むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

富山城(富山県)

2017年09月29日 | 続百名城
富山城とやまじょう
別名安住城・浮城
構造平城
築城者水越勝重 
築城年代1532年
指定史跡
場所富山市本丸1―62 地図
スタンプ設置場所富山市郷土博物館
御城印富山市まちなか観光案内所
城郭検定出題あり

富山城は堀と松川に囲まれ、かつて浮城と呼ばれていました。
かつては佐々成政の居城であり、江戸時代には富山藩・前田家の居城でした。
現在は「富山城址公園」として整備され、富山市民の憩いの場となっています。



駐車場

城址地下に駐車場。
エレベーターで出て来た先は…本丸。


千歳御門

富山城で唯一の現存建造物です。
総欅造りの三間薬医門で、東京都の東大の赤門(旧加賀藩屋敷御守殿門)に並ぶような
加賀藩らしい貴重な江戸時代の建造物です。


本丸御殿跡



佐藤記念美術館

富山城隅櫓を模したとされる建物に、砺波市の実業家佐藤家のコレクションを展示しています。
日本庭園も奇麗です。


本丸亭

明治中期に飛騨高山の永田家に建てられた茶室「碌々亭」という表千家11代の碌々斎が
完成させたという茶室がこの門の奥にあります。
実業家で茶人の佐藤氏が譲り受け、その後富山市が佐藤家から寄付を受け現在に至ります。


前田正甫像

前田利次の次男で丸薬反魂丹(はんごんたん)持ち歩き江戸城内で大名たちの腹痛を
治めたとされ富山の薬売りのきっかけになった人物である。


鉄御門桝形

見事な桝形と鏡石が印象的な場所です。
ここの石垣には鳩がとまって何かをつついています。

石垣の間に何かいるのでしょうか。


多門櫓石垣

安全と保護のために残念ながら登ることは出来ません。


算木積みの石垣

算木積みはこの角がたまらない~


水堀

浮城というだけあって水堀に囲まれています。
野面積みと算木積みの石垣も奇麗です。


土橋と模擬天守

昭和20年8月2日未明の空襲によって壊滅的な被害を受けた富山市街の復興を願って
建てられた模擬天守の外観は彦根城と犬山城を参考にして建てられたそうです。


多門櫓石垣

カラフル?が印象的な石垣。


富山市郷土博物館(模擬天守)入口

ここでチケットを購入していざ入城です!


千歳御門の鬼瓦

郷土博物館内に展示されている瓦と鬼瓦。









この扉はダミーです。
内側は壁で外側に扉がついているとは思いませんでした^^;


佐々成政歌碑



石垣



富山城石垣の石材

刻印石や礎石が集められています。




続百名城に登録された富山城。
模擬天守があるということで訪れてみたいと思っていて、予定ではこの日は
七尾城へ向い、翌日に訪れるつもりで計画していました。
大型台風が接近中ということことがあり、宿泊もキャンセルして
急遽予定を変更して前倒しで七尾城に行く前に訪れました。
とはいえ、富山城は初めての登城なので時間をかけたく郷土博物館が開く前に
早めに到着して周囲を散策、その後郷土博物館を見学する順番で観て廻りました。



平成29年9月16日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

高岡城(富山県)

2017年09月28日 |  百名城
高岡城たかおかじょう
別名
構造平城
築城者前田利長
築城年代1609年(慶長14年)
指定史跡県指定史跡 県重要文化財
場所 高岡市古城 地図
スタンプ設置場所 高岡市立博物館(鍛冶丸跡)
城郭検定出題あり

高岡城は加賀前田家2代目前田利長の隠居城として、1609年(慶長14年)に築かれました。
利長の居城であった富山城が炎上したことにより、高岡への移転・築城をしました。
設計(縄張)は築城の名手といわれた高山右近の手によるといわれています。
現在、高岡古城公園は全国的にも珍しい水濠公園としてその風情を伝えています。


高岡古城公園碑

5年前に百名城のスタンプを押しに訪れた時と少し変わっているような…。


案内看板



内濠

高岡城は外濠と内濠を水で囲まれた縄張りです。


土橋

当時本丸は濠に囲まれており、本丸への進入路はこの土橋しかありませんでした。



石垣を見るためにはここを下って下から見ると土橋の石垣全体が見られます。


石垣

上の写真は5年前の画像。



石材は氷見や早見川など領内各所から集められています。


案内板

ここにパンフレットがありました。
ありがたや。


射水神社

本丸の半分にあたる敷地に射水神社があります。
二上山山麓に古来から越中総鎮守としてあった射水神社を
1875年(明治8年)、官命によりこの地に遷座されました。


本丸跡

芝生が広がる本丸跡。


前田利長像

いつ見ても釘づけになる兜です。
前回は高岡市立博物館に立ち寄ったのでここで兜をかぶる体験をしました。
重そうというか邪魔そうというか…戦場では目立ち過ぎたのではないかと思ってしまいます^^;


