むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

山城サミットin佐野

2017年11月27日 | イベント・行事
山城サミットin佐野


11月25日(土)、26日(日)と山城サミットが開催されました。
そして26日(日)現地見学会だけは絶対に外せまい!と、はりきってやって来ました(*^▽^*)


無料シャトルバス

普段は車でレストハウス前の駐車場まで行けるのですが、この日は自家用車での乗り入れは
出来ないので特設大駐車場から無料シャトルバスにて唐沢山城跡へ。


レストハウス前

事前に申し込みをしていた「千田先生・宮武先生と主郭を歩く」現地見学会の受付時間待ちです。
普段ここは駐車場になっていますがいろいろなお店のテントが建ち並び、とても賑やかです。


現地見学会

出発前に先生方の紹介と唐沢山城についてのお話しです。



この高石垣は、安土桃山時代に築かれた豊臣方の石垣技術を導入して積まれた
関東地方には珍しい石垣です。
やはり、ここに来ると「凄~」と見上げてしまいます。
ここでの宮武先生の話も分かりやすくなるほど~な話が聞けました。


本丸虎口(二の丸側)

とにかく楽しそうに話しています。
きっとしゃべりたり足りなかったことでしょう。(^^;
(私も聞き足りなかったし。)


対談
千田先生、宮武先生による「全国の城を知る識者二人が唐沢山城を語りあう」のテーマで対談。
しかし、この二人の話は漫才のようで面白い。
これだけの人が二の丸に詰めるというのは天正時代以来か…(確かに)

鏡石の話であったり、虎口の本来の構造の話など
面白いだけでなく、ちゃんと「なるほど~」と言わせるだけの内容です。


武者行列

甲冑を持って随分遠くから参陣された方も居るようです。


紅葉

紅葉真っ只中です!
いっぱい写真を撮りたかったのですが、さすがにこの日は人、人、人で
ゆっくり撮影とはいきませんでした。


さのまる

さのまるも山城サミットバージョンでお出迎えです。


猫たち

この賑やかな中、猫ちゃんたちはどこ行ったのかな?と探してみると…
いました、いました(*^-^*)
唐沢山城は猫に会いに来る人もいっぱいいます。
私も今日は我が家の飼い猫まろんちゃんに銀のスプーン(キャットフード)をおすそ分けしてもらい、
持参して来ました!
売店のキャットフードも、1年前に来た時よりもバリエーションが増えてました。


現地見学会出発前に偶然、唐沢山城のARを作られたという方ともお話が出来ました。
(話に聞き入ってしまってうっかりお名前を伺い忘れてしまったのが残念。)
岩村城や高取城のARも手掛けた方だそうで、今度はぜひ岩村城のARも見に行ってみたいと
思います。


二日間とも訪れる予定だった山城サミット。
25日は色々なスケジュールが重なり行く事が出来ませんでした。
パネルディスカッションなども楽しみにしていたのに残念でしたが
次は12月のお城EXPOで山城の話も聞けると思うので我慢して、今度はそちらを楽しみに年末を
迎えたいと思います。


平成29年11月26日登城


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スクープクリエーション

福井城(福井県)

2017年11月20日 | 続百名城
福井城ふくいじょう
別名結城氏北ノ庄城・新北ノ庄城・福居城
構造平城
築城者結城秀康
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所福井市大手3-3−17−1 地図
スタンプ設置場所福井県庁一階受付(開庁日の8:30~17:15)
城郭検定出題あり

柴田勝家の北ノ庄城があった場所に結城秀康が新たに築城しました。
本丸には四重五階の壮大な天守のほか、三隅には艮櫓、巽櫓、坤櫓(月見櫓)があり、
中央には本丸御殿が建てられていました。



御本城橋と大手門跡

ここから、登庁ならぬ、登城です!


福井県庁

福井城本丸の中に県庁があります。
ここに写っている建物は県警本部です。
本丸には主要な機関が置かれているんですね。



橋を渡り、本丸に入ると城主さまがお出迎え。
その奥には案内看板と脇にはパンフレットが置かれたボックスが設置されています。


本丸復元図

これを見ると立派な天守と櫓があったことが想像出来ます。
(この看板の右隣にパンフレットが入ったボックスがあります)


結城秀康公像

騎馬で勇ましいはずの銅像ですが…
なんとも頼りない表情をしていると感じるのは気のせい?


