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△私とロンーアメリカ大使館裏庭にて
・昭和44年1月31日(金)晴れ(足に錘付きの鎖を嵌められた女奴隷達)
昨夜の列車の旅は寒かった。インドは暑いイメージを持っていたが、この時季の北インドは、夜まだ冷えた。私は寝心地の悪い網棚で、リックと手提げバックの盗難に注意していたから、余計に寝られなかった。
列車は朝の6時半頃、ニューデリーに到着した。下車した乗客目掛けて殺到して行く、多くのポーター達にビックリした。彼等は皆、素足で長身、痩せこけ、そして纏っているのは腰巻一丁であった。我々はリックを背負っていたので、有り難い事に彼等から免れた。駅構内は乗降客、ポーター、目的不明の人々や乞食・浮浪者でごった返していた。
我々は朝食を取る為、駅構内のレストランへ入った。ここで1つの事件が起きた。「首都の駅構内レストラン」と言えば、格式あるとは言わないまでも、『それなりのレストラン』と想像するであろう。しかし、この店は違っていた。我々4人は全員同じに目玉焼き、トースト、それにチャイを注文した。それから間もなくして目玉焼きとトーストが出て来た。
誰かが、「オイ、目玉焼きに白身の部分が無いぞ。」
昨夜の列車の旅は寒かった。インドは暑いイメージを持っていたが、この時季の北インドは、夜まだ冷えた。私は寝心地の悪い網棚で、リックと手提げバックの盗難に注意していたから、余計に寝られなかった。
列車は朝の6時半頃、ニューデリーに到着した。下車した乗客目掛けて殺到して行く、多くのポーター達にビックリした。彼等は皆、素足で長身、痩せこけ、そして纏っているのは腰巻一丁であった。我々はリックを背負っていたので、有り難い事に彼等から免れた。駅構内は乗降客、ポーター、目的不明の人々や乞食・浮浪者でごった返していた。
我々は朝食を取る為、駅構内のレストランへ入った。ここで1つの事件が起きた。「首都の駅構内レストラン」と言えば、格式あるとは言わないまでも、『それなりのレストラン』と想像するであろう。しかし、この店は違っていた。我々4人は全員同じに目玉焼き、トースト、それにチャイを注文した。それから間もなくして目玉焼きとトーストが出て来た。
誰かが、「オイ、目玉焼きに白身の部分が無いぞ。」
「確かに。普通、白身の中に黄身があるよな。」
「店員が食べる為に、白身だけ抜き取ってしまったのでは。」
「作り直して貰おう。」と言う事で、黄身の卵だけで白身が無いのに全員ビックリし、作り直しを要求する事にした。
「白身が無いぞ。如何して白身が無いのだ。白身を食べてしまったのだろう。ちゃんとした目玉焼きを持って来て。」とウェイターに我々は怒って作り直しを要求した。
「食べてない。これがインドの目玉焼きだ。」とウェイターは言うが、信用出来ず、尚も作り直しを要求した。仕方なさそうにウェイターは目玉焼きをテーブルから下げ、それから暫らくして、再び目玉焼きを持って来た。
「今度は申し訳なさそうに、少し白身が付いているな。」
「食べてない。これがインドの目玉焼きだ。」とウェイターは言うが、信用出来ず、尚も作り直しを要求した。仕方なさそうにウェイターは目玉焼きをテーブルから下げ、それから暫らくして、再び目玉焼きを持って来た。
「今度は申し訳なさそうに、少し白身が付いているな。」
「これ普通の3分の1程度だぞ。」
「彼等、又喰ってしまったのだ。」
「インド人は卵なんて物を食べた事がないから、試しに食べたに違いない。黄身は減らせられないから、白身だけ間引したのだ。」
「又、作り直しだ。」
「そうさせよう。」と我々はウェイターに再度、作り直しを求める事にした。
そこで又、我々とウェイターとで「白身を食べたな」「食べてない」「作り直せ」 「もう作り直さない」の押し問答が続いた。
そこで又、我々とウェイターとで「白身を食べたな」「食べてない」「作り直せ」 「もう作り直さない」の押し問答が続いた。
