むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

沢良宜城(大阪府)

2023年10月30日 | 百名城以外の城
沢良宜城さわらぎじょう
別名
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市美沢町14−32 地図

室町幕府三代将軍足利義満は、子の義持に将軍職を譲って
6年目にあたる1399年(応永6年)、堺港へ進出してきた大内義弘を攻めました。
沢良宜城主藤井三位は義持将軍から「御馬廻り免状」をもらい、出陣しています。
当時の沢良宜勢は約三千坪の城を中心に相当な力を持っていたようです。
しかし、沢良宜城は応仁の乱の頃には廃城になったと伝わります。



美沢公園

美沢公園に沢良宜城の城址碑と案内看板が設置されています。



山田13城のひとつとされている城ですが、詳細は解っていません。


馬場

沢良宜城跡の東側に隣接する、細長く伸びた沢良宜神社の境内は、
かつて城の乗馬訓練に使用されたという馬場があったとされています。


船頭の樋

城の東側に天然の堀としていた茨木川の名残が見られます。
昭和に入って度々ある茨木川の氾濫に悩まされてきた住人と
その市町村が河川改修を訴え、昭和24年に廃川となり現在は元茨木川緑地となっています。
廃川となった場所にあった橋や樋の場所がこのように残されています。
時間に余裕があったらこちらも合わせて散策されるのもお勧めです。


令和5年7月16日登城




日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.05 【4つあった天守】

2023年10月27日 | むぎとうしの歴史さんぽ
日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ Part.05 【4つあった天守】



今回は天守が4つあったという伏見城について紹介致します。

来週は甲斐の国でドローン撮影した【城郭空撮シリーズ05】をお届けします。
お楽しみに!


【お城の授業シリーズ 01限目】お城の歴史について

2023年10月20日 | むぎとうしの歴史さんぽ

新しいシリーズが加わりました!
お城についてみんなと一緒に学んでいけるといいなと思って制作しています。
宜しくお願い致します。



【お城の授業シリーズ 01限目】お城の歴史について
【お城の授業シリーズ 02限目】縄張りについて
【お城の授業シリーズ 03限目】堀りについて



田口城(長野県)

2023年10月13日 | 百名城以外の城
田口城たぐちじょう
別名田ノ口城
構造山城
築城者田口氏
築城年代室町時代末期
指定史跡
場所長野県佐久市田口 地図

田口城は、龍岡城の北東にある山頂に築かれた山城で
北に平賀城、南西に稲荷山城が視野に入る立地で、
眼下には龍岡城の全容が見える場所に位置します。
また、城域に龍岡城を見下ろす展望台が設置されており、星形の五稜郭の見学スポットとなっています。



登城口

県道120号線(三分中込線)から行ける、田口城までの林道があるので
車で行く方はこちらからどうぞ。
但し、道は途中から舗装がなくなりますので、車高の低い車や大型車はあまりお勧めできません。



集落を離れ、山へ向かう道を進んでいると「五稜郭展望台」の看板があるので
看板に従ってすすみます。
これより先は道が荒れます。


駐車場

林道をどんどん登って行くと左手に駐車場が見えて来ます。
駐車場としての整備(白線を引くなど)はされておらず、すれ違いのスペースのように
見えてしまうので、つい通り過ぎてしまいますが終点まで行ってしまうと行止りに
なってしまうので、五稜郭展望台だけに行きたい方はこの場所を見逃さないように
注意して進んで下さい。(Pの看板あり)


登山道

駐車場と五稜郭展望台入口までの間に、麓の蕃松院に隣接する登山口から登って来る道と
合流する道があります。
龍岡城から徒歩で来た場合はこちらの道を使用することになります。