本丸之井戸

前回銅像や土塁を見ながら反対方面へ行ってしまったために見逃した井戸跡に
気付き銅像は写真だけ撮って退散、井戸を見に来ました。


朝陽橋と濠

現代ではこの赤い朝陽橋がかけられていますが、もともとは本丸への橋は
石垣で造られた土橋のみが唯一の濠を渡る手段でした。





民部の井戸

城内にはいくつかの井戸がありましたが、この井戸が最も重要な井戸だったために
立派な屋形を建て大切に保存して来ました。
工事中で残念ながら近くまで見に行くことができませんでした。


二度目の登城となります。
この日は石川県の七尾城へ行くことになっていて、集合時間までに20分だけならと
高岡城への寄り道の時間をもらって、家族には近くの精肉店で揚げたての高岡コロッケを買って
三の丸の駐車場で待機してもらい、駆け足で巡って来ました。
とにかく写真を撮ったら走る!の繰り返し。
方向音痴な私は途中で入手したパンフレットの地図を見ながらこの20分で
城内を駆けずり回り何とか20分で前回のおさらいをして来ました。
前回、本丸では銅像の方に気を取られ、井戸を見た覚えがなかったので改めて
井戸を見学することが出来ました。
それにしても忙しかった。七尾城登城前に体力消耗


平成24年5月5日登城
平成29年9月16日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

望月宿(長野県)

2017年09月27日 | 関所・宿場
望月宿もちづきじゅく
街道名中山道(六十九次)江戸から数えて二十五番目
設置1602年(慶長7年)
廃止
指定史跡
場所佐久市望月247 地図

奈良平安期の信濃には16の牧がありました。
約80頭の馬を朝廷に献上したと言われていて、その中でも望月は突出していました。
中秋の名月になると信濃より馬が送られてくるので、その代表格であった場所がこの地であったため、
この地を「望月」と命名されました。
街道沿いには、「望月歴史民俗資料館」や国の重要文化財に指定されている、
出桁造りの旅籠「真山さなやま家」(大和屋)があります。



道路元標

望月歴史民俗資料館の門の脇に立つ道路元標。
道路元標が立っているところは各村々の中心と言うことなので、
望月歴史民俗資料館あたりが望月宿の中心地だったということになります。


望月歴史民俗資料館

中山道望月宿の本陣跡地にある望月歴史民俗資料館。
中山道六十九次の二十五番目の宿場町として栄えた頃の様子を資料で紹介しています。


祝言道祖神

とてもかわいらしい道祖神です。
望月にはこのような夫婦道祖神がいくつかあります。


釣瓶沢の「水割場石」と「水樋」

蓼科山の水源五斗水(ごとみず)水源から引いた用水に設置されていました。
全水量の九分を布施村(望月)に、一分を五兵衛新田村(浅科)に分けていました。
その時に使われていた「水割場石」と「水樋」が展示されています。
また、明治11年~17年に水争いが起きたために水量が9:1に決められていました。


水樋

木樋は昭和18年に畳石用堰(たたみいしようせき)として布施村によって設置され、
木材は天然のカラマツを刳り抜いて造られています。


駒つなぎ石

望月宿は道幅が五間で、その中央に川がながれており、
旅人や荷継ぎの馬などに利用されていました。



この石は馬や牛を止めるために使われていたものです。
馬には動かせないのですが人間が持てる重さになっているそうです。



敷地内にはあづまやもあり、休憩も出来てちょっとした公園風になっています。


観光地としても賑わっていて、カメラを手に古い町並みを散策している人を多く見られます。
この日も数人の観光客とすれ違い、私もゆっくり歩いて散策したくなったのですが、この後
二つの城祉に登城計画があったので後ろ髪をひかれる思いで望月宿を後にしました。


平成29年9月23日訪問

歩いて旅する中山道 六十九次の宿場&街道歩きを楽しむ
クリエーター情報なし
山と渓谷社


望月城(長野県)

2017年09月26日 | 百名城以外の城
望月城もちづきじょう
別名
構造山城
築城者望月盛時
築城年代室町時代
指定史跡
場所佐久市望月 地図

望月氏は鎌倉時代にここより眼下に天神城を築城し、落城した後室町時代に
この地に望月城を築きました。

望月城は滋野一族望月氏の築いた城で、保元の乱で活躍したことで
鎌倉時代には幕府で重要な位置にいました。
戦国時代に武田氏の支配下にはいり、1582年(天正10年)に
徳川家康の家臣、依田信蕃によって落城しました。


入口

車道からの入口でここを進入するといよいよ郭内になります。
こちらからの登城は三の郭入口まで車で行くことが出来るので楽ちんです^^;


登城口

この下まで車の乗り入れが可能で駐車しておけるスペースがあります。


三の郭

この郭の南側には展望台があります。


展望台

とても良い眺めです。
町の図もあるので照らし合わせて見てみると良いでしょう。



望月の町並みがよく見えます。
段がついているのがわかりやすい。よく見るとおもしろい地形です。
正面右側の山が「美ヶ原」、左側が「蓼科山」です。


階段と冠木門

土塁がわりと高いので階段が設置されて歩きやすくなっています。
雰囲気作りの冠木門でしょうか^^;


二の郭

足元には古そうな石がころがっていたり、水路でもあったかのような溝も通っていたり
下をみて歩いているといろいろ妄想できる郭です。

案内看板

主郭に行く前に案内看板を読んでから階段を登ります。


主郭跡

いろいろ並んでま~す
どこから読もうかな。。。


城祉標柱と案内板



鳥瞰図

こちらは私も山城の本を参考にさせてもらっている
宮坂武男氏による武田氏時代の望月城の推定図です。





腰曲輪

この腰曲輪の下(麓)には望月氏の菩提寺である城光院があります。
城光院からの登城道がありこの辺りに出ます。



これはなんだろう…わからないなあ。


石造龕

望月氏の家紋が入った仏像を納める厨子のようですが草木に埋もれてしまっています。



南側はかなりな急勾配です。
体力の無い私はこちら側からは登りたくないです


四の郭

さすが信州、四の郭は蕎麦の畑です。


ずっと気になっていた城跡でいつか行こうと思っていながら今回の登城となりました。
下界の望月宿は何度が通過しているので興味があったのですが
いつでも行けると思うとなかなか行けないもので、ずっと後回しになっていました。
攻城団の登録をきっかけに「行かねば!」と独りで乗り込んで来ましたが
遺構も良く残っていてなかなか良い城跡でした。
しかし、季節がら散策していると「どんぐり」と「栗」の無人攻撃に遭います(>_<)
これ、頭に当たると結構痛いです
車も攻撃されていい音がしますので凹みの心配もされます。
今の時期は覚悟あれ


平成29年9月23日登城


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芦田城(長野県)

2017年09月25日 | 百名城以外の城
芦田城あしだじょう
別名倉見山高井城・木宮城・芦田小屋
構造山城
築城者滋野系芦田氏
築城年代鎌倉期
指定史跡町指定史跡
場所北佐久郡立科町茂田井古町273-11 地図


芦田城は鎌倉期に滋野系芦田氏によって築かれました。
滋野系芦田氏が滅亡すると武田氏配下の城となり依田又三郎光徳が芦田性に改名し
芦田城を再建、居館を構えました。
武田氏が滅亡すると徳川氏に着くことで七代目の長男は家康から松平国康の名を与えられ
小諸城の城主となる。
国康は小田原攻めに出陣した際、名倉城攻撃にあたり敵の計略にかかり死亡してしまう。
その後弟の康貞が後を継ぎ、群馬県藤岡市にある藤岡城(芦田城)へ転封となりました。



民家の間の道から山に向って登って行くと畑に出て、その先に芦田城祉があります。
ここは大きな横堀にあたるらしい。



ここを登りきった場所が駐車場で約3台ほど停められる小さい広場になってます。
ここに車を置いて登城しました。


案内看板
登城口に案内看板があります。


登城口

ここは足元がとても急になっていて、路面はコンクリートで一面苔が生えていてとても滑ります。
慎重に登り降りして下さい。


観音堂

なにやら建物があります。


腰曲輪

観音堂脇の腰曲輪。けっこう広い。
こちら側に登り口があるのかと思ったのですが上に登る道がありません。



観音堂の裏に廻ると上に登る小道がありました。


展望台

観音堂より一段上がった腰曲輪に古くなった展望台があります。
私の体重に耐えられるかわからないので登るのは遠慮しておきました^^;



展望台の下からでもこのような眺めが観られます。


本丸虎口

いよいよ本丸の入口です。
虎口の石垣があります。


虎口には神社の鳥居なのか冠木門なのか?といようなものがありますが
おそらく鳥居が壊れかけて冠木門のような形になっているのかなと…。


本丸

手入れはされておりません。


土塁

石垣の跡か?




本丸には神社らしきものがあります。


駐車場

駐車場に戻って来ました。
登りは滑る足元をずっと見ていたのできがつかなかったのですが、
斜面に大きな看板らしきものが…


大型看板

駐車場に降りて来て看板を確認すると大きく「史跡 芦田城」と掲げられた看板。
しかし、周囲は草木が生い茂り離れた場所からこの看板を確認することはできなくなっています。
この看板が見えていれば白樺湖へ行き来する人に気付いてもらえそうなのですが残念ですね。



遺構はわりと残っているので手入れしてもらえればわりと良い城祉のように思えるのですが
現状はかなり中途半端な状態でした。
途中の道は狭いですが、山城攻めにはそう難しい場所ではないし、縄張り内まで
車で入れるということはわりと楽ちんな方かも。
すれ違う場所も畑付近にはあるので登城目的の車にばったり会わなければ
軽自動車で近くまで行ける山城です。



平成29年9月23日登城


別冊歴史REAL「山城歩き」徹底ガイド (洋泉社MOOK 別冊歴史REAL)
クリエーター情報なし
洋泉社

 山城初心者にはとてもわかりやすい内容です! 

