むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

馬山東城(群馬県)

2018年01月31日 | 百名城以外の城
馬山東城まやまひがしじょう
別名
構造山城
築城者小幡孫七郎憲重
築城年代不明
指定史跡
場所甘楽郡下仁田町馬山3739 地図


馬山城は東城と西城のふたつの城から成り、東城は居住区にあたり西城は要害城・詰城として
連携された城でした。
東城の主郭には現在米山寺があり、尾根先へと段状に郭には墓地があり
段丘上に連なる舌状の縄張りです。


大手道

「道の駅しもにた」側からの登城道が大手道になりますが
現在工事中で、車は通行不可。
道も非常に狭くすれ違いはまったく出来ません。
道の駅に車を置いて歩いて登城するか、道の駅の近くにホームセンターコメリがあるので
その脇の道から米山寺を目指し、米山寺の駐車場をお借りして散策することも出来ます。



国道側に突き出た舌状の郭です。
北へ延びる尾根先の段上には小さな郭まで(先端まで)地元住民の方々のお墓が立ち並んでいます。


天神天満宮

お墓だけでなく天神様も鎮座しています。


主郭

山門と石垣が見えて来ました。
今回こちらに車を置かせていただきました。


米山寺(べいさんじ)

米山寺を主郭とし、北へ延びる尾根が城域です。


城址碑

米山寺の入口に城跡碑があります。


山門

山門脇に番犬がいるのでめっちゃ吠えられます。
決して怪しい者ではありません…と言ってもお犬様には判ってもらえません。


本堂

本堂まで行くと、中から住職の奥さんらしき人が出て来ました。
城址を訪ねて来たことを話すと、快く迎えて下さりお話しをしてくれました。
西城の状況も伺えて状況は厳しそうなことがわかりました。
西城登城は覚悟が必要思われます。


屋根

笹竜胆の家紋が見えます。


鐘撞堂

住職奥さんがどうぞ鐘を撞いて行って下さいと言ってくれたので
せっかくなので遠慮なく撞いてみることにしました。



とても中途半端な時間に鐘を鳴らしてしまって良いものか?と考えてしまったのですが、
数分待って午前10時30分で鐘を撞いてみました。
時を告げる鐘ではないので下々の方々勘違いしないように…な~んてね^^;


お堂



土塁

本堂の裏にまわってみました。
土塁…?とは言い難いものですが土塁っぽい場所もここくらいしか
見当たらず遺構らしきものは縄張り以外伺い知れずといった感じです。



一段下の郭です。
わずかな段差で畑の段差にしか見えません。




住職奥さんから帰りにお茶までいただいてしまいました。
そのお茶も「花まつり 甘茶」というお寺で花まつりに配られる特別なお茶だそうです。

花まつりには、誕生仏に甘茶をかけます。これはおしゃか様がお生まれになったとき、
天から甘い産湯がふりそそいだといわれる説話にちなんでいます。


敷地内を見せて頂いたうえに、このようなお茶までいただき恐縮です。
西城の情報といい、本当に親切にして頂き感謝です。
ありがとうございました。


そして馬山西城へ

平成30年1月14日登城



こちらを参考にして行きました。
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

福知山城(京都府)

2018年01月29日 | 続百名城
福知山城ふくちやまじょう
別名横山城・掻上城
構造平山城
築城者明智光秀・秀満
築城年代1579年(天正7年)
指定史跡市指定史跡
場所福知山市内記5 地図
スタンプ設置場所福知山市郷土資料館(福知山城)入口受付
城郭検定出題あり

室町時代後期に築かれた横山城の跡地に明智光秀が築いた福知山城。
明智光秀は近江の坂本城を居城としていましたが丹波進攻のための拠点と
するために福知山城の築城を急いだために石垣には多くの転用石が使われました。
その後も城主が変わるたびに拡張され、天守は複雑な形状になっていきました。



昇龍橋

ライトアップされた昇龍橋(旧堀)が目に飛び込んで来ました。
福知山城は今回の旅の予定には組み込んでいなかったのですが通りすがりに
寄ってみました。



ライトアップされているところを城下から撮影して帰る予定が、吸い寄せられるように雨の中
もうちょっと、もうちょっと…と言いながら登城しはじめてしまいました^^;



北側から見た小天守(左手前)と大天守。
石垣の上に設けられた塀には、三角や四角の狭間が設けられています。



この門の先はいよいよ本丸です。
ちょっとだけ…のつもりが、傘もささずカメラだけ持って車から飛び降りて
とうとう本丸まで来てしまいました^^;
こうなったらずぶ濡れになっても見られるだけ見て行こうではないか!


大天守

三重四階の望楼型で下見板張の大天守に二重二階の小天守が連結されています。
現在は鉄筋コンクリート製で復元され、郷土資料館として資料の展示を行っています。



天守の壁にも矢狭間や鉄砲狭間が見られます。
内部には居住空間も構築されていたものと考えられ、畳が敷き詰められ、
湯殿、水長し(台所)、厠なども有していたと伝わります。


銅門番所

福知山城で唯一現存の建物です。
かつては二の丸の正門横にあった番所ですが2度の移築を経て
天守再建に伴いこの地に移築されました。



大手筋に配されていた銅門は見栄えと格式を尊重し、金具の部分に銅を使用したことから
その名が付けられ、その隣では城の出入りを監視する番所で厳しく管理していたものと思われます。
左右を張り出すコの字型で真ん中正面には壁がありません。


石垣の転用石

石仏、石臼、灯篭など沢山の石造物がこの城では使用されています。
また、城の転用石としては最古の五輪塔地輪がみつかっています。


天守台石垣

天守台の石垣はパッと見ただけでも転用石がすぐにみつかります。





豊磐井

井戸の深さは50mで城郭本丸内の井戸としては日本一の深さだそうです。
「豊磐井」と呼ばれるこの井戸は城主であった朽木稙昌の父、朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」
にちなんだものだそうです。
二の丸にあった対面所裏に通じる抜け穴であったとの伝承もあります。


鯱鉾

原寸大の鯱鉾が展示されています。
やはり、近くで見ると大きいものですね。


続櫓と小天守

こちら側が天守の入口になります。
小天守にも小ぶりな地階入口があり、真上には石落があり侵入者を狙い撃ちします。


朝暉神社

福知山初代藩主朽木稙昌公が、父の稙綱公を藩祖として城中に祭ったのが朝暉神社の始まりです。
廃藩で一時は城の外に移され、町民たちが願い出て明治14年に天守台跡に社が建立されました。
天守閣が再建されるまでは、城跡を「朝暉さん」と呼び市民に親しまれていました。


釣鐘門

釣鐘門は明治時代まで現存していた門ですが、廃城令によって建物は取り壊され
平成になって復元されました。
釣鐘があっただけに寺院のような趣ですね。


夜景

釣鐘門を出た所で眼下に広がる城下の夜景がきれいです。
相変わらず夜の写真の撮り方が下手なので雨も手伝って美しく写せませんでした



さて、そろそろ退散しましょう。



本丸を出たところで上から見た昇龍橋がとても奇麗でした。
これが木造だったら最高!だったろうなあと妄想しつつ、
それでも十分注目度高い!
福知山城を盛り立てる立派な橋だと思います。


福知山城も続百名城に選ばれたのでいずれスタンプを押しにやって来ることとなります。
今回は本丸のみの登城になったので次はもっと広範囲に巡ってみたいと思います。
明るい時にね


平成30年1月6日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


燈明堂(神奈川県)

2018年01月28日 | その他
燈明堂とうみょうどう
別名浦賀燈明堂
構造灯台
造営者徳川幕府(石川六左衛門重勝・能勢小十郎頼隆)
造営年代1648年(慶安元年)
指定史跡市指定史跡
場所横須賀市西浦賀6丁目9−1 地図

慶安元年(1648)幕府の命で作られた日本式の灯台で
浦賀港西岸の先端にあって、約220年間灯台の役割を果たしていました。



案内看板(燈明堂とその周辺)

燈明堂の背後の山には平根山台場が作られ外国船に備えました。
平根山砲台は天保8年(1837)日本人漂流民を送り届けに来航した
米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。
ここから海岸沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ヶ崎台場が作られました。
燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、
かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。


案内看板(燈明堂跡)

燈明堂脇に掲げられた案内看板。


燈明堂

元禄の頃から、最盛期を迎えた東浦賀の干鰯問屋の負担で維持管理を行い、
明治5年に廃止されるまでの約220年間、一日も休まずに航路の安全を守ってきました。
建物は木造で二階建て。
階下は番人小屋で、階上は紙の障子に金網を廻らせ銅製の大きな灯明皿が置かれて
菜種油で灯された光は海上4海里(7.4km)を照らしたといわれています。


石垣

切込接ぎの石垣で江戸城築城時に余った石材を流用したものではないかという説があります。
建物は明治20年代まで残っていたといわれていますが、風雨で崩壊し石垣だけが残されていました。
昭和になると、残った石垣の上に現在の建物が当時の外観に復元されました。



岩と海が奇麗です。



石垣と灯台?物見?と迷うような和風の灯台がとても印象的な燈明堂。
自動車を使って問題を解き歩く、クイズラリーに参加した時に訪れたのですが
ここにクイズの問題が設定されており、偶然ながらなかなか良いところに連れて来てもらいました。
このような灯台があったなんて、幕府が造った灯台らしく和風なのがとても気に入りました。
随分前に訪れた場所ですがとても印象的だったので今更ながら紹介しておきたいなと
思いました。


平成23年11月13日訪問


アルミス LEDガーデンソーラーライト オーナメントライト灯台 GSL-T08L
アルミス
アルミス

鳥取城(鳥取県)

2018年01月26日 |  百名城
鳥取城とっとりじょう
別名久松城
構造平山城
築城者山名誠通
築城年代1545年(天文14年)
指定史跡国指定史跡
場所鳥取市東町 地図
スタンプ設置場所鳥取城跡内「重要文化財 仁風閣」内
別名仁風閣・鳥取市歴史博物館
城郭検定出題あり

山下ノ丸編
鳥取城は織田信長の命により羽柴秀吉による兵糧攻めの舞台となった悲劇の城として有名です。
関ヶ原合戦後は姫路城を築いた池田輝政の弟の池田長吉が入城し、
鳥取池田家は徳川幕府より外様大名の居城としては唯一城内の建物に葵紋の瓦を使用することが
許されていたいました。


西坂下御門

昭和50年の台風で倒壊してしまい、現在は復元された西坂下御門があります。



鳥取県立博物館の駐車場をお借りして、仁風閣にて日本百名城のスタンプを押して
西坂下御門から登城開始!



今回は時間の都合上山下ノ丸だけの攻城となります。
それにしても見事な石垣です。


右膳ノ丸

城代高木右膳の屋敷があったことから右膳ノ丸の名が付けられました。





竪石垣

鳥取城の竪石垣は階段状に石段が組まれた珍しい構築石垣です。
竪石垣は秀吉の朝鮮征伐時代に倭城に造られたのが始まりと言われています。
かつての大地震により階段は崩れたままの状態になっています。
登り石垣状になっていて階段のようにもなってどこまで続いているのか気になって
登って行きたくなるよな石垣ですが、たぶん登っちゃダメだと思うのでやめておきました。


石切場

目の前の崖は石垣を築くために石を切り出した石切場の跡です。
よ~く見ると大きな岩に「矢穴」と呼ばれるクサビを打ち込むための長方形の穴が開いています。
鳥取城の石垣の石の大部分は自前(久松山)の石で築かれています。


裏御門跡

ここを下った左の角の石垣(三階櫓の石垣)に「お左近の手水鉢」があります。


三階櫓跡

山頂の天守が焼失した後の鳥取城の象徴となっていました。


天端角石

三階櫓石垣の北東面の上面の角の石です。
石には普請奉行、下奉行と棟梁の名前が刻み込まれています。


お左近の手水鉢

三階櫓の下から石垣の角付近を見上げてみると穴のあいた石が積まれているのを
探してみて下さい。
三階櫓の石垣を築く際に鳥取城の改築で活躍した女中の手水鉢を築き込んだことで
工事が無事に完了したと伝わっています。


走櫓跡

かつてはここに三階櫓と菱櫓を結ぶように土塀を挟んで多門櫓が築かれていました。


菱櫓跡

菱櫓は菱形の建物で三階櫓と対比で鳥取城の風格を現していました。


中坂稲荷神社

伝説の狐「経蔵坊」を祀る神社で、経蔵坊は鳥取城主の命を受け江戸への飛脚を務め、
三日三晩で江戸と鳥取を往復したという伝説を持つ狐が祀られた神社です。
中坂稲荷神社を抜けて天球丸へ。


天球丸

関ヶ原の戦いの後鳥取城の城主になった池田長良吉の姉、天球院がこの曲輪に建てられた
居館に住んでいたことから天球丸と名付けられました。
私はてっきり巻石垣が天球に見えることを指していると思っていたら、まったくハズレでした^^;


天球丸巻石垣

別名「まんじゅう石垣」とも呼ばれています。
背後の石垣がはらみ出し、その崩落を防ぐ為に築かれた球面の石垣です。
川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が築いた石垣で、城の石垣としては
鳥取城以外では見られない工法だそうです。


楯蔵跡

天球丸から見た楯蔵跡です。
久松山の湧水が集められているせいか水路のようなものが見えます。


時代の異なる建物跡

発掘調査で三階櫓跡と武具蔵跡が重なり合うように見つかりました。
それぞれ時代が違っていて三階櫓は江戸中期に火災で焼失してしまいました。
その後礎石は埋められ百年以上も空き地のままでした。
そこに、天保10年に武具蔵が建てられました。


表御門跡




楯蔵跡から見た巻石垣。
上から見ても下から見てもおもしろい石垣です


三ノ丸跡

三ノ丸は学校用地として転用され高等学校になっています。


太鼓御門跡

太鼓御門は左右の石垣に架け渡した櫓門で、時刻を知らせる太鼓が据えられていました。
また、下馬場にもなっておりここからは徒歩で登城することになっていました。
槍の所持も禁止されていたので石垣に槍を立掛けて籠や馬から降りての登城となりました。


この先擬宝珠橋(大手)方面は工事中で、コンクリート橋が木造の擬宝珠橋に変えられ
中ノ御門と太鼓御門復元される予定だそうでこのあとは仁風閣の宝隆院庭園の脇から仁風閣へ戻り
仁風閣を見学しました。


仁風閣

甦る鳥取城というテーマで展示をしていたり、池田家や鳥取藩のことも知ることが出来ます。
クイズを解きながら仁風閣を観て廻るという企画もあり、なかなか見応えもありました。


秀吉による兵糧攻めがあまりにむごいものだったので、鳥取城跡は心霊スポットとして
紹介されることが多いのですが、八王子城にしてもそのようなことは面白半分で騒ぐだけのことで
戦国時代には戦で多くの犠牲者が出た戦場は沢山あるのでむしろそのような悲劇を学び
受け止めて史跡を散策するのが城跡巡りの楽しみ方だと思っています。
そして、この石垣造りが立派な山下ノ丸は鳥取城の序の口で山上ノ丸や太閤ヶ平など
戦国期の見所がまだまだ沢山残されていて時間がまったく足りなかったので
いつしか訪れる機会があったらなと思わざるをえない訪問となりました。


平成30年1月6日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

米子城(鳥取県)

2018年01月24日 | 続百名城
米子城よなごじょう
別名久米城・湊山金城
構造平山城
築城者山名教之
築城年代1467年(応仁元年)
指定史跡国指定史跡
場所米子市西町 地図
スタンプ設置場所山陰歴史館・米子城天守東屋
御城印山陰歴史館・米子まちなか観光案内所
城郭検定出題あり

米子城は山名氏が米子飯山砦を築くことからはじまり、戦国期には湊山に縄張りを広げ
天守も築かれるようになりました。
中海を利用し、海水を引き込み軍港が造られるなど水軍を率いた毛利軍の特徴もみられる
縄張りも特徴的です。



駐車場

西登山口近くにある、無料駐車場を利用しました。


登城口

湊山側からの登城口です。
すぐ近くに湊山公園の駐車場があるのでここから登城すると便利です。



風情ある道をどんどん登って行くと登り石垣が見えて来ます。
ここまで来るとテンション上げ上げです


登り石垣

豊臣秀吉が朝鮮半島に築いた倭城に多く用いられた構造物で、
朝鮮出兵の際に吉川広家も参加していることから米子城築城に取り入れたと考えられます。


内膳丸

内膳丸は独立した出丸で石垣で二段に区分され、二重櫓や平櫓が築かれていました。
武器蔵もあったようです。



家老の横田内膳正村詮が構築したので「内膳丸」と呼ばれています。
ここには二重櫓がりました。


番所跡

御天守一帯を警備する役人詰所があり、昼夜見張り番が置かれていました。



この真下には二の丸へと続く道があります。


小天守の石垣

大天守は野面積ですが、この石垣は幕末に積み直されたため積み方が新しく打込接です。
小天守は三重四階の望楼型天守で大天守に似た造りでした。



鉄御門跡

二階建ての鉄張りの門があったようです。


本丸

お正月なので門松がお出迎え。



正面が天守台跡です。
とにかく眺めの良い立地です。
しかしここまで来たら雨に見舞われてしまいました。
晴れていたらさぞかし爽快な気分が楽しめただろうか…残念。


大天守の礎石

すごい眺めです!
さらに天守からの眺めを想像するとゾクゾクします。
大天守は四重五階の望楼型天守で岡山城天守のように三つの入母屋破風を同方向に重ねた
他にはあまり例の無い構造でした。


あずまや

雨が激しくなってきたので慌ててあづまやに避難しました。



小降りになるまで案内板などを読みながら雨宿りです。


パンフレット

攻城団のパンフレットがありました!
どうやって濡れずに持って帰ろうか…。


本丸西冠木御門跡

しっかりした石垣です。
各虎口にはこうした石垣式の門で形造られていました。


水手御門跡

ここから出山付近に設けられていた舟小屋へ通じる道がありました。


遠見櫓跡

ここには二重櫓が建てられていました。
吉川時代の旧本丸にあたる場所だそうです。



中海が見渡せて良い眺めです。


一の門

この門の奥には二重櫓があり二の丸へと続いています。


二の丸枡形

石垣で囲まれ城主の居館や侍部屋が築かれていました。


二の丸表門跡

二の丸には高石垣で囲まれ門や二重櫓が配され枡形の入口になっていました。



お城EXPO2017で春風亭昇太師匠、萩原さちこさんのトークショーの中で米子城の話題があり
これはぜひ行かねばならぬと思い楽しみにしていた城です。
登り石垣は彦根城、伊予松山城、竹田城、淡路洲本城で確認されていて昨年4月に
ここ米子城でも確認されたことが発表されました。
まずはここを見逃すまいと思い、湊山側から黙々と突き進みました。
萩原さちこさんが撮った場所で写真を撮りたかったのですが現在は紐が張られ立ち入り
出来ないようになっていました。
保存のためには仕方のないことなので外からいっぱい目に焼き付けて来ました。
まだまだ調査もされることと思われますのでこれからの調査にも期待します。



平成30年1月6日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


松江城(島根県)

2018年01月22日 |  百名城
松江城まつえじょう
別名千鳥城
構造平山城
築城者堀尾吉晴
築城年代1607年(慶長12年)
指定史跡国宝 国指定史跡
場所松江市殿町 地図
スタンプ設置場所松江城天守内受付窓口
御城印ぶらっと松江観光案内所
城郭検定出題あり

現存12天守のひとつであり、近年松江神社での祈祷札が決めてとなり
天守が国宝に指定されました。
入母屋破風の屋根が千鳥が羽根を広げたように見えることから
「千鳥城」とも呼ばれています。


大手口

有料駐車場からすぐのところに大手口があります。
到着したのがすでに夕方だったので一番近くの駐車場に停めることが出来ました。
そして松江城は混むと聞いていたのですが観光客もまばらです。


馬溜

出撃の際にこの馬溜で城兵を待機させ、隊形を整えていたのでしょう。
しかし、広い!「千人溜」とまではいかないとしても規模が大きい!


三ノ門跡



定番所跡

三ノ門を進んで二ノ門手前に待ち構えているのが定番所です。
城の出入りをここであらめていたのでしょう。


二ノ門跡

この先左側に松江神社と興雲閣があります。
明治の改修時に紛失した松江城天守の祈祷札は、この松江神社からみつかりました。


一ノ門

外枡形になっていて侵入者に睨みを利かせていました。
一ノ門は、昭和になってから復元された門です。


本丸

明治8年(1875)陸軍省は老朽化建物群の払い下げの入札を実施した。
この時、松江城天守も180円で落札されました。
物価が違うとは言えこれだけの城が180円かあ


付櫓地階入口

ここの天井板は取り外し可能になっていて、上から槍で攻撃できるように
なっていました。


付櫓一階入口

ここからも狭間がいくつも見えています。
逆L字に造られたテラスで狭間から入口まで迫って来た外の敵を狙い撃ちします。
そして階段の壁や門扉の上にも見える狭間は入口に侵入した敵を狙い撃つためのもので
この付櫓内での交戦も想定して狭間が設けられています。
恐るべし戦いの城です。


地階井戸

馬洗池とほぼ同底で常に飲料水が得られることができました。
そういえばこのような井戸を浜松城の地階でも見たような…と思いきや、
天守の構造は、二代堀尾忠氏が急逝したため築城の名手と言われた父吉晴が行ったが、
吉晴が約10年居城とした前任地の城は浜松城でした。


祈祷札

今回の指定は、城が完成した年を裏付ける祈とう札の再発見による所が大きい。
この祈とう札に書かれていた年号は慶長十六年と書かれていました。
これにより国の文化審議会が文部科学相 に改めて国宝に指定するよう申請。
めでたく平成27年7月、国宝に指定され、国宝に指定されるのは実に63年ぶりのことです。


鯱鉾

木造のものでは日本最大です。


石打棚

二人が並んで撃てるスペースを確保しています。
ここでも隠れながら狙い撃ち!恐ろしいです(>_<)


一階

痛々しく見える柱がいっぱい目に飛び込んで来ます。


包板(つつみいた)

柱に板を貼って鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められています。
割れ隠しや不良材を隠すために施されたものです。
天守にある総数308本の柱のうち、130本にこのような工夫が施されています。


石落

二階の四隅と東・西・北壁に設置されています。


桐の階段

敵が攻めてきた際に階段を取り外せるように、軽い素材の桐を使用したといわれています。



よく見るとレールになる溝があり、引き出し式に階段に蓋をしてしまう仕掛けがありました。


三階潜戸(くぐらど)

破風内の隠し部屋のように見えて、実は屋根上に続いています。


箱便所

籠城戦を想定し、井戸や便所が設けられていました。
便所は、地階の他に4階にも置かれていました。


天守最上階

この階だけは少々の補強はされているものの、包板仕様にはなっていません。


棟札

天守最上階天井を見上げると棟札があります。
ちなみに現存天守で棟札や祈祷札の年号 によって天守の完成時期が特定されているのは、
松江城1611年(慶長16年)・丸亀城1660年(万治3年)・弘前城1810年(文化7年)
の3城だけだそうです。


眺望

高さ約22.4mの天守からは宍道湖が望めます。


鉄砲櫓跡

本丸には天守を囲んで武具櫓、鉄砲櫓、祈祷櫓など六つの櫓があり、
細長い多門塀が本丸を囲んでいました。


西門石垣



千鳥橋

かつては御廊下橋とも呼ばれ屋根付きの橋でした。
城の中心部と藩主の館のある三之丸御殿を結ぶ大変重要な橋であったことが分かります。
古い絵図を参考に 橋脚を二カ所三本建てとし堅い国産のヒバの木を用いて造られています。


三之丸櫓跡碑

三之丸には島根県庁があります。


三之丸櫓跡碑裏

裏に廻ってみると、こんなところに石を切り出した際の矢穴跡が!


二之丸石垣と水堀

広い水堀です。
遊覧船で堀から城を観覧することが出来ます。


堀尾吉晴公像

大手口前まで戻って来ると、辺りは薄暗くなってきて堀尾吉晴公像がライトアップされていました。
なかなかかっこいいでしょ^^;


お昼にカニが食べたい!とカニが食べられるお店を探し歩き、米子から松江に向いながら
さまよっていましたが、この日は水揚げが無く撃沈!それでも「大漁市場なかうら」の御食事処で
カニが食べられたので急いで松江城へ。
松江城に到着した時はすでに3時半で後1時間半しか時間が無い状態で焦りました。
でもお城って実は開城直後と夕方が空いていて見やすいんですよね。
天守が閉まってから外周を散策していると雨が降って来てゆっくり見られなかったのが
残念でしたが見所があってとてもすばらしい城でした。
さすが国宝です。
しかし、この城の防御も「やりすぎ感」たっぷりなのでどのような防御策、攻撃策が
練り込まれているのか探りながら天守を堪能するのがおもしろいですよ


平成30年1月5日登城


城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

月山富田城(島根県)

2018年01月19日 |  百名城
月山富田城がっさんとだじょう
別名月山城・富田城
構造山城
築城者不明
築城年代1156年~1159年(保元年間)
指定史跡国指定史跡
場所安来市広瀬町富田2188 地図
スタンプ設置場所安来市立歴史資料館
御城印安来市立歴史資料館
城郭検定出題あり

土の城から石の城へ

戦国期には尼子氏の居城となり、毛利元成の侵攻によって尼子氏滅亡。
その後吉川広家が入城し、関ヶ原の戦いの後は堀尾忠氏が父の吉晴とともに入城。
1611年(慶長16年)に松江城を築城し、移転したため月山富田城は廃城となりました。


歴史資料館

駐車場はこちらをお借りして登城します。
※歴史資料館は施設改修工事のため平成30年3月31日まで休館しています。
他にも山中御殿下にも駐車場が設置されています。
道の駅 広瀬富田城に寄ったところ、現在千畳平、太鼓壇が工事中で立ち入り禁止になっているので
お店の方がわざわざ店の外まで地図を持って来て登城口を教えてくれました。(感謝)


スタンプ設置場所

道の駅と歴史資料館の間の渡り廊下に日本百名城のスタンプが設置されています。


立体模型

道の駅 月山富田城にある立体模型。
ここで全体を把握していざ、登城です!


山中鹿助像

太鼓壇曲輪で三笠山に向って祈る山中鹿助像。
「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。



花の壇下から山中御殿を見ています。
七曲りが見やすく木々が伐採されています。
見た目には「これ登るの~疲れそう」って感じがしますが
登ってみると道が整備されて眺めが良いせいか案外登れてしまいます。


山中御殿

3000平方メートル余りの平地で山中御殿と呼ばれる建物が建っていた場所です。


菅谷口門

菅谷口から繋がる虎口で、枡形の櫓台をともなった堅固な造りになっています。


雑用井戸

山中御殿平内で水の手です。


軍用道

七曲りへと続く険しい道です。
ここから山頂の本丸を目指します。


親子観音

伝承では堀尾家お家騒動の首謀者とされ、処罰されたとされる堀尾河内守とその子掃部両名の墓とされますが
近年の調査では京都で没した堀尾勘解由の墓である可能性が高まっています。


山吹井戸

年中枯れることはないこの井戸は、山の中から吹き出す井戸ということからこの名前が付いたそうです。



井戸には現在も豊富な水が湧き出ています。


七曲り

山中御殿から本丸へと向う急な登城道は幾度も曲がりながらジグザグに
曲がりながら登って行くことから「七曲り」と呼ばれています。
足元はとても歩きやすくきれいに整備されています。


三の丸の石垣

七曲りを登りきると立派な石垣が見えて来ます。
敵を待ち構えるために段状になっています。


三の丸

ここから麓の様子が良く見えます。
これだけスペースがあると武者も溜まれそうです。


鳥居

この先本丸には勝日高守神社が祀られているのでここより先は参道にもなります。


二の丸

ここでは建物や柵、塀の柱穴が見つかっていてそのうちの1棟から備前焼のカメが発見されました。
このことから戦時に飲み水や食物を貯めておくための建物がここにあったと考えられています。


大堀切

二の丸と本丸の間には大きな堀切が構築されています。


二の丸石垣

本丸側から見た二の丸の石垣です。
最後の砦として守りを固めている様子が覗えます。
石垣の角が算木積みではないので古い時代のものと思われます。


本丸

細長く延びる本丸は京羅木山や島根半島、鳥取の弓浜半島まで望むことが出来ます。
そして奥には勝日高守神社が城の守り神として鎮座しています。


山中鹿介幸盛記念碑

この記念碑の裏からの眺めは絶景です。


本丸からの眺望

晴れていたらなあ。。。。
それでも良い眺めに変わりは無い。


勝日高守神社

勝日高守神社の創建は570年(欽明天皇31年)に大国主命の分霊を勧請されたのが始まりとされます。
藤原景清が月山富田城を築くと城の鎮守社として崇敬庇護されていました。
その後城主になった尼子氏も篤く信仰したと伝えられています。



また、藤原景清が富田城を築いた際に元々鎮座していた勝日高守神社の境内を汚すのを嫌い
月山の麓にある富田八幡宮へ社殿を造営し里宮としたと伝えられています。


鉢屋ヶ成へ

本丸の奥は鉢屋ヶ成へと曲輪は続きますが本丸までで道は終了しているので
ここで引き返すことにしました。



七曲りを下りながら山中御殿を見下しています。
お椀の中を覗き込むような気分です。(まる見え)



山中御殿まで下って来ました。


塩谷口門

塩谷虎口は埋門で、通路は狭く正面が壁になっていて曲輪内が見えないようになっています。
曲輪側からも塩谷口門は見えません。
行ってみると、なかなかおもしろい場所です。


堀切

花ノ壇から菅谷口側に抜ける道の間にある堀切。
花ノ壇に民家が1軒あったりもするのでご近所の方々の通路(近道)としても
使われているのかなと感じる堀切です。


千畳平

只今工事中につき立ち入り禁止になっているので見に行くことが出来ません
今年の山城サミットはこちらで開催が決まっているので整備が進んでいるようです。


尼子興久の墓

千畳平下にある尼子興久の墓。
父にそむいたため追放され、妻の実家備後甲山城に身を寄せていましたが
そこで切腹しました。


赤門

巌倉寺の門で、ここからも登城することができます。



飯梨川を渡り、三日月公園側から見た月山富田城です。


前日は備中松山城と鬼ノ城に登ったので、この日最初に月山を見上げた時は
「これ、登るのかあ」と一瞬ためらいが込み上げました。
でも以前からずっと訪れたかった城でもあるので気合を入れていざ登城してみると
どんどんテンション上がっちゃって、結局戦国期の城っていいなあってなことに
なってどんどん登って行ってしまいました。
鬼ノ城は横にどんどん歩いて、景色も良かったけど時代が私の気持ちとマッチしなかったので
めちゃめちゃ疲れた感があったのですが、月山富田城の方がずっと体力消耗しそうなのに
このワクワク感が疲れを吹き飛ばしてしまいました。
やっぱり戦国期の山城はいろいろ妄想できて楽しいです!来て良かった



平成30年1月5日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

鬼ノ城(岡山県)

