むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

秋田城(秋田県)

2016年07月29日 | 続百名城
秋田城あきたじょう
別名最北の古代城柵官衙遺跡
構造古代城柵
築城者大和朝廷
築城年代733年(天平5年)
指定史跡国指定史跡
場所秋田市寺内大畑 地図
スタンプ設置場所秋田市立秋田城歴史資料館・史跡公園管理棟
城郭検定出題あり

秋田城は出羽国秋田にあった日本の古代城柵であり、奈良時代に庄内地方の出羽柵が秋田村高清水に移転したことで後に秋田城と改称されました。
朝廷によって設置された城柵としては城柵の中では最北に位置するもので、外交の拠点として重要な位置にありました。
出羽国秋田にあった日本の古代城柵。
現在は「高清水公園」となっています。



外郭築地

門の横に続いている土壁は築地とよばれています。
土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られています。
復元した築地の端は途中で切れていますが、実際は秋田城の回りを囲んでいました。
城柵の基本構造は築地塀で覆われた外郭と政庁を囲む内郭との二重構造から出来ています。


鵜ノ木地区

古代沼



平安時代の井戸




今でも水が湧き出ている。


古代水洗厠舎跡

水洗トイレ
個室の床下の便槽に溜まった汚物を木樋を通して沼に排水する仕組みになっている。

木製トイレットペーパーや寄生虫卵などが出土されている。
この日は早朝に訪れたためか扉が開いておらず、中を見学することが出来ませんでした。残念…。


住居跡

掘立式の建物が東西、南北に整然と並び井戸も造られていた。


天平の井戸

この井戸は、加工した厚い杉材を円形に組み合わせて造られています。
奈良時代の733年頃に造られたものと考えられます。


かまど跡

こちらからは煮炊き用のカマドや食器類が見つかりました。







政庁第一期模型

733年~770年頃 「出羽柵」創建
大規模な盛り土による整地を行い、政庁内の正殿は白壁で床には塼(古代の煉瓦)が敷き詰められていて、政庁を囲っていた築地塀の屋根には煉瓦が葺かれていました。


政庁第二期模型

770年~800年頃 
降雪や凍結など厳しい冬の気象条件により崩壊した第一期の築地塀(北半分)を築き直し、屋根は煉瓦から板葺に変えました。
南半分の築地塀は布堀と呼ばれる溝状の堀込みの中に、木材を隙間なく立て並べた木材列塀に変えました。


政庁第三期模型

800年~830年頃
政庁域全体を再度整地、全面的に改修を行った。
主要建物の規模も構造も変わり、区画施設も北側の築地塀をやめて南側の材木列塀とともに等間隔に柱を立て並べ、横材でふさぐ一本柱列塀に変えました。


政庁東門

これより先は秋田城跡で最も重要な政庁内となります。


正殿跡

定期的に貢物を持って訪れる蝦夷の人々を迎え、味方に引き入れる目的で位階や布などを与えたり、宴を催したりしていました。
外国からの使節を迎えての儀式も行われていたと考えられています。


駐車場とトイレ

外郭東門沿いの道路反対側にあります。


駐車場付近

現在も発掘調査はつづく。



平成28年7月17日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

久保田城(秋田県)

2016年07月27日 |  百名城
久保田城くぼたじょう
別名矢留城
構造平山城
築城者佐竹義宣
築城年代1603年(慶長8年)
指定史跡- 
場所秋田市千秋公園 地図
スタンプ設置場所 秋田市立佐竹資料館・久保田城御隅櫓
城郭検定出題あり

1603(慶長8年)に築城され、翌年には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入りました。
それと同時に旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
久保田城は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であり、
国替えによる財政事情や、徳川幕府への遠慮などから天守閣は最初から造りませんでした。
現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、桜の名所としても親しまれています。



長坂門跡

長坂門は本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていました。
現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していました。
長坂の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものです。


排水路

下を見ながら長坂を登っていると、石垣の石を切り込んで排水路が造られているのが
目に留まりました。
これ、なかなかすごくないですか!


御物頭御蕃所

御物頭御蕃所は、久保田城内で旧位置のまま残っている唯一の建造物です。
秋田藩の蕃方に属する役職であり、配下の足軽を指揮して二の丸門(長坂門)の開閉と城下一帯の警備を行っていました。
1758年に焼失したのち再建され、1778年以降の火災では類焼を免れたことから建築年代は18世紀後半と考えられています。



休憩所、台所、便所が配置されています。



南側14畳の部屋では、物頭が詰めて登城者を監視していました。


中二階

中二階には8畳の部屋があります。


本丸表門

内側から見た本丸の正門です。一の門とも呼ばれていました。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点として厳重な守りを固めていました。


表門礎石

表門礎石は、表門を再建した位置にありましたが、展示のため現在の位置に移動させたようです。


本丸跡

本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平にして造られています。
政庁である政務所が設けられていて、中央部には藩主の居住である本丸御殿がありました。