七尾城(石川県)

2017年09月22日 |  百名城
七尾城ななおじょう
別名
構造山城
築城者能登畠山氏
築城年代1504年~1528年頃
指定史跡国指定史跡(昭和9年12月28日指定)
場所七尾市古城町 地図
スタンプ設置場所七尾城史資料館(12月11日~3月10日は七尾市役所1階警備室)
空撮USHISUN Aerichan  提供 ushisun
城郭検定出題あり

七尾城は能登の守護・畠山氏によって城山一帯に築かれました。
自然地形を巧みに利用し、七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ねた縄張りは名前の由来の通りです。



大手道

前回訪れた時には気が付かなかった大手道。


案内看板

駐車場にある案内看板。
ここまでは車で来られるので登城は比較的楽です。トイレもこちらに。
今回は学生ガイドさん付きの登城で~す\(^o^)/


調度丸跡

調度丸にある案内板。


調度丸の石塁

武器(調度)を整えた場所。


多段石垣

七尾城の多段石垣はやはり美しいです。
林の中の苔生した感じが味わい深くて好きです。
石垣…やっぱ好きだわ~。


遊佐屋敷跡

城主に次ぐ守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えられています。


本丸石垣

高石垣ではなく低い石垣を段状に積み上げています。


本丸跡

天守は築かれておらず、天守台が築かれていました。
一番高い所で標高300mを越えています。



本丸からは七尾湾や能登半島が一望できます。


本丸の碑

前回登城した際は小雨で霧がかかっていました。
この日は大型台風が迫る中、晴天ではないですが天気には恵まれ
暑くも無く寒くも無く、周囲の景色を堪能することができました。
こんなに沢山の人がいっぺんに本丸に居る!!


天守台

現在は山城神社が祀られている天守台跡。
この神社は畠山氏の時代にも存在していたそうです。


桜馬場跡

軍馬の調錬を行った場所とされる。


九尺石

石の大きさにちなんでこの名が付いています。
崩落の危険があるため近付くことができないのですが、かつてはこちらが大手道だったのではと
いう推測もされています。


温井屋敷跡

城主を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井景隆氏の屋敷跡と伝えられています。
上杉謙信の死後、織田信長に能登から追放されまてしまいした。


二の丸跡

尾根の分岐点にあたる曲輪で三の丸とは大きな堀切で
分かれています。


大堀切

二の丸と三の丸の間に築かれた大堀切。
この堀切で曲輪ごと遮断され敵の進入を防いでいました。
高低差は10mをあり通路の階段はとても急になっています。


三の丸跡



安寧寺跡

畠山一門の慰霊碑があります。
安寧寺がいつ建立されたのかは不明で、どのように使われていたのかも詳しいことは
わかっていません。



七尾城攻防戦で滅んだ戦士の慰霊碑があります。



素晴らしい眺めです。


樋の水

城内の水源で枯れたことがないと云われています。
現在の水量はわずかですが、以前はもっと水量があったそうです。





城山展望台

百間馬場にある城山展望台。
ここから七尾城を見下すと本丸が丸見えです^^;
前回訪れた時はここから眺めたのですが、今回はこちらの方まで周りませんでした。




この日は攻城団団長の河野さんとコースケさんをはじめ、団員さんたちと初顔合わせになりました。
夜は食事会に参加。話に夢中で私としたことが写真を撮り忘れてしまいました^^;


七尾東雲高校生とめぐる七尾城跡ツアーに参加しました。
高校生が観光マップを作り、この日七尾城をガイドしてくれました。
案内板にはない話やクイズを間に取り入れ、これまで調べ上げたことを述べながら
楽しませてくれました。
独りで自由に歩き回るのも良いのですがガイドさんがいると現地でしか知り得ないことや
季節によって体感出来ることなどを見聞きできることが魅力です。(きのこの話とか)
そして何より若いガイド、それも学生さんのガイドはなかなか出合えません。
学生さんによるガイドと言えば岩村城や沼田城でも目にしたことがありますが今回は
実際に生で交流できて、ガイドデビューを見守れて良かったなと思います。
報道やメディア、大人がいっぱいの中でのガイドはとても緊張したでしょうが
この一回が重要でこれを乗り越えたら自信もって各地から訪れるお城好き相手に
胸を張ってガイドできると思います。
がんばれ!東雲高校学生ガイド諸君!!





