YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

大使館員を怒鳴りつける~ニューデリーの旅

2022-02-07 09:55:44 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・昭和44年2月4日(火)晴れ(大使館員を怒鳴りつける)
 毎日、良い天気が続く。炎天下は暑いが、日陰に入ると涼しかった。微熱の方も完全に良くなった。今日早速、日本大使館へ行った。
 大使館に雇われている案内係のインド人職員に来館目的を告げた。彼は立ち去り、そして直ぐに戻って来て、ある日本人大使館員の所へ私を案内した。そこはつい立で仕切られていたが、個室ではなかった。インド人職員を含めて、周りで働いている何人かの日本人職員の姿も見えた。
〝40~45歳位のその大使館員〟(以下「T氏」と言う)は、両手を後ろに回して枕代わりにして、イスに踏ん反り返り、しかも靴を履いたままテーブルの上に足を投げ出して私を迎えた。多分インド人職員は、「ヒッピー紛いの貧乏旅行者が来た」とT氏に告げたのであろう。T氏は、『若者の貧乏旅行者が又、金か何かで困り果て、助けを求めて来たのであろう。軽くあしらってやれ』と思ってか、彼にその様な態度を取らせたのであろう。
 確かに今、私はヒッピー紛いの格好で旅をしているが、S会社で日本の国民として真っ当に働き、その義務も果たして来たのだ。私がT氏にこんな態度で扱われる謂れは何もなかった。それにしても日本人の貧乏旅行者に対し、彼はいつもこんな態度を取っているのか。俄然、私は頭に来た。
「オイ、アンタ!テーブルの上に足を投げ出し、踏ん反り返ったその態度は何事だ。それが人を迎える態度なのか。昨日オーストラリア大使館へ行ったら、あちらの大使館高官は握手を持って快く私を迎えてくれたぞ。」と私。
「オーストラリア大使館は、貴方をお客さんとして迎えたのでしょう。」とT氏。
「日本人旅行者が日本大使館へ用事があって来る場合はお客さんではないのか。アンタ達は誰から飯(おまんま)を食わせて貰っているのだ。それにな、外務省高官が親戚に居るのだ。私は帰国したらアンタに屈辱な扱いを受けた事を報告するからな。それでアンタの名前は何と言うのだ。」と私はビシッと言い放った。
「・・・・・」  
「別に教えて貰わなくても構わないよ。他の人に聞くから。」 
その途端、彼の態度は豹変した。彼は立ち上がり、「すいませんでした。この通りお詫びいたします。外務省には内密にして下さい。」と彼は平謝りになった。
「・・・・・」私。
「どうぞお掛け下さい。」と言って彼はソファに腰掛けるよう私を促した。
「私は長い間旅をしていて、数ヶ月振りに同胞に会ったのだ。懐かしいその同胞からこんな態度で迎えられるとは、私は悲しいよ。」とソファに坐って話した。
「イャー本当に申し訳ありませんでした。・・・・(又彼は頭を下げて謝罪。少しの間、沈黙)。所で、長い間旅をしているとの事ですが、どちらを回って来られたのですか。」と話を反らす。
この件(彼の無礼な態度)を突き詰める気は毛頭なかった。彼の話しに乗って、簡単に私の旅の話をした。それから世間話になった。T氏の家は、「東京の池袋」と言う事で少し親密になり、池袋やS沿線の事、日本の事で話は盛りあがった。勿論、若者が大使館へ来た時の対応方に注意する様に、と彼に言っておく事も忘れなかった。
 私の来館目的は、旅券の渡航先にオーストラリアを記入して貰う事であったが、アメリカは勿論、カナダ、メキシコにも出来れば行って見たい、と私の夢は広がりついでにそれらの国もお願いした。最後の別れ際、T氏は「どうか御無事で旅をして下さい」と言って、大使館の出入口まで見送ってくれた。それにしても彼の豹変振りには呆れる思いであった。
 所で、白人国家の日本大使館員は、白人雇用者に対して横柄な態度・言葉使いをしていなかった。私の知っている範囲内では皆、仲良くやっている様に見うけられた。しかし、ここの日本大使館員はインド人雇用者を横柄な言葉・態度でバカにした様に扱使(こきつか)っていた。考えさせる光景であった。オーストラリアの大使館員は、インド人に対してもう少し紳士的に扱っていた。
 大使館員の慇懃無礼、横柄な態度・言葉使いを経験したのがロンドンの大使館であった。それ以来、私は日本大使館嫌いになった。そして今回、その大使館員の本質が態度になって如実に表れた、その一例であったのだ。彼等日本大使館員は、政治家や地位の高い人には諂い(へつらい)、一般国民、ましてやジャンバーやジーパンスタイルの我々貧乏旅行者は、『ゴミ、若しくは厄介者、又は日本人の恥さらし者』と思っているようであった。その事が端的に現れたのが彼の態度、言葉であったが逆に、『大使館員は、人間として屑』であったのでした。大使館員は相手によってコロット変わる、変われる役人だったのだ。保身の為であったら如何様な事もするのが彼等であった。
 私は日本大使館を出て、その足でオーストラリア大使館へ行った。しかし、「今日、ボスは病気で休んでいます。明日来て下さい」と言われ、査証は取れなかった。
 インドの後、タイへ行くのであるからタイの査証も取っておこうと行ったら、「18ルピーかかる」と言われ、持ち合わせがないので帰って来てしまった。因みに、オーストラリアの査証代は6ルピーであった。国によって、随分違うものだ。
 大使館への往復はいつもIndia Gate(「インド門」と言って、1921年に建てられ、第一次世界大戦で戦死したインド兵を記念する為のアーチで、パリの凱旋門に似ていた。)辺りから乗降していた。バスはRaji Path(ラジ・パット)通りを走るが、この通りの両脇は広い公園になっていて、公園の中を走っている感じがした。そしてこの通りの突き当たりが、大統領官邸になっていた。ニューデリーは、郊外へスラム化したバラックの家が延々と広がる都市、市内の通りを路上生活者、乞食、そして一般の人々で溢れている都市であった。そんな都市で、これほど広々とした道路とそれに沿って延々と続く公園があるとは、驚きであった。それにサリーしか着ないインド人女性が、この公園で格好良い乗馬服を着て、乗馬を楽しんでいた。このアンバランスは奇妙に感じるが、インドであれば納得するのであった。バスはいつも満員状態、そして車内は変な臭いで充満していた。そんなバスの車内から外を眺めていると、数組の乗馬している上流階級と思われる娘さん達の乗馬姿が良く見えたのであった。
  バスに乗ると男の車掌が人を掻き分け乗車券を売りに来た。私が、「オーライ、オーライ」と言うと、彼はポカーンと呆気に取られ、切符を買うのを免れた。降りる時、「サンキュウ」と言って堂々と降りた。正直言って私は、往復無賃乗車をした。運賃はたかが10パイサ(約4~5円)から20パイサ。払えば良かったのであるが、ロンが「オーライと言うと、タダで乗れる」と言うので私も試してみようと、今日やってしまった。僅かばかりのお金をケチって無賃乗車したが、後味が悪かった。
しかしどうして車掌が許してくれたのか、その理由が分らなかった。外国人だからか、言葉が通じ合わない所為か、それとも彼は私を乞食と思い、黙認してくれたのか。いずれにせよ反省し、以後払って乗車した。
  夕方、私は関と共に和田と寺島に会いにYMCAへ行った。彼等を含め日本人5人で街へ散策に出掛けた。彼等と散策していると面白いし、又我々はチャイを飲みながら、思いっきり色んな話をして楽しんだ。「思いっきり」と言うのは、何しろ昨年の12月12日、長倉や青山と別れて以来、約2ヶ月間(イギリス滞在中は2ヵ月半)日本語を話していなかったので、日本語に飢えていた。ニューデリーに来る道中、途中から竹谷、ラホール国境から関が我々に加わって旅して来たが、ロンやフランス人3人もいたので、彼等に気遣い、我々日本人だけで思いっきり話をする、と言う事はなかった。


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