佐竹義堯公銅像

最後の藩主で戊辰戦争では、新政府方に属して戦い明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。


御鷹屋御蕃所跡



御隅櫓

現在は、鉄筋コンクリート造りの三層櫓です。
当時は物見や武器の貯蔵庫などに使われていました。



本来は二重櫓であったが、市街地が一望できる展望室を加えました。



多聞長屋跡

土塁の上を多聞長屋と板塀で囲んでいました。



埋門跡

出入口は表門、裏門、埋門、帯曲輪門の4門に、御隅櫓に通じる切戸口がありました。


帯曲輪門跡



胡月池

雪見灯篭や噴水が趣を添え、大賀ハスが咲いています。


裏門跡

二の丸から本丸へと続く門の一つで主に夜間の出入りの際に使用した重層門の跡。
二度の火災で焼失し、そのつど再建され、明治13年の本丸の大火では焼け残ったが、移築・改修されて、鱗勝院(旭北栄町)の山門になったと伝えられています。
現在は柱を支えた礎石が残っています。


茶室「宣庵」



舟形の手水鉢

茶庭に設置された舟形の手水鉢は、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮から持ち帰り、大坂城内にあったものを石田三成のはからいで佐竹東家に贈られたと伝えられています。



平成28年7月17日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

岩槻城(埼玉県)

2016年07月23日 | 百名城以外の城
岩槻城いわつきじょう
別名岩付城
構造平城
築城者太田道真 または 太田道灌 
築城年代1457年(長禄元年)
指定史跡県指定史跡
場所岩槻市太田 地図


本丸、二の丸、三の丸などの主要部は現在市街地に位置しています。
本丸は現在の国道沿いのガソリンスタンドに位置し、本丸の碑と立て札はガソリンスタンドの敷地内にあります。


三ノ丸の碑

国道沿いの消防署の敷地角にあります。


入口



道灌橋



鍛冶曲輪跡

別名「白鶴城祉碑」が建てられいる。
太田道灌がこの地を視察した際に、二羽の丹頂鶴が舞い降りたことを吉兆としてこの地を城として定めたという由来らしい。


鍛冶曲輪虎口跡

土塁、空堀、馬出しの遺構が残されている。


新曲輪の碑



裏門

薬医門形式で左右の本柱に記された墨書銘により明和七年に修造され、建築年代がわかる貴重な遺構である。
廃城後、民間に払い下げられたのですが昭和五十五年奇贈されこの地に移築されました。


黒門

長屋門形式で廃城後県庁の正門として利用されていたが、昭和四十五年この地に移築されました。



岩槻城址公園の菖蒲池
水堀の役割をしていた。


八ッ橋

岩槻城址公園のシンボルと言える橋。
愛知県の杜若の名所である「八橋」からつけられたのではないかと言われている。


障子堀跡

新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀で、発掘調査の結果堀底まで3m程埋まっていて、堀底には畝状に造られた障子堀があることが確認されています。
岩槻城跡には三基見つかっており、戦国時代の終わり頃後北条氏によって造られたことが判明しました。


鍛冶曲輪の空堀




平成28年7月22日  再登城


おまけ


公園内に展示されているロマンスカー「きぬ号」


噴水


からくり時計


そしてこの日、ポケモンGOの日本配信日でした。
早速城内でポケモン探しをした結果沢山のポケモンとポケストップを発見しましたよ(*^_^*)




城跡には沢山のポケモンやポケストップが設置されているようなので各地のお城で楽しんでみようと思います。
もちろん、他の観光客等の迷惑にならないことと、マナーを守って行動するよう心がけます!


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クリエーター情報なし
写真工房







真田氏本城(長野県)

2016年07月21日 | 百名城以外の城
真田氏本城さなだしほんじょう
別名真田氏館
構造山城
築城者真田幸綱
築城年代1532年~1555年
指定史跡市指定史跡
場所上田市真田町長 地図



この小高い山に真田氏の本城跡があります


駐車場

民家の建ち並ぶ細い道を登りきったところに駐車場とトイレが設置されています。
以前訪れた時(十何年前だっけ?)よりきれいに整備されていて、トイレまで設置されているのはとてもうれしい。


入口

こちらが入口


堀切

南尾根筋に5本ほどの堀切があったようです。



ここから本郭、北方に向けて二の郭、三の郭と段差を設けながら延び出し、その先は急崖となっています。


石仏

六文銭のごとく並べられた賽銭がおもしろかったので撮影しました。


本郭

2mほどの土塁が築かれています。


本郭の土塁



本郭からの眺め

眼下に小県を見渡せて、上州道を押さえ、水を引くことなどしていることから
真田氏の本拠としてふさわしいとされ本城としたことが書かれています。


二の郭

細長く続く郭


縄張図

「天白城」、「真田氏館跡」、「砥石城」、「松尾古城」を望むことができます。


三の郭




三の郭の先端まで来ました。
この先は急な崖になっています。
こちら側から登って来るのは困難です。
真田氏の城はこのような地形を好んで築城していたように思えます。


虎口

虎口という札があるのですが、わかりずらい。


石積

石垣などはありませんが、よく見て歩くと石を積んだ所が少しだけ残っている場所があります。



本郭の土塁を下り、駐車場への帰り道。



大河ドラマ「真田丸」のロケ地
ここで出演者&政策統括の取材会見が行われたそうです。


トイレ



近年の城ブームや大河ドラマ「真田丸」などのテレビの影響もあってトイレや駐車場の整備がされている城跡が増えていることは喜ばしいことですね。



平成28年7月10日再登城


おまけ

稲倉棚田
信州上田真田一族の郷にあるのどかな田園風景


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真田邸~新御殿~(長野県)

