むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

高島城(長野県)

2015年12月29日 | 続百名城
高島城たかしまじょう
別名浮城・島崎城
構造平城
築城者日根野高吉
築城年代1592年(文禄元年)
指定史跡市指定史跡
場所諏訪市高島1-20-1  地図
スタンプ設置場所高島城一階展示室内
城郭検定出題あり

高島城は、諏訪湖を自然の要害とし水城とも浮城とも呼ばれていました。
諏訪氏は上原城を本城とし、武田氏に従いやがて徳川氏従ったいましたが、徳川氏の関東入りにともない
諏訪氏に代わって日根野高吉が諏訪に入り、7年がかりで高島城を築城しました。
現在は、明治初期に取り壊された天守の写真から昭和になって天守が復興されています。


北側堀と石垣

冠木橋から見た復興天守。
天守の屋根は瓦屋根を用いず、薄い板を重ねた「杮葺き」で造られていたが明治初期に取り壊されてしまった。
現在は銅板が採用されています。




薄氷が張る水堀。


本丸碑

冠木橋を渡り冠木門の前に本丸碑があります。


冠木門

この門は、武士や、役人など特別に許された「冠木御門御免」がないと通ることが許されなかった。



これはちょっと見なれない光景です!
違和感たっぷり!!
石垣の上に木が生えていて建物に挟まれています


高島城本丸絵図


案内板



隅櫓

本丸東側には隅櫓、持方月櫓、富士見櫓の二重櫓が3基あった。現在は隅櫓のみ復興されている。


多門跡

現在は塀が復興されていますが、かつては三つの櫓を繋げる多門櫓がありました。


復興天守



最上階

1階が企画室、2階が資料室、3階が展望室になっています。
展望室以外は撮影禁止ということで、展望室内部と眺望のみの写真撮影となりました。


眺望

かつては諏訪湖の湖面が現在の堀の部分までありました。
埋め立てによって住宅も建ち並び、今はちょっと離れた場所に諏訪湖が見えます。


高島城亀石

この石は城内の庭園にあったが明治8年廃藩の時に城外に移されたが平成19年に132年ぶりに城内に戻ったという石。水をかけると模様が浮かび上がり願い事をかなえてくれると言われています。





石集配湯枡

三の丸浴場に引き湯のため木樋を継ぎ、集湯や配湯をした石枡。





三之丸御殿裏門(川渡門跡)

ここにあるのは川渡門跡に移築された三の丸御殿裏門です。




平成27年12月29日登城
平成29年1月2日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

宇和島城(愛媛県)

2015年12月28日 |  百名城
宇和島城うわじまじょう
別名鶴島城
構造平山城
築城者藤堂高虎
築城年代1596年(慶長元年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所宇和島市丸之内1 地図
スタンプ設置場所宇和島城天守
御城印天守(1階受付)
城郭検定出題あり

板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた城で、後に伊達政宗の子伊達秀宗が入城、伊達が改修。
高虎時代は複合式望楼型の三重天守だったが、
伊達宗利の時代の改修により独立式層塔型三重三階天守に建て替えられた。



桑折氏武家長屋門

三の丸にある駐車場に駐車して、移築された筆頭家老桑折氏の長屋門側から登城します。



石段の上り坂が続きます。



この先の石垣の上には井戸丸、井戸丸櫓があった。


井戸丸

井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあり、有事の時の重要な井戸であったとされる。


三之門跡

ここから見る石段や御弓櫓跡の石垣も見ごたえあります。


二之門跡

二の丸入り口にある二之門跡。礎石がしっかり残されている。


櫛形門跡

本丸への入り口はこの虎口のみ。
櫓門で、櫛形窓(半月形の窓)が造られていたため櫛形門と呼ばれていた。


宇和島城天守

無防備な太平の世の城。
壁には狭間や石落しなど戦いの備えが一切ない。

天守内の武者走と四隅の火打梁

火打梁は他の木材と異なるため、創建後に補修されたようである。



梁と桁は二段構造で天井の高さや窓の高さが使いやすいように工夫されている。



障子戸が使われている。1階、2階はもともと畳敷きだったという記録がのこされていて珍しい。


天主木造雛型

1860年の修理の際に作られたとされる天守の木製雛型。


窓下の鉄砲掛け

すべての窓下に2丁分ずつ備え付けてあります。
因みに、立掛けてある竹の棒は戸締りに使用するものです。


天守内階段

御殿建築のような飾り細工が施された軍事的ではない階段。


宇和島城下絵図屏風

天主最上階
普段は宇和島市立伊達博物館に展示されている屏風ですが、残念ながら年末年始で休館。
でも、こちらに展示されていたのはラッキーでした。



小ぶりながらも唐破風、比翼千鳥破風、千鳥破風、軒唐破風と多種の破風を用いられている。
懸魚も特徴的で、二重の武者窓は片引きである。


櫛形門跡からの眺め


上り立ち門

搦め手口に位置する薬医門で慶長期に造られた説がある。
現存する薬医門としては最大級で国内最古である可能性がある貴重な建物。





宿泊した「宇和島第一ホテル」の部屋からの宇和島城。



宇和島のみかん畑。
道沿いに売られている「みかん」は私の住む近所のスーパーなどで売られているものよりずっと甘くて安価でした。



宇和島城はこじんまりとした城で戦意を感じさせない落ち着いた趣で、個人的にはとても気に入った城のひとつになりました。



平成27年12月28日登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

松山城(愛媛県)

2015年12月28日 |  百名城
松山城まつやまじょう
別名金亀城・勝山城
構造平山城
築城者加藤嘉明、蒲生忠知
築城年代1602年(慶長7年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所松山市丸之内1 地図
スタンプ設置場所松山城天守入口
御城印松山城天守きっぷ売り場
城郭検定出題あり

賤ヶ岳の七本槍のひとり、加藤嘉明が関ヶ原の戦いでの東軍の徳川方での活躍で戦功を認められ、
松山城築城を手掛けることとなる。
この時松山という地名や松山城という城名を命名した。


戸無門

本丸の大手登城道に設けられた高麗門で、江戸時代から戸無門と呼ばれていたことから創建当初から門扉は無かったものと考えられています。

侵入した敵兵を腰曲輪内に誘い込むため門扉が造られなかった。


筒井門

脇戸付きの櫓門で、正木城から移築されたと伝えられる城内最古の建物のひとつでしたが昭和24年2月に放火によって焼失してしまいました。
焼失前の門の棟木裏には「慶長七??年四月マサキヨリウツス也」と墨書きされていました。


隠門

城兵はここを通って筒井門で背後から攻撃することが出来た。


太鼓門

大手門から戸無門へ向かう敵を太鼓櫓から狙うことが出来き、筒井門、隠門に続く第二の防衛門である。
昭和20年7月、戦災で焼失。
門の両側の石垣には戦災による剥離がのこされています。


井戸

この井戸は、築城時に谷だった場所を埋め立てて、泉を掘り下げて石を積み上げて造られたと伝わります。
戦前までは冷水を汲み上げて飲むことが出来ました。


一の門

天守曲輪に入る最初の門で高麗門を採用しています。


二の門

二の門は薬医門で、切妻屋根で白漆喰が特徴的である。


三の門

こちらも高麗門が採用されている。


筋鉄門

天守玄関がある中庭を防衛する門で小天守と大天守を繋ぐ櫓であり、三の門からの敵の侵入を防ぐ役割をしています。


玄関



十間廊下



狭間と石落し



北隅櫓から天守を見る



乾門東続櫓・乾門・乾櫓・野原櫓

野原櫓は松山城最古の建築物といわれる重要文化財。


北隅櫓二階

三角の部分は千鳥破風の内側








天守三階



仕切門

一間一戸脇戸付高麗門で本瓦葺。
天守や渡り櫓、玄関多聞から射撃が集中するよう造られている。


天神櫓

藩主松平氏の祖先である天神(菅原道真)を祀る櫓。
石落や狭間が設けられ侵入者の防衛と攻撃も兼ね備えていた。


紫竹門

西側からの侵入者に備えた門で、本壇、本丸への侵入を防ぐためここで仕切る意味で造られた門。
門の奥には紫竹の植え込みがあったため紫竹門という名で呼ばれていた。





平成27年12月28日登城



御当地グルメ・おみやげ



城内にある売店にて、名物「坊ちゃん団子」と「マドンナ団子」を注文。
蛇口をひねるとみかんジュースが出て来るのがおもしろいのでコップ1杯300円で購入。
欲張ってなみなみと注いでみました~。



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

湯築城(愛媛県)

2015年12月27日 |  百名城
湯築城ゆづきじょう
別名湯月城
構造平山城
築城者河野氏
築城年代1535年(天文4年)
指定史跡国指定史跡
場所松山市道後公園 地図
スタンプ設置場所湯築城資料館 月曜日休館(祝日の場合は翌日)、年末年始休館
城郭検定出題あり

中世の伊予国守護河野氏の居城で、二重の堀と土塁を設けた平山城です。
武家屋敷や土塀、池のある庭園などが復元され、現在道後公園となっています。
昭和63年に開始された発掘調査では、内堀の西側が、家臣団の住まい、東側に上級武士が住んでいたことが判明しています。



湯築城資料館

左は無料の資料館、この先には武家屋敷が復元されています。
100名城のスタンプはこちらの資料館の中に設置されています。
展示されている出土した品の中には、猫の足跡が付いたままの珍しい食器もあります。


土塁

土塁が現存しています。


内堀

丘陵部を内堀が巡っています。
丘陵地に二重堀を巡らせている城はとても珍しいです。








先を急ぐあまり、ここでは資料館によりスタンプを押すだけの時間しか取れず非常に残念。
本壇まで行けずお預け状態です。
ただ、やはり城域が広いだけに時間をかけて散策したい場所なので出直しの選択となりました。


平成27年12月27日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

今治城(愛媛県)

2015年12月27日 |  百名城
今治城いまばりじょう
別名吹揚城・美須賀城
構造平城(海城)
築城者藤堂高虎
築城年代1602年(慶長7年)
指定史跡県指定史跡
場所今治市通町3-1-3 地図
スタンプ設置場所今治城管理事務所(天守1階)休館日12/29~12/31
御城印今治城天守1 階
城郭検定出題あり

今治城は築城名人の藤堂高虎が瀬戸内海に面した地に、海水を取り入れて堀を巡らせた海城です。
日本初の層塔型の五重天守で国内最大級の船入を備えた、当時では最新型の天守であったと伝わります。
高虎が伊勢・伊賀へ転封になると、天守は徳川家に献上され丹波亀山城の天守となりました。






枡形虎口

多門櫓で囲み、2門を設けて城の出入り口を堅固にした。



正面には鏡石があります。


鉄御門

今治城の正門にあたり、虎口の内側の門です。


礎石



武具櫓と鉄御門



鉄御門内部









藤堂高虎銅像

平服姿の騎馬像。甲冑姿でないのが珍しい。






今治城の石垣には白い石が混じっているのですが、これは大理石で、石垣として使われるのは珍しい。


史上初の層塔型天守

各階をだんだんに小さくして積み上げる層塔型で、構造が単純で容易に建てられるため後の城造りのモデルとなった。


眺望







海なし県から訪れると天守から海が望めることがすばらしく感じます。


吹揚神社



御金櫓



蒼吹の井戸





山里櫓




二ノ丸北西隅の二重櫓。





犬走り

石垣の周りには地盤を強化するために他の城で見られる犬走りより幅広く設けられています。



お堀は海と繋がっており、海水が流れ込んでいるため海の魚が泳いでいます。







平成27年12月27日登城



御当地グルメ・おみやげ

今治焼豚玉子飯



見よう見まねで家庭でも簡単に作れてすっかり我が家では定番のメニューに。



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

金山城(群馬県)

2015年12月20日 |  百名城
金山城かなやまじょう
別名
構造山城
築城者岩松家純
築城年代1469年(文明元年)
指定史跡国指定史跡
場所太田市金山町40-98 地図 
スタンプ設置場所中島記念公園(史跡金山城跡・南曲輪)の休憩施設内(午前8時20分~午後5時まで)
城郭検定出題あり

太田金山城は、新田氏の末裔である岩松家純が築城しました。
越後上杉氏・甲斐武田氏・後北条氏の抗争の狭間で生き残りを図り、
上杉氏や北条氏へと状況に応じて従っていました。
天正18年、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると金山城も廃城となりました。
その後は破却され、樹木が生い茂り、江戸時代には献上松茸の御林となり幕府の直轄林となりました。
昭和9年に国指定史跡となり、整備されるようになりました。



総合案内板

この小屋にボランティアガイドさんが居ることがあるので見所を聞いて、出発しましょう。


西矢倉台西堀切

西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。
この堀切の特徴は堀底に石を敷いて通路として利用されていた。
 

西矢倉台通路



物見台下虎口

石敷き通路の南側には、谷側からの敵を威圧するための石垣が設けられています。


馬場下通路

この狭い通路沿いに建物が存在していた。


物見台



眺望

物見台からの眺め


馬場曲輪

大手虎口を守る兵が待機していたと思われる曲輪





月ノ池

戦国時代の池で、谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっていた。


大手虎口

石垣で固めた大手虎口

  

曲輪内や通路脇には水路があり、効果的に排水を行う工夫がされていた。


大手口北下段曲輪

谷地形を利用した排水施設を見ることができます。


日ノ池

谷をせき止め、斜面からの流水や湧水を貯める構造になっている。
戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所で、築城以前から神聖な場所であったと考えられています。


大手虎口南上段曲輪


建物は火薬などを備蓄した武器庫兼兵の詰め所、東脇にはカマド、井戸址がある。


実城(本丸)

新田神社  廃城後は新田義貞を祀る石宮があった。


西城筋違門跡

筋違いの土塁が残る



見附出丸から延びる尾根沿いの道


とても美しい石垣や石畳ですが整備前と比較すると奇麗すぎて、ここは関東だし
築城当時も本当にこんなに奇麗に形成されていたのだろうかとちょっと疑ってしまいました。
登城前に麓の史跡金山城跡ガイダンス施設(入館は無料です。)に立ち寄り
知識と情報を入手してから登城することをお勧めします。


平成22年4月4日登城
平成27年12月19日再登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス