・昭和44年2月3日(月)晴れ(あの和田さんと寺島さんに再び巡り逢う)
私、ロン、竹谷の3人でInformation Office へ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、「?(はてな)どうも何処かで会った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう・・・」とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで会って、私のイスラエル行きを見送ってくれて、トニー・タニーに似ている人)と寺島(旅の途中、ユースで2~3度会っている。最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。
私、ロン、竹谷の3人でInformation Office へ行き、その帰りにインデア・コーヒ・ハウス附近を歩いていたら、「?(はてな)どうも何処かで会った事のある日本人が向こうから歩いて来るではないか。誰だろう・・・」とチョッと訝った。近くに来たら、それは和田(アテネで会って、私のイスラエル行きを見送ってくれて、トニー・タニーに似ている人)と寺島(旅の途中、ユースで2~3度会っている。最後に逢ったのがアテネ)の2人ではないか。
「和田さんと寺島さんでしょう。」と私は呼び掛けた。
「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び会えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね。」と和田。
「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か会っていますよね。」と寺島。
「フランス、イタリア、ギリシャのユースで3度会っています。でもここで2人に逢えるなんて偶然ですねえ。逢えて本当に嬉しいよ。」と私。
「ホント、偶然と言うのか、不思議だよなぁ。」2人。
「和田さん、あれから(アテネから)2ヶ月近く経っているのに、如何して此処(本当にインドを見て回ろうとすれば、1ヶ月や2ヶ月では回り切れないのであるが)に居るのですか。」私は聞いた。
「ニューデリーに来たら犬に噛まれ一時、私は歩ける事も出来なかったのです。」
「それは大変だったね。でも歩ける様になって良かったですねぇ。」
「最近、やっと歩ける様になって来たのですよ。」
「私は金を盗まれてしまったのです。送金して貰う様に親に頼み、金が来るのを待っているのです。」と寺島。その顔は金が無いと言いながら余裕さえあった。
「皆、色々な事に遭って大変だったねぇ。」
寺島の「送金して貰う」という言葉に違和感、そして送金して貰える彼が羨ましかった。実際、私なんて親父から「Yoshiが例え外国で死のうが、病気になろうが、金が無くなって困ろうが、俺には助けに行く金も無ければ、送金する金も無いからな。それで良ければ外国へ行っても構わない。」と言われた。それでも私は外国へ行きたく、日本を脱出して来たのだ。そして私はその言葉を、今でも忘れていなかった。本当に親父は金が無かったのだ。だからこそ私は『家には迷惑を掛けられない。迷惑を掛ける事はしてはいけない。』と言う、信念みたいな物があった。そんな訳で、彼の「送金して貰う」と簡単に言うその言葉に少し違和感、嫉妬感があった。そして盗難防止に私の場合は、腹巻の中に大事なお金、トラベラーズチェック、旅券、帰国用M&Mの引き換え証を常時入れて注意して、小銭しかポケットに入れなかった。
私はこれから行かねばならない所もあるし、仲間を待たせても悪いので、2人の宿泊所(YMCA)を聞き、一旦別れた。
この後、我々はアグラへ行く為、学生割引書を貰いに駅へ行ったり、公的機関や郵便局へ行ったりした。その後昼食をインデア・コーヒ・ハウスで取った。
午後、私はオーストラリア大使館へ行く用事があったので、ロンと別行動した。バスに乗って大使館へ行き、着いたら直ぐに高官の部屋に案内された。私が部屋に入ると、
「ビックリした。そう言えば、貴方はYoshiさんではありませんか。再び会えて嬉しいなぁ。アテネ以来ですね。」と和田。
「Yoshiさんとはアテネの前に、何処か会っていますよね。」と寺島。
「フランス、イタリア、ギリシャのユースで3度会っています。でもここで2人に逢えるなんて偶然ですねえ。逢えて本当に嬉しいよ。」と私。
「ホント、偶然と言うのか、不思議だよなぁ。」2人。
「和田さん、あれから(アテネから)2ヶ月近く経っているのに、如何して此処(本当にインドを見て回ろうとすれば、1ヶ月や2ヶ月では回り切れないのであるが)に居るのですか。」私は聞いた。
「ニューデリーに来たら犬に噛まれ一時、私は歩ける事も出来なかったのです。」
「それは大変だったね。でも歩ける様になって良かったですねぇ。」
「最近、やっと歩ける様になって来たのですよ。」
「私は金を盗まれてしまったのです。送金して貰う様に親に頼み、金が来るのを待っているのです。」と寺島。その顔は金が無いと言いながら余裕さえあった。
「皆、色々な事に遭って大変だったねぇ。」
寺島の「送金して貰う」という言葉に違和感、そして送金して貰える彼が羨ましかった。実際、私なんて親父から「Yoshiが例え外国で死のうが、病気になろうが、金が無くなって困ろうが、俺には助けに行く金も無ければ、送金する金も無いからな。それで良ければ外国へ行っても構わない。」と言われた。それでも私は外国へ行きたく、日本を脱出して来たのだ。そして私はその言葉を、今でも忘れていなかった。本当に親父は金が無かったのだ。だからこそ私は『家には迷惑を掛けられない。迷惑を掛ける事はしてはいけない。』と言う、信念みたいな物があった。そんな訳で、彼の「送金して貰う」と簡単に言うその言葉に少し違和感、嫉妬感があった。そして盗難防止に私の場合は、腹巻の中に大事なお金、トラベラーズチェック、旅券、帰国用M&Mの引き換え証を常時入れて注意して、小銭しかポケットに入れなかった。
私はこれから行かねばならない所もあるし、仲間を待たせても悪いので、2人の宿泊所(YMCA)を聞き、一旦別れた。
この後、我々はアグラへ行く為、学生割引書を貰いに駅へ行ったり、公的機関や郵便局へ行ったりした。その後昼食をインデア・コーヒ・ハウスで取った。
午後、私はオーストラリア大使館へ行く用事があったので、ロンと別行動した。バスに乗って大使館へ行き、着いたら直ぐに高官の部屋に案内された。私が部屋に入ると、
「ミスターYoshi○○ ○○○○、ユー・アー・ウェルカム。」と言って、ボスと呼ばれる貫禄が良い大使館高官が、私を握手で向かい入れてくれた。
「Yoshi ○○です。はじめまして。」と私は自己紹介した。
「まじめまして。私の名前はウィ○○?(名前を聞き取れなかった)です。どうぞお掛け下さい。所で、貴方は3ヶ月間の査証を申請していますが、オーストラリアへどの様な方法で入国するのですか。」とボス。
「多分、シンガポールかバンコクから飛行機で行きます。」
「わが国訪問後、何処へ行きますか。」
「アメリカへ行きます。」
「ベリーグッド。それではオーストラリアへ行く航空券、滞在費用、アメリカへ行く航空券等を宜しければ見せて下さい。」
私はこの様な質問される事を全く想定しておらず、まさか入出国手段の航空券等や滞在費用を見せてくれ、と聞かれるとは思ってもいなかった。実際、3ヵ月間の滞在費用、及びアメリカへ行く航空券・乗船券も持っていなかった。私は『困ったなぁ』と思った。と言って観光目的の査証では就労を認めていないので、働いて滞在費やアメリカへの渡航費用を稼ぐ、とも言えなかった。
そこで私は、「入国はこの航空券です。」と言って、M・M乗船券引き換え証を見せ(彼は厳しくチェックしなかった)、「そして滞在費用はこれだけです。」と言って、〝私の全財産〟(残り120ドル程のトラベラーズチェック、少しばかりの米ドル、一昨日妹から送られて来た3万円、そして僅かばかりのルピー)を見せた。そして「不足分の滞在費用、及びアメリカへ行く費用は、オーストラリアに着いたら日本から送って貰います。」と私は嘘も方便で言った。
「分りました。それでは・・・(彼は少しの間、考え)、現時点で1ヶ月間の滞在を許可しましょう。それで宜しいですね。もし滞在延長を希望するなら、本国のイミグレーション(移民局)で手続きして下さい。」とボス。
「分りました。」と言って私は承諾した。大事なのは、何ヶ月でも良いから取り敢えず査証を取得する事であった。滞在費用やアメリカへ行く航空券等の問題があるが、『行けば、後は何とか道が開ける。』と思った。
「それからミスターYoshi、貴方の旅券の渡航先にオーストラリアが記入されていません。先ず日本大使館へ行って、記入して貰って下さい。」とボス。
「分りました。色々有り難うございました。」と私。
「如何致しまして。」とボス。
私の様なヒッピー紛いの格好している貧乏旅行者にも拘らず、彼の言葉や態度は最後まで紳士的であった。
それにしても、私は如何してこんなにもドジなのか。査証申請するのに旅券の渡航先にその国名が記入されているか否か、又もや確かめなかった。行き当たりばったりでのんきな者、自分ながら呆れてしまった。道中仲間の関も「オーストラリアへ行って旅費を稼ぎ、南米へ行きたい。」と言っていた。しかし彼は入国の為の航空券どころか、手持金も殆んど無い状態で査証が取れず、オーストラリア行きを諦めた経緯があった。
私はその足で直ぐ日本大使館へ行った。しかし「本日の館業務は終了しました」と言われ、明日、又来る事にした。
「Yoshi ○○です。はじめまして。」と私は自己紹介した。
「まじめまして。私の名前はウィ○○?(名前を聞き取れなかった)です。どうぞお掛け下さい。所で、貴方は3ヶ月間の査証を申請していますが、オーストラリアへどの様な方法で入国するのですか。」とボス。
「多分、シンガポールかバンコクから飛行機で行きます。」
「わが国訪問後、何処へ行きますか。」
「アメリカへ行きます。」
「ベリーグッド。それではオーストラリアへ行く航空券、滞在費用、アメリカへ行く航空券等を宜しければ見せて下さい。」
私はこの様な質問される事を全く想定しておらず、まさか入出国手段の航空券等や滞在費用を見せてくれ、と聞かれるとは思ってもいなかった。実際、3ヵ月間の滞在費用、及びアメリカへ行く航空券・乗船券も持っていなかった。私は『困ったなぁ』と思った。と言って観光目的の査証では就労を認めていないので、働いて滞在費やアメリカへの渡航費用を稼ぐ、とも言えなかった。
そこで私は、「入国はこの航空券です。」と言って、M・M乗船券引き換え証を見せ(彼は厳しくチェックしなかった)、「そして滞在費用はこれだけです。」と言って、〝私の全財産〟(残り120ドル程のトラベラーズチェック、少しばかりの米ドル、一昨日妹から送られて来た3万円、そして僅かばかりのルピー)を見せた。そして「不足分の滞在費用、及びアメリカへ行く費用は、オーストラリアに着いたら日本から送って貰います。」と私は嘘も方便で言った。
「分りました。それでは・・・(彼は少しの間、考え)、現時点で1ヶ月間の滞在を許可しましょう。それで宜しいですね。もし滞在延長を希望するなら、本国のイミグレーション(移民局)で手続きして下さい。」とボス。
「分りました。」と言って私は承諾した。大事なのは、何ヶ月でも良いから取り敢えず査証を取得する事であった。滞在費用やアメリカへ行く航空券等の問題があるが、『行けば、後は何とか道が開ける。』と思った。
「それからミスターYoshi、貴方の旅券の渡航先にオーストラリアが記入されていません。先ず日本大使館へ行って、記入して貰って下さい。」とボス。
「分りました。色々有り難うございました。」と私。
「如何致しまして。」とボス。
私の様なヒッピー紛いの格好している貧乏旅行者にも拘らず、彼の言葉や態度は最後まで紳士的であった。
それにしても、私は如何してこんなにもドジなのか。査証申請するのに旅券の渡航先にその国名が記入されているか否か、又もや確かめなかった。行き当たりばったりでのんきな者、自分ながら呆れてしまった。道中仲間の関も「オーストラリアへ行って旅費を稼ぎ、南米へ行きたい。」と言っていた。しかし彼は入国の為の航空券どころか、手持金も殆んど無い状態で査証が取れず、オーストラリア行きを諦めた経緯があった。
私はその足で直ぐ日本大使館へ行った。しかし「本日の館業務は終了しました」と言われ、明日、又来る事にした。
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