むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

新発田城(新潟県)

2018年07月30日 |  百名城
新発田城 しばたじょう
別名 菖蒲城・舟形城・狐尾曳ノ城
構造 平城
築城者 新発田氏
築城年代 鎌倉初期
指定史跡 国重要文化財
場所 発田市大手町6 地図
スタンプ設置場所 新発田城表門・新発田市役所本庁舎1階受付(12~3月)土、日、祝日、年末年始は警備員室
城郭検定出題あり

三方入母屋の丁字形の屋根に3匹の鯱を載せた御三階櫓が特徴の新発田城。
現在は陸上自衛隊駐屯地になっているため内部に入ることは出来ないのですが
2004年に辰巳櫓と同時に木造で再建され、本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存として
残されています。


旧二の丸跡

旧二の丸跡に駐車場とトイレが完備されています。
前回、今回ともにこちらの駐車場を利用して散策しました。


日本百名城碑

ここが新発田城の代表的な撮影ポイントとなる場所です。
日本百名城選定を記念して立てられた碑と新発田城祉碑が並び御三階櫓と一緒に
撮影出来るスポットとなっています。


御三階櫓

新発田城だけに見られる丁字の屋根に3匹の鯱。
海鼠壁の壁面は寒冷地では耐久性があるため採用されています。
見た目にも美しい。


T字の屋根と3匹の鯱

丁字型の屋根に3匹の鯱が載る特徴的な櫓で、攻め入った敵を鯱の位置で方向を惑わす役割があったとされます。
真ん中の後ろを向いているのがメスの鯱で左右の2匹はオスの鯱です。


二ノ丸隅櫓

こちらも海鼠壁の壁面で、白と黒のコントラストが目を惹きます。


土橋門跡

ここにはかつて土橋門があり、その先は帯曲輪に入り本丸表門へ。
番所も置かれていました。


堀部安兵衛像

帯曲輪内にある忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の銅像。
堀部安兵衛は新発田の生れで新発田藩士の中山安兵衛の息子です。
母方の祖母は藩祖溝口秀勝の娘であったこともありここに銅像が建てられています。


本丸表門

前回訪れた時と変わらぬ佇まいです。
そして変わらぬ堀の水の色は濃い緑…^^;


スタンプ設置場所

本丸表門のガイドさんの常駐する場所に日本100名城のスタンプが設置されています。
こちらでパンフレットをいただき、新発田城に関してのお話しもしてくれました。
脇に置かれた鯱は御三階櫓に載っているものと同じもので、駐屯地敷地内に入れないので
近くで見ることができないため、こちらで見られるように同じものを展示しているとのことです。



ここから柱を見ると修理をしたことがはっきりわかります。
下は修理した部分で上の柱や梁は江戸時代の頃のままの柱です。



最初に城を築いたのは新発田氏であり時期はよくわかっていないのですが鎌倉時代のようです。
御館の乱の論功行賞で恩賞が与えられなかったことに不満であった新発田重家は
上杉景勝に対して反乱を起こし、景勝方の攻勢により新発田城は落城したという話を
暑い中、この場所で受付の方が熱弁してくださいました。



本丸表門の内部も見学できるようになっているので覗いてみましょう!


本丸表門内部

現存らしい歳月を経た木材から重みを感じます。


石落し

下を通過する人を狙い撃ちしてみたくなるのですが。
展示用にガラスやアクリル板がはまっていたりはしないので、こちらは締切になっています。


溝口秀勝像

初代新発田藩主の溝口秀勝の銅像です。
新発田藩は初代から12代の明治時代まで取り潰されることなく溝口氏が統治しました。
そして、270年間一度も改易や転封もなく続いた数少ない藩の一つです。



辰巳櫓へ。


辰巳櫓

木造の二層二階櫓で、入母屋造りの本瓦葺きです。


一階

展示室になっています。


礎石

ガラス張りの床を覗き込むと礎石が見えます。
ここからは全部で11個の礎石がみつかっていますが、なぜか北西隅にあったであろう
礎石1つがみつかっていません。
全部で12個あったであろう礎石の上には2階まで続く通し柱が建っていたものと思われます。


石落し

新発田城で石落しが設置されている建物は新たに復元されたここと、見学することは出来ないのですが
御三階櫓の他に、現存である本丸表門櫓に設置されていたようです。
辰巳櫓と御三階櫓は石垣を登って来る敵に対しての攻撃用に出来ていて水堀に張り出しています。


階段

急とはいえ、登りやすい階段です。


二階

二階は瓦と棟札の展示がされています。


棟札

棟札には城主として市長の名前が記されています。
その両脇には署名箱が置かれていて、その中には三階櫓と辰巳櫓の復元を願い署名(3万余り)が
収められています。


陸上自衛隊新発田駐屯地

少し高い所に上がると塀の向こうの陸上自衛隊新発田駐屯地の様子が見えます。
明治時代に政府は新潟に歩兵第8大隊を配備することにしたのですが、
部隊を容れられる施設がなかったため、しばらく新発田城を営所としました。
しかし、新潟営所が不適という理由で結局新潟を引き払って群馬県の高崎に移ることになり
その一部である第2中隊が新発田城に入ることになりました。
その後第2中隊は大隊になり敗戦まで続き、今も陸上自衛隊新発田駐屯地として
使用されています。



御三階櫓が陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地内に見えます。
いつか三階櫓も見られるようになるといいなあ。


石垣内部構造

辰巳櫓の麓に石垣内部構造の紹介がされています。
新発田城で使われている石垣の石の特徴や積み方が記してあり、表現されています。



旧二の丸隅櫓を見に行ってみましょう。
この場所はかつて本丸鉄砲櫓があった場所です。
もともと二の丸北部にあった隅櫓を昭和34年に解体して翌年この地に
移築したものです。


旧二の丸隅櫓

「なまこ壁」は、平瓦を並べ瓦の継ぎ目に漆喰を盛り付けて塗った壁のことで、
漆喰部分の盛り上がりがなまこに似ていることから「なまこ壁」という名前がつきました。
「なまこ壁」が間近で見られるポイントでもあるので見てみましょう。


一階

移築されたこの櫓は寛文8年の大火後に再建されたもので
江戸時代からの建物として今に残されています。
区切りはわかりずらいですが、柱の外側は武者走りになっています。


二階

解体修理を経て移築されたもので、辰巳櫓の新しい木材とは違い
年期の入った温かみのある材木でああることがわかります。



上の屋根から落ちて来る雪や氷で丸瓦が破損しないように瓦の上に瓦を敷いています。
雪国で見られる屋根の光景です。


辰巳櫓

前回訪れた時にはこちら側からのアングルで撮影してなかったので
周り込んでみました。


旧新発田藩足軽長屋

城郭検定の問題にもなっていた旧新発田藩足軽長屋にも足を延してみました。
かつては100軒ほどあった足軽長屋も、現在はここだけになってしまいました。
とても風情のある通りなので涼しい時期に散歩に訪れるといいなあと思いました。



6年前に訪れたまま、ほとんど何も変わっていませんでした。
現状維持が続いているのですね。
6年も経てば、どこか手入れがされて変化が見られる事のほうが多いのですが
時が止まっていたかのような気分でした。
前回私は建物内に入ってなかったので、今回は門と櫓をしっかりと見て来ることが出来ました。
そして、別の角度から写真に収めたり悔いなく見て回ることが出来ました。


平成24年9月22日登城
平成30年7月21日再登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス

東島城(新潟県)

2018年07月27日 | 百名城以外の城
東島城ひがしじまじょう
別名城ケ平城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所新潟市秋葉区東島 地図

この山頂には本丸跡があり、南東の尾根伝いには深い二重の空濠が掘られています。
その他にも二の丸や根小屋など中世山城の遺構をよくとどめており、
これは戦国時代に新津氏が有事の際に備えた要害と推定されます。(標柱より)



登山口

新津ゴルフ場へ向かう道に入るとすぐに登山口が見えます。
看板と標柱が目印です。


登山道

小さな看板も見えるし、
道は悪くなさそうなので少しだけ様子を見に登ってみることにしました。


案内看板

登山口から二の丸まで20分。本丸まで30分と記されています。
冬場だったら行っちゃうところなんだけどなあ。
東島応援歌なるものもあるようですが、これ歌いながら登るのかなあ?
どんなメロディなんでしょう




登山道を登りはじめてすぐのところに池があります。



道が藪になっていないので足が前に出てでしまいます。



分かれ道にやってきました。
少々蜘蛛の糸には引っ掛かりますがこのままならこの先も
登れてしまう気がします。




手作り感たっぷりの旗が立っています。
絶対迷わない道です。



入口だけちょっと見て来るねと言って車を降りたのでこれ以上はさすがに
心配されそうなのでここで引き返しました。


この時期あまり人が訪れない山城は期待出来ないので入口の確認だけして涼しい時期に
訪れようと思ったのですが、案外本丸まで行けちゃいそうな山城でした。
しかし、暑さには勝てず行きたい気持ちと裏腹に体力はほぼ無い状態だったので
ここはまたの機会に登城することにします。


平成30年7月21日登城



甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

石田館妙高ホテル

2018年07月27日 | 宿泊
宿泊ホテル
妙高温泉 石田館妙高ホテル


新発田城から妙高高原まで来ました。
この日は石田館妙高ホテルに宿泊しました。


食堂からの眺め

妙高山が見える


朝食

妙高山を眺めながらの朝食です。


このホテルは石田三成の子孫の方が経営していると聞き、娘が石田三成が大好きなので
大学の合格祝いで城めぐりの際に予約したホテルです。
ホテルの御主人に石田三成の話を聞かせていただき、娘も大変喜んでおりました。
ホテルのロビーには大一大万大吉の陣旗も飾られていてホテルを出発する際には
石田館の御主人もいっしょに記念写真を撮っていただきました。

が、残念なことにこの数カ月後に閉館してしまいました。
経営が大変だったとはこのときには気付くこともなく夕食はお腹いっぱいに
お肉や野菜、お刺身とおいしくいただきました。

石田三成の子孫であることを武器にもっとやりようがあったのではと思ってしまうのですが
それはいろいろ考え苦しみ決断したことと思うので仕方あるまいと思うしかない。
でも、閉館する前に娘を連れて来てあげられたことがせめてもの救いです。


平成24年9月21日訪問


新津城(新潟県)

2018年07月25日 | 百名城以外の城
新津城にいつじょう
別名新津館・山谷城
構造平城
築城者新津信資
築城年代1233年(天福元年)
指定史跡市指定史跡
場所新潟市秋葉区山谷2 地図

新津は新津氏が起源となり新津城に居館を置いていました。
戦国期には上杉に属し、上杉景勝が会津に国替えとなると景勝に従い会津へと移り
新津城は自然と廃城となりました。
関ヶ原の戦いの後、上杉氏は米沢へ移りそれに従い米沢へ。
その後新津氏は米沢藩で藩主上杉の下、幕末の廃藩まで続きました。


標柱

新津城跡はかつては居館跡として土塁や堀が存在していましたが、
現在は新津自動車学校の敷地となっています。
新津自動車学校の脇に立てられた標柱に案内がありますが、
この標柱以外は新津城がここにあったという面影も発見することは出来ませんでした。


新津氏の流れを遡ると、佐竹氏、武田氏、平賀氏の祖であることに驚きました。
ちなみに新津氏は長野の平賀氏の流れにあたり、越後の平賀氏として金津に住み金津を名乗った
資義の子信資が新津西域に新津城を築き、新津三郎越前守を名乗りました。
これが新津氏のはじまりだそうです。


周囲に駐車場がなく、かと言ってじっくり見て周るところもないので
写真もこれだけしかありません^^;


平成30年7月21日登城



甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

多胡館(群馬県)

2018年07月20日 | 陣屋・館
多胡館たごやかた
別名
構造居館
築城者源義賢
築城年代1141年~1144年(永治・康治)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市吉井町多胡 多胡32 地図

多胡館は、木曽義仲の父義賢が一時住んでいた居館です。
一辺約100メートル四方の正方形に近い平面型の構造です。
義賢は1155年(久寿2年)大蔵館(埼玉県嵐山町)で甥に討たれていて
多胡館に居たのは1140年代から1150年代にかけてとみられます。
近年の発掘調査では堀から浅間山の噴火(1108年)の軽石層がみつかっていることから
この館はそれ以前から存在していたことが判明しました。


入口

民家の脇に入口があります。


標柱

民家の垣根に埋もれてしまっている標柱。
最初はまったく気付かず、さて帰ろうと思った時に気が付きました。



民家と畑の間に続く小道があるので進んでみます。



行き止まりに大きな案内看板が見えて来ました。


案内看板

木曽義仲繋がりとあって、大きくて立派な案内看板があります。
住んでいたのは一時的で約10年間ほどではありますが、力が入ってます。


縄張図

この図を見て散策しようと思ったのですが、民家や私有地で見られるところは
かなり制限されます。
特に民家付近には立ち入り禁止看板もあるので住民に迷惑かけないよう注意が必要です。


男衾三郎絵詞

中世、鎌倉武士の生活を表した絵巻。
しかしなぜここにこの絵巻?上野国の話とはいえ何か関係あるのかなあ。



案内看板のある小道から脇道に入ると土塁と堀が見られます。


土塁

居館の四方を囲む土塁がしっかり残っています。




土塁の奥には堀跡も見られます。





ぐるりと一周してみたものの、私有地だったり民家だったりして
居館の中までは散策出来ませんでした。
林や竹林になっている部分が居館跡であることは外周から見てとれるのですが
それ以上は散策は断念しました。
とりあえずは案内看板のある散策路付近で土塁と堀は確認できます。
木曽義仲の父が暮らした居館跡ということで、話題性あり!
しかし、木曽に近い長野でもなく岐阜でもなく、群馬、埼玉に縁があったのですね。


平成30年7月15日登城

長根城(群馬県)

2018年07月18日 | 百名城以外の城
長根城ながねじょう
別名
構造丘城
築城者長根重清(小河原氏)
築城年代天文年間(1532年~1555年)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市吉井町長根 地図

長根城は長根衆の居城であり、長根重清氏(国峰城主小幡信貞の弟で小河原氏と改めている)の居城です。
戦国期には上杉、武田、北条、小幡氏と所属を変えたと伝わりますが、これは所領を守るための選択でした。
石倉砦の争奪、長篠の合戦、膳城・神流の合戦等に出陣し、武田勝頼の膳城素肌攻めのおり討死しています。
天正10年武田氏滅亡後徳川の世になると廃城となり城跡には城跡山不動院光円寺が建てられ
明治時代には長根学校が置かれていました。
城将は上田の生島足島神社起請文として、名を残し納めています。


城坂

城坂より東側を本丸、西側を二の丸とする一城別郭の構えで、周囲を堀が巡っています。


上の湯公民館

こちらに駐車して本丸跡を散策です。
案内看板や本丸跡碑もこちらにあります。


案内看板

上の湯公民館前にあるあずまやに案内看板があります。
この看板、縦に読んだら???
横書きでした^^;


虎口と櫓台

ここが本丸への虎口になります。
向って左側の高まりが櫓台という説があります。


本丸跡碑と案内看板

虎口脇にとても立派な本丸跡碑が立っています。


本丸

民家と畑の間を道なりに進むと墓地にあたり、本丸の平地に辿り着きます。



屋敷を構える空間が広がっています。


城主墓地

墓地なので由緒の碑だけ掲載にしておきますが、この碑は城主である小河原氏の
先祖代々の墓石の脇に立てられています。
よく見ると城主の墓の後ろには武田方の家紋が入った石塔も並んでいます。
このような場所でも移り変わりが見られます。


長根神社

本丸より一段下がった北側にある長根神社にやって来ました。


案内看板

入口の鳥居をくぐった左側に案内看板があります。





男道

真直ぐに延びる階段。
この先に拝殿、本殿、更に上は長根城本丸です。


女道

そこまできつい階段ではないですがちゃんと階段以外のまわり道があります。


拝殿

下の案内看板には小林豊後守から当所熊野権現に奉納された「鰐口」があります。と
書かれていましたが、鰐口ではなく鈴が付いています。
鰐口はどこかに大切に保管されているのでしょうか。


本殿

明治時代に5社を合拝した神社で、神主は学問の神様で有名な菅原道真ということで
学校のあった城址にはピッタリの神様が祀られています。


神楽舞(獅子舞)

1789~1800年(寛政年間)、伊勢の国から来た旅人が中長根の名主江原家に泊まった
際に伝えられたとされています。
神楽獅子の囃子方には鼓の入るのが特徴で、能舞に似ていて以前は神楽殿で舞われていたそうですが
現在は座敷、または土間にゴザを敷いた上で二人一組で舞う県内では数少ない民俗芸能です。
舞の流派は稲荷流で、今の甘楽町秋畑那須の獅子連を招いて指導を受け習得したといわれています。
以前は宿神明宮に奉納されていましたが、神社合併により長根神社に奉納されるようになりました。
(高崎市HP参照)


土塁

この土塁の上は長根城本丸です。


摂社と記念碑

本殿裏の土塁に摂社があります。
合拝されているのでその中のひとつなのかなあ?
この社がどのような神様か残念ながら私にはわかりません。


社務所

吉井町無形文化財に指定されている長根神社宿獅子舞は社務所前で舞っているようです。
この広場には長根神社宿獅子舞についての案内看板も立てられています。


宝物殿




上の湯公民館から安坪公民館まで(長根城から安坪方面)の一直線に延びる町道は
鉄砲馬場とよばれる直線道の錬馬場の名残だそうです。見逃しました。
今度近くを通ったら意識して見て来ようと思います。
しかし、城主さまは膳城のあの「素肌攻め」に従軍して討死だったとは…
ちょうど最近膳城が話題に上がり思い出していたところだったのでなんともタイムリーな話で
呼んでいたのか?と思ってしまいました



平成30年7月15日登城



戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部

高月城(東京都)

2018年07月16日 | 百名城以外の城
高月城たかつきじょう
別名高槻城
構造平山城
築城者大石顕重
築城年代1458年(長禄2年)
指定史跡
場所八王子市高月町 地図

高月城は大石氏が滝山城に移る前の城で、
滝山城に城を移すまで代々居住した城として伝わります。
多摩川と秋川の合流地点の自然の要害を利用した加住丘陵に築かれた平山城です。
加住地域に残る「滝山三城」のひとつとしても知られています。


案内看板

「ホテル高月城」(※こちらも廃城)というラブホを過ぎて間もなく案内看板が見えて来ます。
この先、土塁や堀切、馬出や水の手などの遺構が残る城跡のようです。


切り通し

二の曲輪と三の曲輪の間にある、ここが登城道の入口になります。
通路以外は民有地となっているので立ち入ることを禁止していますので注意しましょう。


二の曲輪下

道路から切り通しを入って二の曲輪の下に突き当たります。
ここ見る限り高低差はあまりないようです。
ここもひとつの区切りになっているように見受けられるので堀になっていたのでしょうか。



この先に二の曲輪、更に主曲輪へと続いているのですが
この時期草が覆い、藪になっていて先に進むのをやめて引き返して来ました。
日を改めて、冬場に再登城したいと思います。


縄張り図

この縄張り図は八王子市産業振興部観光課が発行して滝山城周辺に置いてある「滝山三城」という
パンフレット内に掲載されているものです。


滝山三城のひとつということで滝山城登城の際に入手したパンフレットを見て、
急遽訪れてみたのですが草に覆われ先に進んでも遺構は見ずらいと判断し、今回は
様子を見に、覗き込んだだけで引き返して来ました。
残念ではありますが無理に入って行って草むらだけを見て虫に刺されまくっても
良い事無いので次回の楽しみとっておくことにします。
写真もピンボケしか撮れてなかったのでまたリベンジに来たいと思います。
今回はさらりと紹介だけということで…。


平成30年6月30日登城



戦國の山めぐり
萩原さちこ
ジービー

戸吹城(東京都)

2018年07月13日 | 百名城以外の城
戸吹城とぶきじょう
別名根小屋城・二城城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所あきる野市上代継 地図

自然の要害を最大限に利用した断崖上に築かれた要害の城です。
少人数でも効果的に守れる構造で小さくて狭い山城です。
城内(南曲輪)にはハイキングコース「かたらいの路」が通ってますが
城跡の散策は両側が崖の尾根道が続き、崩落が進み大変危険ですので立ち入らない
方が良いと思われます。


登城口

周囲に登城用の駐車場はありません。
通行の妨げにならない場所を見つけて駐車して、登城道から登城します。


竹林

この上が南曲輪で城跡への尾根道入口がある場所になります。
この竹林は私有地ですので、城址への小道以外は道から逸れて敷地内や竹林に
入るのはタブーです。


登城道

見た目以上にわりと急な坂道で、足元はとても滑りやすいです。
さすがは縦堀、やすやすとは通してくれません。
登りはなんとか転ぶこと無く行けましたが、帰りは竹に掴まりながら下って来ました。




虎口正面に八幡宮と表される社があります。


南曲輪

南曲輪内を通過するハイキングコース(かたらいの路)が曲輪内を横断しています。


土塁と堀

南曲輪は、ここではこれでもわりと広い方です。
土塁の上に居るような形状で細く狭いスペースで、少人数で守れるというよりは、
どちらかと言えば少人数しか配置出来ないような形状に見えます^^;


南曲輪土塁先端

南曲輪の西側土塁の先端に居ます。
この先端から下を覗き込むと…怖いです。


馬出

馬出と言っても人間が一列に立つことしか出来そうにありません。
当時はもう少し広かったのでしょうが、相当狭い馬出です。
ただの尾根にしか見えません。



この先の尾根道を進むと主曲輪、北曲輪、出丸等遺構が残っていますが
崩落が進みとても危険なため、ここにロープが張られていることから
立ち入らない方が良いという警告と受け取りました。
ちなみに立ち入りを禁止している表示はありませんが、パンフレットでは危険な場所への立ち入りは
お控えくださいと記載されています。



馬出から先の尾根道は両側が崖地で、西側は崩落しています。
さすがに足がすくんで先には進めそうにないので戸吹城内部の散策は断念です。


二重堀

馬出から南曲輪側を見ると堀が二重になっているのがよくわかります。
とても良い状態で残っています。


社裏側の尾根道

社裏側の尾根道です。
本来尾根道というよりは土塁とされている場所で、この先にくの字形土橋が配されています。


社裏土塁

道の横から見たところですが、尾根道はこのような崩落した細い場所を歩くことになります。
道幅が1メートル以下の場所ばかりで、よろけたり、つまずいたりしたら命が無いものと
思った方がよいです


くの字形土橋

真ん中あたりの窪んだ場所がくの字に曲がっています。(見えずらい)
右側は縦堀が切られています。



ハイキングコースもこの先は崩落が進んでいてこの先は通行できません。





パンフレット

八王子市産業振興部観光課が発行し、加住市民センターでいただいたものです。


縄張り図

滝山三城のパンフレットに掲載されている縄張り図です。
これを見ると今回行けた南曲輪はほんの入口。
奥の方まで散策に行きたいと思ってしまいますが、そこはこの図を見るだけでガマンです。


サマ―ランド側から背後の山を見ると、やはり山肌が見える崖地です。
このまま年月が経てば、やがて尾根道はなくなってしまうのだろうか…。
堀切も良い感じだし、土橋も無理に渡らずとも見ているだけでも良い感じなんだけど
無くなってしまったらとても残念な気がします。
それにしても、写真では表現出来ていないのですが現地へ行ってみると
その危険さは一目瞭然。
自己責任としたとしても事故が起こればまったく遺構が見られなくなってしまうことも
想定されます。
危険と判断される場所には絶対近付かないように身の安全を第一に楽しみましょう。


平成30年6月30日登城



よみがえる滝山城―戦国の風雲をかけぬけた天下の名城
中田 正光
地方・小出版流通センター

野本館(埼玉県)

2018年07月11日 | 陣屋・館
野本館のもとやかた
別名
構造居館
築城者野本基員
築城年代鎌倉時代
指定史跡市指定史跡
場所東松山市下野本 地図

野本基員を初代とする野本一族の館跡で、平安時代の公卿藤原基経の家の警護をしていた片田基親の子息基員が
武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるのみとなっています。



無量寿寺

無量寿寺の駐車場をお借りして散策をしました。
道路を挟み物見とされた野本将軍塚古墳(前方後円墳)も合わせて見て来ました。


標柱

無量寿寺の入口には野本氏館跡の標柱があります。


案内看板

無量寿寺の山門脇にある案内看板です。


将軍塚図

江戸時代の武蔵国の様子を書いた「新編武蔵風土記稿」の無量寿寺の項には
「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、
ここに掲げられた「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。


山門

「利仁山」の扁額が掲げられています。


四国八十八ヶ所霊場参拝記念

ここには十二支の御守本尊が並んでいます。
とりあえず、自分の御守本尊をみつけて合掌。


本堂

本堂を見上げると葵の御紋があります。
関ヶ原の合戦では尾張徳川に参陣し武功をあげています。
徳川家康が関東入国した1591年(天正19年)に、寺領10石の御朱印状を受領したとも
言われているのでこのような葵の紋が入っているのでしょう。