展望台入口

展望台入口の看板があるので見逃さないように、
そして看板の通りに進んで行くと辿り着きます。



途中看板があるので迷うことはないと思います。
そして周囲には幾重にもある郭が見えます。



小さな郭内で道が分かれていますが、看板通りに進めば迷うことはありません。


展望台

下方に展望台が見えて来ました。
展望台と言っても建物に登るというイメージとは違います。


眺望

眼下には星形の龍岡城が見えます。


龍岡城

本当にきれいな星形しているんですね。


稲荷山城

南西2km先にある稲荷山城もよく見えます。



展望台を後にして、更に林道を進みます。
展望台入口付近から既に城域に居るようなもので、沢山の小さな郭が
あちこちに見えています。


城山自然研究園

林道の終点には城山自然研究園という建物があります。
この建物の裏手が田口城の主郭になります。



まるで石畳のように敷かれた石を踏みしめ、更に道を登って行きます。


主郭

登り切ったところに平場があります。
ここが主郭になります。



不整六角形の主郭と、主郭の周囲をよく見ると石積の補強がされているのが
ここに登って来るまでぼ間にちらほらと見ることが出来ます。


大井氏神

そして、主郭には大井庄の氏神である石祠が祀られています。


二の郭

主郭から西に向かって二の郭、三の郭と沢山の郭が連なっていて
その数は…ちょっと数えられない…(^^;


腰郭

南西側は腰郭で構成されています。
こちらは斜面もキツイ立地になっているので細長い郭を幾つか築いて防御としています。


石積

林道側から見える主郭の外層にある石積です。



所々に見られる石積は平な石の組み合わせで重ねられています。




主郭の北側は堀や土塁で遮断しています。



林道の北側、道下にも北の郭が展開されており、
こちらにも多くの郭が構成されています。

田口城内にある龍岡五稜郭の展望台は一般の方まで見学に来られる場所で
林道も油断していると普通に人が歩いていたり、オフロードバイクなどに行き会うこともしばしば。
龍岡城でもこちらの展望台の案内がされていますので、星形の龍岡城全容を見たい方は
田口城も合わせて見学されるのも良いかと思われます。
また、山登るのはイヤよよいう方は、

こちらのドローンによる動画をお楽しみいただけたらと思います。
毎週金曜日に動画を配信しておりますので、良かったらチャンネル登録をしてご覧いただけたら幸いです(^-^)


令和3年9月12日登城
令和5年9月10日再登城


今回の参考本



水尾城(大阪府)

2023年10月09日 | 百名城以外の城
水尾城みずおじょう
別名
構造平城
築城者平尾孫左衛門
築城年代1480年(文明12年)
指定史跡
場所大阪府茨木市水尾3丁目3−9 地図

水尾城は、応仁の乱で全焼した紫雲山西方浄土寺の焼跡に造営された中世城郭です。
平尾孫左衛門は三好三人衆に属し、美濃の斎藤妙椿が没したあと主家斎藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、
斎藤家と離れて西方浄土寺の焼跡の高瀬川に沿った一画に、新しく環濠の砦を築きました。
現在は水尾小学校の西、水尾図書館の北にある伯光神社の境内に石碑があるのみで遺構は残っていません。



伯光神社

この祠は伯光神社といい、伯光大明神が祀られています。
天保6年(1835年)の同社由来書によれば、当地の奥田家の長屋門新築の地鎮の儀に際し、
稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っているとのお告げをうけ、
奥田四郎左衛門ほか4名が講元となって祀ったといいます。
なお前年の天保5年夏の大旱害に村人達は藁でつくった竜をこの大樹に天に向かって這わせ雨乞いをし、
その恵みをうけ、その霊感をえたのでしょう。
その後幾度かにわたり旱害の折、祈りと願いが続けられてきました。
竜は藁束を縄で巻き、長さ5間程(約9メートル)の胴を作り、
鱗として琵琶の葉を一面に挿し、眼や歯は茄子、ヒゲや手足は竹で型どり、
大きく開けた口からは薄くはいだ青竹の皮で風でゆらぐようにつくられました。
頭部は辰巳の方向に延びた枝に置き、尻尾は水をたたえた酒樽に浸し、
立てた高張提灯の灯で照らし出し夜通し竜に水をかけて祈る。
このように7日間昼夜祈りつずけても、雨の降らない時は、その竜を高瀬川に流し、
もう一度新しい竜を作りなおして再び祈りつずけたといいます。
祈願の功あって雨に恵まれた時は、太鼓の合図で
「テントのおかげ、ヒヤクに米1斗5升」といって村人が神酒を酌み交わして、
神に感謝し、喜びを共にしました。
この地が灌漑用水に苦労する土地であった事が特異な雨乞い習俗を生んだ一因であろう。
この行事は、昭和22年(1947年)の大旱害を最後に、このような催しは途絶えました。
それは淀川を経て琵琶湖の水を利用する灌漑用設備が整ったためです。
現地看板より



楠木

この木は茨木市が保存樹として指定した木です。
稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っている
とのお告げをうけたという御神木のようです。



児童公園にもなっている伯光神社の境内。
こじんまりとした神社ではありますが、とても綺麗に管理されています。


城址碑

この城址碑、正面から撮影するの難しいです。
フェンスの隙間から撮れないものかと、屈んで狙って見たものの
石碑全体を写そうと思うとやはり無理があり、正面からはフェンスが入らない写真は撮れませんでした💧



フェンスと城址碑の間って、これしかないのです。
人ひとりしか通れない・・・

肝心なお城の縄張や詳細も分からず・・・でした。


令和5年7月16日登城





日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

2023年10月05日 | むぎとうしの歴史さんぽ
毎週金曜日が動画公開日です!
日本の城郭 面白・残念ネタシリーズとドローンによる城郭空撮シリーズを交互に配信しています。
面白い!と思った方はぜひ、チャンネル登録もお忘れなく



Part.06 【岡崎城】
part.05【4つあった天守】
part.04 【食べれる城】
part.03 【おんな城主 おつやの方】 
part.02 【昭和期以降に燃えた天守】
part.01 【徳島城】








原田城(大阪府)

2023年10月04日 | 百名城以外の城
原田城はらだじょう
別名摂津原田城
構造平山城
築城者原田氏
築城年代鎌倉時代~
指定史跡市指定史跡
場所大阪府豊中市曽根西町4丁目4−14 地図

原田城は、原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で
「北城」と「南城」の2つの城から成り立っていました。
原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていました。
1579年(天正6年)荒木村重の謀反が勃発し、織田信長の軍が
有岡城攻めの際に陣として一時的に利用したと伝わります。
この時城は大改修されたことが発掘調査で判明しています。



旧羽室家住宅(原田しろあと館)

こちらが北城と呼ばれる場所に当ります。
現在は旧羽室家住宅として土曜・日曜を中心におよそ月8日間、
正午から午後4時に一般公開されています。
敷地の中には土塁が残り、見学も可能です。



西側に入口があるかのように見えますが、こちらから入ることは出来ないので
東側にある入口へ回ってください。
発掘調査により堀跡も発見されていますが見ることは出来ません。
主郭には本来土塁が巡り、堀が巡っていたのですが
信長が陣としての使用を終えた際に、土塁を崩しその土で堀を埋め、
城を破却しています。


この日は、旧羽室家住宅の公開時間に訪れていなかったため
残念ながら中へ入ることが出来ず土塁の見学等は出来ませんでした。
またの機会に見学出来ればと思います。


令和5年7月15日登城

今回の参考本



榎並城(大阪府)

2023年10月02日 | 百名城以外の城
榎並城えなみじょう
別名江波城・十七箇所城
構造平城
築城者三好政長
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所大阪府大阪市城東区野江4丁目1−39 地図

榎並城は、榎並壮にある淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つであった。
水路の要衝に位置するだけに水害に悩まされる土地でもありました。
南北朝後期1368年(正平23年)には、楠木正成の子、正儀も在陣したことが伝えられています。
戦国時代には、細川氏の内紛で摂津各所で内乱が頻発し、細川氏に対立する三好長慶が
1549年(天文18年)の柴島城による細川晴賢・三好政長を攻めで榎並城へ敗走させています。
正勝が城内を守っていましたが、江口の里に出陣した政長は、十河一存らに攻められ、
政長は討死、正勝は榎並城を捨てて摂津瓦林城へと逃れました。



城址碑

榎並小学校の校門脇にある城址碑と案内看板です。
城址碑側面には説明も刻まれています。


案内板

猿楽発祥の地と榎並城址のことが描かれた看板が城址碑とともに設置されています。


野江水神社

榎並城を築城している最中にも水害に見舞われ、それを鎮めるために三好政長が守護神として
城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと伝わります。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際には、国家泰平を祈願したとの伝承が残っています。


令和5年7月15日登城

今回の参考本



城郭空撮シリーズ

2023年10月01日 | むぎとうしの歴史さんぽ
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