むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

駿府城(静岡県)

2022年09月27日 |  百名城
駿府城すんぷじょう
別名
構造平城
築城者徳川家康
築城年代1585年(天正13年)、1607年(慶長12年)
指定史跡】―
場所静岡市葵区追手町 地図
スタンプ設置場所 東御門券売所
(月曜日休館 祝日、休日にあたる場合は営業。12月29日~1月3日は休館)
御城印駿府城公園 東御門・ 巽櫓・坤櫓・紅葉山庭園の各施設入場券販売窓口
城郭検定出題あり

駿府城は、徳川家康が幼少時代から多くの時間を過ごした城です。
天下統一後将軍職を息子の秀忠に譲り、1607年(慶長12年)駿府城の普請を諸国に命じて、
三重の掘に五重七階の天守を築き、立派な城が完成すると、江戸城から駿府城へと移りました。
その後家康の隠居とする駿府は、政治・経済・文化と発展し、
大御所時代の居城として城と町が栄えていきました。




入口は東西南北各所に門と橋が架かっているのですが、
駿府城と言えば、やはり東御門からが定番なので、今回もこちらから
アプローチしたいと思います。


二の丸東御門と巽櫓

10年ぶりにやって来ました!
ここはほぼ変わっていないですね。


葵船乗船所

載ってみようかなと思ったのですが、お盆休みだけにやはり満員御礼でした。
密になりたくなかったので、今回も見送りです。



枡形門になっていて三方向からの攻撃が待ち受けています🥶


本丸堀跡

駿府城の堀は三重だったのですが、この堀跡が一番内側の堀で
本丸を囲む堀となっていました。



児童広場にある売店にやって来ました。
「静岡おでん」の文字に惹かれて覗きに行ったのですが…さっき朝ごはん食べたばかりだよね?
ひと巡りしてからにしようね。と諭され、しぶしぶ先を急ぐことにしました。
結局歩き疲れてここに戻って来ることはありませんでした。無念…。



この先が二ノ丸橋になります。


二ノ丸御門



石垣モデル

地震で崩れた二ノ丸堀の石垣で再現された石垣です。
破損のため再利用出来なかったものを、ここで活用して石垣の積み方の説明をしています。


刻印

駿府城で発見された刻印は150種類以上だそうです。


坤櫓

こちらは前回訪れた時には無かった建物です。
早速中を拝見したいと思います。


入口

見た目は二階建てのように見えますが、中は三階建てになっています。
平時には武器庫として使用され、有事には物見として使用されていました。


券売機

入場券だけでなく、御城印も販売してます。
もちろん、御城印もゲットだぜ!


スタンプ

10年前に押したもの(私の)が1冊あるのですが、その後集め始めた主人と子供の分を押しました。






床が強化ガラスで床下が見えるようになっています。
上を見上げると、天井板がないので吹き抜けのようになっています。
どちらも建物の構造が見えるように出来ています。



土塁の上を歩きながら、発掘調査中の天守台跡の方へいってみましょう。


きゃっしる

駿府城跡天守台発掘調査現場内で発掘調査速報などを発信している
「発掘情報館 きゃっしる」へとやって来ました。
以前訪れた時と大きく景色が変わっている場所でもあるので一番注目していた所です。



中に入ると記念撮影スポットもあります。



雨ですっかり水堀になっています。



巽櫓に展示されている模型です。


晩年の家康公

家康は65歳から大御所として駿府で暮らし、75歳で亡くなりました。


家康公お手植えミカン

実は、この写真は10年前のものです。
今回撮影してきた写真と見比べると、ほとんど変わっていないのです。
みかんの木ってあまり成長しないものなのですね。


紅葉山庭園

今回は庭園まで足を延ばしてみました。
庭園は「里の庭」「海の庭」「山の庭」「山里の庭」と四つのテーマで構成されています。


里の庭

暑いうえに歩き疲れたので四阿で庭園を見ながら一休み。


茶室

暑さで喉も乾いてきたところだし、寄らない選択肢はない。
というわけで四阿で休んだばかりなのに…お茶を頂きに行こう!


立札席

夏限定の「清水冷煎茶」を注文しました。
普段だとお腹が弱いので冷えた飲み物は控えるところですが
「限定」という言葉にも弱いもので…😅
実はこの後、冷たいほうじ茶が無料で出て来ました。
どちらもさっぱりしていて美味しかったです🍵


山の庭

山の庭の中にある滝です。
まだ蒼い紅葉が涼しげに見えます。


二ノ丸水路

庭園を出て、次にやって来たのは二ノ丸水路。
なぜかここだけは強く印象に残っていたので懐かしい。
この水路は水堀なのかと思いきや、石垣はもちろん底も石が敷かれているという
正に水路とい構造になっています。


チケット売り場

東御門と巽櫓を見学するためのチケット売り場です。
100名城のスタンプと御城印もあります。



10年前に訪れた時は、ボランティアガイドさんに東御門で話を聞きました。


模型



棟札

10年前も沢山写真を撮ったはずが、失くしてしまったSDカード…。
でもそのおかげ?で最訪することになったので今回は前回の見逃し所も
しっかり写真に収めておきます。



以前ガイドさんから聞いた話をおさらいしよう!と思っていたのですが、
さすがに10年も経つと展示物が変わっていて内容も配置もすっかり変わっていました。
ちなみに当時は治水についての話を古地図を交えて説明して頂きました。









そして、ここからが前回訪れた時に建設予定があるよと言われていた巽櫓になります。
私にとって、この先は初の見学となります。


竹千代手習いの間

この部屋は家康が8歳から19歳まで今川家の人質として過ごした頃の
臨済寺の勉強部屋を臨済寺の許可を得て復元したものです。



臨済寺を開山した太源雪斎は今川義元の教育係であり、人質であった竹千代(家康)の
教育係も務めていました。


天井

天井には龍!
勉強部屋と言えど格式高いです。
絵師は狩野派でデジタル技術で再現したものです。



大手門跡

身分によって入る門が分けられていたという。
枡形になっている大手門は、東海道の要衝であるだけに堅固に造られています。


四脚門跡

大手門に並び東海道から駿府城へ入る重要な出入口のひとつです。



案内看板のある石垣の反対側をよく見ると、喫茶店が門の石垣にはまり込んで
いるのが面白い。
よくぞ石垣を壊さずに建設されました。





以前訪れた時からもう10年経っていたんですね。
記憶が曖昧にもなるよなあ。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」でも注目を浴びそうなので
もう一度おさらいしておきたかったので再訪しました。
正直、こんなに広かったっけ?見逃しだらけだったなあというのが感想です(^^;


平成24年6月23日登城
令和4年8月14日再登城


今回の参考本



熊本城(熊本県)

2022年09月27日 |  百名城
熊本城くまもとじょう
別名銀杏城
構造平城
築城者加藤清正
築城年代1607年(慶長12年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所熊本市中央区本丸 地図
スタンプ設置場所頬当御門・櫖方門・須戸門・不開門
御城印熊本城二の丸無料休憩所
城郭検定出題あり

熊本城は1607年(慶長12年)加藤清正が茶臼山と呼ばれる丘陵地に加藤清正が当時の最先端技術で城熊本城を築城しました。
その後、二代続いた加藤家が改易されると後豊前小倉城の城主だった細川忠利が肥後に入国しました。



二ノ丸駐車場

天守から一番近い二ノ丸駐車場へ駐車出来ました。
公式ホームページより入園券事前購入で日時指定して購入しておいたので
スマホを見せてQRコードを提示して入城しました。





平左衛門丸







入城~♪
入口は小天守側にあり、出口は大天守にあります。


=穴蔵=
井戸

先ずは穴蔵と呼ばれる地下の層から入ります。
かつては土間になっていて台所として使用されていたため井戸もあります。


ダンパー



=1階=
模型

昭和35年の天守再建時に制作された建築設計検証用の模型です。


御上段模型




空中雪隠



=2階=

細川家の具足

2階は細川家が入城してからの様子を紹介しています。


日の出老松図屏風

本丸御殿の障壁画は細川時代のお抱え絵師、矢野吉重の描いたものと伝わります。


=3階=


3階は近代の熊本城の様子について紹介されています。
西南戦争によって天守が焼失。



昭和の再建の様子など紹介しています。


=4階=
復興城主デジタル芳名板



=6階=



小天守






銀杏の樹

加藤清正が御手植えしたという銀杏の木です。
西南戦争で天守と共に焼けてしまいましたが残った根元から新芽が芽吹き、
現在の大木へと成長しました。


闇り通路

本丸御殿は二つの石垣を跨ぐように建っているため、地下に通路を設けています。
昼間でも暗いことから「闇り通路」と呼ばれています。


井戸



本丸御殿



重要文化財平櫓群

平櫓が建ち並ぶ東竹の丸の櫓群です。
重要文化財に指定された現存の櫓ですが、こちらも地震により建物に傾斜が生じたため
倒壊防止のためワイヤー等で内側に引っ張って支えているのが見て取れます。





二様の石垣

右が古い石垣で、加藤時代に築いたと云われる石垣で勾配が緩やかです。
左が新しく足された石垣で、細川時代に増築したと云われる石垣勾配が急になっています。
二つの時代の石垣を比較しながら熊本城の代表的な撮影スポットとしても
お馴染みのポイントです。


数奇屋丸二階御広間

地震に寄って石垣の一部が崩落しています。
建物も歪んでしまっていますが、なんとか持ち堪えています。





加藤神社

熊本城内にある加藤清正を祀っっている神社が加藤神社です。


西大手門






長塀

坪井川沿いに延びる竹の丸の長塀です。
平櫓から馬具櫓まで約240mあります。





桜の馬場城彩苑

肥後の名物を求めてやって来たのは桜の馬場城彩苑。




森からし蓮根

1963年(寛永9年)に肥後入りした肥後細川家初代の細川忠利は病弱で、
蓮根を常食して健康になったことでというエピソードがあります。
それ以来、肥後細川藩の珍味栄養食となり、明治維新までは門外不出となっていました。
現代では一般庶民も味わえるようになり、肥後の名物となっているのでここで食べないわけにはいかない。


馬肉専門店 菅乃屋

加藤清正公が肥後の国を治めていた頃から、馬肉は薬膳料理として珍重されるようになったといわれています。
そこそこお腹も空いてきたので「桜うまトロ寿司」を注文してみました。





おみやげ

熊本城香梅庵の「誉の陣太鼓」をお土産に買いました。
見た目とネーミングが気に入って購入、その後もリピートしてしまいました👍


EVバス



熊本市役所



熊本城と高遠の桜















震災前に一口城主の振込用紙を取り寄せて、どのタイミング行こうかと思案中でした。
それから数年…やっと訪れることが出来ました。



令和4年5月2日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

久能山城(静岡城)

2022年09月12日 | 百名城以外の城
久能山城くのうざんじょう
別名久能寺城・久能城
構造山城
築城者武田信玄
築城年代1569年(永禄12年)
指定史跡国指定史跡
場所静岡市駿河区根古屋 地図
城郭検定出題あり

久能山城は、甲斐の武田信玄が山頂にあった久能寺を別の場所(清水市)へ移し、その跡地に城郭を築きました。
袋城と持舟城の水軍を置き、駿河湾を一望できる久能山城で伊豆の北条水軍を監視していました。
後に徳川家康の侵攻を受け、徳川氏の城となりました。
徳川家康没後に、遺言により城郭内に家康の廟所として久能山東照宮が創建されています。



駐車場

ここに来たのは3回目。
しかし、久能山東照宮へは一度も行ったことがありませんでした。
今度こそはやって来たのですが、やはり下から歩いて登る気はなく、ロープウェイに乗ることにしました。



ロープウェイと聞いて、当然上に向かって登るものと思っていたのですが
ここは下って行くらしい。
目の前の山へ下って行くようです。


ロープウェイ

途中ですれ違ったロープウェイのゴンドラは空っぽ。
始発に乗ったのでもちろん、人は乗ってません。
葵の御紋が眩しいぜ✨


石垣

到着すると、目の前に石垣!
この辺りの石垣は江戸時代のもののようです。
降り立つ前えからテンションあがります👍


社務所

入城料(参拝料)を払って、いざ本殿へ!



