【妙顕寺城】みょうけんじじょう
【別名】二条第
【構造】平城
【築城者】羽柴秀吉
【築城年代】1583年(天正11年)
【指定史跡】―
【場所】京都市中京区小川押小路 地図
妙顕寺城跡は西福寺の山門脇に標柱石碑と案内看板が立てられています。
日像が京都にはじめて建立した日蓮宗寺院であり、当初は別の場所にありました。
豊臣秀吉が本能寺の変から一年後の1583年(天正11年)に移転させ
「聚楽第」を造るまでの間、上洛の際の宿舎とし、京都の政庁としていました。
標柱と案内看板
小さい方の案内看板に記されているのは下記の通り。
この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、
たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。
天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、
天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。
現在城跡はしのぶべくもないが、古城町という地名となって、よすがを伝えている。 京都市
大きい方の案内看板は読みとることはできませんでした。
標柱
遺構などは残っておらず、二条城の周辺にはこのような跡地を示す標柱や案内看板が
いたるところに立てられています。
日が暮れてしまったこともあり、一番苦手な撮影時間帯だったのでピントが合っていない
平成30年2月18日登城
麺処「雁木」 【場所】京都市上京区多門町 地図
日が暮れてお腹も空いてきたのでラーメン屋さんへ。
その名も、麺処「雁木」。
ここに決定!ということで京都の〆はこのラーメンを食べて帰路へ。
【別名】二条第
【構造】平城
【築城者】羽柴秀吉
【築城年代】1583年(天正11年)
【指定史跡】―
【場所】京都市中京区小川押小路 地図
妙顕寺城跡は西福寺の山門脇に標柱石碑と案内看板が立てられています。
日像が京都にはじめて建立した日蓮宗寺院であり、当初は別の場所にありました。
豊臣秀吉が本能寺の変から一年後の1583年(天正11年)に移転させ
「聚楽第」を造るまでの間、上洛の際の宿舎とし、京都の政庁としていました。
標柱と案内看板
小さい方の案内看板に記されているのは下記の通り。
この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、
たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。
天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、
天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。
現在城跡はしのぶべくもないが、古城町という地名となって、よすがを伝えている。 京都市
大きい方の案内看板は読みとることはできませんでした。
標柱
遺構などは残っておらず、二条城の周辺にはこのような跡地を示す標柱や案内看板が
いたるところに立てられています。
日が暮れてしまったこともあり、一番苦手な撮影時間帯だったのでピントが合っていない
平成30年2月18日登城
麺処「雁木」 【場所】京都市上京区多門町 地図
日が暮れてお腹も空いてきたのでラーメン屋さんへ。
その名も、麺処「雁木」。
ここに決定!ということで京都の〆はこのラーメンを食べて帰路へ。
図説 日本建築の歴史 (ふくろうの本/日本の文化) | |
玉井 哲雄 | |
河出書房新社 |