「ウェイターのアンタでは話にならない。マスターかマネージャーを呼んで来い。早く呼んで来い。」と我々4人は、強く要求した。ウェイターは渋々下った。そして責任者らしき人が現れた。
「これ見て。白身がほんの少しだけで、これが目玉焼き?インドの目玉焼きは白身がこれしかないの。」と我々。
「・・・・。申し訳ありません。もう一度作り直しますので。」と責任者。
再び目玉焼きを作り直させた。今度はマトモに近かい目玉焼きであった。インドは鶏の卵までもが栄養失調気味なのか、全体的に白身は少なめ、黄身も小さめであった。それにしてもインドは、目玉焼きを食べるのも、時間と労力を費やした。そして全くいい加減なレストランで、食事を取るのも疲れるのであった。
食事後、我々4人は宿探しに街を歩いていたら、「1ドル12ルピーで両替する」と言って、〝ストリートボーイ〟(裏商売で街をうろついている男達)が近づいて来た。我々は両替して貰おうと、彼の後に付いて行った。裏通りの暗い食堂に我々を案内した。彼は「ドルを先に出してくれ。それをボスの所へ持って行き、交換してルピーを持ってくるから。」と言った。先に渡したらドルを持ち逃げし、2度と彼は戻って来ない、その可能性は大であった。「後でルピーを渡す」と言う両替方法では、交換するのを止めた。しかし中にはこんな手口に引っ掛かる、旅行者もいる様であった。
更に我々は街を歩いていたら、道路工事の現場に出くわした。30人程の女性達が頭に笊(ざる)を載せて、砂利や泥をノッタリ、ノッタリと緩慢に運んでいた。その彼女達は、皆痩せこけ、ボロボロのサリーを着て素足であった。ろくに食事をしていないので力が出ないのか、余りにもその作業が重労働に見えた。その光景は古代の女奴隷が無理やり作業をさせられているようであった。
「・・・・。申し訳ありません。もう一度作り直しますので。」と責任者。
再び目玉焼きを作り直させた。今度はマトモに近かい目玉焼きであった。インドは鶏の卵までもが栄養失調気味なのか、全体的に白身は少なめ、黄身も小さめであった。それにしてもインドは、目玉焼きを食べるのも、時間と労力を費やした。そして全くいい加減なレストランで、食事を取るのも疲れるのであった。
食事後、我々4人は宿探しに街を歩いていたら、「1ドル12ルピーで両替する」と言って、〝ストリートボーイ〟(裏商売で街をうろついている男達)が近づいて来た。我々は両替して貰おうと、彼の後に付いて行った。裏通りの暗い食堂に我々を案内した。彼は「ドルを先に出してくれ。それをボスの所へ持って行き、交換してルピーを持ってくるから。」と言った。先に渡したらドルを持ち逃げし、2度と彼は戻って来ない、その可能性は大であった。「後でルピーを渡す」と言う両替方法では、交換するのを止めた。しかし中にはこんな手口に引っ掛かる、旅行者もいる様であった。
更に我々は街を歩いていたら、道路工事の現場に出くわした。30人程の女性達が頭に笊(ざる)を載せて、砂利や泥をノッタリ、ノッタリと緩慢に運んでいた。その彼女達は、皆痩せこけ、ボロボロのサリーを着て素足であった。ろくに食事をしていないので力が出ないのか、余りにもその作業が重労働に見えた。その光景は古代の女奴隷が無理やり作業をさせられているようであった。
しかし彼女達はまだ良い方であった。彼女達とは別に、7~8人の女性が足に鉄の分銅付きの鎖に繋がれ、鞭を持った看視者の下、奴隷の様に否、奴隷以下に扱われていた。しかも頭に笊を載せ、小石等を苦しそうにノッタリ、ノッタリと分銅付きの鎖を引きずり運んでいた。それは奴隷以下でなく、家畜以下の扱いであった。
私はその光景にもうビックリ仰天した。それは悲惨、哀れと言うか、見ていると涙も涸れてしまうほどであった。信じられないかも知れませんが、これは事実であった。他のインド人達は、その光景を見ても別に驚く様子でもなく、ありきたりの光景として通り過ぎて行った。いくらカースト制度が存在すると言っても一応、民主主義を標榜するインドで、しかも首都でのこの光景、私は夢を見ている様であった。関もロンもこの光景には、言葉を失っていた。
