むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

舘山城(山形県)

2019年11月25日 | 百名城以外の城
舘山城たてやまじょう
別名米沢城
構造平山城
築城者新田冠者経衡
築城年代15世紀頃
指定史跡国指定史跡
場所米沢市舘山町 地図
城郭検定 出題あり

平成28年に国史跡に指定された舘山城で、最初は伊達政宗の父である
輝宗の家臣新田四郎義直の居城でした。
ところが輝宗への謀反を企てたとして新田氏は切腹を命じられ、
以後、舘山城は伊達家の城となりました。
やがて輝宗が政宗に家督を譲り、舘山城を隠居城とし普請を始め完成しましたが、
移り住んだその年の10月に非業の死を遂げています。
その後政宗は、豊臣秀吉の奥羽仕置で宮城県へ移るまで
この城で過ごしていたものと考えられています。



駐車場

東館にある駐車場。
ここには話題の「私有地に付 立ち入り大歓迎」のありがた~い標柱があります。


東館

麓には二つの「御館」があり、こちらは東舘で
北側にも北館があり、東側には更に舘山平城とされる根小屋が広がっていました。
大正9年から稼働している発電所施設が城址に造られています。


井戸

生活の場として多くの井戸跡が残っています。


大手口

ここから本丸を目指すことになるのですが、
入口には登城者に親切な気遣いがされています。


案内小屋

大手口にある案内小屋には案内図などのチラシや休憩用の飲み水など設置されていて
無人ながらも有人並みのおもてなしで迎えています。
手前には山城にはつきもの?の杖も用意されています。


南虎口
道なりに大手道を登って行くとほどなく虎口が見えて来ます。


曲輪Ⅰ

広い曲輪が曲輪Ⅰです。
横に長くなっているので、まずは東の隅まで行ってみようと思います。


東端テラス

東の端、曲輪Ⅰの先端は曲輪Ⅰから1段下がったところに展望台のような役割をする
「曲輪Ⅰ東端テラス」と呼ばれる場所があります。
眼下には館が見渡せる立地となっています。
ちなみに、テラス部分は立ち入り禁止になっているのでご注意ください。


北虎口

北側の登城道があります。
この道を下ると北館に出て、往来するために造られた道になります。


貯水槽(井戸跡)

雨が降った直後のせいか井戸跡の窪みに水が溜っていて
井戸ありましたという主張をしています。



凸凹していてワクワクするようなものが見えて来ました。
かなり複雑な感じです。


枡形

この辺りには石垣が見えますが、破城跡ということで石垣の裏込め石が多く残っています。
大きい石垣の石は他に転用されているものと思われ、下の方の部分が少々残っている程度です。
枡形は綺麗に残っているので、見応えはあります。


石垣

二段程残る石垣は、周囲の裏込め石と想像を重ねると楽しくなってしまいます。
(ここまでくるともはや病気でしょうか^^;)
ちなみに、この辺りの石垣は、調査の結果石の加工の仕方から見て
関ヶ原の戦い以降の上杉景勝の時代に普請されたものと思われます。



この曲輪Ⅰと曲輪Ⅱを分ける堀跡を見ても分かるように、破城後に大量の栗石によって
石垣石も含めて埋められていたことが見えています。


曲輪Ⅱ

現在は浅くなってしまっている堀から、西に見える大きな土塁までが曲輪Ⅱになります。
西からの進入に対しては、大きな堀切と大きな土塁で防御しています。


土塁

土塁を登るのに、まるで山を登るかのようです。
ここから下を見ると急な崖と川が見えて怖いです。
南の川側からはとても攻め入ることは出来そうにありません。


石碑

1819年(文政2年)8月の銘が刻まれた弁財天の石碑がと石祠があります。
土塁は北まで続いていて、土塁上を歩けるようになっていますが、
途中の大きな松の木に蜂の巣があり、危険なので中頃で引き返して来ました。


縦堀


北虎口

こちらが搦め手からの虎口になります。


横堀状帯曲輪

南側は急勾配と川に守られているので、北側の守りは
堀や土塁などで駆使して竪掘、横堀、帯郭を連続させるなどの工夫をしています。 


搦手と堀切

曲輪Ⅱと曲輪Ⅲの間の堀切です。
ここの堀切は南に行くほど深く、高く見事な堀切になっています。


導水路

堀切を利用して?造られている導水路は東京電力の管理下にあるので立ち入り禁止です。
登って落ちたら大変なことになりそう
ということで、一応橋も注意しながら慎重に渡りました。


土橋
曲輪Ⅲと廃寺跡との間の堀切を渡る土橋があります。
正面の藪が廃寺跡になり、とてもそちらは入れそうもないので進入断念です。


曲輪Ⅲ

舘山城では小規模な曲輪になっています。
平場の南側にはちょっとこんもりとした塚があります。


塚(修法壇)

中世に営まれた祈祷や修法などのために造られた土壇です。
木製のものであったり、ここでは土を盛って造られたものであったり
するようですが、ここでは土壇だったようですね。
とはいうものの、資料がなければ見てもまったく分からないです^^;



更に登って、物見台を見に行ってみようと思います。
ここを登っていると、大きな堀切と、対岸(曲輪Ⅱ)の土塁が良く見えます。


物見台

舘山城で一番高い所に位置します。
ここには江戸時代の石祠と思われる「山の神」が祀られています。


これにて、下って館跡へ。。。



この先はかつて木橋が架かり、米陽八景のひとつとして
元禄期の絵が残されています。
向い側にも橋が架かっていた跡が残っています。



橋が架かっていたことや、東館に数軒の家屋があったことも描かれています。


北館駐車場

北館へやって来ました。
こちらにも駐車場があり、北館跡と、曲輪Ⅰへ向かう登城路があります。
ここから登城すると前記にあった北虎口に出ます。


北館

土塁もかすかに残っていて、館跡の名残が見てとれます。



到着した時は雨が降っていたので、一旦米沢城を散策して
雨が上がってから出直して登城しました。
国指定史跡になった頃からとても気になっていたので雪が降る前に
行っておかなくちゃ!と秋を狙ってやって来ました。
気軽にアクセス出来て、楽しめる城址です。
保存会の気合の入れ方もすばらしく、訪れる側は感謝です。
今後もぜひ維持してほしいので頑張って!のエールを送りたいと思います。


令和元年10月27日登城


今回の参考本
東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形
飯村 均,室野 秀文
吉川弘文館

萩生城(群馬県)

2019年11月20日 | 百名城以外の城
萩生城はぎゅうじょう
別名境野城
構造平山城
築城者小林石見
築城年代不明
指定史跡
場所東吾妻町大字萩生2030  地図

旧草津街道沿いにある萩生城は、江戸と北信濃を最短距離で結ぶ街道にある重要な場所に位置しています。
本能寺の変の後、三の倉の戦いで北条勢に攻め込まれた際に
城主である小林石見は没落したと言われています。



旧草津街道

集会所のある交差点で車一台分の幅しかない細い道を北に向って進入すると
右手にお墓があり、左に入る道があります。
ここが大手道の入口です。
ちなみに集会所の前を通る道が旧草津街道です。
駐車する場所が無いので、集会所の駐車場をお借りするのが良いと思います。


法篋印塔

旧草津街道から大手道への入口には土塁の上に法篋印塔があります。
それを目印に向ったのですが、草に覆われて上の部分しか見えていませんでした^^;



大手道の西側は傾斜のついた郭と道沿いに土塁を築き城内を守る構造になっています。


大手道

まっすぐ城域に延びる大手道は非常に分かりやすいです。
右手は三の郭、左手は大手道に沿って低めの土塁が構築されています。


坂虎口
二の郭の前には浅く幅広めの堀が構えています。
当時はきっと、もっと堀込んでいたものと思われます。



二の郭の中央を通る大手道は、まるで先にトンネルがあるようです。


二の郭

郭の中は笹藪になっています。
誰も立ち入ることなくまっすぐな大手道だけが利用されている様子が見られます。


土橋

正面に堀とその先の主郭が見えて来ました。


内堀

主郭を囲む堀は、堀底を歩いて搦め手側へ行けるようです。
今回は搦め手側には行っていないので未確認です。
でも、ここを通る人の往来があることは間違いない。


主郭

主郭は畑になっていて、虎口は封鎖されているのでこれ以上進入することは断念しました。



通りすがりに、マップ上で「萩生城」という文字が目に飛び込んで来たので寄り道してみました。
畑になっていると思い最初は期待していなかったのですが、行ってみたら…
確かに畑でしたが堀や土塁が残り、縄張りもわかる状態で残っていたので
寄り道してみて良かったなと思いました。
それよりも、ここって草津街道だったのというほうが
おもしろみがありました。なるほど、なるほど。。。


令和元年11月17日登城


今回の参考本
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版



ポケットモンスター ソード・シールド 公式ガイドブック 完全ストーリー攻略+ガラル図鑑
株式会社ポケモン,株式会社ゲームフリーク
オーバーラップ

粟沢城(長野県)

2019年11月18日 | 百名城以外の城
粟沢城あわさわじょう
別名和田城
構造
築城者粟沢氏
築城年代不明
指定史跡
場所茅野市玉川小泉927−7 地図

粟沢氏は古くから室町時代までここに居館を構えていたことが伝わります。
戦国時代以降は不明となり、その後諏訪氏に仕えていた沢氏が
武田氏に従って粟沢城に入城しました。
この沢氏とは、一説によると粟沢氏の末裔であるとも伝わります。
現在は住宅となり、城跡碑だけが残されています。


館跡

粟沢氏は諏訪氏の支族で、古くから館が構えられていた場所ですが、
現在は宅地化され、その面影は地形からなんとなくわかる気がするのですが
遺構らしきものはほぼ壊滅状態です。


駐車場

この辺りはかつて館跡で公園となっていましたが、
公園すら消え去り現在は月極め駐車場のようになっていました。
一般が駐車出来るのかどうかわからないので、運転手を残し路駐で城址碑の確認に行きました。


城址碑
この城址碑のある高まりが土塁の一部として残されているのが唯一の遺構か…。


上原城へと向う途中、道中近くに「粟沢城」があることを知り、急遽寄り道してみました。
高台になっているので地形的にありそうだなという雰囲気はありましたが
残念ながら遺構らしきものはほぼ望むことは出来なくなってしまった城址です。



令和元年11月16日登城


今回の参考本
日本城郭大系〈第8巻〉長野・山梨 (1980年)
平井 聖
新人物往来社

七州城(愛知県)

2019年11月13日 | 百名城以外の城
七州城しちしゅうじょう
別名挙母城・桜城
構造平山城
築城者内藤政苗
築城年代1782年(天明元年)
指定史跡市指定史跡
場所豊田市小坂本町7 地図

七州城は、三河国・尾張国・美濃国・信濃国・遠江国・伊勢国・近江国の7ヵ国が
見えたことから「七州城」と呼ばれるようになりました。
そして、ここには七州城以前にも中條景長が築いた「金谷城」、三宅康貞の築いた「桜城」と
三つの「拳母城」とよばれる城がありました。



案内看板

豊田市の街中にあるのでライトアップしてないかなあ~
なんてちょっと期待してみたのですが、残念ながら真っ暗でした。
懐中電灯の明かりでの撮影なのでとてもお見苦しい写真でごめんなさい。。。


隅櫓跡

最初は金谷城があったのですが城の損傷が激しく、
1kmほど北に桜城(陣屋)を築いて移りましたが、こちらは平地なために
矢作川の氾濫で再びこの地へ移ることになるのですが、
この時、時代はすでに一国一城令が発布された後になるのですが
内藤氏が幕府に築城を願い出たところ許可が下り、幕府が築城費を与えて
移転を支援したという珍しい城です。
明治になって廃城令が出ると建物は取り壊され、現在は学校や美術館の敷地となりました。


石垣

この石垣は現存石垣だったんですね。
建物は天守と呼ばれるものは無く、櫓が2基と要所には門が構えられていました。
石垣は本丸を囲むように6mの石垣が巡っていました。
やはり幕府の目や、度重なる城下の水害に配慮して、シンプルな造りに
なっていたようです。



この先は…セキュリティーの問題がありそうなので行くのをやめておきました。
こんな真っ暗な時間に不審者で通報されてしまったら大変


ちょい寄りです。
セントラルラリーでのお仕事後、悪あがきで寄ってみましたw
当然ながら真っ暗で、ほとんど何も見えない状態なのでとりあえず来てみたという感じです。
今度は明るい時間にちゃんと訪れてみたいと思います。(来年かな?)
というわけで、近くの「つばさや」で手羽先を食べて帰路へ。

※夜の撮影がほんと苦手で、お見苦しい写真で済みません。

令和元年11月10日登城
令和4年10月30日再登城

城 歴史を語り継ぐ日本の名城 2020年 カレンダー 壁掛け SC-2 (使用サイズ594x420mm) 風景
写真工房カレンダー
写真工房



城壁 石積みの肖像カレンダ−2020 (著作、写真)後藤徹雄
(株)ライトスタッフ
(株)ライトスタッフ

矢島城(長野県)

2019年11月11日 | 百名城以外の城
矢島城やじまじょう
別名北林城・矢島屋敷
構造丘城
築城者北林氏
築城年代不明
指定史跡
場所上田市常磐城207 地図

矢島城はかつて北林氏が築城し、北林城と呼ばれていました。
1335年(建武2年)諏訪の神氏一族の矢島氏が北林氏を川中島方面に追放し、
北林城に居城を移しました。
太郎山の麓に位置し、上田平一帯を見通せる居館となっていました。



搦手口

かつてはこのカーブまで堀切がありました。
このカーブに駐車できるスペースがあるのでこちらに駐車しました。



二重の堀になっていたようですが、道路を造った時に外側の堀は
破壊されてしまったようです。
それでも内側の堀は良く残っているのでここを下った瞬間に「おお~」となります。


空堀

見事な堀と土塁が見られます。


虚空蔵沢

反対側も虚空蔵沢側に堀が落ちています。
東斜面、沢側は矢竹が生い茂っています。


虎口

土塁に遮られているために、
この先を曲がるまで城内の様子がわかりません。


主郭

畑になっています。
というのも、こちらは私有地のため地主さまの御好意により
見学が許されているとのことですので、くれぐれも畑を荒らすような行為が
あってはなりません。


土塁

土塁に残るわずかな石垣も見えます。


矢島稲荷社

矢島稲荷ということは、北林時代ではなく矢島氏がこの地に
移って来てからの稲荷でしょう。
矢島屋敷とも呼ばれていたので屋敷神として祀られていたのでしょうか。



西側は、北側から周り込んだ堀を挟んで段々に小郭がと堀が続いています。



主郭、二ノ郭は畑になっていて傾斜しています。
大手道がこの中を通っていますが、畑への無断侵入が躊躇われるため
上から眺めるだけに留まりました。


全国山城サミット上田・坂城大会 プレ大会

この日は「全国山城サミット上田・坂城大会 プレ大会」が開催され
「らんまる攻城戦記」の管理人さんであるらんまるさんに会いに行って来ました。
しかも、萩原さちこ氏も来るとあっては行かないという選択肢はない。
というか、実はこの日は娘の学校の用事があったにもかかわらず、旦那に任せて参加してしまいました。^^;
らんまるさんとは名刺交換をし、さちこさんには家に何冊かあるさちこ氏著書の本の中から、
私が買った一番最初の本を持参して、ラッキーなことに、サインを頂くことが出来ました。
言葉を添えていただけたのも感激でした。


横沢氏の「矢島城」の話を聞いてすぐ近くですぐ行けると言っていたので
帰りには、攻城団からの繋がりのほむほむさんと早速矢島城に寄ってみました。

来年の山城サミットに備えて、この冬は長野の山城を中心に巡ってみようかな


令和元年11月2日登城


関東周辺歴史トレッキング 攻める山城 50城 山を歩き、山城に出合う旅へいざ出陣!
萩原 さちこ
山と渓谷社



成島館(山形県)

2019年11月06日 | 陣屋・館
成島館なるしまだて
別名
構造平山城
築城者大伴駿河麻呂
築城年代777年(宝亀8年)
指定史跡
場所米沢市広幡町成島1057-2 地図

成島八幡宮は将軍大友駿河麻呂が777年(宝亀8年)に蝦夷討伐に際し、
天皇に願い出て創建されたのが始まりです。
米沢では最も古い神社で、伊達氏、上杉氏の領主によって改修が行われています。
伊達政宗は、仙台市の国宝大崎八幡宮へと分霊し、今でも祀られています。


入口

成島八幡宮の参道入口です。
ここには神社の案内看板や数々の石碑があります。


鳥居

こちらが搦手道となります。
そして正面には高良大明神が祀られています。


参道

風情のある石畳の参道を登り本殿のある主郭を目指します。


階段

ここを登ればいよいよ主郭に当たる場所となります。
ここまで、楽々やって来ることが出来ます。


境内

ここには、社殿造営の棟札46枚と木造門神坐像2体や舞楽面などが伝わっています。
1300年(正安2年)長井宗秀本殿・長居修理
1348年(貞和4年)長井時春本殿修理
1383年(永徳3年)伊達宗遠拝殿造立
1390年(明徳元年)伊達政宗門殿造立
1478年(文明10年)伊達成宗社檀造立
1443年(天文22年)伊達晴宗宮上葺修理
1573年(元亀4年)伊達輝宗宮上葺修理
1588年(天正16年)伊達政宗宮上葺修理
1621年(元和7年)上杉景勝宮上葺修理
1929年(昭和4年)棟札
などの棟札が残されています。


大山祇神社

成島八幡神社の境内には大山祇神社が祀られています。
会津地方や新潟の関係性がここにも!と思ってしまいました。


拝殿
伊達政宗の重臣・片倉小十郎は、成島八幡神社の神官の息子であるという説もあります。
そのために、この地より仙台まで分霊するほどの政宗の拘りと信仰があったと
考えるとしっくりくるような気もします。


石碑

何の石碑だろうか…気になるけど字が読めない
最近は古い字も見慣れて来たせいか、なんとなくわかるようになってきたのですが
まだまだのようです。


鐘楼堂

神社なのに、なぜか鐘楼があります。
明治の神仏分離令が出されるまでは、神仏習合であったことが伺えます。


若宮八幡宮

裏に周ると若宮八幡宮や、本殿があります。


虎口

主郭の西側土塁や空堀、東側の腰曲輪も後の桃山期前後に構築されたものと考えられています。
神社の建立後に神社を守護するために構築された防御施設でしたが、
やがて根小屋や腰曲輪を追加、臨時的な城郭機能を持つようになり城郭化したのでしょう。


土塁

神社の背後と西側にはⅬ字形に土塁が残っています。
この土塁はしっかりと残っています。


土橋

土橋と言っても車が通れる道幅があるので、
かつてはもっと細いものがあったのではないかと想像します。


二重堀

二重堀のはずですが…まったく見えません。
立派そうな堀がありそうなのはわかるのですが、二重になっているとこまでは
草で覆われていてわからないので妄想します


成島ワクワクランド

成島八幡神社、特別養護老人ホーム、りんご園に囲まれた児童遊園になっています。
ここには写っていませんが、滑り台などの遊具があり、この日も家族連れが遊んでいました。
家族サービスと言いながら、成島館を見に来る事も出来ます



二重堀を横から見てますが、草がなければ
さぞかし良い堀ではないかと、現地では草越しにもよくわかります。



虎口は、西側の中央部に桝形になっていて、大手口は西側丘陵に延びています。
この奥に枡形虎口があるはずなのですが、藪と足元の地盤がゆるいため
とても入って行ける状況にありません。


水堀

写真ではわかりずらいのですが、台風や午前中の雨もあってか
西側の堀は水堀になってました。



成島ワクワクランドの駐車場方面へと下って来ました。


案内看板

案内看板のある成島ワクワクランドの駐車場を利用しました。
この看板見ていたら…あ~、矢子山城なんて書いてある。近くにあるのかφ(..)メモメモ
誘惑される看板でした。
が、調べてみたら夕暮れから行ける場所ではないことが分かったので
帰ることにしました。



雪が降る前にと訪れた米沢でしたが、
まだ草木は生き生きと生い茂っていました。
二重堀がくっきり見えなかったのが残念でなりませんが
とりあえず、思い立って来てみて伊達政宗の重臣・片倉小十郎のゆかりの地に
出会えてよかった。
私はどうやらお館さまより、それを支える軍師の方に
興味が沸くみたいだ^_^;



令和元年10月27日登城



国別 城郭・陣屋・要害・台場事典
西ヶ谷 恭弘,日本城郭史学会
東京堂出版

明知陣屋(岐阜県)

2019年11月02日 | 陣屋・館
明知陣屋あけちじんや
別名
構造陣屋
築城者遠山方景
築城年代1615年(元和元年)
指定史跡
場所恵那市明智町古町 地図

明知城の山麓にある陣屋(代官所)で、明知城が廃城となり陣屋が構えられました。
旗本の遠山氏が江戸時代から明治の大政奉還となるまで行政を行った場所であります。
当初は参勤交代で江戸を行き来していましたが、1678年(延宝6年)からは江戸定府となり
明知陣屋の代官を村上氏が勤めることとなりました。
北町奉行などを歴任した遠山景元は名奉行として知られ、時代劇の「遠山の金さん」のモデルに
なるほどの名奉行でした。



駐車場

日本大正村の駐車場にやって来ました。
ちなみに、明知陣屋、大正ロマン館には駐車場がありません。


明知城縄張図

大正村の駐車場にも明知城の案内看板が設置されています。
周囲の施設は、まだ開いていないので観光せずに直接陣屋跡へ向って
行こうと思います。
町中の様子はまたの機会に。。。


大手道

冠木門の見えるこの先が陣屋で、そこを通って明知城へ行くのが
本来の大手道ののようですが、中には民家があり
明知城への登城は他にもいくつかあるのでこちらを避けた登城をお勧めします。


案内看板

冠木門の前には、案内看板と明知陣屋絵図があります。


明知陣屋絵図

アクリル板が歪んでいるのか、文字が見ずらい部分がありますが
絵図で陣屋の縄張りが確認出来ます。


冠木門
これより陣屋内部となります。
しかし、この陣屋内には今でも村上氏の末裔の方がお住まいなので
ちょっとだけ覗いて御迷惑にならないよう短時間で退散。


村上邸
陣屋内は村上家の一段上には民家が数軒と、馬場や稲荷社があります。
遠山氏が参勤交代から江戸定府となり、明治維新になるまで陣屋を管理していたのが
代官の村上氏でした。


大正浪漫館

陣屋の中に大正年代風な建物があります。
個人的には大正時代ではなく江戸時代の長屋や代官屋敷の方がいいな
と思ってしまうのですが、これもまた時代を感じさせる(ちょっと新しいですが)ものではあるので
由としましょう。



来年から始まる大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されることに合わせ、
大正ロマン館1F展示室に「麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館」を開設される予定です。
大河ドラマ館では、大河ドラマに登場する衣装や小道具など、大河ドラマに関する展示される予定です。
それにしても、年々ドラマ館の数が増えてますね^^;



まだ、開館前の時間なので残念ながら入れません。
そこで、張り紙などの掲示物などを見ると、もう「麒麟がくる ぎふ恵那 大河ドラマ館」の
開設準備が始まることが書かれています。
2020年が待ち遠しいですね


眺望

ここからは城下を見下ろすことが出来ます。


水堀

陣屋の外と背後には水堀が構築されています。


記念碑
この記念碑は、2011年に大正琴が誕生して百年を迎えるということで、
大正ロマン館に大正100年事業の一環として、「大正琴誕生百年記念之碑」を建立されました。
大正琴はお隣ですが、かなり近い愛知県が発祥なのですね。



大正琴の記念碑の前を通り、更に上に登って行くと古民家が見えます。


旧三宅家

明智町馬木地区にあったものを、平成3年に明智町が譲り受けて
翌年この地に移築復元したものです。



まだ、開館する時間ではなかったので残念ながら中は見られませんでした。


御城印

こちらで御城印が販売されているようです。
欲しいなあと思いつつ、別件の用事があるので開館を待つ時間も無く
ここは断念。
またの機会に入手しよう!


さざれ石

岐阜県揖斐川町にあるさざれ石公園のさざれ石(細石)が
日本の国歌「君が代」の歌詞のもととなったようですが、岐阜県ということで
このように庭石のひとつとして鎮座しています。



この先は明知城です。


秋葉山砦

この先には秋葉山砦があり、そこには秋葉神社があります。
秋葉山砦には寄らずに明知城へと進んでみます。



この先は山城臭がぷんぷんします。
一般の観光客は来てもこの辺りまでで引き返すでしょう。



害獣用の「わな」が設置してあります。
…ということは、この付近にも害獣が出没するのですね。
このサイズからすると、熊ではなくイノシシのようですが…リアルですね



大手道へ。
こちらは先ほどの陣屋内の民家の間にある大手道に繋がる道です。



大正時代の風情漂う建物や、明智光秀ゆかりの場所が沢山点在しているので
まだまだ見る場所が豊富にあります。
1日じっくり巡っても時間が足りないような地方ですのでまた来る機会が
訪れそうな予感がします。
また、来年かな^^;


令和元年9月29日訪問



今回の参考本
信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編
宮坂武男
戎光祥出版