2016年07月15日 | その他
真田邸さなだてい
別名新御殿
構造城外御殿
建築者真田幸教
建築年代1864年(元治元年)
指定史跡国指定史跡
場所 地図


9代藩主の義母の住まいとして1864年に建てられた外御殿

参勤交代制度が緩和され、藩主の妻子が国元へ帰ることが許され真田幸教の義母「貞松院」のために御殿を建てたのですが、
翌年再び参勤交代制度が復して江戸に戻ることになり、その後は藩主の座を退いた幸教の隠居所として使われました。


100名城「松代城」のスタンプはこちらに設置されています。




配置図

御殿には35の部屋があり、外部の人間が出入りするの部分と、生活の為の私的なの部分とに分かれています。




表座敷

「お祝いの間」と呼ばれていました。
訪問客との対面が行われた部屋と考えられています。



中庭

こちらはシンプルですが趣があって落ち着きます。



杉戸

来客用の表の空間と生活のための奥の空間を分けるための杉戸があります。




御寝所

主人の寝室にあたります。
床は寒さをふせぐため二重に造られています。




紙の天井

忍びが天井裏に登れないよう対策された天井だそうです。
鎗で突くのも板と違って容易です。
唐紙は当時のままです。




廊下には鎗を掛けていた場所もあります。




部屋の中を歩いて奥に進みます




御化粧の間

藩主の家族の女性のための私的な部屋です。




御湯殿

土間の部分には湯船が置かれ、右側は湯を流せるように傾斜が付けられています。




西雪隠

主人用のトイレです。



手洗いの間

トイレの隣には手を洗う場所があります。




縁側

ここで一休み。
ここから庭を眺めると落ち着きますねえ。ホッ。




庭園

「水心秋月亭」と名付けられています。




硝子が入った障子はここだけ。
部屋の中から庭を眺められるよう付けられたそうで、当時は硝子を造る技術がまだ未熟だっため、
近くでよく見ると歪んでいたり、空気を注入した小さな穴が残っているそうです。




御居間

主人の私的な部屋で、とにかく庭園を堪能できる部屋です。



最後に…
こちらにもボランティアガイドさんがいらっしゃるので是非ご利用を。
パンフレットや案内看板だけでは知り得ない話がいっぱい聞けますよ。


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松本城(長野県)

2016年07月03日 |  百名城
松本城まつもとじょう
別名深志城
構造平城
築城者石川数正、石川康長
築城年代1593年(文禄2年)~1594年(文禄3年)
指定史跡国宝 国指定史跡
場所松本市丸の内4-1 地図
スタンプ設置場所松本城管理事務所
御城印松本城管理事務所
城郭検定出題あり

松本城は戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりで、
現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城です。
1504年小笠原貞朝が築城し深志城と称しました。
長篠の戦いの後は松本城と改称し、現在の城郭は石川氏により築かれました。
城主はたびたび交替し、1725年に戸田氏が入り明治に至りました。



太鼓門



太鼓門枡形

二の丸の大手口で、東面に設けられた枡形。
手前の大きな石は玄蕃石と言われ高さ4m、推定重量22.5tもあります。


黒門(二の門)

本丸に入る正門で枡形になっています。
樹齢400年の檜と、梁は140年の松を使用しています。


黒門(一の門)

朝8:30の開門の際、門の前に並んで待っていると「御開門~」と叫びながら門を開けてくれます。
入ると左側に券売所がります。



門の柱には装飾がされていて、壮麗さを誇っています。


天守閣入口




入口左手には天守に続く階段。
見学順路があるのでここでは直接天守側へは行かず、乾小天守側から進んで行きます。


乾小天守1階内部

丸い柱は最初に建てらたころのもので4百年以上経っています。


天守1階内部




天守2階への階段。
そして最も急な階段は天守4階のから5階への階段で、
勾配がなんと61度もあります。
1段の高さも40cm近くあるので上の階に登るほど危険な階段です。(>_<)


石落しと狭間

石落としは11箇所、矢狭間は60箇所、鉄砲狭間は55箇所も備えられています。



天守3階への階段




天守5階内部

破風入込の間


天守最上階

本来は回縁を造る予定だったが、降雪や寒冷地であるため設計変更をして回縁を中室内に取り込んだため、外観も下の階より
大きな造りになっている。


二十六夜神

天井は井桁梁で、松本城を守る二十六夜神様が祀られています。


天守4階御座の間

有事の際、城主の御座所とされる場所。
書院造り風で御簾で仕切られている。


辰巳附櫓の花頭窓



月見櫓

月見をするための櫓で朱塗りの回縁や船底形をした天井は開放的な造りです。



月見櫓からの眺めです。








氷彫フェスティバル






平成22年8月1日登城
平成28年7月2日登城
平成31年1月27日登城


城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社