YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

アグラ見物と元インド国民軍兵士~アグラの旅

2022-02-10 16:05:56 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△私と右は同行者の中村(仮名)。王様が王妃の死を悲しんで建てられた墓宮、調和の取れた白大理石造りが美しかったータジ・マハールにて

・昭和44(1969)年2月8日(土)晴れ(アグラ見物と元インド国民軍兵士)
 今日、アグラへ行くので6時に起きた。私とロンは、ニューデリー駅までタクシーで行った。着いて運賃が「1ルピー」と言うので、ロンは「高い」と言って怒ったが、まぁ妥当な運賃であった。インドのタクシー運賃は、『最初の1.5キロまで80パイサ、以後1キロ増すごとに50パイサ加算』と言う計算から行くと、我々が乗った距離はそんなになかったので、80パイサか1ルピー30パイサでなければならなかった。運賃が丁度1ルピー、と言う事は無いので、ドライバーは半端な運賃は切り上げて請求するのが常であった。インドのタクシーは、メーターもドライバーが言う運賃も当てにならなかった。
一昨日、私は切符を買うのに出札口を盥回しにされたのに、今朝は15分で切符(ニュー・デリー~ボンベイ間、3等列車38.95ルピーを学生割引だからその半額の運賃)が買えた。あの時は、如何してあんな事になったのか、未だに理解に苦しむのでした。
 私とロンは駅構内でロスが来るのを待っていたら、ロンが宿泊代を払わず、しかも自分が使っていた毛布を持って来てしまったので、そこのマネージャーが血相を変えて駅まで我々を追って来た。ロンと彼はやりあったが、悪いのはロンの方であった。彼は直ぐに毛布を返し、宿泊代を払った。それにしてもマネージャーはよく追って来たものだ、と感心した。普通のインド人であったら何処へ行ったか分らないものであるが、我々外国人旅行者は、行くルートが決まっているので、彼等からすれば見つけ出すのは簡単なのであろう。
「ロン、マネージャーが大声を出して追って来た時は、ビックリしたよ。私は5ルピー払ったが、如何してロンの宿泊代が1.5ルピーで済んだの」
「ヤー、ビックリしたよ。宿泊代の事は私にも分らない。でも安いに越した事はないよ」とロン。

        
△左からアグラ見物を共にしたロス、私、そしてロンーアメリカ大使館裏庭にて

 そんな事を話しているとロスがやって来た。すると一昨日の夜、ミカドで会った〝それらしき旅人〟と再び駅構内で出逢った。彼の名は、中村さん(仮称、以後敬称省略)と言って、頭の毛も髭も伸び放題、長い間、旅をしている感じであった。聞けば彼もアグラへ行くとの事、4人で共に行く事になった。しかし中村は乗車券を所持しておらず、無賃乗車をするつもりであった。私が3等車に乗ろうとしたら、ロンが「1等車に乗ろう」と言うので、我々は構わず乗り移った。さすがに1等車は、綺麗でゆったりした座席であった。この車両には我々の他、数名しか乗っておらず3等切符で構わず座席に付いた。
 7時に列車は出発した。線路端近くまでバラックの家々が密集して立っていて、暫らくの間そう言う光景が続いた。インドでも線路内は、当然立ち入り禁止のはずだが、大勢の人々が構わず線路内を歩いていた。必然的にこんな状態なので、列車はスピードを上げられず、ノロノロとニューデリーを進出した。      
 我々4人が1等車に乗っていたら、間もなく車掌が車内検札にやって来た。車掌に、「この切符では1等車に乗れないので、3等車へ移動しろ」と言われてしまった。ロンが、「アグラまで1等車の切符を買った」と言ってみた所で、そんな屁理屈は通用せず、移動する羽目になってしまった。さすがにインドでも一番の観光地・ニューデリーとアグラ間を結ぶ急行列車だけあって、3等車でもそれ程汚くなかった。3等車は「切符拝見」の車内検札が無く又、アグラ駅で下車の際の改札(乗車する際の改札も無い)も無かったので、中村はスンナリと駅を出られた。そうなのです、彼はニューデリー・アグラ間を無賃乗車したのだ。
 我々が駅前をウロウロしていたら、「アグラに観光で来られた日本の方ですか」と突然、流暢な日本語で40歳台後半のタクシー運転手に声を掛けられビックリした。「そうです。観光です」と私は答えた。「アグラはTji Mahal(タジ・マハール)の他に見所が多くあり、離れているので歩きは無理です。1日1人8ルピー(4人で32ルピー)で有名な場所を全て回るので、私の車を利用しませんか」と運転手に勧められた。
我々4人は相談をして高くないと判断(如何言う訳か、値引き交渉をしなかった)し、彼にお願いする事にした。それに日本語を話せるのが心強く、普通のインド人に比べて何か誠実感があった。  
 我々は運転手に2ルピーのホテル(ドミトリーで約100円)を案内してもらい、一先ず部屋に荷物を下ろしてから観光する事にした。
「如何してそんなに日本語が上手なのですか」と私は聞いた。
「独学で日本語を勉強しました。昔、日本で数ヶ月間、軍事訓練を受け、インド国民軍(インド独立の志士・チャンドラ・ボース氏が日本軍の援助の下で創設した、約2個師団の軍隊)の兵士としてインドの独立の為、日本軍に協力しインパール作戦(チャンドラ・ボースの狙い~インド・アッサム州のインパールかコヒマに独立政府の新国旗を掲げ、インド独立の拠点としたい為。日本陸軍の狙い~インパールを落とし、インドの英軍の兵力を削ぎ、インドからビルマ・支那への軍事物資・援助を遮断する為)に参加しました」と彼。
多くのインド人は金儲けの為に嘘を平気で言うし、値段を吹っ掛けたりもするが、彼の話は信用出来るものであった。彼の様なインド独立の為に戦った勇気ある元兵士、しかも日本語が上手い彼が一介のタクシーの運転手として、その日暮らしをしていると思うと(多分)、残念であった。彼が如何にインパール作戦を戦ったのか、日本軍敗走後、インド国民軍は霧散消散してしまった様であるが実際にその後、どの様にしてインド独立に拘ってきたのか、その辺の事を彼に聞いてみたかったが、その機会を逃してしまった。
 アグラは、16世紀から17世紀の中頃までムガール王朝時代のインドの首都であったので、見るべき史跡も多いのだ。最初、アグラから大分遠い(40キロ程)Fatehpur Sikri(ファテプール・シクリ)へ行った。途中、道路に牛や土地の者が屯(たむろ)していたり、壁に牛のウンコをベタベタと張り付けた家があったり、そんな田舎の様子等をタクシーから眺めた。


△アグラ郊外の風景-牛(左)と村民(右)が土の上で屯しているのが見えた。インドの農村の家は土、牛の糞そして藁(わら)で出来ていた。(タクシーの車内から撮影)

 ファテプール・シクリは、アクバル大帝の宮殿や大モスクの遺跡であった。そこで子供2人が我々について回り、一生懸命ガイド役をしていたが、案内してくれと頼んだ訳でもなく、勝手に付いて来ただけなので、我々は彼等に何もやらなかった。


△ファテプール・シクリのディーワーネハース(皇帝の私的な謁見のための建物)

 ファテプール・シクリの見物後、アグラに戻った。アグラへ戻って昼食を取った後、Fort of Agura(アグラ城)へ行った。砂岩で造られた城壁は高く又、幾つかの城門があった。その一つの門を潜ると内部は広く、壮麗な城であった。天気は良く、澄み切った青空の下、観光には最高の日であった。この城からはジャムナ川を臨み、遠く地平線が広がる光景や、タジ・マハールも望め、その風景にただ感嘆した。


△陽気なロンと共に。ジャナム川の向こうにタジ・マハールが見えた。王様もここからの眺めを楽しんでいたかも知れませんーアグラ城にて


△旅人の私の心はこの透き通った青い空のように純粋であったーアグラ城にて

 この後、Itimad ud Daulah(イティマード・ウツ・ダウラ)へ行った。これは王様の墓廟であった。あまり面白くなく、印象が無かった 
       
 次にTaj Mahal(タジ・マハール)を訪れた。タジ・マハールは、王様(シャー・ジャハン)が王妃の急死を恨んで建てられた墓宮で、正面から見る白大理石のモスクが池に映るその美しさ又、青い空にその壮麗なモスクが吸い込まれる様で、他に比類する物はない程であった。我々は正面から内部に入り、モスク内を裸足になって見学した。モスクの境内からの眺めも最高であった。


△青い空に白大理石の墓宮が吸い込まれる様は他に比類する物は無いほどであった。世界で最もロマンチックな光景、それがタジ・マハールだ。


△墓宮の2階から正面入口の方を撮った写真―タジ・マハールにて
 
 帰り際、白大理石のモスクは夕日で金色に染まり、その影が池に映し出され、この世ではない美しさがそこに在った。(私の)世界で最もロマンチックな光景、それはタジ・マハールであった。
 ここを見学していたら、歳を取った乞食、見方によって仙人の様な人が墓宮内をウロウロしているのを見掛けた。それが不思議な事に、彼が本当のヒッピーの様な感じがした。


△タジ・マハールの仙人・・・

 タジ・マハール見学中、インド人から私が着ているジャケット(3年も既に着ている1.000円程した物)を売ってくれと声を掛けられた。値段交渉をして20ルピー(980円)で最終的に売った。割かし高く売れた感じがした。それにしても向こうから売ってくれと言われた事は、余り持ち合わせがなかった私とって、勿怪の幸いであった。 
 今日、これら4個所を見学するのに入場料金は20パイサで、合計80パイサ払わなければならないが、係員を配置して入場ゲートがある箇所はアグラ城とタジ・マハールで、私は2回払った。しかしロンは如何した事か、1回だけしか払わなかった。 
 アグラ見物の後、同行の中村は「ニューデリーに戻る」と言う事で、我々は彼を駅まで車で送り、それからドミトリーに戻った。夜、他の高級ホテルへ行って、ビールを飲んで帰って来た。今日の食事は、昼食の1回だけであった。しかしそんなに腹が空いている感じがしなかった。私も段々と本当のヒッピーに近づきつつある様な、そんな感じがするのでした。   お休み。



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