道元禅師像

無量寿寺は曹洞宗のお寺さんだそうで、曹洞宗の宗祖・道元禅師の像がいらっしゃいます。


十二支像

奉納者を募集しているようでしたが、見るとすでに十二支すべて揃っていました。


土塁

外側の土塁と堀は当初からのものでなく、後世の増築によるものと考えられています。


石碑

この奥はお寺なのでお墓がいっぱいです。


山門(内側)

無量寿寺をあとにして、野本将軍塚古墳へ行ってみようと思います。


野本将軍塚古墳

こんもりとした大きな土盛の麓に案内看板があります。


案内看板

昭和35年に県指定史跡になった県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。



無量寿寺から真直ぐ道が抜けています。


鳥居

朱色の鳥居が見えて来たので、ここから将軍塚へと登ってみました。



階段などで道は整備されています。
道の通りに階段を進むと頂点にある利仁神社に到着します。


利仁神社

現在木々で物見にはならないですが、周囲が平なだけに高低差はあまりないのに物見に
使えてしまう構造です。
が、ここは将軍さまのお墓です。^^;



野本氏館とは深い縁がある古墳で、将軍塚図にも一緒に描かれているように
戦国期にも重要な場所であったことがうかがえます。
また、無量寿寺の山門の扁額にも記されている利仁山とあるように地元風土記によると
利仁将軍が登場していることや、利仁将軍が最初に寺を建立していることから
深く関わりあっていることが見えてきます。


石碑

よくわからないが、古墳にいろいろな石碑が建てられています。
将軍ゆかりのものならば良いのですが…よくある戦争の慰霊碑みたいなものでしょうか。


忠魂碑

ここにも忠魂碑です。
昔の人のお墓の上に建てちゃうあたりはどうなんでしょう…。





古墳までも利用した野本氏館(陣屋)ですが、城郭と古墳がいっぺんに両方見られる
ちょっとお得感感じる史跡です。
城館、陣屋としてはそれほど遺構が残っているわけではないですが
将軍塚といっしょに歴史を掘り起こしてみると結構面白いんじゃないでしょうか。
無量寿寺山門脇の案内看板にある将軍塚図の絵(水墨画?)なんかも私は好きです。



平成30年6月17日登城



江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)
中山 良昭
廣済堂出版

奈良梨陣屋(埼玉県)

2018年07月09日 | 陣屋・館
奈良梨陣屋ならなしじんや
別名
構造陣屋
築城者諏訪頼忠
築城年代 1590年(天正18年)
指定史跡町指定史跡
場所比企郡小川町奈良梨吹付800 地図

奈良梨陣屋は戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと推定されます。
現在八和田神社境内とその周辺に堀や土塁などの遺構が残っています。
周囲には千野(茅野)氏の姓も残り、信濃の諏訪との繋がりが強いものと思われます。


土塁と堀跡

東側の堀跡と土塁が残っています。
奈良梨陣屋の案内看板はこちらに設置されています。


案内看板

東側の堀跡付近に案内看板があります。



北側道路と八和田神社との境界に残る土塁。


虎口

北側にある虎口です。
境内を囲むように東側と北側には土塁が残っています。


土塁

北側の虎口から見られる土塁がわかりやすい土盛になっています。


八和田神社

八和田神社は明治40年以前は諏訪神社と呼ばれていました。


拝殿

いつものように手を合わせます。


石碑

境内の中には沢山の石碑が建てられています。


逆さ大スギ

この大スギは天正18年(1590年)に奈良梨に入った諏訪頼水が、所領を定める際に信州諏訪(長野県)から
投げたスギが逆さまに地面にささり、そのまま根着いたという伝説が伝わります。
 

招魂社

明治維新前後に国家のために殉難した人の霊を祭る神社で、各地の神社等に造営されています。


石碑

忠魂碑をはじめ、多くの石碑があります。


天神社

この神社には社も多く、他に春日神社や日吉神社など神社が造営されています。


聖徳皇太子碑

城址を巡っていると、たまに目にする聖徳太子の石碑。
ここはお寺さんでもないしなあ。なぜあるのか分からない。
そもそも歌碑だったり忠霊碑だったり、いろいろな石碑がここにはあります。




これは水堀の名残なのでしょうか。
普段これだけ水があれば周囲の堀に水を流し込むことも可能だったと思われます。


厳島神社

池に飛び出したところにある神社。


駐車場

道路の交差点まで続く参道。
交差点から参道を通って来ることもできますが、徒歩ではなかったので
神社を回り込むように搦め手側から入り、駐車場へやって来ました。



大スギの案内看板を読んだ時には信州の諏訪氏にゆかりがある地として
諏訪氏が千野(茅野)氏を伴ってこの地に移り住んだことを知り、
信州出身の私としては、親しみが湧きました。

諏訪から飛ばした杉がここまで飛ぶとは!と、現実にはあり得ないこの言い伝えに
夢がある?話で面白いなあと感じました。
「いっそのこと御柱を飛ばしてみても良かったかも^^;」
な~んて冗談も現地で話しながら散策してました。


平成30年6月17日登城



諏訪神社 七つの謎
皆神山 すさ
彩流社


滝山城(東京都)

2018年07月06日 | 続百名城
滝山城たきやまじょう
別名武蔵滝山城
構造山城
築城者大石定重
築城年代1521年(大永元年)
指定史跡国指定史跡
場所八王子市高月町 地図
スタンプ設置場所加住市民センター・滝山城跡中の丸・道の駅八王子滝山
城郭検定出題あり

滝山城は武蔵守護代の大石定重が築城し、大石氏の養子となった北条氏照が改修したと伝わります。
北は多摩川に浸食された断崖と、南は谷が入り組んだ複雑な地形で形成されています。
滝山城・高月城・根小屋城(戸吹城)の三つの戦国山城を総称して、「滝山三城」と呼ばれる山城が
加住地域に残っています。


駐車場

この日は駐車場開場15分前に到着。
滝山城の周囲にここ以外で朝8時前に駐車出来る場所はないかと探したのですが
どうやら駐車場はここしかないようなので8時を待っての駐車となりました。


登城口

駐車場から民家のある路地を歩いて登城口へ。
途中案内看板とパンフレットがあるのでそちらで情報を入手します。


天野坂

脇には堀も見えて良い雰囲気です。
そしてここが滝山城の大手道になります。
この先小宮曲輪と三の丸の間には枡形虎口が設けられていましたが車道により消滅しています。


小宮曲輪枡形虎口

この辺りは複雑な形状をしていますが、枡形虎口であった名残が見てとれます。
北条氏照の家臣に小宮という人物が居て、小宮曲輪は屋敷があったことから
この名が付いたとされています。


三の丸

道上に三の丸があります。
小道を登ってみるも…このように草が生い茂っていて中に入って行くのは拒まれます。
しかし、三の丸を囲む堀が見事なので堀を覗きに行って来ました。


コの字形土橋

車道になってしまっているのでS字のコーナーのようにしか見えないのですが、
当時は狭い土橋で、身体の向きを4回も変えさせて側面から攻撃するという仕掛けが
された道でした。


千畳敷

こちらは草刈もされていて良い広場です。


弁天池跡

千畳敷から見下す弁天池跡。
池跡があるらしいが草でよくわかりません。
当時は池に小舟を浮かべて宴を楽しんでいたようです。


二の丸

二の丸の中も草だらけです。


中の丸

本丸の次に重要な場所で、本丸とは木橋で繋がっています。
中の丸にはトイレやあずまやが完備されていて休憩ポイントとなります。


国民宿舎滝山荘

滝山荘は平成13年に廃止となりましたが、現在は情報発信の場として使用されています。
ARのポイントがあちこちにあるので活用してみよう!


スタンプ設置場所

滝山荘に置いてあるスタンプです。24時間いつでも押印できます。
しか~し!、建物で試し押しとはけしからん
どうしてこーゆーことをするかなあ。
落書きするのと同じことです!
これ以上建物を汚すようであればスタンプ撤去もいたしかたないな…。



滝山荘はお寺か神社のような和風な建物。
だからこの部分は残されたのかな。


本丸への木橋

本丸と中の丸の間の大堀切に架けられた木橋は
本来もう少し下に架けられていたそうです。



滝山城のシンボルとも言える木橋ですが、この橋の下から撮った構図の写真がよく見られるので
行ってみたら、蚊が凄いいっぱいでカメラを構える手がブレまくり
良い写真が撮れませんでした^^;


本丸

本丸は二段に渡り造られています。
虎口も良好に残っていて枡形が見られます。


井戸

覗き込むとけっこう深そうな井戸です。


霞神社

下の本丸広場から石段を登り、上の本丸へ。
正面には霞神社が出迎えてくれます。
~明治三十七、八年戦後(日露戦争)に武勲を樹て散華された英霊を奉斎せん為
明治四十五年五月一日に当時の在郷軍人會加住村會の首唱によって
史蹟である北條氏照の居城滝山城址本丸跡に神社を創建して霞神社と称した。
というような内容が隣接する石碑に刻まれています。


金毘羅社

霞神社を過ぎて奥へ向かうと、今度は金毘羅社があります。
ちなみ搦め手道から登ってくると木橋より手前に石段があり、そこを登って来ると
鳥居をくぐって直接金毘羅社に行く事が出来ます。
本丸への近道にもなります。
金毘羅社は先ほどの霞神社より歴史は古く、二百年ほど前に村民が造営したとのことです。


眺望

本丸も中の丸も眺めが良いです。
搦め手側、多摩川がよく見えます。


東馬出

本丸を後にして尾根伝いに信濃屋敷方面に向かって歩いて来ると東馬出が見えて来ます。
正面の草むらが東馬出しですです。


行き止まりの曲輪(ふくろのねずみ)

ネーミングがが印象的な曲輪ですね。
両端は狭い土橋になっていて行き止まりような場所で、ここに敵を引き寄せて
堀を挟んで二の丸から横矢を掛けることが出来ます。


信濃屋敷

この辺りは屋敷跡が続きます。
この奥の草むらが信濃屋敷になります。


刑部屋敷

こちらも草が生い茂り屋敷の仕切りとなる低い土塁などは草に埋もれて
なんとな~くしかわからない。


カゾノ屋敷

ここまで来ると道から覗き込むだけで、中に入ろうという気が湧きません。


木橋(引き橋)

ここからARを使って屋敷側を見ると、上から橋に向って防御しているのが
見えます。


まだまだ散策しつくしていませんが、とにかく広いので今回はここまで。
やはり、来るならあまり草が元気でない時に訪れた方が良いですね。


加住市民センター

さて、続100名城のスタンプを求めて加住市民センターへやって来ました。


スタンプ設置場所

建物を入ってすぐの場所にスタンプ設置場所があります。
ここでは「滝山三城」というパンフレットを入手しました。
というわけで、この後行ってみることに。


道の駅八王子滝山

更に、続100名城のスタンプがあるという道の駅にやって来ました。
しかしここはとても混んでいて駐車場が満車で列をなしています。
駐車場への車列に並んでいる間に私だけ車から降りて、そそくさとスタンプ探しへ。


スタンプ設置場所

ありました! 滝山城のスタンプはこれで3ヶ所目です。
どこで押すかは…気分次第。
加住市民センターと道の駅が閉まっていたら滝山城中の丸へ行けば取り逃し無しということです。
100名城に比べて、続100名城はスタンプ設置個所が多いのが特徴ですね。
知りうる限り、見つけたらブログで紹介していきたいと思います。


娘の通う大学が八王子にあったので4年間通ううちには来られるだろうなんて思っていたら
あっという間に4年が過ぎ、いつも行きたいと思いながらもいつでも行けるなんて思っていて
なかなか訪れることがなく、やっと今頃の登城となりました。

城内外、至る所に案内看板とパンフレットが用意されているのがありがたい。
こんなにパンフレットが入手しやすい城郭は他では見たことがありません。
ただ残念なのは、二の丸、三の丸をはじめ、曲輪の草が散策を阻んで土塁や虎口がよく見えないこと。
よく草刈ボランティアを募集して草刈りなどの手入れをされているのは知っていたので
さぞかしきれいなのかと期待して行ったせいか、ちょっとがっかりしてしまいました。
とはいえ、手入れの努力は昔からどこよりも力を入れていることは知っているので
この規模、この広さを草刈するのはやはり多くの人の協力だったり、費用だったり大変なことと思います。
これだけの立派な遺構が残っているので、東京都ももう少し予算を割いていただけるとありがいのですが。
というか、ボランティアに参加しろって話ですね^^;
そしてこの日も職員の方?が見回っていたのをみると努力はとってもしてることが
わかるんです。
こうして続100名城に選ばれ、見学させていただけることに保存されている方々には深く感謝です。


平成30年6月30日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


水戸城(茨城県)

2018年07月04日 |  百名城
水戸城みとじょう
別名馬場城
構造平山城
築城者馬場資幹・佐竹義宣・徳川頼房
築城年代1214年(建保2年)頃、1593年(文禄2年)、1625年(寛永2年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所水戸市三の丸 地図
スタンプ設置場所弘道館料金所窓口(休館日12/29~12/31)
御城印水戸観光コンベンション協会事務所・水戸観光案内所・北澤売店
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

水戸城は茨城県立水戸第一高校から旧茨城県庁までが主郭部で
外郭まで合わせると現在の水戸市中心部全体程の広大な広さを誇ります。


駐車場

弘道館から一番近い駐車場に停めることが出来ました。


スタンプ設置場所

まずは弘道館料金所窓口で100名城のスタンプをお借りして
入館料を支払い弘道館を見学します。


弘道館の正門

弘道館は水戸藩主の徳川斉昭が三の丸に造った藩校です。
藩主が来館する際など正式の場合のみ開門しました。
学生や諸役人はこの門を使用出来ず、通用門から出入りしました。


弾痕

幕末、藩の改革派と保守門閥派の対立によって抗争が勃発。
その時の争いの傷跡が今でも残されています。


扁額(游於藝)

掲げられた扁額は、論語の一節よるもので、文武にこりかたまらず悠々と芸を究めるという意味があります。


玄関

前回訪れた時は東日本大震災後で、その爪痕が残っていてとてもひどいことになっていましたが
奇麗に修復されています。


正庁諸役会所

玄関正面には正庁諸役会所があります。


弾痕

正門同様、ここにも弾痕が残っています。


正庁入口

見学のための入口はこちらです。
玄関も見学用に公開しているのでこちらの玄関から入って建物内を見学することが出来ます。
展示室も見学できますが、こちらは撮影禁止になっています。



そして、廊下は畳敷。


正庁正席の間

藩主が学問の試験や対試場で行われた武術の試験をご覧になったところです。
ここの畳縁には徳川の葵の紋が入っています。



便所

トイレを見るとつい、覗き込んでしまう(^^;
ここも畳が敷かれています。


風呂

風呂釜は無く、ただ体を洗い流すだけだったのか、
真ん中に配水用の溝が切られています。


至善堂

この部屋は藩主の休息所で、諸公子の勉学所でもありました。



ここにはなぜかあるべき欄間が無いようです。
どうしたんだろう…。(震災かなあ?)


雲龍水

弘道館に備え付けられていた消防ポンプです。
安政4年のものです。





徳川斉昭公像

城郭検定準1級の問題では以前訪れた時に見たここにあった銅像を思い出して
正解することが出来ました。
個人的に思い入れのある銅像です。


大手橋

三の丸と二の丸を結ぶ橋で1596年の佐竹時代に架けられたのが最初です。
現在この先の大手門の復元工事中です。


大手門

明治維新150年を記念して大手門の復元工事中です。
この工事に伴い、平成29年11月には日本最大級の瓦塀も発見され今後がとても楽しみです。
完成したらまた来たいと思います!


三の丸空堀

三の丸庁舎の空堀。


彰考館

江戸時代に水戸藩が「大日本史」を編纂するために置いた修史局です。
現在は水戸市立第二中学校となっています。


二の丸展示館

こちらで休憩がてら展示品を見ていると、大手門一枚瓦城主を募集しているという話を伺いました。
今行って来たよという方が詳しく場所を教えてくれたので、帰りに寄ることにしました。
インターネットで寄付を募っていたのは知っていましたが、現地で調度募集していたとは運が良い!
教えてくれた方、ありがとう!


大シイ

戦国時代から自生したという大シイは樹齢400年を超えます。
水戸城城郭内にあることから歴史的にも貴重な樹木として中学校でもシンボルとして親しまれています。


見晴らし台入口

この門をくぐって先に進むと見晴台があります。



なんだろう?と見に行ってみることにしました。


見晴らし台

見晴台とは言うものの、いまいち見晴らした感が無いのですが
この木々が無ければかなり見晴らすことは出来ると思います。


杉山坂

二の丸に通じる坂道で杉山門から二の丸へ入城することが出来ます。


杉山門

門の内側には土塁で桝形が形成されていたという杉山門。
この付近には2代将軍光圀が紀州産の熊野杉を取り寄せて植えていました。


本丸堀

現在、堀底をJRの線路が走っています。


橋詰門

県立水戸第一高校に移築した薬医門で現在は校門として使用されています。
こちらも佐竹時代に造られたと思われ、かつては本丸表口に構えられていました。


東日本大震災の爪痕

東日本大震災後の爪痕。
この写真は以前訪れた時のものです。
これだけひどい被害を受けたことを記憶しているので今回訪れて修復具合を見て
本当に復興できて良かったなと思いました。



当時の地震が強かったことが覗えます。



壁が剥がれ落ちています。



当時は中に入って見学することが出来ませんでした。
今回は復興されて見学が出来たので良かったです。


大手門一枚瓦城主

二の丸展示館で教えてくれた場所へやって来ました。
とてもわかりやすく教えてくれたので土地勘の無い我々にもすぐに場所がわかりました。


申し込み受付

会津の鶴ヶ城赤瓦の寄付の時を思い出しました。
あの時は子供たちが一緒だったのですが、今回は子供たちは付いてきてくれませんでした



直にここで記名が出来る日だったのでラッキーでした。
家族の名前を書いて…と、瓦に黒い墨で書いているとなんだか妙な気分。
しかし、末娘(シャム猫)まろんちゃんの名前を書き忘れたことで子供にめっちゃ責められました
また寄付しなくちゃダメかなあ…。



何はともあれ前回からの様変わりにあれ?あれ?と言いながら車を走らせ、復興がされたことを
認識しました。
綺麗に城郭整備が進み、そしてまだまだこれからも復元工事が進んでいく予定なので
この先が楽しみです。



平成24年10月13日登城
平成30年6月23日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

笠間城(茨城県)

2018年07月02日 | 続百名城
笠間城かさまじょう
別名桂城
構造山城
築城者笠間時朝
築城年代1219年(承久1年)
指定史跡市指定史跡
場所笠間市笠間3616 地図
スタンプ設置場所かさま歴史交流館 筒井屋(9:00~18:00、休館日は月曜日、月曜日が祝日の場合は翌日)

佐白山に笠間時朝が鎌倉時代に16年の歳月をかけて築いた笠間城は
戦国期に蒲生郷成が入城すると、関東の山城では珍しい石垣を多用した近世城郭へと改修されました。
天守曲輪には二重天守が築かれ、谷や断崖を生かし堀や土塁で造られているが天守曲輪は
石垣で形成されているのが特徴です。


井筒屋

続100名城のスタンプ設置場所の「井筒屋」です。


スタンプ設置場所

スタンプは良好です。



こちらでは、笠間城についてパフレットや地図で親切に見所を教えてくれました。
この辺りには造り酒屋さんも多くあったそうです。(今は2軒)


駒場丸(千人溜り跡)

この広場はいざ出陣というとき武士が集結した所です。


駐車場

千人溜りには駐車場が設けられています。
こちらに車を停めて徒歩で本丸を目指します。


登城口

この先はあちこちに石垣が見られるので、遺構を見ながら進んで行きます。


大手門跡

大手門跡には石碑があり、石垣も見られます。
この大手門は櫓門で手前には木橋(大手橋)がかかっていたようです。


大手門跡上

車が直角に曲がれないのでこのような道を造ってしまったのでしょう…。



道路を歩いて行けば楽ですが、もちろん遺構の残る古道を進みます。


中門跡

古道は石段で出来ていて階段になっている場所には門が構えられていたと思われます。
そしてここは中の門跡です。


二の門跡

石段を登りきったところに二の門があったものと思われます。


玄関門跡

この石垣が玄関門跡の石垣です。
ここには石垣からすると、櫓門かそれに近い門構えだったと思われます。


二の丸

笠間城築城750年祭の記念碑があります。


本丸

二の丸から見た本丸。
ここには御殿が築かれ、居館とされていました。


宍ヶ崎櫓跡

足元をよく見ると礎石?っぽい石が見えます。


八幡台

八幡台に登ると、あずまややベンチがあります。
そして本丸の中が一望出来ます。



本丸にある高い土塁のようにも見える高まりが八幡台です。
そしてこの高くなっている場所に八幡台櫓がありました。


八幡台櫓跡

ここにはかつて八幡台櫓がありました。
平時は武器庫として、戦時は物見として使用されていました。
現在八幡台櫓は麓の真浄寺に移築現存しています。


案内看板

この案内看板を見ると、沢山の城門があったことがわかります。





笠間城跡碑

この説明文がとてもわかりやすく、笠間城のことがまとめられています。
笠間城になる前は、この山には正福寺と徳蔵寺勢力争いが盛んでした。
そのため、藤原(笠間)時朝がつかわされ鎮圧し、笠間城を築城したことが記されています。



天守曲輪入口

石段がつづき、ちょっと空気が変わる気がします。
いよいよって感じ!
ちなみにここにもひとつ門がありました。


天守石垣

石段を登って行くと間も無く石垣が見えて来ます。
東日本大震災により石垣が崩れてしまったため、立ち入り禁止になっていますが
見事に石垣が残っています。


天守台

崩れかけていますが石垣を多用して天守台が造られています。
こちらも東日本大震災により崩落し、立ち入り禁止になっていたようですが
現在は開放されています。
しかし、石段の間隔がかなり広くなってしまい高低差があるので
十分気をつけて昇り降りして下さい。


手水

岩を刳り抜いて造られた手水。
手や口を濯ぐ気にはなれないのですが^^;
機能はともかく、なんだか珍しくておしゃれな感じ。


佐志能神社

ここにはかつて二重の天守が築かれていました。
明治初期に廃城令によって建物が取り壊されたのですが、天守の廃材を使って
この神社は造られていると伝わります。



裏手に廻ると本殿の周りは瓦で塀が造られています。
この瓦も天守の瓦だったと伝わります。


崩れた石垣

更に裏手に行くと大きな石が意味ありげにいくつも見えます。
加工したような石ではないので庭石のような装飾用か思ったのですが
天守台の石垣が崩れたようです。
ここは自然の石を使って積まれていたのでしょうか。


笠間城の散策はこれにて終了。下山します。




大黒石

道路の途中にあるこの大きな石は、むかしむかし
徳蔵寺の僧兵が攻め込んできた時、この大きな石が転がって来て徳蔵寺勢はつぶされまいと
ちりじりに逃げて戦力を失い引き上げて行ったそうです。
正福寺のピンチを救った石だそうです。


大石邸址

赤穂藩の大石内蔵助良雄の父と祖父が暮らしていた屋敷跡です。
笠間藩主の浅野氏が赤穂へ国替えとなり、浅野氏の家老であった大石氏も赤穂へ。


大石良雄の銅像

「忠臣蔵」でおなじみの大石内蔵助良雄の銅像です。


真浄寺

こちらのお寺に笠間城八幡台櫓があるというので見に来てみました。
ここはカーブになっていてお寺から出る時は見通しが悪いので事故を起こさないよう
注意して出入りして下さい。


笠間城八幡台櫓

現在は真浄寺の七面堂として使用されている八幡台櫓。
かつては笠間城本丸にある八幡台にあった櫓ですがこの地に移築し、現存しています。



ここではちょっと異色な佇まい。



櫓としてみれば格好良いですよ。



九ちゃんの家

おまけに、井筒屋さんで聞いた坂本九さんの旧家がこちらです。
日航機墜落事故現場にも遠からずの場所からやって来たので何かの縁と思い立ち寄ってみました。
夏が来ると日航機墜落事故を思い出してしまいます。
なんともさみしげな風景です。


雨が降ったりやんだりの中での訪問となりました。
草が生い茂っていますが比較的よく遺構が見える良い城跡でした。
ちょっと道路が遺構を破壊してるのかなと思いますが要所要所は残っているので
雰囲気も楽しめたし、このままの状態であまり手を加えず保存してもらえたらなあと思います。


平成30年6月23日登城


 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


賤機山城(静岡県)

2018年07月01日 | 百名城以外の城
賤機山城しずはたやまじょう
別名臨済寺城・龍鼻砦
構造山城
築城者今川範政
築城年代1411年(応永18年)
指定史跡
場所静岡市葵区大岩 地図
城郭検定出題あり


未登城の城







よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス