むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

長野業盛の墓(群馬県)

2020年10月27日 | その他
長野業盛の墓ながのなりもりのはか
別名
構造墓地
年代1561年(永禄4年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県高崎市井出町 地図

長野氏は、戦国時代に箕輪城を拠点として西上野の諸将を束ねるような勢力でした。
国峰城倉賀野城和田城ら箕輪城周辺の城が武田軍に攻め落とされると、
難攻不落であった箕輪城も、ついには落城してしまいます。
若年の城主業盛は、奮戦の末自害し長野氏は滅びてしまいました。




井野川のほとりにある長野業盛の墓地があります。
駐車場付きの立派な墓地です。


案内看板

駐車場に掲げられた案内看板です。


業盛墓苑

業盛を哀れんだ僧が、この地に葬ったと伝わります。



父の業政が1561年(永禄4年)に没すると、
業盛は、兄の吉業が河越城の戦いで討死したため、17歳の若さで家督を継いでいます。



長野業盛の一子、「亀寿丸」は落城直前に家臣に連れられて城を脱出し、
和田山の極楽院で匿われたと伝わります。
現在も残る長野氏の子孫は、生き残った亀寿丸の子孫と云われています。


浜川の砦の散策ついでに足をのばしてやって来ました。
久しぶりに天気が良く、そろそろ山城へ攻めに行きたいなあと思いつつも
がっつり城めぐりという時間が取れず、用事と用事の隙間の時間を使って近場を徘徊してました。
とても静かな場所ながら、整備されていて良い場所です。


令和2年10月24日訪問

お薦め本

本郷城(群馬県)

2020年10月25日 | 百名城以外の城
本郷城ほんごうじょう
別名本郷の砦
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県高崎市吉井町本郷456  地図

この一帯は改変が進み、遺構は残っていません。
しかし、古墳跡が点在し土塁のような雰囲気がある場所も見られます。
鏑川を要害とし、構築されていたようで永禄年間に武田信玄の上野侵攻の際には
軍事的な拠点として使用されたものと思われます。




県道171号線に架かる橋の手前で東に折れると、その先が城域と推定されています。


古墳

道路から古墳へと登れそうな道がありました。
早速登ってみましょう!


石祠

てっぺんに到着すると、そこには石祠がありました。
それほど高さはありませんが、周囲を見渡すことが出来ます。



鏑川が見えます。
ちょっとした物見に使用していたのかもしれませんね。



南側を見下ろしています。
住宅地になっていていて想像だけになってしまいますが、
この方向には御門と呼ばれる地名がのこっていることから大手門があったのかもしれません。



この方向には、石橋と呼ばれる地名が残ります。
車が数台見える奥にも、小高くなった古墳が残っています。


とりあえず、城と言われれば見てみたくなるもので
詳細は全くわからないながらにも足を運んでみました。
転々と古墳があり、群馬は古墳を利用して砦を築いていることがとても多いように感じます。
しかし、古墳て…個人的にはあまり登りたいところではないです。
だって…お墓ですよね

令和2年10月18日登城


今回の参考本
群馬県古城塁址の研究(下巻) 山崎一著


お薦め

上野城(群馬県)

2020年10月21日 | 百名城以外の城
上野城うえのじょう
別名蔵屋敷
構造平城
築城者不明
築城年代鎌倉時代初期
指定史跡町指定史跡
場所群馬県甘楽町上野233  地図

「上野城」と呼ばれた館址(土居館)の周囲を囲んでいた土塁と水濠跡で、
鎌倉時代後半頃の築造と考えられています。
徳川時代に幕府の直轄地として代官が居り、その後、
旗本の知行所となって明治に至りました。



堀跡と土塁

土塁の周囲を堀が囲んでいました。
現在は畑と化しています。


標柱

平成22年3月26日 町指定史跡とされた吉田家の土塁・濠跡の標柱があります。


虎口

ここに虎口があるのですが、上野城としての山崎氏の縄張図を見ると
ここには虎口は無く、反対の東側に本来の虎口がありました。
近世になってから開けられたものと思われます。


