YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

2022-02-27 09:30:01 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年3月3日(月)晴れ(オーストラリアへはBOACに決定) 
 カルカッタからオーストラリアへの行き方で、私は2つのルート選択で悩んでいた。①カルカッタからバンコクへ飛んで、それからマレー半島を南下しシンガポールへ。シンガポールで自分の旅への気持、手持金、その他の状況を考え、『帰国した方が良い』と判断したら、船(M&M)で帰国する。『オーストラリアへ行きたい』と判断したら飛行機で行く方法。②ここからダイレクトにオーストラリアへ飛行機で行く、この場合一番安く行ける航空会社と空路はと言う事であった。
 悩んだ末に①を選択した為、タイの査証を直ぐ取る必要があった。今日も又、JALへ行きその後、タイの領事館へ査証を取りにタクシーで行った。降りる時、メーターが2.5ルピーを示していた。いつもの様に「高い、まけろ。」と言ったら、タクシー運転手は2ルピーにしてくれた。多くの場合、インド人は法外な請求をして来るのが常であるのに、この運転手はメーター表示金額より安くしてくれた。如何してなのか疑問であった。でも言う方も言う方だが、インドだから言えたのだ。  
 折角来たのにタイ領事館は閉まっていた。玄関口に、『お祭りの為2ヶ月間休みます』と書いてあった。私は、『インドのお祭りで、タイの領事館が如何してそんなに長く休むの、考えられない』とショックを受けた。しかし、考える必要はなかった。インドは常識的に考えられない事が起こりえる国、そう思えば納得した。この場合、査証を直ぐ取るにはニューデリーのタイ大使館へ行かねばならないが、3月16日までオーストラリアに入国しなければならないし、そんな面倒な、しかも日数とお金も掛かる事は出来なかった。そして既に悩んでいる暇はなかった。②の方を決断せざるを得なかった。
 帰りもタクシーを使った。降りた場所は、最初乗ったJALの所であった。やはり料金メーターは2.5ルピーを示していたが、2ルピー渡した。「50パイサ不足だ。」と運転手。「否、行く時は2ルピーにしてくれたぞ。」と私。ここで私と運転手は、スッタモンダの言い合いになった。でもメーターは『2.5』を示していたし、50パイサ(約25円)なので妥協した。
 JALで再び相談し、その後エール・フランス、BOAC(英国航空の営業所)へと回った。そしてBOACで一番安くオーストラリアへ行ける空路がそこにあった。それは、オーストラリアと言っても一番北に位置する『ダーウィン』であった。安く行けるならオーストラリアなら何処でも良かった。私はBOACでダーウィンへ行く事にした。3月5日に航空券購入(336米ドル)で再度、来る事にした。     
 タイ領事館へ行くまで悩んでいたが、長期間休みの為に査証が取れなくなり、帰国の事も棚上げして急遽、BOACでダーウィンへ行くと決めた。M&M乗船券引き換え書は326ドル分程残っており、それがBOACでも使える事が分った。それにトラベラーズチェックは、まだ120ドルぐらい残っていた。
 昼抜きであちこちと駆け回り、帰りも歩いてYMCAに戻った。途中、裏通りで子供や大人達が色の付いた液体や粉を掛け合っているのを見た。『面白い遊びをしているなぁ』と思った。あ!若しかしたら『これがインドのお祭り行事なのかも』と思った。この催事は『ホーリー祭』であった。
 YMCAの近所の餓鬼ども数10人も白や赤の粉や液体を掛け合って騒いでいた。YMCAに入る寸前、危うくその粉を掛けられるところであった。この餓鬼達は私の事を「ヒッピー、ヒッピー」とバカにした様に言っていた。インドの餓鬼にバカにされる様では、私のヒッピースタイルも年貢の納め時になった。確かに、ヨーロッパでもヒッピーが屯していると、眉をひそめる大人はいた。しかしヨーロッパや中近東に於いて、子供達までがバカにする、そんな様子や言動は無かった。
 腹の調子の方も少しおかしかった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