日本には、漢字とひらがな、カタカナ、ローマ字が日本語表記に用いられている。その中の平仮名に着目した。
平安時代に女性文字として発達した平仮名、『いろは48文字』はなぜ『あいうえお50音』に変えられたのだろう。
明治期、日本語の礎を築いた碩学、大槻文彦の生涯を描いた『言葉の海へ』(高田宏著、新潮文庫)、言葉の意味を50音順に並べた初の国語辞書『言海』を編集した人物との紹介があった。
藩に分かれ統一的言語を持たなかった当時の日本で、近代国家として言語の統一の必要性を訴え続けた。『言海』の出版会には、元老の伊藤博文以下、明治政府の歴々が参集したというから、その出版の意義はほとんど国家的大事業に値したのだろう。
幕末から明治初期にかけて、薩長同盟とか、薩長土肥とか言われているが、テレビ映画などで簡単に意思の疎通が行われているが、あの時でさえ『方言』は相当難解で、特に鹿児島弁(薩摩言葉と志布志言葉、隼人言葉、また宮崎県境や熊本県境)は一級品と言ってよいほど、言語体系が違うのではないかと思えるほどだから、『萩』や『土佐』の言葉との意思疎通は如何ばかりであっただろうと想像するに難くない。
50音順の辞書が生まれたことに対して、福沢諭吉は「いろは」があるのにと不快感を示し、出版会に出席しなかったという。
後世の政治家や学識者たちは、この国のかたちについて易々と「単一民族、単一言語」などと語っているが、日本語辞書『言海』編集を通じて日本語、国語という概念、スタンダードを構築してくれた明治の碩学に、われわれは相当な感謝の念を持たなければならない。
もちろん、日本が単一民族ではないこと、日本語体系の中ではわからない琉球語やアイヌ語などもあるから、決して単一言語の中で日本語として成熟してきたのではないことは、歴史が証明してくれているのは明らかだ。にも拘らずいまだに単一民族などと言う輩が出てくるのはどうしたわけか。
一方、江戸中期に藤堂津藩にも一人の碩学がいた。谷川士清という。松阪には本居宣長がいて、後世、国学者として有名になったが、谷川士清は日本史の中でほとんど言及されたことがない。
50音順の国語辞書を“発案”したのは大槻文彦ではなく、谷川士清だった。津城下の医師の家を継いだ士清は京都で国学に目覚め、『日本書紀通証』という日本書紀の解説書を書いた。日本書紀に出てくる言葉の語源や意味をカードに書き連ねていくうちに「あいうえお」順に並べた辞書を編纂したのだった。
つまり『言海』以前に「あいうえお50音順の辞書が、あったということなのだが。
谷川士清の旧宅は現在、津市が管理して一般公開しているが、そこに保存されている『日本書紀通証』付録の和語通音図表を眺めているうちに「これは大変な発見」だと気付いた。われわれが小学校で最初に学んだ「あいうえお」の図表がそのままあった。違うのは「オ」と「ヲ」の位置が逆になっていることだけだ。
士清のすごさは、この「あいうえを」の図表を「動詞の活用表」と位置付けたことだった。いまでいう「五段活用動詞」(未然形、運用形、終止形、連体形、已然形、命令形)なのだ。
『和訓栞』という93巻にわたる辞書は士清の生存中に出版が始まったが、第一巻が世に出たのは亡くなった翌年の安永6年(1777年)のことだった。出版は遺族たちに委ねられ連綿と続いた。なんと最後の出版が行われたのが、明治20年だったから、110年以上にわたる大辞書編纂事業が谷川一族4代にわたって行われたことになる。
そうなると『言海』を編纂した大槻文彦は当然、『和訓栞』のことを知っていたはずであるが、残念なことに高田宏著『言葉の海』に谷川士清のことは一切言及がない。
ウキペディアから引っ張って来た。
谷川 士清(たにかわ ことすが、1709年4月5日(宝永6年2月26日) - 1776年11月20日(安永5年10月10日))は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。
伊勢国の津(現、三重県津市)の医者の家に生まれたので、京都に出て医学を学ぶ傍ら、玉木葦斎から垂加神道を学ぶ。 津に帰った後、医業の傍ら、有栖川宮職仁親王から和歌を学び、独学で国学を研究した。
士清が国語学に残した功績は大きく、その著作『日本書紀通証』第1巻に収録した「和語通音」は日本初の動詞活用表であり、また、『和訓栞』は日本初の五十音順に配列された国語辞典であった。ただこの辞典は士清の生存中に全巻を刊行できず、士清の死後、遺族の手によって引き継がれ1887年(明治20年)に全巻刊行された。
反面、士清の古典研究は、在来の学説を集成したもので、独創性に乏しいという評価がある。また、和語通音を絶賛していた本居宣長からは、垂加神道に基づく古典の解釈がこじつけが多く非学問的だと批判されている。
大槻 文彦(おおつき ふみひこ、1847年12月22日(弘化4年11月15日) - 1928年2月17日)は江戸出身の国語学者で、本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として知られる。宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘した。帝国学士院会員だった。
儒学者の大槻磐渓の三男で、兄に漢学者の大槻如電、祖父に蘭学者の大槻玄沢を持つ。幕末には、仙台藩の密偵として鳥羽・伏見の戦いに参戦してもいる。 戦後は、徳川側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の大槻磐渓が戦犯となった際、兄の如電とともに助命運動に奔走した。
開成所、仙台藩校養賢堂で英学や数学、蘭学を修めたのち、大学南校を経て、1872年に文部省入省。1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。その後、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、完成を見ることなく増補途中の1928年2月17日に自宅で死去した。
『言海』の出版とその意義
『言海』執筆の過程で、日本語の文法を、英語に即して体系づけてしまったことは大きな---しかし日本語の本態を抑圧したという問題を孕む---副産物といえる。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された。
19~20世紀にかけて、英・仏・米・独・伊などの、いわゆる「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、イギリスの『オックスフォード英語辞典』、アメリカの『ウェブスター大辞典』、フランスのリトレによる『フランス語辞典』、ドイツのグリム兄弟による『ドイツ語辞典』などがある。『言海』の完成も、そうした世界史的な流れの一環としてみることができる。
『言海』完成祝賀会
1891年6月23日、文彦の旧仙台藩の先輩、富田鉄之助が主催した『言海』完成祝賀会には、総理大臣伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。文彦の父、大槻磐渓と親交のあった福澤諭吉も招待されたが、次第書に自分の名前が伊藤の下にあるのを見て、「私は伊藤の尾につくのはいやだ」と、出席を辞退したというエピソードがある。
(これは、『いろはがあるのにと辞退した』と先に書いたこととは違うので、これはこれで面白い。)
あいうえおにしなければならなかった時代の要請に突き動かされた人たちがいたことに、『いろは』ではなぜいけなかったのかと思ってしまった。