土塁

土塁上からの眺めです。
見事な土塁です。美しいですね。
木を伐採したり、手入れをされています。
とてもありがたいことです。



上野村は1698年(元禄11年)から170年の間、河野家の知行地でした。
吉田家には、最後の名主として動乱期を過ごした吉田作平(作兵衛)の諸文書及び,
幕末から1827年(明治5年)に至る戸帳の諸記録が保存されています。
残念ながらこちらの資料は一般には目にすることは出来ないようです。



戦国期の上野城としては、ここから西に行った小幡の八幡山の砦(上ノ城)
長畝の砦(下ノ城)のことを上野城としている説があり、地名大辞典によると
永禄6年、武田信玄によって落城という内容が「上野国群馬郡箕輪軍記」に見られるようです。


ちなみに、上野城がここなのかと言われると、実は確定していません。
敷地内は実際地主様がお住まいなので見学は出来ないのですが、とにかく
立派な土塁で素晴らしいです。

令和2年10月18日登城


保渡田城(群馬県)

2020年10月18日 | 百名城以外の城
保渡田城ほどたじょう
別名
構造平城
築城者内藤昌豊
築城年代1566年(永禄9年)
指定史跡
場所群馬県高崎市保渡田町1330  地図

武田信玄が箕輪城を攻め落とすと、内藤昌豊を城代としましたが
昌豊はこの地に新城を築き、西上州を支配しました。
その後昌豊は、長篠の戦いに参陣し討ち死にいています。
養子の昌明が箕輪城の城代となりますが、厩橋の中川武蔵守に攻められ
善竜寺で自刃したと伝わります。



保渡田北部公会堂

保渡田城本丸にある保渡田北部公会堂に車を置いて散策です。
こちらには案内看板も設置されています。


案内看板

現代の地図に縄張り図を重ねた地図もあるので
ここで位置を確認して出発です!


天守山

本丸南側に見えるのが天守山と呼ばれる矢倉台です。



矢倉台への登り口です。


矢倉台

現在は庚申塔が建ち並んで、かつて神社?でもあったのか建物跡も残っています。



本丸南側の堀跡です。
この先に本来の本丸入口である虎口があります。



本丸東側を流れる川を要害とした堀跡です。


案内看板

土屋文明のテル子夫人の生家がここにあったようです。
そもそも、土屋文明て…私はずっと〇〇文明というように、歴史的な文明の発達を表すものだと
思い込んでいて、この看板を読んだ時に???人の名前だったの?と衝撃を受けました。
(恥ずかしながらここでカミングアウト)
思い込みとは恐ろしい…。


追手道

追手道もそのまま道路となっています。



本丸から南へ大手道を進むと外側の土塁と堀跡と思われる場所もあります。



本丸北側の堀は道路になっています。
道路を挟んで、右が本丸、左が北城になります。



北城西側の堀跡です。
北城にも周囲を囲む堀が構築されていました。


北城

このお宅の入口が本丸と北城を繋いでいた虎口となります。


北城の土塁

北城東側の民家の敷地内に残る土塁が、道路からチラリと見られます。


土塁

北城の北側の郭の区切りのひとつにある土塁です。


道しるべ

道しるべとなる石柱が、本丸から西へ行ったすぐの交差点にありました。
右は「三ッ寺」、左は「箕輪」という文字が読みとれます。
古いものかと思ったのですが、大正8年に立てられたもののようです。


宅地の中にチラホラ見える土塁や堀跡。
残念ながら進入してみるわけにはいかないのですが、あえて残しているのか
周囲を歩いてみると、意外に遺構が残っています。
これからも、後に語り継げるよう各家で残していただけたらと勝手に願うばかりです。


令和2年6月21日登城


今回の参考本



木部城(群馬県)

2020年10月12日 | 百名城以外の城
木部城きべじょう
別名
構造平城
築城者木部範虎
築城年代1560年頃(永禄年間)
指定史跡
場所群馬県高崎市木部町413  地図

木部城は、旧鏑川沿いに築かれた木部氏の城で、
武田信玄が倉賀野城を攻める際、この城に陣を置き、木部氏は箕輪城へと逃れていました。
木部範虎の正室は箕輪城主長野業政の娘で、箕輪城落城の際榛名湖に身を投じ、
龍と化したという伝説が伝わります。
榛名湖畔には、今でも木部神社があり「木部姫伝説」が語り継がれています。



お染の墓地

周辺に何かないものかとうろうろしていると、安楽寺の墓地に「お染の墓」というのがありました。
ちょっと足を止めてみると…



大坂で油屋の娘おそめと奉公人の丁稚久松が心中した事件を劇化した「お染久松」の浄瑠璃が伝わります。


本丸(丸の内)

二の丸、本丸とも住宅地となっていて、日曜の昼間ともなれば
住民の方々の目がとても気になり、本丸での写真はこれだけです。
この新しい民家の奥にある石祠が唯一残された本丸を示すものとなっています。
石祠を写真に納めようと民家脇を少し入ってみたのですがこちらの民家の庭先に侵入してしまうことに
なってしまうのでカメラを構えることなく、慌てて退散することに。


心洞寺

木部城主廟所とあります。
早速行ってみましょう!



山門をくぐるとすぐに木部城主之廟入口の石柱と案内看板があります。


案内看板

心洞寺は鬼石町の永源寺三世漱恕全芳大和尚を開山、木部駿河守範虎を開基として
創建されました。


土塁

寺の境内は木部氏の館跡で、山門の東西には石垣や土塁の一部が残されています。


木部城主の廟

大ケヤキの根元に建立された五輪塔が木部駿河守範虎の廟です。
地域の住民からは「木部様」と呼ばれ、今でも親しまれています。
そして、右側に並ぶ墓石は範虎に仕えた家臣のものです。


案内石板

範虎の廟には案内石板が添えられています。
範虎は、箕輪城主長野業政の娘を娶り長野氏に仕えていましたが
武田信玄の侵攻により箕輪城が落城。
この時奥方が榛名湖に身を投じて龍になったという伝説が伝わります。
長野氏滅亡後は、武田氏に従い木部五十騎を率いて各地に参戦。
しかし、長篠の合戦で織田信長軍に敗れ武田勝頼に殉じて天目山桔梗ヶ原で散ることとなりました。



旧鏑川跡

かつて、天然の要害として堀にりようしていた旧鏑川の跡が見える位置にやって来ました。
ここは堀中にあるセブンイレブン高崎木部町店駐車場です。
ここから堀跡を辿ることができます。



セブンイレブンの交差点で県道173号線を西側へ超えて行くと
道路に沿って田んぼが緩く曲がっているのがわかります。
この田んぼこそが、かつての鏑川の名残で堀の名残です。
川幅も道路と道路の間の田んぼが表しています。


道祖神

かつては川沿いあった道祖神でしょうか。



南八幡小学校通りを横切り、南に進んだところにも
かつての鏑川の名残が見えます。
城はこの川(天然の堀)に守られていたのですね。


城域はほぼ住宅地として改変され、あまりうろうろしていても不審者として通報されかねない状況なので
深く追求するのは諦めましたが、グーグルマップで見てみると、なんとな~くその名残は見えてくるもので
旧鏑川跡なんかはとてもおもしろく、木部城を囲むように流れていたんだなというのもわかりました。
ここを訪れる前に箕輪城で木部城の情報(主郭は心洞寺ではなく城之内の方だよ)という
アドバイスをいただいていたので、間違うことなく行くことはできたのですが新しい民家が
建っていたので石祠まで行こうと進入したところ、洗濯物など干されていて既に生活されていたので
石祠を近くで撮影することなく、引き返して来てしまいました。
今後訪れる方が石祠まで入って行くには住民の許可を得るつもりで行かないと通報されそうで
注意が必要になってしまいましたね。


令和2年9月27日登城




霞ヶ城(長野県)

2020年10月06日 | 百名城以外の城
霞ヶ城かすみがじょう
別名手塚城・霞城手・塚屋敷・山王台
構造丘城
築城者手塚光盛
築城年代1177年〜1181年(治承年間)
指定史跡
場所長野県諏訪郡下諏訪町上久保 地図

霞ヶ城は、木曽義仲の家臣だった手塚太郎光盛の居館と伝わります。
俱利伽羅峠の合戦に参戦ししており、その後の加賀篠原の戦いでは斎藤実盛と一騎打ちとなり
見事に討ち取りました。
しかし、斎藤実盛は幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、
義仲が号泣したという戦乱の世の悲劇としても知られています。
現在霞ヶ城跡は諏訪大社の駐車場となり、現地には案内看板と金刺盛澄の騎馬像があります。



諏訪大社下社秋宮案内図

諏訪大社下社秋宮を目指してやって来ました。
この図の中には霞ヶ城はありません。


神楽殿

天保6年に落成した御神前に神楽を奉納するための建物で、
国の重要文化財に指定されています。
正面の重量約1トンある大注連縄は、御柱祭毎に新しく奉納されます。
まずは諏訪大社にお参りしてから、隣の霞ヶ城へ。


駐車場

駐車場は、秋宮側(山王台)には八幡山裏と、霞ヶ城本丸にあたる場所が駐車場になっています。
八幡山裏から朱色の橋を渡った先が霞ヶ城本丸です。


長生橋

秋宮側の山王台と霞ヶ城本丸を結ぶ橋です。


堀切

橋の上から下の道路を見下ろすと、すぐにピンと来ました。
これは山王台と霞ヶ城との間の堀切の名残であろうと。


案内看板

橋を渡りきると、霞ヶ城側に案内看板があります。



この看板だけが頼り。
城郭大系にも載ってないし、
宮坂本6巻に掲載されているようですが、6巻だけ入手出来ていない
クリスマスプレゼントに期待するか…



ここには2017年までホテル山王閣が建っていましたが、ホテルは閉鎖となり、解体されました。
現在は、諏訪大社の駐車場となっているのでダイレクトに本丸まで来られます。


騎馬像

金刺盛澄の騎馬像です。
金刺盛澄は霞ヶ城主手塚光盛の兄で、城南寺流鏑馬で弓馬の達人として知られています。



ホテルの建物は解体され、諏訪湖が一望できる駐車場へと変化しています。


子供のころから何度も訪れている諏訪大社下社ですが、城跡があったとは攻城団で登録されるまで
まったく気付きませんでした。
知らなかっただけに、資料も手元に無く詳しい事は分からないまま、現地の案内看板だけが頼りとなりました。
確かに現地に行って立地や地形を見ると、何かがあっても不思議ないなと思います。
諏訪湖と諏訪大社と神聖なる場所であり、何と言っても眺めが良い!
今後訪れる時はこちらの駐車場を利用しようと思います。



令和2年10月3日登城




勝山城(群馬県)

2020年10月03日 | 百名城以外の城
勝山城かつやまじょう
別名
構造平城
築城者関口能亮
築城年代1371年(応安4年)
指定史跡
場所 群馬県前橋市総社町植野 地図

勝山城は元景寺の北西に位置し、関口能亮(赤松氏)の居城として築城されました。
8代目清房まで続き、天正3年に武田勝頼の攻略により廃城となりました。
廃城後、総社領主秋元氏により総社城の一部に取り入れられましたが
その後遺構の多くは利根川の河中に崩落し、跡を辿るのは困難となっています。



サイクリングロード

城域の過半が利根川の河中に崩落してしまい、遺構を探すのは困難となっています。
この先に勝山城跡の看板だけは設置されています。


案内看板

周囲を見渡しても何もない…。
この看板、ここを通らないかぎり気が付くことはありません。
しかし、車が通ることもないのでわざわざ探しに来ないとならないです。


石柱

何か遺構は残っていないものかと、ねばってみました。


石柱

街角でみつけた石柱にある地図に勝山城が記されています。
旧地名「給人城川」というのも、とても気になります


勝山小学校

小学校付近も散策してみましたが、やはり遺構らしきものはみつかりません。


秋元氏墓地

そして、関東管領上杉憲政に仕え、勝山の地を与えられた秋元氏追って、
元景寺にある墓地へやってきました。
かつて関口能亮が築いた勝山城を経て総社城へと移ります。


勝山城、総社城、石倉城と利根川沿いに築かれた城はかなり利根川にやっつけられています^^;
河川敷沿いにも散策してみたのですが、やはりこれといった遺構らしきものは
みつけることが出来ませんでした。
人間より自然の方が強いというか…残念ながら勝山城の遺構は素人の私ではここまでです。


令和2年6月21日登城

私(むぎ)の撮影した写真も掲載されています。。。