目の前には東照宮らしい立派な門が待ち構えています。
二階建ての建物に、

楼門



鼓楼

東照宮創建時には鐘楼として建てられ、最初は鐘突き堂でしたが、
明治6年に江戸城から太鼓が奉納され、鐘楼から鼓楼へと名称が改められました。


五重塔跡

ここにはかつて高さ約30mほどの五重塔が建てられていました。
明治時代に取り払われ、現在は礎石と、駿府城にあった蘇鉄が移植されています。


家康公御手植えのみかん

はじめて見たのは駿府城の御手植えみかん。
その後、あちこちで見たような…。
鎌倉時代に中国から紀州へ伝わったみかんで、紀州和歌山藩の藩主浅野氏が
鉢植えのみかんを献上したところ、家康自ら駿府城本丸内に御手植えされたというもの。
ここにあるみかんの木は、駿府城からの分木ということです。


本殿

東照宮は徳川家康を祀った神社で、全国の家康の縁者が挙って東照宮を建てた結果、
多い時で700、その後500に減られ、現存は約130社とも言われています。


甕割りの彫刻

真ん中に甕を割って出て来る子供が表現された彫刻があります。
「司馬温公の瓶割り」という中国の物語で、「命の大切さ」を表現したものを彫刻にしています。


大蘇鉄

樹齢650年を超える大蘇鉄。
ということは、駿府城築城よりも古いので五重塔跡にあった蘇鉄とは別物なのか。
そういえば、小山城の麓に駿府城へ移植したが帰って来たという大蘇鉄を見たのを
思い出しました。そちらは平安時代のものらしいので関係がありそうですね。


逆さ葵

写真の中央部分にあるひとつの葵御紋が逆さまなのがお分かりいただけるでしょうか。
これは、建物がまだ未完成であることを表し、更なる発展への願いが込められているからです。
ここ以外にもあるので探してみて下さい。


添石垣(移設)

ここから見える石垣は下記の案内看板に説明がある移設された添石垣です。
ここを過ぎてから看板があるので「逆さ葵」をここで探しながら、
上に見える石垣も見ておきましょう。


案内看板

移設された添石垣の横に設置されている案内看板です。



ここを曲がればいよいよ主郭です。
山城だった頃は主郭より更に奥に愛宕郭があったようですが
現在は人目もあることだし、どこから行けるのかもわからない状態なので
主郭までの見学とさせていただきます。


神廟

徳川家康公の遺体が納められている廟です。
創建当初は木造の祠でしたが、三代将軍徳川家光公により現在の石造宝塔に造替されました。
家康公の遺言により西向きに建てられているのですが、その理由はいくつかあり、
西の方向には岡崎の松平家の菩提寺大樹寺や、家康公誕生の地である岡崎城
更には京都があるからだとも伝わります。


金の成る木

家康公は自ら筆をとり、家臣の前で木の幹三本を描き、よろず程のよ木(万事の良き)、志ひふかき(慈悲深き)、志やうぢ木(正直)の
三つを堂々と信用すれば幸運が得られると説いたといいます。
その後、家康に仕えた大名細川忠興が「あさお木(朝起き)」「ゆだんな木(油断無き)」など書き加えました。
家康公は左右の枝が繁盛するならば一段と富貴が得られるだろう、
皆々に「金の成る木」を家中に広めるようにと命ぜられたといいます。
私は看板を読むより先に金欲にかられてお賽銭投げて合掌してました😅
単純に金運アップとかいう話ではなかったですね。
よ~く自分をみつめ直さなくてはなりませんね。反省…。



先程の添石垣があった場所です。
石垣が張らんでいた場所を添石垣で抑えていたのですが、現在は綺麗に修復されています。


家康公愛馬之霊所

徳川家康公の愛馬が眠っているという場所です。
家康公の眠る廟所のすぐ近く(背後)にあるところをみても、
さぞかし大切にしていた馬だったことが伝わります。


別郭

一旦社務所のところまで戻って、休憩し一ノ門まで見に行こうと思います。
今回は拝観料のみのチケット購入のため別郭にある博物館はお預けということで下って行きます。


案内看板

二の丸側にある案内看板には久能山城のことも記されています。


二ノ郭

右側の平地が二の郭になります。
現在こちらには東照宮へと物資を運ぶロープウェイが設置されています。
実は、外から見て久能山ロープウェイはここのロープウェイのことだと思っていました。(^^;


勘介井戸

山本勘助の掘った井戸と思わせる勘助井戸があります。
しかし、謎が多くそもそも存在すらよく判らない勘助ですが、
とにかく有名であちこちに勘助の名が残る場所があります。
この井戸も、城が出来た年代(1568年)にはすでに勘助は川中島の合戦で没(1561年)しています。
もしかすると○○勘介さんが掘った井戸が、
有名な山本勘助と解釈をしたに過ぎないのかもしれません。



一ノ門が見えて来ました。
正面は隠し郭とも言われています。
ここは重要な虎口になるので、門の内側に武者が隠れ溜る場所だったのかもしれませんね。


門衛所

ここは、元の上番所と呼ばれる場所で、総門番をしていた榊原氏の与力が交代で警護していた所です。
西側にも下番所が置かれていましたが、現在下番所があった場所には建物は残っていません。


一ノ門

元は櫓門でしたが、明治17年9月15日に暴風によって倒壊し、
現在は建て替えられて平屋造りになっています。


眺望

一ノ門から見た景色はがこれほど良い城はそうそう無いですよね。
下に見えるビニールハウスはいちご狩りのハウスで、以前この門前でいちご狩りをしました。
この時には体調が悪く、苺がお腹いっぱい食べることも出来ず東照宮どころではなかった苦~い思い出が…。
あれから?年だろうか、やっとリベンジ出来ました。


参道

東照宮への石階段は、下の石鳥居からから数えて1159段あるとのことで
「いちいちご苦労さん」と呼ばれるのだとか。
ロープウェイが無かった頃は、この参道だけだったので参拝のときはここを行き交う人が
沢山だろうなあと想像出来ます。
ここを降りて、また登って来るのは嫌なのでここまでで引き返したいと思います。



再びロープウェイに乗って日本平へ戻って来ました。
ここで記念撮影出来るのでパチリ📷


ねぎまんま

小腹が空いたので小休止。
茶碗一杯分のごはんに小ねぎの上に鰹節と鶉の卵とシンプルながら美味しかった😋
お土産も買って、次の城跡へ。


二の郭でも書いたのですが、最初、下から二の郭へロープウェイで来られるものと思っていました。
日本平にも何度か行っているのでロープウェイがあることもわかってはいたのですが
まさか上から「下る」という発想がなかったので混乱したのですが、
群馬県富岡市にある一ノ宮貫前神社も石段を下って参拝するという珍しい神社があります。
ここも東照宮と同じような造りでとても立派な神社で、
現在の本殿は、三代将軍徳川家光公の命により造営されたことを思い出しました。
何度か訪れるチャンスがあった久能山城ですが、ようやく攻略出来ました。👍


令和4年8月15日登城


今回の参考本



接待館(岩手県)

2022年09月09日 | 陣屋・館
接待館せったいだて
別名古館・衣河館
構造館跡
築城者不明
築城年代平安時代
指定史跡国指定史跡
場所岩手県奥州市衣川七日市場 地図

接待館は、中尊寺の北側にある衣川の対岸に位置し、藤原秀衡の母の居館と伝わります。
遺構からは大量のかわらけが発見されていることから、12世紀頃に接待館として
規模の大きな儀礼や宴会が行われたと推定され、
奥州藤原氏の祖先である安倍氏の政庁跡と伝わります。
また、平泉府の迎賓館であったとも伝わります。



案内看板

国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されているだけに
他の柵や舘と違って大きくて写真入りの看板が設置されています。



近年の発掘調査から区画内部に建物跡や井戸、厠などの生活に重要な部分が
みつかっておらず、館であったかどうかは断定できないのではないかという話もあります。
そして、源頼朝に追われ奥州へと逃げた源義経が居館としていた場所といえば「高館義経堂」ですが、
源義経最期の地である衣河館が接待館遺跡ではないかという説もあって、
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響もあってか、義経ファンも多く訪れているようです。



堀や溝からは大量の「手づくねかわらけ」と呼ばれるかわらけが出土しています。
ここでは酒宴を伴う儀式が頻繁に行われていたことが判明したり、近年の発掘調査や
地元での聞き込み、吾妻鏡をはじめとする資料など調べ上げ、今までの推測から
新たな発見や判明したことなど、常に史実は塗り替えられていくものなので
現地に足を運んで見聞きしてほしいとボランティアガイド仰っていました。


掘立柱建物跡

掘立柱建物跡は中央から外れた堀の外側(区画外)、東側の平地に1棟だけ建てられていました。
現在は埋め戻されていて見学出来ないのですが、四面庇建物といわれる
12世紀の平泉では多く見られる形状の建物がみつかっています。


当初は藤原秀衡の母の居館と考えられていたようですが、最近では発掘調査によって
井戸や厠がないことから生活を営んでいたということが考えにくく、
敷地も広大なこともあり、何かの儀式で大勢が集まる場であったのではないかと
考えられるようになったと現地で聞きました。
発掘調査をする場所によっては、他の地区と重なった土地だと費用の面で何かと
難しいという事情もあるようですが、
今後の発掘調査や、有識者の方々のご意見や発表に注目したいところです。


令和4年7月17日訪問





泉ヶ城(岩手県)

2022年09月08日 | 百名城以外の城
泉ヶ城いずみがじょう
別名和泉ヶ城・業近柵
構造平城
築城者藤原業近
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所岩手県西磐井郡平泉町 地図

泉ヶ城は、安倍氏と源頼義との闘いが繰り広げられた前九年合戦の激戦地であり、
後三年合戦後の奥州藤原氏の時代に、藤原秀衡の三男である泉三郎忠衡の居館と伝わります。




この一帯が泉ヶ城で、川を自然の要害(堀)として、川を隔てて琵琶館が隣接しています。
衣川を境界に泉ヶ城は平泉町、琵琶館は奥州市に分かれています。
泉ヶ城は藤原氏の多賀国府、琵琶館は安倍氏の六奥郡で対立していました。



接待館案内板より



泉ヶ城目指して城域に入って来ると、城址碑がありました。
近付いてみてみよう!


石碑

泉ヶ城は私有地であることがこの碑にしっかり記されています。
ということは、これより先には立ち入らないで欲しいという意味合いで
この石碑が立てられているとおもわれるのでこれ以上立ち入ることはやめておきましょう。
という訳で、カエルの石像もあるのでここで帰るとしよう。



きっと、一段高い場所が主郭で、居館跡なのだと思うのですが、
普通に城主様(子孫の方?)が暮らしていらっしゃるようなので離れたところから拝見させて頂きました。
とりあえず石碑のところまで(城域)は、入れてもらえただけでも感謝です。


令和4年7月17日登城





琵琶館(岩手県)

2022年09月07日 | 陣屋・館
琵琶館びわだて
別名成道館・琵琶の柵
構造館跡
築城者安倍成道
築城年代平安時代後期
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川並木前22 地図

琵琶館は、安倍貞任の庶兄成道の居舘と伝えられています。
前九年合戦の激戦地となった場所です。
琵琶の形の地形からこの名が呼ばれるようになったとされます。



標柱

琵琶館の標柱があり、案内看板は設置されていません。
衣川柵の西南、大手先の前にあり。
衣川の流域周囲を索回して、其地形琵琶の状をなせり。
故に此の名ありという。
貞任の庶兄成道の居城なり。
其対岸に秀衡の三男泉三郎忠衡の居りし泉が城址あり。
実に南北攻守の要扼の地と称すべきなり。
~胆沢郡誌転記~




この道の先が琵琶館なのですが、地図を見ると民家への私道のように見えるので
突き進む勇気はない。
現在も残る堀(川)を隔てて隣り合っているのが泉ヶ城です。
琵琶館、泉ヶ城と両方を天然の水堀で守られているかたちです。



接待館案内板より

令和4年7月17日登城





小松館(岩手県)

2022年09月06日 | 陣屋・館
小松館こまつだて
別名小松柵
構造館跡
築城者安倍則任
築城年代平安時代
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川横道下 地図

小松館は、前九年合戦の際安倍貞任の叔父良照(安倍則任)が守備した柵であるという伝承が残っています。
安倍氏滅亡後、1366年(貞治5年)に葛西氏家臣の破石氏が居館とし、
滅亡する1590年(天正18年)まで、この地を支配していました。
北部に門跡が残っていたのですが、東北自動車道の建設のため破壊されました。



案内看板

康平五年(一〇六二)八月、磐井の小松柵において
源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父僧良照の居館であったと伝えられる。
東側は衣川が南流して断崖になっており、西及び南側は小成沢(東北自動車道の建設のため側道として埋められた)の崖に囲まれ、
北館から続く台地の突端部で、東西六〇m南北一六〇mある。
門跡は北部にあったが自動車道の工事で破壊された。
安倍氏の滅亡後は荒廃していたが、貞治五年(一三六六)葛西氏の家臣、破石氏がここに館を建てて住み、
天正十八年(一五九〇)葛西氏と共に滅亡するまでこの地を支配していたという。
~看板転記~



参考話
群馬県利根郡みなかみ町にある湯檜曽温泉は、安倍貞任の子孫によって発見されたと言われている場所があります。
子孫によって営業を続けてきたという温泉宿「本家旅館」がありましたが、現在は廃業しています。
貞任の息子を含んだ残党が、奥羽山脈の尾根道を南下し新潟と群馬の県境で三手に別れ、それぞれ姓を「阿部」に変えて、
新潟県南魚沼の清水・群馬県湯桧曽・群馬県奥利根藤原に分かれ住んでいたといいます。
(ウィキペディア参照)

これは一度行って見なければ!
調べたところ、足湯もあるので水上方面へ行った際には利用してみよう(^-^)


令和4年7月17日訪問





安倍館(岩手県)

2022年09月05日 | 陣屋・館
安倍舘あべたて
別名舞鶴舘・落合舘・古舘
構造館跡
築城者安倍忠頼
築城年代平安時代後期
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川石神 地図

安倍舘は、北股川と南股川が合流する間にある丘の上に築かれていました。
安倍頼良(頼時)、父忠良、祖父忠頼の三代の居舘で、
約80年余りの間この舘に住んだと伝えられています。



入口

この案内看板隣の道を入って行くと遊歩道があり、展望台もあります。
そのまま道なりに登って行くと郭にたどり着きます。
展望台もあるようです。


案内看板

高さ三十丈(九〇m)の丘で、その構造は、東に向かって凹字形となり階段上になっている。
東南北の三面は衣川(南股川と北股川の二つがこの舘の下で合流する)で、
西は山岳が蜿蜒と続く頗る要害の地である。
これは安倍氏累代の居城であって、その地勢から舞鶴舘、落合舘ともいわれている。
-中略-安倍頼時の祖父忠頼は俘囚の長となり、父忠良は陸奥の大掾となったが、
その忠頼の代から八十余年間、この舘に住んだと伝えられている。
また、南股川を隔てて八幡神社があり、源頼義が夷賊平定を祈願したと伝えられ、
また安倍舘が攻撃された時、頼義軍の陣地が設けられた場所とも言われている。
~看板転記~




この山が城域になっています。


安倍氏と聞いてすぐに思い浮かんだのですが、安倍晋三元首相。
確か山口県の方じゃなかったかなあと思ったのですが、やはり御先祖様はこちらの出だと
ボランティアガイドさんから話を伺いました。
衣川には沢山の城柵や舘(たて)が点在しているので周辺を散策し、今回は入口の確認のみです。
この辺り、ひとつひとつ巡っていると一日ではとても足りません。


令和4年7月17日訪問