我々はその後、5ルピー(約250円)のドミトリーを決めて、私とロンは日本大使館へ行った。私の妹と先輩の○さんから、若しかしたら手紙が来ているかも、と思ったからであった。ロンは日本の査証を取る為であった。やはり妹から手紙が届いていた。そしてその中に3万円が入っていた。手持金が段々少なくなって来たので、とても有り難かった。ロンは20~30分位で査証が取れた。さすが日本の大使館、やる事が早かった。私の経験上、こんなに早く査証を出してくれる大使館は無かった。
この後、私とロンはアメリカ大使館へ行き、そこで久し振り(イスラエル以来2週間振り)にビールを飲んで、西洋スタイルの食事をした。館内は一般の人も自由に利用出来る食堂があった。さすがアメリカ大使館であった。このアメリカ大使館で、「ロス」と言うアメリカ人と出逢った。
この後、私1人でオーストラリア大使館へ、査証取得の為に行った。ラジパット通りは、各国大使館や政府関係の建物が点在する官庁街になっていて、他の道路に比べて広く良く整備され、綺麗であった。オーストラリアの観光査証は3ヶ月が最高なので、私は3ヶ月間をお願いした。「査証発給に2・3日掛かる」と言うので館員にお願いしてドミトリーに戻った。
戻って宿泊帳に名前等を記入していたら、関とここのマダムが口喧嘩をしていた。何が原因なのか話を聞くと、「最初の約束通りの宿泊料金ではなく、割増を請求をしている。」との事であった。最初から少し料金が高めであったが、我々が泊まるのを決めたら、値上げして来たのだ。何だかんだと五月蝿い(うるさい)事を言うし、金の事しか考えないマダムであった。しかも泊まる事を決定してから値上げを請求するなどとんでもない事、我々はリックを担ぎ退散した。
夕食を食った後、他の5ルピーのドミトリーにへ移った。
我々はその後、5ルピー(約250円)のドミトリーを決めて、私とロンは日本大使館へ行った。私の妹と先輩の○さんから、若しかしたら手紙が来ているかも、と思ったからであった。ロンは日本の査証を取る為であった。やはり妹から手紙が届いていた。そしてその中に3万円が入っていた。手持金が段々少なくなって来たので、とても有り難かった。ロンは20~30分位で査証が取れた。さすが日本の大使館、やる事が早かった。私の経験上、こんなに早く査証を出してくれる大使館は無かった。
この後、私とロンはアメリカ大使館へ行き、そこで久し振り(イスラエル以来2週間振り)にビールを飲んで、西洋スタイルの食事をした。館内は一般の人も自由に利用出来る食堂があった。さすがアメリカ大使館であった。このアメリカ大使館で、「ロス」と言うアメリカ人と出逢った。
この後、私1人でオーストラリア大使館へ、査証取得の為に行った。ラジパット通りは、各国大使館や政府関係の建物が点在する官庁街になっていて、他の道路に比べて広く良く整備され、綺麗であった。オーストラリアの観光査証は3ヶ月が最高なので、私は3ヶ月間をお願いした。「査証発給に2・3日掛かる」と言うので館員にお願いしてドミトリーに戻った。
戻って宿泊帳に名前等を記入していたら、関とここのマダムが口喧嘩をしていた。何が原因なのか話を聞くと、「最初の約束通りの宿泊料金ではなく、割増を請求をしている。」との事であった。最初から少し料金が高めであったが、我々が泊まるのを決めたら、値上げして来たのだ。何だかんだと五月蝿い(うるさい)事を言うし、金の事しか考えないマダムであった。しかも泊まる事を決定してから値上げを請求するなどとんでもない事、我々はリックを担ぎ退散した。
夕食を食った後、他の5ルピーのドミトリーにへ移った。
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