巽櫓台石垣

雁木…本丸内の石垣にはこれらの防備が見られます。
重要な場所の守りを固めています。


坤櫓台石垣

こちらも雁木造りで防御を高めています。
櫓台や天守台に近い場所に設置されています。


案内看板
この先に天守台があります!
ということでこの先に行ってみます


天守閣跡と福の井の碑

控天守脇にある碑には天守と井戸について記されています。


福の井

「福井」という地名の由来となった井戸です。
ここに城が築かれる前からあった井戸で、北ノ庄城から福井城に改名する際に
この「福井」という井戸から福井城と名付けられたそうです。



以前は屋根や囲いや無かったようですが、今はがっちり保護されています。
福井の人々にとっては大事な井戸ですね。



福井城の石垣は、足羽山産の笏谷石(しゃくだにいし)が使われています。


天守台入口



天守台

天守の礎石が残されています。
1669年(寛文9年)の大火によって焼失した天守は、その後再建されることは
許されませんでした。






天守台は広く、この写真の奥側の礎石がある北側半分に天守は建てられていました。


控天守台

この石垣は1948年(昭和23年)の福井地震で倒壊しそのまま状態になっています。
福井地震の状況を知る遺構としても残されています。


内堀

石垣の下には犬走りが見えます。








石垣の刻印

天下普請で築いた石垣なのでよく見ると刻印が見られるので探してみよう!



何家?何藩?…わからない。


御廊下橋

屋根付きの橋はやっぱり良いですね。
ここを訪れた時は小雨だったのでなおさら屋根があるのがありがたく思えました。



工事中のため橋の中は見ることは出来ますがその先は行き止まりです。





工事中

本丸に抜けられると思ってここで車を下ろしてもらったのですが
通り抜け出来ず、引き返して迎えに来てもらいました。(下調べが足りませんでした


山里丸




かつてはこの石垣の上に天守がそびえていたのですね。

柴田勝家は信長の妹、お市の方を妻にして娘(浅井三姉妹)とともに北ノ庄城に住んでいました。
天正11年の賤ヶ岳の合戦で、羽柴秀吉に敗れ北ノ庄城が包囲されると、お市の方に脱出すよう勧めましたが、
お市の方は娘の三姉妹を脱出させると、勝家の元に戻り、天守に火をつけて一緒に自害してしまいた。
北ノ庄城はこの時、ほとんどの建物を焼失してしまいました。

このような悲劇があった場所として認識して散策すると
なんだか切ない気落ちになります。


平成29年11月11日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス
 

嶺城(群馬県)

2017年11月15日 | 百名城以外の城
嶺城みねじょう
別名田中城
構造丘城
築城者北條丹後守
築城年代1558~1570年(永禄年期)
指定史跡
場所前橋市嶺町601-2 地図


嶺城は北條丹後守(前橋城の城代の一人)が築城し、家臣の田中大弐が居城していた為、
田中城とも呼ばれています。





標柱と案内看板

嶺城本丸という標柱と案内看板があります。
実際の本丸はまだこの先の丘の上にあるのですが嶺城の大事な目印になっています。
見学者駐車場はこの先100mほどのところにあります。


縄張図

嶺城を含め、この辺りには9つの砦や城址が築かれていました。


駐車場

地元有志の方々が整備されたそうで、城跡見学専用駐車場が作られていました。
ありがたいことです。



駐車場から約50mほど進むといよいよ登城口です。
以前は民家の裏庭から登城するなどあったようですが、現在は地主の方に御迷惑がかからないような
場所に登城口が整備されています。


登城口

四の郭と五の郭の間の堀に登城口が作られています。



堀切がなかなか立派で見応えあります。



しかし堀底から見上げると…郭に大根!!(沢山並んでいます)
この大根、城壁のようです



このような道案内用の表記がされているので
これに従って歩いて行くと本丸に行くことが出来ます。
この通りに歩いて散策すれば土塁をよじ登ったり遺構を破壊することは無いと思います。



堀底から順路?に従って小路を進みます。



三の郭を見上げると…ここにも大根がズラリ~と並んでいます。
これは完全に大根の城壁です!
これでは進入の妨げになります。現代の城主の知恵でしょうか^^;


歩きやすいように階段や手すりまでも設置されています。



とても歩きやすく作られています。


二の郭

こちらはまだ竹藪になっています。
リボンがされている竹もあるのでそのうち整備されるのではないかと期待します。


本丸虎口

本丸と二の郭の間にも大きめの堀切が残っています。
この道を登るといよいよ本丸です。


本丸

さすがに本丸は畑になっていません。



地元有志の方々によって作られた本丸跡の看板。
良い感じです



本丸を囲むように低い土塁が巡らされています。


本丸虎口

やはり虎口の部分が一番土塁が高く盛ってあります。


五の郭

こちらは先程の登城ルートとは違う場所から攻めてみました。
登城口の先約50mの車一台分の幅の舗装路を登って行くと五の郭に出ます。
こちらも沢山の大根を干す作業をしている最中でした。


遠望

縄張りは長い形になっていて、手前は平な畑になっていて、さらに藤沢川を要害にしている形になります。


大峯神社

川を挟んで神社があったので嶺城と関係があるのかと一応見に行ってみたのですが
村の鎮守の神様であることは分かったのですが嶺城との関係はわかりませんでした。


案内看板



嶺公園にはとても縁があるのですが嶺城には初めて来ました。
正直、こんなに良い状態で遺構が残っているとは思っていませんでした。
整備もされていて専用駐車場や道しるべやベンチなどが設置されていて散策しやすかったです。
もっと藪を想像していました^^;
調べたわけではないのですが、この大根がいっぱい干してあるのも城主であった田中さん一族あるいは
子孫の方々の畑であろうと思われるので城址見学させてもらえるだけでもありがたいです。
なるべく御迷惑にならないように畑や宅地に進入しないように気遣いが必要だなと思いました。
きっとそのような気遣いのもとに見学用の駐車場や本丸へのルートが設置されたのではないかと
思われます。
でも、せっかくこのような手入れをして頂いたので機会があったらぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。


平成29年11月12日登城



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庭谷城(群馬県)

2017年11月14日 | 百名城以外の城
庭谷城にわやじょう
別名庭屋城
構造断崖
築城者庭屋左衛門尉
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所甘楽郡甘楽町庭谷697 地図


庭谷城は築城年代は不明ですが国峰城の小幡氏の出城で、重臣庭屋左衛門尉が城主を務めていました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原北条攻めにより国峰城とともに落城しました。



ここを右折して(カーブミラーに写ってる方向)、民家の間を道なりに進んで行くと突当りに
建設会社がありますが、進入しないように道なりに右折します。
すると神社が見えて来て庭谷城跡に到着します。



神社と案内看板が見えて来ます。
神社の中には車を乗り入れることが出来ません。
周囲に駐車場も無いので西虎口の封鎖のチェーンぎりぎりの所に車を置き、散策しました。


案内看板

以前は標柱が立っていた場所に案内看板が立てられています。


二の郭

さも、郭があったと思わせる平地は畑と化しています。


堀跡

本郭と二の郭の間を写しています。
かつては本郭の周囲を囲むように堀が巡っていたようですが
近年埋め立てられて現在は道となっています。


南虎口

群馬と言えば赤城神社!
赤城と付く神社はいったいどれだけあるのでしょうか。。。。


赤城大明神

お賽銭箱がありません。
とりあえず手を合わせ訪問のあいさつ。


西虎口

本郭は土塁で囲まれています。
こちらの虎口もはっきり土塁が残っています。


土塁

神社裏に来ました。
川の流れる音がします。



南虎口を本郭内側から見ています。
虎口の周りは、はっきりと土塁が確認出来ます。


ナビで最初に連れて来られたのは川を挟んだ造石側の公園。
神社が無いじゃん!と思い元の道に戻って一枚目の写真の場所に出て看板に
従い辿り着きました。
最初にナビで案内された公園からは歩いて橋を渡り庭谷城へ行くことができるようですが
この団地の中の公園は駐車場がありません。
団地の住民向けに作られた公園ぽいです。
コンパクトでベーシックな城跡でした。



平成29年11月5日登城



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茂呂城(群馬県)

2017年11月13日 | 百名城以外の城
茂呂城もろじょう
別名
構造平城
築城者那波宗元
築城年代永禄年間(1558年~1570年)
指定史跡
場所伊勢崎市美茂呂町3612 地図


退魔寺を本丸とし、広瀬川の河岸段丘を利用して築かれています。
石田三成がこの地を通過した折、この付近に毎夜妖怪が現れ庶民が難渋していると聞きこれを退治した。
そこで石田氏の徳をたたえ寺号を退魔寺と改め、寺紋を石田氏の紋にしたという所伝が伝わります。


退魔寺山門

阿形像と吽形像で一対となる金剛力士像が迫力のお出迎えです。


観音霊場めぐり

由緒や所伝、次の札所が書かれています。


當山畧縁起

山門脇にある當山畧縁起。


境内

境内には観音像や弘法大志像が見えます。


三階松

寺紋を石田三成の家紋とした三階松の紋が見てとれます。
大一大万大吉ではないので現地では気が付きませんでしたがこれも
石田家の家紋だったのですね。(知らなかった)


弘法大志御尊像

弘法大師御自作の不動明王を本尊としと當山畧縁起に記されているので
弘法大志様もいらっしゃるのね。



弘法大志御尊像付近の木に隠れるようにある城址標柱があるので見つけて下さい。


城址標柱

城址標柱があるというので境内の中を探し回ってみつけました。
とてもわかりずらいところにありるという情報はあるのですが
どのあたりにあるのかという情報はあまりないので結局私も探し回りました。


毘沙門天

武神として知られる神様なので城跡にあるというのは
やはり上杉謙信のように戦の神様として崇めていたのでしょうか。


石碑

いくつかの城名や城主名の書かれた石碑ですが、読めない。。。。
何が書いてあるのかとても気になるのですが私には解読できません。
残念。


広瀬川

城塁は広瀬川に面しています。


水神宮

二の丸内にある水神宮。
夏に開催される「水神宮祭」では、災害の犠牲者を供養する灯篭流しが光円橋上流で行われます。


遺構はほとんど残っていないので面影探しをするしかない。
とはいえやはりそれらしいものは私にはみつけられず、城跡標柱をみつけたことだけで
とりあえず良しとしてしまいました。
その標柱も境内にはいろいろあって番号がふられています。
パンフレットかなにかの説明用の番号なのかよくわからないのですが
茂呂城跡の標柱があることでここに茂呂城があったことが確認できました。


平成29年11月5日登城


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力丸城(群馬県)

2017年11月08日 | 百名城以外の城
力丸城りきまるじょう
別名
構造平城
築城者那波宗広
築城年代1366年(貞治5年)
指定史跡
場所前橋市力丸町 地図


力丸城は1366年(貞治5年)に那波氏の一族である日向守宗広により築城されました。
1367年(貞治6年)2月1日、那波日向守宗広がはじめてここに移り住み、明治初年まで
東群馬郡後勢多郡に俗していました。



善昌寺の前の道を突当りまで進むと正面に城址碑が見えて来ます。


力丸古城跡碑

城跡碑と下川淵カルタの看板があります。
この下川淵カルタの縄張りは、よ~く見ると宿阿内城の看板と同じものです。
よって、縄張図も宿阿内城です。(>_<)


城跡碑(裏)

城跡碑の裏に廻ってみました。
ここには1366年(貞治5年)に築城と書いてありますが、完工記念碑には
1367年(貞治6年)2月1日に那波日向守宗広が初めて住み始めたとあります。
年号が前後しているのが???なのですがちゃんと調べていないので疑問のままです。
築城した後住みはじめたということなのかなあ。


石碑

城跡碑の隣にひっそりとある石碑。
何の碑かはわかりません。


堀跡

堀の名残ではないかとされている城跡碑隣の小川。
残念ながら、土地改良のため遺構はほとんど残っていません。


力丸町会議所

車はこちらの駐車場を拝借して散策。


完工記念碑

ここにも力丸城の始まりが記されています。



こちらの小川も堀の名残でしょうか…。


善昌寺山門

城域内にある善昌寺にやって来ました。
企業健全・業績向上、交通安全・夫婦和合・家内安全、当病平癒などのご利益があるという
ぜ~んぶ祈願したい、ありがたいお寺さんです。



山門を見上げると那波氏の家紋が目にとまりました。


千手観世音菩薩像

山門から入ってすぐに目を引く千手観音菩薩像。
大変立派なものに見えます。


大黒天像

商売繁盛を祈願せねば!!
宜しくお願い申し上げます


本堂

力丸城の裏鬼門除けの寺として、西南の地に創建されました。


礎石

この台座は、もと浅草寺の旧雷門の礎石だそうです。
夜な夜な不思議な現象があり、突如、巳歳に因み白大蛇の奉納ありと記されています。


小槌重寶弁財天白蛇

奉納された白大蛇さま。
白蛇と聞いて思い浮かぶのは金運。
白蛇さまに金運の開運もお願い


三寶荒神堂 



城址めぐりに来たはずが、すっかり商売繁盛と金運開運とお願いして歩いて
お金運のパワースポットに来た気分になっていました。
こうしてお城巡りをしていると神社仏閣とは切っても切れない縁で
今年はいったいどれだけのお願いをしたのだろうと思ってしまいます。(^^;
でも、近頃は訪れた先で神様、仏様には手を合わせることを忘れないように
心掛けています。


平成29年11月5日登城


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宿阿内城(群馬県)

2017年11月07日 | 百名城以外の城
宿阿内城しゅこうちじょう
別名阿内城
構造平城
築城者三輪右丹
築城年代
指定史跡
場所群馬県前橋市亀里町 地図

1477年(文明九年)、白井長尾景春が後継者争いで反乱を起こし、
「長尾景春の乱」の舞台となった城址です。
関東 管領・上杉顕定が景春に五十子陣を追われ、上杉顕定が逃げてきたのがこの宿阿内城です。



本丸

本丸は真っ平で畑となっています。
看板裏の畑が二の丸で更にその奥が本丸になります。
標柱や石碑などは無く、このカルタの看板が城址の目印となっています。


縄張図

ざっくりだけど大体の様子がうかがえるのでありがたいです。
そして、今立っているこの道はどうやら堀跡みたいです。



振り返ると神社。
この神社が三の丸にあたります。
本丸には何も無いので神社でも参拝していきましょう。


鳥居

鳥居側に廻って来ました。
鳥居をくぐってから女体神社にお参りです。


石碑

境内に入るとすぐに富士登山記念碑、伊勢神宮参拝記念碑…このような記念碑ばかり。
風雨にも負けない訪問記録じゃないか!
う~ん、ブログに負けない旅行記



城址について何か記したものがないかと探してみましたがありません。
これも富士登山記念碑です。^^;




何を祀ったものでしょう…。


社殿

ちょっと言われを知りたいような神社です。
よくわからないけど、とりあえず女同士ということで健康をお願いして来ました。



この小道も一見堀跡かと思ったのですが、そうではないようです。
後に作られた生活用の小道のようです。


土塁

平地にある茂みはどうやら櫓台だったようで、他に遺構らしきものが見当たりません。


櫓台

櫓台と言われても…建物を高くしないと物見にはなりそうにない高さですね^^;


ほとんど平な場所で要害にするにも端気川くらいしかないような立地に見えるのですが…。
山城に比べると「ここでいいのか?」という気がするのは素人考えというものでしょうか。
それでも上杉顕定はここで態勢を立て直し、太田道灌の活躍により乱を鎮圧する
こととなったようです。


平成29年11月5日登城


戦国史 上州の150年戦争
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上毛新聞社 出版部

内匠城(群馬県)

2017年11月06日 | 百名城以外の城
内匠城たくみじょう
別名井戸沢城・稲荷城
構造丘城
築城者倉股大炊助
築城年代永禄年間
指定史跡
場所富岡市岡本2310  地図

内匠城は国峰城主小幡氏の家中旗本の倉股大炊助が居城としていたとされる城です。
豊臣秀吉の北条氏攻略(天正18年)の際に、上杉軍の藤田信吉が国峰城を攻め落とし、
この城に在城し改修したと伝わります。




高速道路の側道(上信越自動車道の富岡ICインターチェンジ南側)を進みます。


西の堀

三の郭(西)の堀底は畑になっています。



この小路を登ると竹藪になってますが大堀切がよく見えます。


大堀切

すごく立派な堀切があるのですが竹藪が邪魔して薄暗く、ゴミが捨てられています。



堀の奥に土三の郭の塁が見えます。


入口

舗装路の終点に登城口があります。
先日、ここまで来て郭内に入らず引き返しました。
竹藪が凄かったのでそれなりの装備が必要かと思い出直しました。


大手道

長靴を装備したのですが何のことはなしに、道幅もギリ軽トラが通れるのか?と言うくらいの
幅があって身構えるほどではありませんでした。^^;


三の郭(北)入口

ここもかつては畑であったと思われます。



今は草に覆われ畑としては使われていないようです。



奥には櫓台も見えます。


二の郭(東)

草木が生い茂り郭の様子はまったくわかりません。
とても入って行く気にはなれないのでスル―です。


二の郭(西)

こちらも藪になっていて入って行けそうにありません。
畑としても使われてなかったようで二の郭は荒れ地と化しています。



一の郭と二の郭の間は大き目の堀で仕切られています。
ここを登ると一の郭に到着します。


一の郭

ここが一の郭です。



一の郭の奥にまだ道が続いています。
しかも一の郭より一段高くなっています。


櫓台

櫓台には稲荷神社が祀られています。
また、ここを天守台とも見ることができます。



櫓台から見た、櫓台と一の郭との間の広場。


土塁

南側にはわりと高い土塁で守られれています。


腰郭

南側一段下に腰郭らしきものが見えます。



高速道路を挟んで見ています。
対岸のガードレールの左端に大手道入口があります。


想像していた以上に見応えのある縄張りで、堀や土塁、郭の形状も
はっきり見てとれます。
しかし、地元の方の畑となっていて郭が畑というのは良く見る光景ですが
北面の堀内までも利用されているのがおもしろい。
しかも、余った野菜を堀に捨てて?(土に還している?)いて穴を掘る手間が省けて
ちょうどいい!って感じ利用されているのも住人の都合であって城址とはいえ、自由な土地なんですね。
整備されたらすごく良い城址に見えるのですが仕方ないのかな。



平成29年9月9日登城
平成29年11月4日再登城



今回の参考書
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
クリエーター情報なし
戎光祥出版

茶臼山城(群馬県)

2017年11月01日 | 百名城以外の城
茶臼山城ちゃうすやまじょう
別名茶臼山城・寺尾千臼城・寺尾古城・茶臼の城・鷹ノ巣城
構造平山城
築城者新田義重
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所高崎市城山町茶臼山 地図


西上州やまびこ街道を挟み周辺には5つの城址があります。
その中のひとつ、茶臼山城は城山団地の後方にそびえる山稜上に築かれた
鎌倉時代の城です。


案内看板

西上州やまびこ街道沿いにある案内看板。
この道をよく車で通るのでずっと気になっていました。



案内看板に従って登城するルートですが、こちらは距離がありそうなので
今回は本郭に近い方からの登城ルートを探しに行きます。


城山団地入口

城山団地入口の交差点に小さな案内看板があります。


案内看板

城山団地にやって来ました。
城山団地内にある案内看板。


駐車場

城山団地の突当りに2台分の専用駐車場がありました。
ありがたいことです。



早速専用駐車場に車を置いて登城です。
公園らしく道が整備されています。



坂の階段キツイ!
段差が少ないのがせめてもの救いです



ここを真直ぐ登りきると南郭、右へ回り込むと本郭方面へ続きます。


南郭

急坂を登りきると南郭です。



南郭からは普通に山城です。


大堀切

南郭側から見た大堀切です。
大きな堀切があり、その奥に本郭が待ち構えています。


南郭からの眺め

眼下には城山団地が広がります。


大堀切

本郭へ向かう道側から見た大堀切です。




堀の中を歩いて郭内へ。


二の郭

本郭の下の二の郭。こちらからの眺めも良いです。


土塁

しっかりとした土塁や堀が残っています。


案内看板

戸口のところに案内看板が掲げられています。


戸口

本丸への虎口になります。
大堀切を覗き込むとそこから無理やり本郭によじ登った跡がありますが、本郭への入口は
ここの戸口一ヶ所だけだったようです。


本郭

鳥居と祠があります。
城址といえばこのような祠がつきものなのでお賽銭は必需品です。


あずまや



本郭土塁

本郭の西側と大堀切と断絶するように南側に土塁が見られます。





眺望

東側は眺望良く伐採中のようです。
切られる予定の木には目印がされていますが、それが切られた後の創造すると
すばらしい眺めが待っているように想像できます。


大堀切

本郭から南郭の方を覗き込むと先程南郭から見た大堀切があります。
ここに道が付けられているように見えますが本来は道はありませんが
けっこうよじ登った跡が見られます。
立ち入り禁止などの看板はありませんがロープが張られています。


井戸跡

堀の中の井戸の造りが根小屋城に似ている気がします。


大手道

この先は寺尾町に続いています。



行きは南郭から大堀切を通って本郭の方へ抜けましたが、帰りは南郭下の道を抜けて帰ることにしました。


南郭脇


以前城山団地には城址登城のための専用駐車場というものが無かったようですが、
登城口近くに2台分ではあります。駐車場が設置され助かりました。
南郭だけを見た時にはもっと奥が深いものだと思って出直しましたが南郭からすぐに本郭に
行けてしまい、こんなに行きやすかったか!と予想外でしたが、遺構がとてもよく見られ
なかなか良い城跡でした。
また草刈や伐採などの整備途中のようでこれからもまた時々来たいと思わせる城址でした。
たぶん、近いうちにまた訪れることとなりそうです。
とても気に入りました。



平成29年10月1日登城
平成29年10月28日再登城



戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部