むすんで ひらいて

YouTubeの童話朗読と、旅。悲しみの養生。
ひっそり..はかなく..無意識に..あるものを掬っていたい。

いつも、もう一つの選択を

2012年08月14日 | こころ
「がんばってほしい時に、よく『もっと力を入れて!』というけど、そういう時こそ、ほんとは『力を抜いて!』なんだよ。 ちょっとこの手首をつかんでみて。」

友人の通う合気道の先生は、そう言いながら、ギュッと握ったこぶしを、ゆっくり開きました。
「どお? 開いた時のほうが、手首が太くなったように感じない? 
こうすると、ギューッと縮こまってた力が、タイミングよく出せるようになるから、強いんだよ。」

なるほど。 ガチガチより、余裕のあった方が、思いがけなくうまくいく。
気を通す、腕の回路が広がったような感じだ。

「押された時もね、反射的に押し返すんじゃなくて、一度グッと受け止め、それから押されたのと同じ方向へ今度は自分から引き寄せるんだよ。 そうすると、加えられた力を、うまくかわすことができる。」

これを実践してもらったら、たしかに、押した勢いが拍子抜けしてしまった。

友人の合気道仲間が開いた海辺のバーべQで、はじめて伺った合気道の極意は、相手の気の流れを読み、受け止めたり、かわしたり、ちょっと一押ししたりして、その動きを手なずけることにありそうだった。

後から調べた事典に、その精神理念はこんなふうに表現されている。

【相手の力に力で対抗せず、その“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させる】

さらに、

【武力によって勝ち負けを争うことを否定し、技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている。
そのため欧米では、「動く禅」とも呼ばれる】

機転を利かせ、よりこころがふわっとなる方へ舵を切る術。
そのセンスを、身体で感じ取っていくのは、おもしろそうだ。


18時半の帰り道、稲穂の波打つ田んぼのあぜを、再び伊勢のインドネシア宅へと歩く。



すれ違ったのは、だいだい色の後光に照らされ自転車をこいできた麦藁帽子のおじさんと、一台の青い軽自動車。



聞こえるのは、シャンシャンシャンと、森に響きわたる蝉の声ばかり。
と、水路の小さな橋にさしかかったら、足元に涼しげな水の音も。



数分後には、稜線を際立たせ、ずっと照り続けているように思われた今日の太陽が去っていった。



少し寄り道をしてしまった。 
早足になり、家に向かうと、田んぼに面した網戸の向こうから、インドネシアの音楽が聞こえてくる。
先に帰って用を済ませていた友人が、オレンジの光の中、そろそろ来るだろうと外を覗いたところだった。

手を振って、ぐるんと回り込み、玄関の扉を開ける。

アジアの匂い!



懐かし~い、ロンボク島の家庭の盛りつけに再会。
トマト入り卵焼きは、ほとんど卵揚げなので、油きりにザルにほいっ。

チンゲン菜とモヤシ、昨日の残りのセロリの葉っぱとカブに、豚肉の炒め物。
同じインドネシアでも、スラウェシ島の友人はイスラム教徒なので、
「豚肉を食べると大変なことになる!」
と言って牛肉をほおばっていたけれど、バリ島はヒンズー教の人がほとんどだから、牛を食べずに鶏や豚や山羊肉を使う。
ロンボクの80%くらいはイスラム教徒というけれど、友人はどうもそうじゃならしい?

インドネシアの調味料は使っていないのに、むこうの台所を思わせるのは、火を通したセロリの香りのせいかしら。

これに、ざっくり生野菜とご飯。 
それらを小皿にとりわけていただき、時々ミネラルウォーター。という、素朴で大胆なスタイル。
扇風機の低い回転音と、ネットでつないだインドネシアのラジオ。

日本の田園風景に、友人の身体を通して、インドネシア文化がちゃんと再現されている。
本当に体得されているものは、それがどんなにかけ離れて見える場にも、にじみ出るもののようだ。

どういう状況にあっても、それに押されて甘んじるのでなく、反発するでもなく、そこにもうひとつの世界を立ち上げることができる、と気づいていたい。
そのために、彼が言っていたように、手を広げて。


合気道は、試合を行わずに、日頃の稽古の成果を「演武会」で披露する。
勝敗、否定・肯定という評価にもとらわれず、ただ無駄なく動き、自然と調和すること。
それは、今まだ見えていない、「ちょっとステキな可能性」を、静かに引き出すことにもなるかもしれない。



                         かうんせりんぐ かふぇ さやん     http://さやん.com/

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