2018年01月17日 |  百名城
鬼ノ城きのじょう
別名鬼城山
構造山城
築城者不明
築城年代7世紀後半
指定史跡国指定史跡
場所総社市黒尾 岡山県総社市奥坂 地図
スタンプ設置場所鬼城山ビジターセンター
城郭検定出題あり


鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面はとても急で
城壁が鉢巻状に巡っているが特徴です。
鬼ヶ島のモデルになった場所とも言われています。



駐車場

駐車場に到着しました。


鬼ノ山ビジターセンター

こちらの受付カウンターに日本100名城ののスタンプがあります。
そして、登城前に見学して予備知識を入れておきます。


ビジターセンター内

模型やパネルの展示、映像解説などがあります。


登城口

ビジターセンターで寄付をしてパンフレットをもらって、いよいよ出発です!
左右に分かれた道は右側が車椅子でも西門までは通行出来るように造られた道になっています。
急な道を進むのが嫌だったので私は車椅子の道を歩いて行きました。



遊歩道から学習広場へ続く橋です。


学習広場

ここからの眺めはとても良く、瀬戸内海を越えて讃岐の山々も見渡すことが出来ます。



学習広場から見た鬼城山にそびえる角楼と西門。



遊歩道を更に進むと角楼の下を通り、西門に出ます。


敷石

西門下の敷石。
幻想的で異国に来た気分


西門

日本の城門っぽくない。



西門跡は12本の柱穴や敷石など、きわめて良好な状態で残っていました。
この石段も残されたそのままの上に三階建ての城門が復元されています。


西門裏側

掘立柱の懸門が特徴です。
残念なことにこの建物は建築基準法の法令により立ち入りが出来ません。


敷石

石垣は通路としての役割もしていますが、この傾斜から見ると
雨水で城壁を破壊しないよう水捌けよく造られているようです。



山を一周するように道が続いています。
こんな眺めが良く幻想的な道が続くのはハイキングするには最高なのではないでしょうか。




道の途中にいくつかこのような石の祠があります。


南門

規模と造りは西門とほぼ同じで、どちらの門が正門であったか明らかになっていません。


高石垣

いくつかある高石垣。
覗き込むと足をすくわれそうで怖い石垣です。
よくぞ、これほど積み上げました!と感心してしまいます。


敷石(通路)

通路にも造られている敷石。
やはり傾斜のついた場所なので水捌けを考えられているのでしょうか。


千手観音像

第3水門と第4水門の中間地点にある岩に刻まれた千手観音像。
この像は鬼ノ城よりもずっと後の、江戸時代の作です。
鬼ノ城の廃城後は、山岳仏教の聖地となり、寺院の建物が幾つも建立され、
江戸時代になると城壁沿いに観音像が祀られ巡礼の場となりました。
明治時代にほとんどの仏像は麓へ降ろされ、岩に彫り込まれたこの仏像だけがここに残されています。


東門

東門は西門、南門に比べるとやや小ぶりでした。
この門の特徴としては、他の城門では角材を使用されていたのですが
東門は丸材を使用しているということです。



それにしても、こんな高い崖っぷちに城門があってもどうやって
登って来るんだろう?と疑問に思ってしまいます。


屏風折れの石垣

よくぞ積み上げました!ほんと感心してしまいます。
柵や手摺も無いので際まで行けるのですがちょ~怖い
ちなみにここのは建物は無かったようです。



岩がむき出しの道が続きます。
ここまで来るのに1時間以上経過していました。もうクタクタです。


礎石建物群

屏風折れの石垣の後は周回せずに内側に入って礎石建物群を見ながら帰ることにしました。
帰りは鬼城山へ向って少し登りになっています。


倉庫群跡

外周と違って内側は生活区になります。
穀物や武器を納めた高床式の倉庫群があったと思われます。


管理棟跡

役人が駐在し、管理・運営をした施設と考えられています。


鬼城山

山の天気は変わりやすく、天気が悪くなって来たので小走りで鬼城山山頂まで急いで
帰って来ました。
この頃には雪がちらほら舞って来て焦りましたがなんとか大体見て廻ることが出来ました。


眺望

山頂のあずまやからの眺めです。
備中福山城と幸山城が見えます。
行ってみたいのですが今回は時間の都合で行けません


角楼

角楼の上に来てみました。
横方向からの攻撃を意図した特殊な防御施設です。


二時間かけていろいろ見ながら一周して来ました。
二時間歩きっぱなしでめちゃめちゃ疲れました。
あまり急な山道もなく景色も良いので歩く条件はとても良く、歩きやすい道だったのですが
車で約700kmの遠くから来て、朝から備中松山城攻めしてからだったので体力が限界。
(車の運転は旦那様でしたが^^;)
それでも一日にしたらかなり歩きました。
そして後から気付いた!いつものおやつを持参していなかったことを。
疲れるわけだ~。
というわけで車に戻って途中のサービスエリアで買った「八橋」を食べて体力回復!
そうだ、鬼が島へ登城するんだから「きびだんご」を持って行くべきでしたね


平成30年1月4日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

備中松山城(岡山県)

2018年01月15日 |  百名城
備中松山城びっちゅうまつやまじょう
別名小松山城・高梁城
構造山城
築城者秋庭重信、小堀遠州、水谷勝宗
築城年代1240年(延応2年)、1605年(慶長10年)頃、1681年(天和元年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所高梁市内山下 地図
スタンプ設置場所備中松山城券売所(12/29~1/3休館)
城郭検定出題あり


備中松山城は臥牛山の小松山に築かれた山城で、現存12天守のうち
唯一の山城に天守が残る日本三大山城のひとつでもあるお城です。


ふいご峠

車で登って来られるのはここまでです。
この先は徒歩での登城になります。
この駐車場は14台しか駐車できないのでタクシーやシャトルバスが運行しています。


駐車場

早朝に来て夜が明けるのを待ちました。
それでも先客が居たりしました。



では、ここから徒歩で天守を目指します。いざ!



ひたすら山道を進みます。
普段山城を歩き慣れているせいか道は比較的歩きやすいです。


中太鼓の丸

石垣が見えて来ると一気にテンション上がります
当時は太鼓を鳴らして情報や命令を伝達する役割をするために詰めていました。


中太鼓櫓跡

情報伝達だけでなく、登城路を見下すように櫓台を築き
櫓の手前には土塀を巡らせ最前線の守りを固めていました。



更に道は上へ上へと続いています。



自然の岩に石垣を積んで組み合わせてあります。


大手門跡

大手門は巨大な櫓門が構えられ、二の平櫓から横矢を掛ける仕組みになっていました。


大手櫓跡

左側の石垣には二の平櫓に続くように大手櫓門が築かれていました。


土塀

城郭において重要文化財に指定されている土塀は少なく、とても珍しいです。
現存する土塀を復原する形で現存と復元の境界には、よく見ると段差が設けてあります。
(手前が現存を修復したものでその先に続く長い土塀は復元です)


三の丸

雛段状の石垣も上から鉄砲や弓矢で狙うと云う守り堅固な造りが戦いの城として
考えられています。


御膳棚跡

ここは食事を作る場所です。
現在はトイレがあります。
しかし、私が注目したのはトイレの奥にある石垣。
石垣に石垣の補強でもしたかのような積み方がとても気になりました。


古い石垣

城内で一番古い石垣で、毛利氏が造らせた唯一の自然の石を積み上げた野面積みの石垣です。
石の大きさも不揃いに見えるものの、視覚効果を狙った配石であると考えられています。


二の丸

ついに天守が見えました!
二の丸は広いです。


雪隠跡

見逃してしまいそうな場所に「雪隠跡」がありました。
危うくかくれんぼしたくなりましたが、そう、これはトイレ跡ではないですか!
このような所にあるとは…。


本丸受付

こちらで入場料を支払い、百名城のスタンプを押しました。
新年3番目の来城者記念に資料や雲海サブレなどの入った備中松山城好きにはたまらない
プレゼントをいただきました。
新年からとってもハッピーです


南御門

五の平櫓と六の平櫓の間にをつなぐように設置された表門。
ここをくぐるといよいよ本丸です!
白漆喰に浮き出る漆黒の懸魚に注目です。


天守

玄関に見えない入口は、かつて八の平櫓から渡櫓を経由して天守に続く構造でした。
したがって、現在は廊下の途中から天守に入るので入口が狭く玄関ぽくないのです。


廊下

現在の天守への入口はここからですが、天守台の石垣と下見張りが見られる構造から
後から廊下が付設されたものと考えられます。


一階

一階はパネルなどの展示物と見所である囲炉裏や装束の間があります。
映像としては「紙芝居」がテレビで流れるというものもあります。


囲炉裏

籠城時に城主食事や暖房用に用いられたとされています。
天守の中に囲炉裏が造られているのはとても珍しい。


装束の間

床より一段高い部屋で、籠城時には城主の御座所とされました。
引き戸で戸を閉めることが出来るので小部屋として区切られ床下には石が敷き詰められていて
下からの攻撃が出来ない仕掛けもされていました。
いざとなったら自害の場にすることも考えられていたようです。


階段

現存のわりには登りやすい階段です。



天井は天井板が張られていません。
そのため屋根裏の骨組みがよく見えます。


御社壇

舞良戸で仕切られた部屋の中に一段高い場所に唐戸で区切られた
神棚があります。
三振りの宝剣が納められ沢山の神々を祀っています。
オールスターが勢揃いと言った感じで、ちょっと欲張り過ぎじゃない?って感じです^^;


折れ曲がり出窓

縦格子から二の丸を見下しています。



二の丸には喫煙できるあずまやが設置されています。



装束の間が載っている部分の天守台石垣が手前の石垣より高く積まれていることが
わかります。


二重櫓

備中松山城には14棟の櫓がありますが、二階建の櫓は二重櫓のみです。
残念ながら普段は中の様子は見られませんが、年に数回程度、特別公開をしているそうなので
その時を狙って訪れるのが良さそうですね。
ちなみに、現在は発掘されたものなどが保管されているそうです。
建物が払い下げになった後は山小屋として利用されていました。 


東御門

本丸の勝手口にあたる門です。


搦手門跡

小ぶりな城門があったとされますが、これだけしっかりとした石垣で造られていると
いかに偉大な城であったかが想像できます。
搦め手なのに十分立派な造りの門だったと思います。


後曲輪

二重櫓を介して行き来していた曲輪で、搦め手側にも水の手も確保された機能的な曲輪も
存在していました。

九の平櫓跡

ここからの西側の眺めも相当なもので、目が回りそうな高さを感じます。


十の平櫓跡

ここまでが小松山の曲輪としての縄張りになります。
多くの観光客はここで引き返すこととなります。
山城好きの方はこの先にもまだまだお楽しみがありますので引き続き
登城をお楽しみくださいませ。。。


大松山城跡へ

この先は更に奥にある大松山城跡へ続く道です。
籠城に備えた大池や天神社跡、天神の丸の大堀切などまだまだ見所は続きます。
大池は、かつては「血の池」とも呼ばれており、刀を洗った池という言い伝えも残っています。


帰り道

帰りには駐車場の係員さんが居て、すれ違いが出来ない道なので
この駐車場で折り返しする車の誘導をしていたのでそれに従い下って行きました。


めちゃめちゃ良い城でした。大満足です\(^o^)/
明治6年の建物の払い下げで搬出困難で取り壊しを免れたことがラッキーでしたね。
これだけの山を登って天守があるというのは二度美味しいって感じで贅沢な気分になります。
石垣だけでも見事なのにこれだけ見所があるとなると正直時間が足りません。
家から近かったら何度でも登城してしまうことでしょう。


平成30年1月4日登城





城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

足利学校(栃木県)

2018年01月13日 | その他
足利学校あしかががっこう
創建者小野篁
創建年代1668年(寛文八年)
藩校水戸藩
指定史跡日本遺産
場所足利市2338  地図

足利学校の創建は奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、
いずれにしても日本で最も古い学校として知られています。
その後、関東管領・上杉憲実が、書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧である快元を招いて足利学校を再興しました。




足利氏館から移動して来ました。


学校門

1668年(寛文8年)に創建されたものです。
門に掲げられた扁額は、紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順の書です。


孔子廟

徳川幕府4代家綱の時に造営されました。
儒学の教えを説いた孔子を祀っています。


月桂樹

海軍大将 伊東祐享手植の月桂樹。


方丈外観

平成2年に江戸時代中期に再現され、庭園と校舎を始めとする建物が復元されています。


玄関

鬼瓦の「學」の字は上杉憲実の筆跡を模写したものだそうです。
気付かなかった…


脇玄関

玄関がふたつありますがどちらの玄関からも出入り出来ません。
そして正面には孔子と高弟の四哲像が並んでいます。


方丈内部

学生の講義や学習の場となっています。


座敷

学校行事や接客のための座敷として使用されていた。


南庭園

書院庭園の形態を持つ築山泉水庭園です。


宥座の器(ゆうざのき)

壺状の器に水が入っておらず空の時は傾き、ちょうど良いときはまっすぐに立ち、
水をいっぱいに入れるとひっくり返ってこぼれてしまいます。
実際試してみると面白いです。
孔子の「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めるための
わかりやすい具体例です。


北庭園

こちらの庭園は南庭園よりも古く、格式が高い築山泉庭園です。
亀の形の中島を置き弁天を祀る祠もあります。
三回に渡って改修されていますが、現在は江戸時代中期の姿に復元しています。


衆寮

学費は無料で、学校側が学生に食事と宿舎を提供していた記録が残っています。


土蔵

大切なものを格納する耐火建築として建てられました。
周囲は漆喰仕上げで 屋根は栗板の柿葺きです。


足利学校入学証

足利学校では入場券の代わりに、入学証がもらえます。
良いおみやげにもなる入場券です。


足利学校の心は、自分から進んで学び、進んで習うことです。
子供の頃は勉強が大嫌いでしたが今になって、この進んで学ぶということが
楽しいと思えるようになって来ました。
学生の頃にそう思えたら人生変わっていたのかなあなんてことも思います。^^;



平成28年2月14日訪問



猫 LED ポインター 電池式 ペンライト 懐中電灯 両用 じゃれ猫 改良版 (PL01)
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EIISON

尾高城(鳥取県)

2018年01月12日 | 百名城以外の城
尾高城おだかじょう
別名小鷹城・泉山城
構造平山城
築城者不明
築城年代不明(鎌倉時代)
指定史跡市指定史跡
場所米子市尾高 地図


尾高城の始まりは明らかではありませんが、
16世紀前半までは山名氏支配下の行松氏が居城していました。
1524年(大永4年)に尼子経久の大軍により落城し、出雲の尼子氏の城となりました。
後には、毛利氏の家臣である杉原盛重が居城し整備したと考えられています。
江戸時代の初めに米子城が完成すると尾高城は廃城となりました。


看板



シャト―おだか

尾高城内にある宿泊施設ということで、とにもかくにも宿泊はここにと決めました。
口コミではフロントでチェックインに時間がかかるとかありましたが
そのようなことはまったくなく、スムーズで丁寧な対応でした。
尾高城のことを尋ねるとパンフレットをくれて説明もしてくれました。


眺望(部屋の窓から)

宿泊した部屋は5階で、この眺めです。
さすが城址!めちゃめちゃ良い眺めです
夜中に落ち武者が出ないかと心配でしたがそんなことはありませんでした^^;
お値段もリーズナブルなのでお勧めです。


城址碑

シャト―おだかの駐車場にある城址碑。
余談ですが、玄関前では野菜が売られていて、地元の方も早朝に野菜を買いに来ていました。
旅の途中なので野菜を買い込むわけにはいかないので、車中で食べられるみかんと干し芋を買いました。


天神丸

シャト―おだかの駐車場が天神丸です。


堀切

天神丸と南大首郭との間の大堀切です。


案内看板

捕縛された山中鹿之助幸盛が下痢と偽り汲み取り口から脱出したという逸話も残っています。


案内看板

南大首郭の案内看板。
※この看板は撤去されました。(攻城団団員ト―ダイ様確認済み)


木橋

復元された木橋。
発掘調査で東側の堀から橋脚の柱穴が発見され、出入口付近には橋が架けられていたと思われます。




とにかく草に埋もれて堀も土塁もわからなくなってしまうほど
手入れがされていません。


南大首郭

ここには土塁と建物跡が見えるはずなのですが…草ぼーぼーで何もわからないです。
この奥には中の丸もあるはずですが見渡すかぎり草草草…郭の中に入って行く気力は無です。


方形館跡

土塁に囲まれた方形館跡は城主の館があった場所です。
そして正面奥の林が本丸です。


駐車場

ここに車を置いて越ノ前郭を通って、どれだけ本丸に近付けるか挑戦です。
ちなみに本丸と二の丸は私有地なので入ることは出来ません。
このことはシャト―おだかのフロントでも告知されます。



道路から入ったこの先が越ノ前郭で、梅園になっています。


越ノ前郭

梅の木がいっぱい。
花が咲く頃にはさぞかしきれいなのでしょうね。


あずまや



小川

小川が流れていて風情があります。
せっかくなのでもう少し手入れをされると良いと思うのですが…。


木橋

ここに来るまでは草を掻き分け、道らしきところを本丸方面に下って来ました。
なんとか地図通りに本丸下の橋までやって来ました。


本丸

見上げると本丸。
この先は立入れない場所なので藪で、未知の世界です。



本丸はどうなっているのでしょうか。。。
しかしこれ以上本丸側へは行けません。(私有地につき立ち入り禁止)


伝倉庫跡

左上が伝倉庫跡でこの先は中の丸に続いているはずですが、これ以上草に阻まれて進める気がしないので
断念して帰ることにしました。


朝食後、チェックアウト前に尾高城散策に出掛けました。
夜中は激しい雨に見舞われましたが朝には雨が上がって朝散歩出来ました。
パンフレットの写真では遺構が良く残っている様子が見られます。
しかし、現地に行ってみると冬なのに草で荒れていてほとんど遺構が見られませんでした。
一度は奇麗に手入れされたのですからなんとか維持できないものでしょうか。
とてももったいない気がしてならないです。


・・・おまけ・・・

お菓子の壽城

米子インターを出てシャト―おだかを目指していたらこのような建物が見えて来ました。
近くまで来てみると、どうやらお菓子やさんのようです。
米子城を模しているそうです。気合入ってますねえ。



平成30年1月6日登城


ことりっぷ 鳥取 倉吉・米子 (旅行ガイド)
昭文社 旅行ガイドブック 編集部
昭文社

市野瀬古城(長野県)

2018年01月11日 | 百名城以外の城
市野瀬古城いちのせこじょう
別名城山・熊野城
構造山城
築城者市野瀬正保
築城年代1349年~1427年(天文年間)
指定史跡伊那市文化財
場所伊那市長谷市野瀬  地図


平惟茂の末裔、市野瀬兵庫正保がこの地に城を築き「熊野城」といい熊野森を中心に築城されました。
この地は「城山」「一ノ瀬古城」とも呼ばれ、展望が良いので物見台として使われていたと考えられています。
五代城主正光は武田信玄に属し甲州へ移り、その後一ノ瀬主水入道直繁により「一ノ瀬城」が築かれました。



一ノ瀬の集落の中にそびえる小高い山があります。


熊野の森宝篋印塔

登城口の近くには熊野の森宝篋印塔があります。
この塔は市野瀬集落の熊野宮下氏子26軒の先祖の墓として伝えられてきているものです。
様式から室町時代前期のもので、600年ほど前のものだと推測されています。


登城口

民家の裏手に登城口があります。



小道をどんどん登って行きます。


眺望

中腹からの眺望です。
一ノ瀬の集落が見渡せます。
また、見下すこの集落にはかつて一ノ瀬古城(居館)がありました。



小道はジグザグと登って行きます。
あと一息!


虎口

主郭の入口には鳥居があります。


秋葉神社

主郭に入ってすぐに秋葉神社があります。
神社の前には古城の案内看板が設置されています。


主郭

あずまやがあります。
現在は使用されていない簡易トイレもあります。



この奥に金毘羅神社、その先の空堀に架けられた橋を渡り二の郭へ続きます。


金毘羅神社





主郭と二の郭の間の堀切を渡るための橋が架かっています。
ここには木の橋が架けられていたようです。


空堀

今では浅くなっていますが、本来はもっと深く切られたものと思われます。


二の郭

こちら側は櫓台の役割もしていたと思われます。



先端に向って段々に堀も切られています。
両脇は断崖になっているのでかなり怖いです。


城山の松

この赤松は樹齢500年とも言われ、この城址に全部で7本の老木があります。
そして、天然記念物に指定されています。


では、熊野城を下って、近くの一瀬越前守直忠の墓石へ行ってみましょう。


一瀬越前守直忠の墓石(宝篋印塔)

市野瀬集落の中を流れる粟沢川は、氾濫を繰り返し、集落はたびたび洪水に見舞われ
1843年(天保14年)、名主馬場孫左衛門が藩の許可を得て、城山の南の尾根を掘り抜き、
粟沢川の流路を三峰川へ繋げるように変更する大工事を実川筋を変える大工事を行いました。
掘り抜き工事は1844年(弘化元年)に完成をみたが、その後も川筋の整備は続けられ、
最終的に工事の完了届けがされたのは28年後の1871年(明治4年)でした。
1549年(天文18年)に建立された、城主一瀬越前守直忠の墓(宝篋印塔)は、
城山に続く尾根にありましたが、粟沢川の掘り抜き工事の際この地に移転されました。



工事の際に集められた馬頭観音群。



一瀬越前守直忠の墓石方面から見た熊野城。

ずっと気になっていた一ノ瀬古城に登ることが出来、登城してみて「熊野城」ということも
知りました。(別城だと思っていました。)
ちなみに、ここに来る途中にある道の駅 南アルプスむらのクロワッサンはめちゃめちゃ美味しいです。
長谷村に行くと必ず買い込んでしまうクロワッサンは独りで何個も食べられちゃう美味しさです。
一度に20個~50個位買う人が多いので予約をして買いに行きます。
焼けるのを待って買う価値ありの美味しさですよ


平成29年12月24日登城


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

備中高松城(岡山県)

2018年01月10日 | 続百名城
備中高松城びっちゅうたかまつじょう
別名
構造平城
築城者石川久孝
築城年代1558年~1570年(永禄年間)
指定史跡国指定史跡
場所高梁市内山下1 地図
スタンプ設置場所
城郭検定出題あり

織田信長の命により豊臣秀吉が中国攻めで水攻めを行い、黒田官兵衛の策により
短期で堤を築き水没させた城として知られています。
また、本能寺の変が起きた際の「中国大返し」でも有名な舞台となった場所でもあります。


案内看板

備中高松城は、低湿地に位置する典型的な「沼城」で、敵兵や馬は攻め入ることが困難でした。
天下統一を狙う織田信長は、家臣の羽柴秀吉に命じて毛利氏の勢力圏である中国地方へ軍勢を向けました。
地の利に助けられた堅固な城に黒田官兵衛の策略により秀吉は直ちに水攻めに向けた築堤に着手し、
短期間で備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまいました。


水攻め築堤跡

本丸より高い堤を築いていました。


方位盤

陣位置などを示した方位盤があります。
暗くてよく見えません。接近して写すのが精いっぱい(>_<)


三の丸

家臣屋敷があったとされています。
公園の駐車場も三の丸の敷地内に設置されています。
また、三の丸のおおよそは清涼閣になっています。


二の丸

二の丸には蔵のようなデザインの資料館が建ち、トイレも統一されたデザインの建物に
なっていました。



沼の復元をしたら自然に生えたという「宗治蓮」があるそうですが…
とにかく暗くてわからない。
というか蓮の時期ではないので沼の真近に行ってみても葉もありません。








本丸

この奥の林が本丸です。
林の中には清水宗治の首塚があります。



午前4時半~通りすがりに訪れたため、周囲はまだ真っ暗。
夏場であれば散歩できる時間帯ではあったのですが真冬なので
さすがに暗過ぎて全体の様子はカメラに納めることは出来ませんでした。

続百名城に選ばれているのでいずれスタンプ設置がされれば訪れることになるので
今回はとりあえずサクッと訪問ということで寄り道してみました。

このような所ですと紹介したかったですが、これではとりあえず行ったよとしか言えませんね^^;
次回の訪問までお預けです。。。


平成30月1月4日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

これを持って再び訪れる日まで…。

小川城(群馬県)

2018年01月08日 | 百名城以外の城
小川城おがわじょう
別名
構造崖端城
築城者沼田景久
築城年代1492年(明応元年)
指定史跡町指定史跡
場所利根郡みなかみ町月夜野1140 地図


沼田景久が沼田城の西の構えとして築城しました。
その後二男が城主を継ぐことになるが素行優れぬ城主のため
度重なる狼藉に城を追われることとなります。
その後は兵火や城が焼かれたりしたことで子が焼死、家を継ぐ子が絶えてしまいます。
客分として城に留まっていた上方の浪人、赤松裕正はその才を認められ信頼を得て
小川可遊斎と改名、名跡となりました。
可遊斎は北条との戦で名声を残す大戦果をあげます。大敗した北条氏邦は数倍の兵力を持って反撃。
小川城は激戦苦闘の末城は焼かれ多数の死者を出し、可遊斎は越後路へ敗走しました。
後に真田昌幸の配下となった小川城は真田伊賀守信澄が五代沼田城主を継ぐことになると小川城は廃城となりました。


古城沢

城の東側、ささ郭下を流れる川に架かる橋には
古城沢と云う文字が。
下から見るとそれほど険しいようには見えません。


登城口

国道291号線側にやって来ました。
自動販売機が置いてある小屋横に堀を下る道があります。
堀の中に本丸へと続く道があります。



本丸の堀(左側)



本丸の堀(右側)
結構深い堀です。



本丸堀に付けられた道を登って本丸へ。



本丸に出ました。
城址碑や案内看板、あずまやがあるのが見えます。


あずまやと案内板

案内板には「小川城由来」が細かく記されています。


あずまや

ここで持参した「紅茶のタルト」と「抹茶のタルト」を食べて休憩。
普段から登城をする時はおにぎりやお菓子を持って登城しています。
だから山城行っても痩せられません^^;


石垣

あずまやの裏には土塁があり、低い石垣も積まれているのが確認出来ます。


土塁

案内板裏のに土塁が残っています。



この柵沿いに真直ぐ進むと城址碑の前に出ます。


城址碑

とても立派な城址碑があります。


ささ郭

城址碑奥の一段下がった所がささ郭です。



ここからの眺めが良いです。
眼下には大きなヤマキの麺つゆ工場が見えます。



ささ郭は現在はあじさいの木が植えられていて、花が咲いているときに訪れたら
奇麗なんだろうなと想像できます。


石垣

崩れかけていますが本丸とささ曲輪の間の土塁に石垣が少し残っています。



この斜面には土塁とともに石垣もあったのでしょう。


断崖

ささ郭は三方は崖になっています。
下から登って来るのは困難です。



名胡桃城に似た形状です。



えぐれているのではないかと思われる断崖です。
下を覗き込むのが怖い(>_<)


本丸址

本丸址の看板があり、土塁の上に祠があります。


二の丸址

国道291号線を挟んで二の丸址があります。
本丸と二の丸は道路で分断されています。


二の丸濠址



真田伊賀守陣屋址

民家の隣の畑の中にこの看板があります。
1638年(寛永15年)より18年間五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住しました。


国道291号線は今までに何度か通っているのですが、このような城址があったとは
まったく気付かづに通過していました。
というか意識していなかったので気付かなかったのでしょう。
しかし、私が城址散策をしている間に数人訪れたので、わりと注目度は高いようです。
大河ドラマの真田丸の影響だったり、駅からも近いという好条件があるから
でしょうね。


平成29年12月16日登城

沼田城ペーパークラフト<日本名城シリーズ1/300>
ファセット
ファセット

一之宮貫前神社(群馬県)

2018年01月03日 | その他
一之宮貫前神社いちのみやぬきさきじんじゃ
造営者徳川家光
造営年代1635年(寛永12年)
指定史跡国指定重要文化財
場所富岡市一ノ宮1535 地図 


一之宮貫前神社は約1500年の歴史を持ち、
現在の本殿は三代将軍徳川家光公の命により造営されました。
古くは、531年(安閑天皇元年)に武神である経津主神と農耕と
機織の神である比売大神が祀られています。


参道

初詣にやってきました。
屋台が出ています。今年は屋台の出店数が少ない気がします。


階段

たまに登ると結構キツイ!
普段訪れると、ここで学生が階段の昇り降りをして身体を鍛えています。
身体を鍛えるためにはもってこいの階段です。


鳥居

立派な鳥居が見えて来ました。


総門

本殿よりも高い位置にある入口。



本殿に向って階段を下ります。
普通神社は下から階段を登り本殿に辿り着くというものですが、
ここ、一之宮貫前神社は総門から本殿まで下って行くという珍しい造りになっています。


末社「月読神社」

階段を下っていると、左手に月読神社があります。
この社殿は寛永12年以前の旧御本社拝殿を牛王堂として使用し、
明治維新以降月夜見命をお祀りして「月読神社」と改称しました。


井戸

手水舎後方には井戸があります。


拝殿

「平成大修理」として国宝宇佐神宮本殿保存修理工事が行なわれ後なので色鮮やかな状態です。
日光東照宮と同じ職人さんの手によって造られたそうです。
装飾や豪華な色使いなど日光東照宮に通じる造りがここで見ることが出来ます。


社殿

本殿の構造は単層二階建の「貫前造」という独特な社殿形式になっています。


雷電小窓

本殿の下懸の右下に見える小窓が「雷電小窓」です。
境外摂社である稲含神社のある稲含山の方角を向いています。



江戸初期の極彩色総漆塗りの精巧華麗な造りが見事です。


三重塔礎石

宝物館東側にある三重塔の礎石。
このようなものがあったことに今までまったく気が付きませんでした。



ここにはかつて三重塔がが建てられており、薬師堂、観音堂、六角堂、鐘楼等の諸堂が
軒を並べていました。
天保12年に灯篭の火事により焼失してしまい、その後再建の声が上がったのですが
再建は叶わず礎石だけ残りました。


一ノ宮氏館

県立社会教育会館が建つこの地は、かつて一ノ宮氏館跡だった場所です。
郭には堀や土塁が残されています。


石碑

県立社会教育会館の門の袂にある文化庁の「登録無形文化財」の記念碑。


石碑裏

寄贈されたこの石は宮城県で採石された「伊達冠石」という名の石です。


眺望

貫前神社から東に続くこの場所は神主の尾崎氏が住み、戦国期には一ノ宮氏が住んでいました。
ここから見渡すと小幡氏の国峰城や、正面の小さい三角の山のてっぺんには(望遠で見ると)
一郷山城が見ることが出来ます。


毎年午後の一番日差しが暖かい時間に初詣に来るのですが、今年は午前中に来てみました。
午前中は比較的空いているそうで、いつもは嫌になるほどの行列でクタクタになって
いろいろ見て歩く余裕も体力も残っていないのですが、行列に並ぶことなく
スムーズにお参りが出来たので初めて宝物殿も見学して来ました。


平成30年1月2日参拝


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