平成24年5月4日登城
平成29年9月16日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

越中宮崎城(富山県)

2017年09月20日 | 百名城以外の城
越中宮崎城えっちゅうみやざきじょう
別名荒山城・泊城・境城・堺城
構造山城
築城者宮崎長康
築城年代1614年(慶長19年)
指定史跡県指定史跡
場所下新川郡朝日町城山10 地図


宮崎城は富山県内最古の山城です。
1182年(寿永元年)に北陸宮(以仁王の皇子)が木曾義仲に属する豪族・宮崎太郎長康が
北陸宮の御座所として築いたのがこの宮崎城です。
越中進攻と入京を果たすこととなるのですが、その足掛かりを固めた城として知られています。
また、宮崎城の出城には宮崎館・横尾城・泊城・南保城・入善館があります。

義仲が敗れた後には信濃国伊那郡黒田荘(長野県上郷町)に逃れて土着したとされています。
現在もそこには子孫とされる人が住んでいるそうです。


国道8号線からの入口です。
近くには親不知やヒスイ海岸があり、
この日は早朝海岸でヒスイ探しを楽しんでからの登城となりました。


案内看板

とりあえずナビの教えに従い、城山公園駐車場まで登って来てみました。
案内看板を見てみると宮崎城はもっと北側に記されています。
あれ?どこで間違えたのだろう???
途中の看板もこの道を案内していたのに見落とした?
仕方がないのでもと来た道を引き返してみました。



途中分かれ道があったので宮崎城の方向と思われる方へ行ってみることにしました。
この分かれ道にも引き返して来た方向に宮崎城跡と記されていました。なぜ?
でも目の前に公園らしきものが見えて来ました。



駐車場に車を停めて東屋のある広場に来てみました。
どうやらここで正解のよう…。
(でもやはり城山公園側から登城する方がおススメです。)


七曲橋(七曲空堀)

この橋は大堀切に架かる橋で七曲空堀と呼ばれています。
ちなみに、この先250m程で宮崎城跡(本丸)に着くらしい。
橋を渡り先の方を覗き込むと木々が生い茂っています。
熊注意の看板を見た後ではひとりで登って行く勇気も無く、ヘタレなのでここで
引き返してしまいました。
実際、大きなサル2頭とカモシカ1頭に遭遇。
ビビッているところでリスが目の前を横切りました。
ここはサファリパーク?そしてラスボスは熊でも出るのか!!!
まだまだ山の独り歩きは怖いものです(^^;





城山公園側から素直に入って行っていれば公園を散歩する感覚で沢山の遺構と
素晴らしい景色が望めたものと悔やまれます。
小さいお城であろうと勝手に思い込んでいたためにもしや繋がっているのかな?とは
考えてはみたものの二つの城に分かれているのだろうくらいに
想像していて両方の入り口がひとつに繋がっているとは思いませんでした。
そもそもとっさの思い付きで寄ったのでそれが本丸にたどり着けなかった敗因ですね。
他に行かれた方のブログや写真を拝見すると残念な限りです。
今度はしっかり見て歩きたいと思った城址です。(;´д`)トホホ

平成29年9月16日登城




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サントリー

小丸山城(石川県)

2017年09月19日 | 百名城以外の城
小丸山城こまるやまじょう
別名
構造平山城
築城者前田利家
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡
場所七尾市馬出町子部1-1 地図


織田信長より能登一国を与えられた前田利家はこの地に小丸山城を築きました。
しかし、戦陣に明け暮れる毎日で兄の前田安勝を城代として実際の能登の支配をしていました。
後に前田利家が金沢城主になると兄の安勝を金沢城代と、小丸山城の城主としました。


銅像

駐車場にある利家とまつの銅像。
かつては本丸にあったようですが、現在は城祉入口の駐車場にあります。


小丸山城祉碑




本丸へとつづくスロープです。
一直線に行けるので本丸への登城は楽ちんですが以外に息が切れる^^;


小丸山城祉碑(本丸)

坂を登りきってまずは立派な城祉碑を拝みます。


案内看板

ここで縄張り図を確認して散策です。


本丸跡

観ての通りの公園です。


坤櫓台跡

本丸の更に高台になっているこの場所は櫓台跡になります。


三更橋

この橋は直接小丸山城とは関係ないらしが、上杉謙信が七尾城を攻め落とした際に
詠んだ詩が陣営より眺めた情景に合うことでこの場所にこの名前がついたのであろうとされています。


堀切に架かる橋

この橋を渡ると天性丸に出ます。


天性丸跡

こちらも公園となっていて桜の木が植えられています。
樹齢100年を超える老木もあり、桜の時期には「小丸山さくらまつり」が催されているそうです。
三更橋から見下すのが見所だそうです。


氷室跡地

能登地方は雪が多いため、その雪を利用して氷室が作られていました。
小丸山公園下の町では魚屋が多く、魚を保存するために公園内の氷室の氷を利用していた
と言われています。


愛宕小路

小丸山城築城前にあった愛宕山の気多本宮社への参道があった小路と云われています。
また、小丸山城の本丸への道でもあったのではとも想像されます。


愛宕山(気多本宮社跡地)

かつてここには気多本宮社がありました。
小丸山城築城時にこの愛宕山から現在の所口に移されました。
明治時代には公会堂が建てられるも大火によって焼失、その後再建し昭和に入ると
少年科学館として利用されていました。
現在はお城型の遊具が子供たちの遊び場となっています。
群馬にもこのような遊具が…以外に人気あり!かな。


宮丸跡

宮丸跡にあたるこの場所には現在相「愛宕山撲場」があります。


「ただの公園だよ」と聞いて来たのであまり期待はしていなかったのですが
公園ながらちゃんと縄張りの名残もあるし、それなりにいろいろ示されているし
思っていたより見所はあるじゃん!て感じでした。
氷室の話なんかも雪深いのと魚の産地である土地柄が見えておもしろいと思いました。


平成29年9月16日登城


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能登の新鮮な魚を焼いて食べたら…御馳走です!

吉良上野介陣屋(群馬県)

2017年09月14日 | 陣屋・館
吉良上野介陣屋きらこうずけのすけじんや
別名
建造者吉良上野介
建造年代1650年(慶安3年)
指定史跡
場所藤岡市白石269 地図


元禄時代、忠臣蔵(芝居)で有名な吉良家の領地が白石にあり、
ここに陣屋が置かれました。


吉良上野介館址

現在この土地は田村浩氏が所有しており、農地となっています。
吉良上野介館址の標柱と道向かい(交差点角)には陣屋跡の井戸もあります。


案内看板



吉良上野介陣屋跡井戸

領主吉良若狭守の正室が伊香保温泉に湯治した帰途この屋敷に滞在し、
上野介義央を産んだとされています。
その時、産湯を汲んだというのがこの井戸だと伝わります。



井戸水は毎月1回赤く染まったことから「汚れ井戸」と呼ばれ、
飲料水にはしなかったと云われています。


井戸

井戸の中を覗き込んでみると今も水が湛えられています。


案内看板


この地では領主である吉良上野介を敵役とする「忠臣蔵」は禁物とされていたようです。


「赤い水」とは鉄分が多いということでしょうか。
私の勤めている会社の井戸水も時々赤く濁ることもあるので地質的にそのようなことが
起きるのかもしれません。
もちろん、飲み水には向いてないので飲んではいけないものですが。^^;



平成29年9月10日訪問


お前はまだグンマを知らない 1巻 (バンチコミックス)
井田ヒロト
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石山本願寺(大阪府)

2017年09月12日 | その他
石山本願寺いしやまほんがんじ
別名大坂本願寺・大坂城
構造寺院
造営者蓮如上人
造営年代1496年(明応5年)
指定史跡
場所大阪市中央区大阪城1-1 地図
城郭検定出題あり


大坂坊舎を建立したことに始まる
「大坂」という地名が現れたのもこの時期です。
大坂坊舎は小堂であったと考えられていますが、勢力と権力争いにより
大坂の重要性が増すと山科本願寺が焼き討ちされ、本願寺教団の本拠である石山本願寺に
発展しました。
石山本願寺周辺には広大な寺内町が造営され、現在の大阪の街並みの原型となりました。


石山本願寺推定地碑

大阪市立修道館横にある案内看板。
この辺りに石山本願寺があったと推定されています。
(正確な位置などはわかっていません)



案内板

南無阿弥陀仏の石柱のある手前にこの案内板が掲げられています。


蓮如上人袈裟懸けの松

浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人はこの地に坊舎を建立、居住としました。
蓮如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺としました。


切株跡

蓮如上人は、この松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。
今はこのように根っこだけになっています。


大坂城も3回登城していますが、観光ではなく時間を考えず、自由にじっくり観て歩いたのは
今回が初めてで、石山本願寺がこの地にあったことを知らずにいました^^;
改めてこのような跡地に来てみて大坂城と石山本願寺の歴史を実感しました。


平成29年6月22日訪問




お城のすべて (学研雑学百科)
三浦 正幸
学研パブリッシング

戦国手帳

2017年09月11日 | よろず
戦国手帳なるものを買ってみました。

戦国手帳2018年版
• 全11色
• 昨年より充実の巻末資料全96ページ
•監修:小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)





手帳と言ってもスケジュールなど書くには正直、ちょっと書き込むスペースが小さいです。
半分から後ろのページは家紋や武将系図、陣形や合戦など読んで面白いものが載っています。
また、城郭検定にも役立つ解説もあったりして、さすが小和田さん監修だなと
いう感じがします。

カレンダー部分には毎日の出来事と月毎に武将の言葉が記されています。
今日は何の日?と楽しみになってしまいます。

手帳のカバーの色も11色もあるので迷いますが私はラベンダーにしてみました。

近頃物忘れが多くなってきたのでこれなら持ち歩けるような気がします(^_-)-☆


戦国手帳 2018年版 (若草)
クリエーター情報なし
㈱コミュニティネット

こちらから買うことができます。よかったら覗いてみてください。

那波城(群馬県)

2017年09月11日 | 百名城以外の城
那波城なわじょう
別名名和城・縄城・堀口城
構造平城
築城者那波宗俊
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所伊勢崎市堀口町 地図


那波宗俊が築いた那波城は上杉方に攻め落とされ北条高広が置かれましたが、
北条高広はその後厩橋城代となり厩橋城へ移りました。
那波宗俊の甥那波顕宗が上杉謙信死後の混乱に乗じ
那波城を奪還したのですが後北条氏に城は奪われてしまいました。
徳川期になると松平氏が入封するものの美濃岩村に転封、川越から酒井氏が入封し
信濃の小諸城へ転封となると那波城は廃城となりました。


那波城祉碑

城祉碑があるものの、見渡す限り遺構らしきものが見えません。


本丸跡

三重の長方形で構成された縄張りらしいが、平らなだけです。



平らな農地になっています。



農地と宅地、学校と保育園で遺構は消滅しています。


城祉碑だけが、「ここにかつて城があった」ということを物語っています。
周囲をぐるっと見渡してみてもそれ以外は見当たらず、なんと感想をのべていいのやら…。


平成29年9月9日登城


カレンダー2018 世界文化遺産 日本編 World Cultural Heritage JAPAN (ヤマケイカレンダー2018)
クリエーター情報なし
山と渓谷社


二本松城(福島県)

2017年09月07日 |  百名城
二本松城 にほんまつじょう
別名 霞ヶ城・白旗城
構造 山城
築城者 畠山満泰
築城年代 1441年(嘉吉元年)
指定史跡 国指定史跡
場所 二本松市郭内 地図
スタンプ設置場所 二本松市歴史資料館受付窓口・JR二本松駅構内観光案内所
城郭検定出題あり


白河より移封された丹羽光重が10年の歳月をかけて築城しました。
戊辰戦争では少年(12歳~17歳)も動員され新政府軍と戦いました。
この戦闘でわずか1日で二本松城は落城、藩士は全員討ち死にし、
多くの犠牲者が出て建物の多くが焼失しました。
戊辰戦争第一の激戦地の舞台となった城祉です。


二本松少年隊群像

戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために若い命を散らした、
二本松少年隊を顕彰する群像で二本松市名誉市民である彫刻家
「橋本堅太郎」氏に依頼して制作したものです。


千人溜

千人溜には二本松少年隊群像があり、千人溜と箕輪門へ続く入口の道を挟み、
両脇に大きな駐車場があります。


箕輪門

城下の箕輪村(現在二本松市内)にあった樫の木を使用して造られていることから
箕輪門の名が付きました。




箕輪門の赤松

土塀代わりに植えられた樹齢約350年の老松(赤松)は、
傘を広げたような形をしているため傘マツと呼ばれています。


塀重門跡

箕輪門から三の丸へ向う所にある石垣の門で
石垣の台だけで建物としての門は造られませんでした。


三の丸

三の丸の広場で展示される二本松の菊人形開催に向けて準備中です。
今年の開催期間は、
平成29年10月14日(土曜日)~平成29年11月23日(木曜日・祝日)
となっています。

大正期には、ここに二本松製糸会社がありました。
当時は多門櫓も無く、石垣上には大きな工場が建てられていました。


日影の井戸

「日本三井戸」の一つで 千葉県印西市の「月影の井戸」、
神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび、「日影の井戸」と称されています。


本丸下南面大石垣

斜面の奥側の石垣が二本松城で最も古い石垣のひとつです。
野面積みで蒲生氏郷の時代に穴太衆によって築かれた石垣が残されています。


本丸石垣(平成22年撮影)

東日本大震災の半年前の写真です。
この後震災で石垣が崩れてしまったようですが、奇麗に積み直されたことが
次の写真でわかります。

本丸石垣(平成29年撮影)

震災から6年、以前訪れた時と変わりなく石垣が美しい。
熊本城の石垣もこのように復活できると良いですね。
以前と違うのは通路が歩きやすくなっているところでしょうか。


本丸(平成22年撮影)

こちらも最初に訪れた時の写真です。

本丸(平成29年撮影)

6年が経ちました…
ベンチが設置され標柱も変わっています。


桝形虎口

桝形虎口内部を東櫓台から見下す。


天守台

実際には天守は築かれていないらしい。





東櫓台

ここからの眺めはなかなかのものです。


西櫓台

こちらは前回訪れた時に素通りしてしまったので
今回はしっかり見て来ました。





天守台下西面二段石垣

蒲生氏の時代の穴太衆によって築かれた石垣と加藤氏の時代の石垣と
比較しながら見ることが出来ます。







搦手門跡

1590年(慶長初期)頃に建てられ、その後に何度か修復改築されたことが絵図等でわかります。


少年隊の丘

戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が鉄砲の稽古をした場所で、
戦に出陣した隊員六十四名の顕彰碑を1940年に記念事業として建立したものです。


新城館

新城館は天正期には本城的機能を果たし、
重要な施設であったことが発掘によって判明しました。


智恵子抄碑

大きな自然石に「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」という
「樹下の二人」の冒頭の句が刻まれています。
この自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際に
いけにえにした牛が石に化したものと云われております。


霞ヶ池

フジ棚は智恵子の生家の庭先にあったもので、元二本松町長の今泉修二氏が
自宅の庭にあったものを寄贈したものです。


七ツ滝
この滝は7つの小連段になっている滝です。


るり池



洗心亭

丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」で、
藩主の釣り茶屋となっていたのを、現在の地に移し「洗心亭」と名づけたものです。
戊辰戦争の際には城内にの多くの建物は焼失したものの、洗心亭は城外に移築されていたため
奇跡的に残り現在の地に際移築された現存の茶室です。








戒石銘碑

公園の東入口右側にある自然石に、1749年(寛延2年)藩主が、儒学者岩井田昨非の献策により
藩政改革と綱紀粛正の指針とし、一夜のうちに刻ませたものであると云われています。


最初に訪れた時にも思ったのですが、本当に美しい石垣です。
これなら建物はいらないなと思うくらい石垣だけで満足出来ちゃう城祉です。
どうしてももう一度見て歩きたくて二本松城だけ目指して再訪問しました。



平成22年8月15日登城
平成29年8月20日再登城



戦国手帳 2018年版 (紺)
クリエーター情報なし
㈱コミュニティネット

土浦城(茨城県)

2017年09月01日 | 続百名城
土浦城つちうらじょう
別名亀城
構造平城
築城者若泉三郎
築城年代1429年〜1441年(永享年間)
指定史跡県指定史跡
場所土浦市中央1-13-48 地図
スタンプ設置場所】土浦市立博物館
城郭検定出題あり




本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことから「亀城」と呼ばれて、
1898年(明治31年)土屋氏より寄付され、現在城跡は「亀城公園」とされています。

土浦城は室町時代の1429~1440年(永享年間)に若泉氏が築いたものと思われ
城主は、若泉氏、信太氏、菅谷氏、結城氏、松平氏、西尾氏、朽木氏、
土屋氏、松平(信興)、土屋氏、政直以後幕末まで続きました。



曲輪入口の虎口。
現在はコンクリート造りの土橋になっていますが、かつては木橋が
架けられていました。


霞門

本丸搦め手の薬医門です。
外桝形が設けられており、現存建築遺構です。



門扉の写真の部分だけ、なぜか留め金の部分が尖っています。
他の場所はすべて丸く突起状にはなっていないのですが
丸く加工し忘れたのか、はたまた何か特別な理由があるのか謎です。


東櫓

明治17年に焼失しましたが、古写真が残っていたため写真を元に
復元されました。
櫓内は展示室になっています。(博物館の分館)
こちらの入場料と土浦城に隣接する博物館とセットになっています。


太鼓

太鼓門で時を告げていた太鼓で、現在はピカピカの新しいような太鼓ですが、
昔から使われている当時のままの太鼓だそうです。
太鼓を造った東京の浅草の職人さんのお店が現存したいたことがわかり、
修理を依頼して奇麗に復元されたそうです。



柱に使われている材木の年輪です。
これだけの材木を入手するには和歌山県産だと聞きました。



いつもながら現代ではなかなか入手しずらい大木に目が行ってしまいます。
さぞかし高い材木で何所産なのかと木になってしまいます^^;



天井を見上げると柱に木札が付いています。
親切に柱の呼び名が付いています。


太鼓門

現存する櫓門で時刻を知らせる太鼓が置かれていたことから
太鼓櫓とも呼ばれています。



太鼓櫓に登る階段が見当たりません。
下から見ると入口に扉らしきものが見えるので、登る時だけ梯子を掛けるようです。


本丸御殿跡

本丸には数寄屋造りの御居間や御寝間がありました。


西櫓

東櫓より一回り小さく、キティ台風で壊れたため解体されました。
解体時、部材は保存されたのですが老朽化が激しくその部材での再建を断念。
新しい部材で復元されました。


石落し

土塀に造られた石落し。
ちょっと珍しいですよね。


旧前川口門

元々は前川口にあった門で、城外に移築(役場の門や寺の門)された経緯も持ち
現在は二の丸入口にあった二の門跡に移築されています。


聖徳太子堂

聖徳太子を祀っているらしい…。
由来の説明板がありますが読んでみても土浦城とは特に関係性はなさそうです。


二の丸の堀

「土浦御城下絵図」で見ると、かつては屏風折の土塁が築かれていましたが
現在は直線の石垣に改変されています。


南門跡

現在道路になっている部分には川が流れていて、川には橋が架けられ道路の向こう側に
角馬出の防御施設が設けられていました。
水戸街道沿いに造られた角馬出は全国でも例が少なく、とても珍しい防御施設でした。


土浦市立博物館

駐車場はこちらの博物館の有料駐車場を利用しました。
受け付けで博物館の利用駐車券をもらい無料で済みました。


東櫓の受付の方にいろいろお話を伺いました。
中でも武田氏と土屋氏の関係での話はとても興味深い物語りがあって
力説していただきました。
土浦城に訪れた際はぜひ、土浦城の歴史について尋ねてみて下さい。
東櫓を入ってすぐの左側のパネルに注目してみて下さい。

平成29年8月12日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス