない城址でもあります。
これだけの立派な遺構が残っているのに案内看板にも明記されていないことから
誰が築いたのかもよくわからない城址です。
ただ、この辺りは武田方と上杉方の激しい争いが続いた場所なので軍事目的の城であったことで
村人の伝承としてはあまり詳しいことは語り継がれていないということなのでしょうか…。
すべては素人の私には知り得ない歴史がここにはあります。


平成29年10月1日登城


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武家屋敷旧小関家(宮城県)

2017年10月12日 | その他
武家屋敷旧小関家ぶけやしききゅうこせきけ
別名
構造武家屋敷
創建者小関右衛門七
創建時代1730年(享保15年)
指定史跡県指定文化財
場所白石市西益岡町6−52 地図



小関家は奥方用人として活躍した片倉家の家臣で、
この屋敷は1730年(享保15年)の建築であることが確認されています。
平成3年に白石市に母屋、門、塀が寄贈されたのを機に創建当時の姿に復原され、
平成5年には宮城県指定文化財となっています。


武家屋敷

三の丸外堀にあたる沢端川。
訪れたこの日は地域の人が河川清掃をしていました。
そのため川の水は水量の調整がされ、せき止めた川に入って清掃を行っていました。


棟門

切妻造の棟門



正面の土塀を曲折して表出入口へ。
木があって見えにくいのですが、L型の土塀の正面には簡素な狭間が付いています。


小口

塀に小口が付いてるとついつい通ってみたくなります。
お約束なので小さくなってくぐります。


台所

茶の間、納戸、座敷を配した「広間型三間取」といわれる簡素な間取りで
玄関を入るとすぐに台所となります。


茶の間

囲炉裏、いいなあ。
火は熾ってないけど囲炉裏の周りに座ってみると、なんだかほっこりしてきます。


中間

「なかま」と呼ぶ正座敷。
床の間もあります。


納戸

ここには資料が展示されています。







裏側から見る風情ある屋敷。



ここで炊事、洗濯など水場として利用していたことが想像できます。



昔も今も変わらない外堀。
近所の方々も排水しているそうですが、それにしては奇麗な水です。



屋根は茅葺きの寄棟造りです。


煙出し破風

囲炉裏の煙を排出する仕組みですね。
ターボ車のボンネットのようです^^;



古い日本家屋ってほんと良いですよね~。
癒されます。


管理棟のポスター

吉永小百合さんがJR東日本「大人の休日倶楽部」のCM撮影された場所ということで
近所にお住まいのおばちゃんと管理棟の方に伺いました。


足跡

橋の上には吉永小百合さんの立位置を記された足跡(印)があります。
私もポスターの真似をして立って見たのですが、まったく絵になりません(>_<)
比較すること自体が間違いなのです!
多くの吉永小百合さんファンがここを訪れているようです。


白石城登城とともに忙しく訪れたのですが、やはり日本家屋や日本庭園て癒されます。
また、この日は御近所の皆さんで朝から年に1度のお堀の清掃されていてお邪魔しました。
水を抜いたお堀を見られるのもこの時だけだとも教えていただきました。
普段はもっと水量もあるとのことで普段見られない光景だよ、涸れちゃってる訳じゃないよと
おっしゃられていました。
ちょっとおいしい出来事に出会えたかなと。。。



平成29年9月30日訪問


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中野小館(長野県)

2017年10月11日 | 百名城以外の城
中野小館なかのおたて
別名日野城・中野城・中野御館・高梨城・高梨小館・高梨氏館
構造居館
築城者高梨政盛
築城年代1504~1521年永正年間
指定史跡国指定史跡
場所中野市小舘1069-1 地図


高梨氏館跡は、鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した、北信地方の有力武士団高梨氏により
築造されたと推測される中世の方形館跡で、北信最大級の館跡です。
戦国時代後半、甲斐武田氏と越後上杉氏の激しい抗争の中、高梨氏は川中島の戦いで
上杉軍の先陣を務めるなど活躍しましたが、武田氏の勢力が北信地方に及ぶと高梨館からの退去と入居を繰り返しました。
武田氏滅亡後、北信地方が上杉氏の所領となると、高梨氏も本領の一部を回復し高梨館に入居しましたが、
1598年(慶長3年)に上杉氏が会津へ移封されると、高梨氏も共に会津へ移りました。



再現された木橋。
しかし、この橋は渡ることが出来ません。


高梨氏館跡碑

本来こちら側には虎口はなかったようですが駐車場もあったり、ここが表の顔になっているようです。


案内看板

入口にある案内看板。


配置図

虎口は3ヶ所で建物は東側に集まっています。


堀と土塁

土塁の中央からは漆喰の築地塀が発見されています。
塀ごと埋め立てて土塁を築いたということでしょうか。





トイレ

南側の入口から入ってすぐの左側に景色にマッチしたトイレがあります。



土塁の上に登る階段。
土塁の上に登るべからずという所が多い中、ありがたや。
遠慮なく登らせていただきます!



こちら側も見事な堀と土塁です。
手入れがされているので美しいです。


建物跡

掘立建物跡の位置が分かります。
礎石建物跡なども見つかっています。
右下の木は平成6年4月には、中野市制40周年記念として旧高遠町(現伊那市高遠町)から寄贈された
タカトオコヒガンザクラが10本植樹されています。


虎口

東側は搦め手の虎口です。
ここでは木下に石垣が積まれているのが見られます。


井戸



石碑

日野井碑銘…う~ん、難しくて読めない^^;ですが石碑がふたつ並んでいます。


庭園跡

庭園の周囲には水路の跡も見られます。
中世の方形館跡内で庭園遺構が確認されたのは県内でも唯一の事例だそうです。



門外不出の高遠小彼岸桜がここにもあったとは!
高遠、会津とゆかりがあるということですね。
今度は桜が咲いている時期に来てみたいなあ。
その土地の土で咲く花の色が違ってくるので高遠公園以外で咲く高遠小彼岸桜を観察してみたい。


平成29年10月1日登城



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壁田城(長野県)

2017年10月10日 | 百名城以外の城
壁田城へきだじょう
別名
構造山城
築城者山田豊前守
築城年代不明
指定史跡
場所中野市壁田 地図


住古は火置田(ひきだ)と書いて奈良朝の蝦夷経略時代の狼煙台があった所と言われています。
中世には高梨氏の山城として重要な拠点となっていました。
壁田神社を本郭に前後を郭と堀切が残されています。





壁田城祉公園看板



駐車場

2台程停められるスペースがあります。


入口

この小路をどんどん主郭目指して進みます。
幸い草刈がしてあります。


堀切

堀切に沿うように道は続く。


三の郭

近くにトイレもあり、かつてはブランコがあったようですが現在は撤去されたようで見当たりません。


本郭下堀切

二段堀になっている。


看板

神社の壁にボロボロになったちょっと怖い絵が描かれた案内看板が掲げられています。
謙信と信玄の一騎討ちの絵のらしい。


壁田神社

ここが本郭になります。
神社のようですが賽銭箱がみつかりません。



表の道はこちらです。


忠魂碑

城祉にはよくある忠魂碑。


案内看板



鳥居

この上に神社があることを示す本郭下の鳥居。


堀切

見事に切り込んだ堀切。






本郭下で振り返る。



駐車場に戻って来ました。


駐車場からの眺め


草刈直後のようで草の中を歩かずに済みました。
堀切がはっきり見られて帯郭のような小ぶりな郭が段々と延びていて
なかなか良い具合に遺構が残っています。
しかし、ここも公園化したことにより神社までの道を作ることで
削ったり埋めたりということがあったようで人工的な構造にも
なっているようです。
公園としては使用されていないことがわかり遊具が撤去されているあたりは
管理されているのかなと思われます。
遊ばない遊具がそのまま放置されて無残な城跡も沢山ありますからね^^;


平成29年10月1日登城



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根小屋城(群馬県)

2017年10月09日 | 百名城以外の城
根小屋城ねごやじょう
別名新城
構造山城
築城者武田信玄
築城年代1568年(永禄11年)
指定史跡
場所高崎市山名町2295 地図

根小屋城は武田信玄が山名城、茶臼山城の間に新城を築き信州佐久の
望月城城主望月甚八郎を入れて守らせました。
永禄5年に箕輪城を落した信玄はこの城をのろし台とし、倉賀野、木部、和田の
諸将を監視しました。


駐車場

山名城と登城口が同じなので、山名城と同様に山上碑無料駐車場に車を停めて
いざ登城です。



こちらの高崎自然歩道から登って行きます。
この日は天気が良かったので数組のハイカーに行き会いました。


山上碑

長い階段を登りきると山上碑と古墳に到着します。
先日夕方に訪れた時には居なかったボランティアガイドさんが昼間なので在中。
根小屋城まで15分位で行けるというので、そんなもんかあ?と思いつつ張り切って登ります。


分岐

根小屋城と山名城の分岐にやってきました。
先日は距離が近い山名城へ行きましたが、今回はここから1km以上ある根小屋城の方へ
行きます。



ハイキングコースとして整備されているのでこのような
歩きやすい道が続きます。


分岐

途中分岐がいくつかあります。


案内看板

ハイキングコース上には歩いていて飽きない間隔で案内看板や万葉集の碑などが設置されています。
根小屋城には信玄の財宝が!!
赤城山の徳川埋蔵金は有名ですが群馬県は埋蔵金の話が好きなのですね^^;


搦め手門跡

根小屋城の搦め手門跡に休憩所があります。
ここでは1組のファミリーが休憩をしていました。


案内板

道が細くなりいよいよ城跡縄張り内に突入です。
縄張り内はハイキングコースと違ってあまり手入れされていません。



本丸下は1周出来る道があるので、右回り、左回り、好きな廻り方を
選んで散策開始!!
私はとりあえずまっすぐ進んでみました。


追手

追手道は藪になっています。




普段、雨水がここに流れ込むようになってるようで
空堀のようですが水が滲んでいます。


眺望

眺めが良いです。
真冬に来るともっと多くの眺望が望めるのでしょうね。


二の丸跡

草木が生い茂りどのようになっているのかわかりません。


井戸跡

ここも草に覆われていて井戸の中は分かりませんが凹みが出来ていて
井戸らしい場所は確認できます。


竪壕

草木の間からはっきり見える竪壕は見事そうですが
草木が邪魔~


土橋

土橋もあります。
いろいろ見所がある良い城跡ですが…草が無い時期にまた来たいです。


本丸入口(搦手側)

さて、肝心な本丸への道がみつかりません。
ここからよじ登るか?と疑問に思いながらまずは旦那が道っぽい所をよじ登ってみました。


本丸入口(追手側)

私は本丸下をもう1周して本丸入口を探していたら、登り口を発見!
追手道の反対側に階段があったのを草で見逃していました。
その頃、獣道のような道をよじ登った旦那も本丸から同じ階段を発見して階段で再会。


桝形虎口

追手道があるんだからその先に当然本丸に続く道があるはずなのに見逃すとは^^;
さて、追手側から堂々と登ると、桝形の虎口がありました。
桝形と言ってもそうかなあ?という感じなゆる~い桝形ですが腰曲輪などもあり
城址らしい縄張りが見られてなかなか良い感じ


本丸

やっと来ました本丸跡!
すごい藪が待っているのではないかといや~な予感が外れてラッキー



城址碑…ではありません。
ここにも万葉集の碑があります。
高崎自然歩道内には石碑が27建てらています。
山名城祉には城址碑がありましたが根小屋城祉には探してみましたが見当たりません。
万葉集の碑ではなく城址碑が欲しかったなあ。



思ったより広い曲輪でした。



さて、帰路ですがお昼休みなのかボランティアガイドさんはいませんでした。
ちなみに根小屋城祉までここから1.4kmほどあるので15分では辿り着きません。
散策しながら行くと往復1時間以上はかかります。
景色を見たり、撮影しながら散策して歩くと1時間半かけても時間が足りないくらいでした。



約150段あるこの急な階段も二度目となると知った道であまりきつく感じませんでした。



別ルート

こちらは根小屋駅方面の白髪神社を根小屋城方面に入った道からのルートです。
(史跡 金井沢碑に行く1本隣の道を入ります)
草の陰にある小さな案内看板。



根小屋城は先週、追手側の麓に登城口を見つけたのですが、こちらは整備されていない
普通の山道で、かなり大変な道と思われます。
なので一般的にはハイキングを兼ねて根小屋城と山名城を一緒に半日ほどかけて
山上碑のある高崎自然歩道から行くことおススメします。


この日は私の住んでいる地区の運動会の日で、午前と午後に参加種目があったのですが
その出番のプログラムの間にダッシュで根小屋城へ。
天気がめちゃめちゃ良かったのでわずかな時間も惜しくなり、昼休みも返上で
行って来ました。
ここまで来ると病気かな^^;



平成29年10月1日登城
平成29年10月8日再登城


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川尻城(愛知県)

2017年10月08日 | 百名城以外の城
川尻城かわじりじょう
別名
構造平山城
築城者奥平貞俊
築城年代1424年(応永31年)
指定史跡
場所新城市作手高里城山 地図


三河奥平氏の初代は貞俊とされています。
貞俊の生まれたのは奥平城(群馬県多野郡吉井町下奥平)で、発祥は群馬県にあります。
縁者を頼りこの地に入り、奥平氏の再興を願い川尻城を築くのですがすぐに手狭になり
より広い清岳に亀山城を築き移ることになりました。
現在は創造の森城山公園となっており主郭は戦没者の慰霊を祀る場所となっています。


創造の森城山公園案内図

冠木門脇に設置されている看板です。


登城口

主郭まで車で入れる道があります(一部かなり狭くて危険です)が、
この日は倒木があり冠木門のところまでで、その先は歩いて登城しました。


冠木門

冠木門が復元されています。


小郭

冠木門の奥の土塁はこの時期、草木に覆われよく見えません。


主郭

公園化しているのでトイレも設置されています。


案内看板

川尻城の解説が記されています。


休憩所

休憩できるあずまやがあります。
利用されている様子はあまりないのでちょっと座る気がしないのですが
公園なのでお決まりの建物です。




古風に「厠」と書いてあるトイレで~す!






沢山並ぶ戦没者の墓標。





城跡広場

天守台か物見があったかのような高台が主郭内にあります。
ここには戦没者の忠魂碑が祀られています。


北の虎口



湿地帯

沼地があり、こちら側から攻めるとズブズブと…。


確かに亀山城からみたら堅固な感じもあまりせず、手狭になって亀山城に移ったというのは納得です。
それでも奥平氏再興のための足掛かりとなった城ということで興味深い城郭です。

現在群馬県の奥平城跡の近くに住む子孫と名乗る方が三河から奥平城跡を訪ねて来る人が
増えたとおっしゃられていました。


平成29年9月10日登城

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白石城(宮城県)

2017年10月06日 | 続百名城
白石城しろいしじょう
別名増岡城・枡岡城
構造平山城
築城者白石氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所白石市益岡町1―16 地図
スタンプ設置場所白石城天守閣
御城印白石城歴史探訪ミュージアム
城郭検定出題あり

白石城は、白石市の中心部(益岡公園)にあった片倉小十郎景綱の居城として知られた平山城です。
仙台藩の南の要衝であり、関ヶ原の戦い後、明治維新までの260余年間、伊達家の重臣片倉氏の居城となりました。
一国一城令でも存続が認められた城で、戊辰戦争では東北諸藩の代表が白石城に集結し
奥羽列藩同盟ここで結成されました。
しかし、翌年新政府軍が占領し南部藩の管理下に置かれることとなりました。
その後建物は取り壊され、払い下げられましが古記録をもとに
本丸大櫓をはじめ現在の建物が復元されています。


駐車場

野球場近くの無料駐車場です。トイレもあります。
ここに車を停めて野球場裏から登城しました。


登城口

矢印に従って本丸を目指します。



道は歩きやすく整備されています。


二ノ丸跡

まず、二ノ丸跡に到着。
ここは本丸とともに桜の名所となっているようです。



二ノ丸は公園になっていて遊具や石碑がいくつか点在しています。


万右エ門橋

ちょっとした日本庭園のようです。


横綱像

宮城県の生んだ二人の横綱、二代目谷風と大砲(おおづつ)の銅像が建てられています。


馬場跡

馬場跡には駐車スペースとトイレがあります。
一般の駐車は出来ないようでどうやら関係者の駐車場のようです。


三重櫓(復元)

西側から見た三重櫓。


天守台石垣

全国で初めて野面積を採用した石垣を復元しました。
自然の石をほとんど加工することなく積み上げています。
雨の当たる部分は黒く変色して色が馴染んで来ている様子が分かります。


井戸屋形

古い絵図にも描かれている井戸屋形。


一ノ門

復元された大手一ノ門。
土塀で囲み二ノ門前で折り曲げて敵兵の進入を妨げています。


二ノ門

門の主柱には鏡柱に台湾産檜(樹齢1000年以上)が使われています。





本丸御殿跡

本丸には仙台藩主が宿泊する御成御殿や表御殿、奥御殿などの建物が建ち並んでいました。


裏御門跡

南側にある裏御門跡。


辰巳櫓跡

本丸には天守として建てられた三重櫓の他に隅櫓が二つ設けられていました。


片倉小十郎景綱公頌徳碑

明治末に城跡は益岡公園となり、
片倉小十郎景綱を偲び頌徳碑が建てられました。


鐘堂

時間がまだ早く、扉が開いてません。
9時にはここの扉が開いて、中の鐘を見ることができます。




非常の際に撞き鳴らす他に、毎年7月城の周りの土手と堀の清掃の際に鐘を鳴らす
役割をしていました。
朝8時に七つ撞いて仕事始め、9時に五つ、10時に三つで終わることを知らせていました。


本丸井戸



天守入口

ここを登りきって入場料を支払い入城です。(内部の写真撮影はOKです。)
階段には屋根が設置されており仙台藩主を迎えるために
雪や雨を除けるよう造られたものと思われます。


天守内部(1階)

外壁周りは武者走りになっています。
北側と西側には石落があり、壁には矢狭間と鉄砲狭間が備えられています。


天守内部(2階)

木材は柱が吉野檜、化粧材は青森ヒバ、山陰地方の松丸太、赤杉とすべて国産材で造られています。


天守内部(3階)

畳30畳くらいあり、敵の情勢を見ながら軍議を開くことも可能であったと言われています。


上棟札

1995年(平成7年)3月に復元されました。
1874年(明治7年)に取り壊されて以来120年ぶりの再建です。


大手桝形

天守から見た大手門の桝形は一ノ門から二ノ門へ細くなり、変則の桝形になっているのが
わかります。


益岡公園

かつては眼下に御殿が建ち並んでいたのでしょうね。


マンホール

最近よく目にする城が描かれたカラ―のマンホール。
奇麗ですよね。これを踏むのは訳にはいかないなあ^^;


土曜午後は子供の習い事があるのでそれまでに帰宅しなくてはならず、朝4時に出発して
やって来ました。
高速道路を使って片道約4時間、10時には帰路につかなくてはならずハードスケジュールでした。
それでも今年こそは雪が降る前に訪れてみたいという思いがあったので思い立ったが吉日!で強行しました

白石城は9時に開くということでまずは外を見て歩き天守が開くのを待っていると
時間より速く開けてくれました。
私たちの他に数名居たので「開いてるよ~」と、関係者の方がみんなに声を掛けて歩いてました。
時間の無い私にはとてもありがたいサプライズ。
おかげで「歴史探訪ミュージアム」と「片倉家中武家屋敷」も見学することが出来ました。
その模様は後ほどということで…。


平成29年9月30日登城


御当地グルメ・おみやげ

白石に来たらやっぱり「うーめん」ということで白石城の受付でうーめんが食べられるマップを
もらったのですが午前11時開店のお店が多く残念ながら食べること叶わず…。
帰り道に寄った東北道国見サービスエリアのレストランでうーめんを発見!食べることが出来ました。
麺が短いのが特徴なだけに茹で時間も短く早く出て来たので助かりました



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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