YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

廃墟になったキャラバン・サライ~シルク・ロードの旅その1(イラン・バスの旅)

2022-01-17 08:51:36 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
                                  △チャドルを纏った女性達(CFN)

・昭和44(1969)年1月21日(火)晴れ(廃墟になったキャラバン・サライ)
 シルクロード(絹の道)は、有史以前からアジアとヨーロッパを結んでいる東西交易路の総称であり、幾筋もの道から成り立っていると学校で教わり、又その様に認識していた。ある時代にどの道が栄えたかは、その時代の勢力の隆替(りゅうたい)によって目まぐるしく変貌したようだ。日本にシルクロードの事が伝わったのは、マルコポーロの東方見聞録による。彼は1271年のまだ17歳の時にヴェネチアを出発し、25年間かけての大旅行をして西安の都に辿り着いたそうだ。   
 そしていよいよ私のシルク・ロード、砂漠の旅が始まった。7時30分に起き、部屋を出ようとしたらドアの前に財布が落ちていた。拾い上げ中を見るとイラン紙幣やドル紙幣がかなりの額(紙幣が厚かった)が入っていた。部屋の中で私のではないので、南アフリカ人(白人)の物か。彼はまだ寝ていたので起こして確認させた。
「これは貴方の財布ですか。」
「そうです。どうして君が持っているのか。」
「ドアの前に落ちていたよ。どうぞ」
「それは有り難う、本当に有り難う。」
「私は旅発ちます。さようなら。」
「有り難う、マイ・フレンド。グッドラック。」 
私は部屋を出た。彼にとって正直な私で大変幸運であったのだ。
 私、ロン、ジェーン、そしてジェーンの知り合いの同じフランス人の男女が加わり、5人で旅をする事になった。その男女は昨日から我々の仲間に加わる事になっていた。彼はおとなしく美男子タイプでMichelle(ミシェル)と言い、彼女の方は美女タイプでCatherine(カトリーヌ)と言って、二人は似合いのカップルであった。ミシェルはカトリーヌを如何してこんな砂漠の旅に連れ回すのか、彼女も良く付いて来たな、と私は思った。2人は全く英語が話せず、私は二人と余り話をする機会がなかった。 
 我々5人はザーヘダーンまでのバスの切符、パキスタンの通行許可書そしてインドの査証の取得は済んでいた。しかし我々はザーヘダーンから先、そして両国国境付近の道路・交通アクセスについて全く分らず、行ってからの勝負(判断)であった。
 バスは予定時刻を1時間遅れ、テヘランのバスターミナルを発車した。このバス(S.Auto.AB.Kerman)は40席位あって、乗客は半分の20人程であった。左側の席は男性が座り、右側の席は女性が自然と別れて座った。しかしカトリーヌはイランの習慣(イスラムの習慣)に従わず、左側のミシェルと共に座った。右側の女性8人は皆、チャドルを着ていたので、素顔は分らなかった。若い女性は居ない様な感じであった。走行距離が長い為か、運転手2名が乗務した。
 バスが郊外に出ると直ぐに、草木も生えていない荒涼たる原野、或いは半砂漠状態(この辺りは岩と砂礫の世界)であった。しかもこんな状態が延々と続いた。道路はイランに来た時の空港~テヘラン間の様に良く整備されていなかった。所によっては凸凹、未舗装(砂利道)、或は砂漠の砂が道路を覆い隠し、轍(わだち)を頼りに通行しなければならない様な箇所が幾つもあった。しかしイラン全土が標高1,000m以上と言われるが、起伏がなく殆どの道は平坦であった。 
 何処かの町でお昼になった。我々も食堂へ入って行った。しかし食べる所は男女別々になっていた。当然、女性達が食べている所は、見えない様に囲いで仕切られていた。『肌を男性に見せない』と言うイスラム教の教えが社会生活において不便さをきたしている様に見受けられたが、イスラムの人々にとって全く不便・不都合と感じていないのであろう。要するに食べる所が、銭湯の様に男女が区別されていた。カトリーヌは当然、女性専用の食堂の方へ行かなければならないのだが、ミシェルと別れて食べたくないのか、男性専用の方で一緒に食べた。
私は思いを巡らせた・・・。日本の銭湯の場合、男性が女湯の方へ入っていったら当然大騒ぎになり、警察沙汰になる。でも逆に、女性(年齢関係なく)が男湯へ入って来たらどうなるのであろうか。男性は大騒ぎや警察沙汰にするであろうか。実際にそんな体験が無いので想像であるが、男性の場合は女性が入って来ても騒がず(内心喜んで?)、無視するであろう。男性は駄目で、女性であったら許される?から不思議だ。それと同じで、イランの食堂も男性の方で女性が食べるのは、『かまわない』と言う事か。それともカトリーヌが外人で、ムスリムでないからであろうか。 
 それから又、バスの旅は続いた。外の状況は半砂漠(砂礫)から砂漠へと変わり、それが延々と続いた。車窓から外を眺めていると、時たま今にも崩れ落ちそうな、或いは、砂の中に埋まって行きそうな、そんな廃墟になった家々が見られた。それらの家は、長屋の様に細長くなっていて、〝キャラバン・サライ〟(隊商宿)の廃墟であった。過っては多くのラクダと共にキャラバンの喧騒で賑わっていたサライ。そこは隊商達にとって、『オアシス』でもあったのだ。絹や陶磁器を西方へ、そしてイランの絨毯や珍宝を東方に運ぶ為、何十頭何百頭のラクダが首に鈴を付け、チリン・チリンと鳴らしながら、のんびりとシルクロードを歩むキャラバン隊は、今や夢物語になってしまったのか。インド航路が発見され大航海時代に入ってから、シルクロードはすっかり衰退してしまったのだ。更に自動車の発達で、キャラバンサライは砂漠のオアシスである宿、或は中継地としての機能を失い、見捨てられ、そして砂の中へ埋もれて行く運命を辿っていたのだ。
 夕方の拝礼時間になったのであろうか、砂漠の中に家がたったの3~4軒、本当に辺鄙な所でバスは停まった。乗客のムスリムの人達は車道の端から少し砂漠の中に立ち入り、地平線に沈む太陽に向かってお祈りを始めた。彼等が拝むその方角はメッカの方向であり、砂漠での彼等の祈りと太陽が砂漠の地平線に沈む情景は、真に絵になる光景であった。
  私は彼等がお祈りしている間、砂漠の民の暮らしを垣間見ようと、その1軒の家(物置小屋の様な、泥を天火で干して作り上げた様な家)に立ち入らせてもらった。しかし家の中は、何にも無かった。ただあるのは2・3個の鍋だけだった。余りにも惨めな、まるで古代人の暮らしの様で、私は愕然とし、そして悲しくなった。
又、砂漠の旅は続いた。右側に座っているその覆面の女性達(私は不気味さを感じていた)は、互いに一言も言葉を発せず、ただ黙って座っていた。左側に座っている男性も同じであった。何十時間も同じバスに乗っているにもかかわらず我々とは勿論、他のイラン人同士でも会話が全く無かった。長い道中なので、『袖擦り合うも多少の縁』、或は、『旅は道ずれ世は情け』と言う事で、もっと気楽にお喋りをしながら旅を楽しんだ方が良いのではと思った。しかし、そんな会話・お喋りは全く無く、無言でじっと坐っているだけであった。
 私と私の後ろに座っていたロンは出発間もない頃、こんな話をしていた。
「ロン、イランの現状は酷いものだな。イラン人、そして政府は何をすべきか。」と私。
「道路の整備を良くする事です。勿論、国内のみならず、隣国と協力し国際道路の建設、所謂シルクロードの復活が大事だと思うが。」とロン。
「私もその通りだと思う。そして国内の物流を活発化させる、と当時に東西の経済・文化の交流を活発化させることですね。」と私。
「そうです。その基礎となり得るのが教育です。テヘランの街でさえ学校へ行ってない多くの子供達を見掛けました。」とロン。
「私も見掛けました。そして1人1人がイランの現状と世界の現状を知り、自分達が何をしなければならないのか、それを知る必要がありますね。」と私。
「そうです。イラン国民が外国を知り、自国の現状を知る。これではいけないのだと理解すれば、もっと自分や国の為に頑張れるはずだ。」とロン。
「そうですね。そして貧富の格差の是正、農業の改善、近代化と産業の充実を図り雇用の安定を確保する。」と私。
「ヤー。これらの諸策によって貧困がなくなれば、イラン人の金銭的な嘘はなくなるでしょう。」とロン。
「ハイ、私もそう思います。そしてイランは石油が豊富に取れるし、パーレビ国王の近代化政策も期待しましょう。」と私。
 しかし、こんな会話も虚しいのだ。現実にシルクロード南ルートの東南アジアは、政情不安定な国が多く、特にベトナムではベトナム戦争が起こっている。中共とインド、そしてインドとパキスタンの国境では時々紛争が起こっている。しかも中共を含め中央アジアは共産圏国家だ。現状では新シルクロードの建設なんて、到底夢物語に過ぎないのであった。
 何にも無い、何の変化も無い、ただ延々と続く砂漠の中を何時間も何時間もバスに乗っている内に、我々も無口になって来たのも当然であった。と言うのは、この様な厳しい現実の中で、会話そのものが虚しくなって来るからであった。食事は昼時の一回だけで腹が減り、喉が渇き、そしてバスに乗り疲れて来ては、ただじっと我慢するだけであった。バスは延々と尽きる事が無い砂漠の中、夜を徹して走った。ケルマーンに着いたのは翌日の朝、5時頃であった。
テヘラン~ケルマーン間(約1,200km?)を20時間(休憩は昼食の時、そして5時頃のお祈りの時間の時だけ。そして夕食は無しであった。)、平均時速50~55km?。そんなに早く走っている感じがしなかったのに、意外と速いスピードで走っていた。                      


イスラム教の話~テヘランの旅

2022-01-16 09:42:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・イスラム教の話                                                 
 所で、私はイスラムの国に来たと言うのに、恥ずかしながらイスラム教について殆んど知らなかった。それではいけないので、又この日記(イラン・パキスタンの旅)を纏める為にも、『イスラム教とはこんな感じ』と言うアバウトでも良いから知る必要があり、少し記述する事にした。 
 
 [イスラム教の人々を「ムスリム」と言う。ムスリムはイスラムの教えであるイスラムの戒律(へジャブ)の中で生活している。そのヘジャブの基本的な信条として、①唯一の神アッラー(アラー)とムハンマド(マホメット)のみを信じる事。これを『シャハーダ』と言う。但しイランのシーア派は異なり、イマーム(聖人)を信じている。②礼拝の義務(サラート)。③3月の断食の義務(サウム)。④メッカ巡礼の義務(ハッジ)。⑤喜び、快楽を捨てる義務(ザカート)、の5行があります。
 その他に守らなければならない教えとして、①豚肉を食べてはいけない。②死んだ獣の肉を食べてはいけない。③酒(アルコール類)を飲んではいけない、販売もしてはならない。④女性は男性の前で肌を露出してはいけない。⑤賭け事をしてはならない等があります。
 話を続けます。ムスリムのスンニー派は1日5回(日の出前、正午、3時頃、日没時、就寝前)の礼拝を行う、イランのシーア派は1日3回(日の出前、正午、日没時)の拝礼の義務がある。ムスリムは礼拝時にコーラン(イスラム教聖典)を唱える。コーランはあくまでもアラビア語で読まなくてはならないもので、世界のイスラム諸国で流れるコーランは言語が異なっても、全てアラビア語である。][ ]内は、蔵前仁一書の「ゴーゴーインド」を参考
 
 いずれにせよ晩酌を楽しむ日本人、或は水の替わりにワインやビールを飲んでいるヨーロッパ人にとって、戒律の厳しいイスラム諸国は誠に住み辛い国なのだ。又、男性の道楽、楽しみである『飲む・打つ・買う』(酒・賭博や賭け事・女)は御法度なので、イスラム諸国の男達は何を楽しみに生きているのであろうか。
 所で、イスラム教にはスンニー派とシーア派があり、イランの人々はシーア派に属している。両派の違いは何処から来るのか、如何違うのか、もう少し述べてみる。
 
 [シーア派の聖地は、Com(コム、テヘランの南方)とマシュハドにある。そのマシュハドにはイマーム・レザー廟の寺院があり、第8代聖人・レザーが安置されている。本来、イスラム教は唯一絶対の神であるアッラーしか認めていないはずであるが、シーア派の人々はイマーム(聖人)を慕い、信じ、イマームに願をかけている。世界に広まるイスラム教は、実はその大半がスンニー派である。シーア派は少数派なのだ。だが、イランでは国民の9割以上がこのシーア派教徒である。
 シーアとスンニーの基本的な違いは、預言者・ムハンマドがイスラム教を興した後、イスラム信仰共同体の指導権を誰が継承したと考えるかによる。スンニー派は指導権が〝カリフ〟(ムハンマドの後継者で回教国の王、回教国主)に継承されたと見るに対し、シーア派はムハンマドの血族に引継がれたと考える。そしてこの指導権を持った人達を〝イマーム〟(聖人又は指導者)と呼んでいます。 
 シーア派の中にも様々な派があるが、イランの主流は12イマーム派である。つまり、イマームが12代まで続いたと見るのだ。イマーム・レザーもこの12代続いたイマームの中の1人である。シーア派はこのイマームを深く崇拝しています。従ってスンニー派がムハンマドを絶対視し、カリフと云えども政治的な指導者に留まり、宗教上の権威とは成り得ないとの対照的である。 
そしてシーア派で特徴的なのは、イスラム教として良い事と、してはいけない事の判断(「イジュテハード」と言う)を、イスラム法学者が行う事が認められている事です。つまり、インジュテハードの権限を持ったイスラム法学者が信徒の信仰、生活のみならず、その社会や国の内外政策まで左右し得るのです。]
[ ]内はNHKアジア・ハイウェ・プロジェクト著者「アジア・ハイウェ③コーランが聞こえる道」を参考。

 イランはこの様に保守的、イスラム教世界の風土の中で、パーレビ国王の〝欧米化・近代化政策〟(白色革命)が1963年から断行されている。そして私の帰国後に『チャルド禁止令』も出されたのです。しかしその後、ホメイニ師の法学者等はイスラム革命を断行→パーレビ国王は海外へ脱出→白色革命破綻→保守的なイスラム化社会へ→宗教家が権力を掌握。
 私が訪れたこの時期は、少しずつ欧米化の波が浸透しつつ、街を歩いているとチャルドを身に付けない女性を何人か見掛けたが、それはまだほんの極少数派であった。地方では100%真っ黒なチャルドを纏っていた。
  余談であるが、チャルドは貧しい女性達にとって極めて便利な「隠れ蓑(みの)」と言えるのだ。又、夏の光線や風の激しい中近東での砂嵐には実際これを着ると、大変便利な物の様である。いずれにしても現在(1969年)のイランは、イスラムの伝統とイスラム教シーア派対パーレビ国王の白色革命の狭間で揺れている状態である、と言えるであろう。 

テヘランの簡単な印象の話~テヘランの旅

2022-01-15 13:51:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・テヘランの簡単な印象の話
 テヘランは、私が思っていたより物価が高かった。物によっては、日本よりも高かった。今まで色々な国を旅して来た経験から、物価の高い国は豊かであったが、この国はそうでなかった。政府の政策が悪いのか、これをどう判断したら良いのか、分らなかった。イスラム諸国の中でもイランは比較的欧米化が計られている、と言うがまだまだの感じであった。
 テヘランの人々の着ている服装は、貧しそうであったし、紳士らしき人は見当たらなかった。そして街には女性が余り歩いていなかった。歩いていても皆チャルドを被っていた。その光景は私にとって不思議でもあった。そして侘しい、怪しい商売をしている大人や子供達、そして乞食も多かった。私が街を歩いていると、大人も子供も意味もなく、「ジャポネ、ジャポネ」と五月蝿く(うるさく)、余り良い感じはしなかった。
 バザールへ行ったら、そこは観光化されていた。商品は高そうだし、そして彼等は人を見て、その商品の値段を決めていた。イランは、今までのヨーロッパと本当に異なっていた。テヘランはもっと情緒があると思っていたが、変な都会化になっている感じがした。


テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話~テヘランの旅

2022-01-14 08:37:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・テヘランに到着し、そして滞在して思った事の話
 テルアビブやテヘランで飛行機で到着すると、その国やその都市の様子、方向感覚、お金の価値(換算)、交通の便、或いは地理等が全く分らないので、それで困った経験をした。テヘランの場合は空港から鉄道やバスのアクセスが無く、全くの陸の孤島であり、どうしてもタクシーを頼るしかなかった。そして例えタクシーに乗ったとしても、その料金が本当に正当なのか、乗る前に他の運転手にも聞けば良いのであるが、言葉も通じないので、簡単に聞けなかった。しかも料金メーターが頼れるのは、先進諸国の西ヨーロッパと日本だけなのだ。飛行機から降りて来た外国人は、『ネギを背負った鴨に等しい』と言う事を、肝に銘じるべきだと思った。イスラエルに入国した時の乗り合いタクシー(シェルート)もおかしかった。
  イランはタクシーに限らずバザール(市場)、食堂、商店、宿泊施設等に於いて、外人用の料金・値段と現地の人達の料金・値段が存在し、或はその存在の可能性があった。そして外国人に対しては、その料金・値段にも幅が在り、その身なり、格好や態度で決められる様であった。この様に正当な料金・値段が定まってない国が〝西欧(イタリアは除外)と日本の間〟(アラブ・イスラム諸国、インド、東南アジアの国々)に存在している事をこちらに来て知った。従って大切な事は、早くその国のお金の価値、ある程度の物価の状態等を知る事なのだ。彼等に言われるまま払うのはバカ臭いので以後、値引き交渉は当然であった。
回りくどい様に書いたが、そんな理由でタクシーに乗りたくなかったが、タクシー以外に交通手段がなく仕方なく乗って、そして向こうの言い値で払ってしまった。タクシー運転手は今頃、舌を出して笑っているであろう。

通行許可書を取得~テヘランの旅

2022-01-14 08:32:15 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月20日(月)雪後小雨(通行許可書を取得)
 雪の降る中、パキスタン大使館へ通行許可証を取りに行った。大使館員が、「チョッと待ってくれ」と言うので、私は待った。1時間程で通行許可証(ロード・パ-ミッション)を手に入れた。時間にルーズなイスラム人と言うよりは、大陸的な感覚を持った人にとって1時間位で出来たのは、早い方かもしれなかった。 
 午後、小雨になった。ジェーン、ロンそして私の3人は、バザールへ行き、ザーヘダーンまでのバスの切符(350リアル、約1,680円)を買った。  
  夜、このホテルで出逢った大西さん(仮称)から、普通サイズの日本の国旗を貰った。
 今日は寒い1日であった。明日、Silk Road(シルクロード=絹の道)の旅に出るので早めに寝る事にした。

インドへの旅の準備~テヘランの旅

2022-01-13 13:50:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月19日(日)曇り(インドへの旅の準備)                          
 朝食は昨日の朝に買った食べ残しのパン、チーズ、そしてオレンジジュースで済ませた。                                 
 ホテルでゆっくり寛いでから11時30分頃、インドの査証を取りに出掛けた。途中、店に安そうなサンドイッチが売っていたので、昼食用に買った。12リアルであったがパンの大きさと中身の質を考えると、やはり割高感があった。インド大使館へ行ったら査証は出来あがっていた。それを受け取り、ホテルに戻った。 
 夕方、談話室でロンに会った。彼から「パキスタンの通行許可証を持っているか」と聞かれ、「持ってない」と言った。彼の話だと、パキスタンを通過して他国へ行く場合、査証より取得が簡単なRoad Permission(通行許可証)の方が良いと聞かされた。査証はその国の滞在許可証であり、滞在期間は目的によって異なる。しかし通行許可証は滞在期間が短く(1週間から10日以内)、ある国からパキスタンをバス・列車等で通過してある国へ行く場合に適用されるらしい。私は初めて『通行許可証』と言う言葉を聞き、その存在を知った。
 昨日、インドの大使館へ行った際、北ルートで行く予定であったなら、当然アフガニスタンとパキスタンの大使館へ行って、それらの国の査証を取得する為の行動を取るべきであったのに、私は取らなかっが、結果的に取らなくて正解であった。Mさんに会う事ばかり考えて、そこまで頭が回らなかった。いずれにしても明日、早急にパキスタン大使館へ通行許可証を取りに行かなければならない。

スチュワーデスとデート~テヘランの旅

2022-01-12 10:51:11 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
     △スチュワーデスのMさんと私―テヘラン市内にて

・昭和44年1月18日(土)晴れ(スチュワーデスとデート)
 昨夜宿泊したアミルカビルホテルは、テヘラン中心部からそれ程遠くなく、又日本大使館やインド大使館、或はバザールへ歩いて行ける距離であった。昨夜は寝てからもエールフランスのスチュワーデスのMさんの事が気になって仕方がなかった。今日、彼女は休みでテヘランに滞在との事、そしてエールフランスの乗務員が宿泊するホテルは決まっているとの事であった。この2点は昨夜、彼女の話から分っていた。『彼女ともう一度、会って話がしたい』そう言う一途な想いが、私をエールフランス営業所へ行かせた。
 最近雪が降ったのか所々、日陰に残雪があった。私は市内マップを頼りに、その営業所へ行った。
「昨夜、テルアビブからテヘランに着いた○○便のスチュワーデスが滞在しているホテルの電話番号を教えて下さい」と尋ねた。何の疑いもせず、女性スタッフは親切にそのホテルの電話番号を教えてくれた。    
 その足でインドの査証を取る為、インド大使館へ行った。査証を申請した後、彼女が宿泊しているホテルへ電話して、彼女の部屋へ転送して貰った。 
「もしもし、昨日エールフランスに搭乗したYoshiです。もう一度、貴女と話がしたいので電話しました。今日、暇でしょうか」と私。
「あ、Yoshiさん。昨夜はどうも。今日、私は暇ですからお会いしてもいいわよ。」と彼女の快い応答であった。
 「それでは日本大使館の前で午後2時に会いましょう。ゆっくり昼食を取ってから来て下さい。私も昼食を取った後、大使館で新聞でも読んで時間を待ちますので。」と言って電話を切った。
電話代は2リアル(約10円)であった。嬉しくて堪らなかった。『友達になれるかな。もっと発展して私の彼女になってくれたら、もっと嬉しいのだが。』と願望は広がった。 
 市内散策がてら、私はインド大使館から日本大使館へ向かった。途中、安そうな食堂があったので昼食を取る為、その店に入った。薄汚れた非衛生な感じの店であったが、安く上げるのにあえて選んだ。店に入ったが、何を注文して良いのか分らなかった。仕方なく店頭に並べてあるシシカバブ(羊の肉の串焼き)5本、彼等の主食であるナン(小麦粉を練って、薄く焼いたイラン人の主食物)2枚、それにコカコーラを注文し、全部で12リアル(57円)支払った。串焼きは羊のレバーでほんの薄塩味であった。焼き立てであれば多少旨いのであろうが、冷たくなっていて「不味い」の1語に尽きた。我慢して2本食べたが、後は食べられなかった。それに作ってから時間が経ったナンは、パサパサしていて何の味もなかった。これらをコーラで胃の中へ流し込んだ。満腹感は全く無かった。
 日本大使館へ向かって歩いていたら、八百屋で林檎を見付けた。日本を出て以来、食べた事が無かったので、幾らするのか聞いてみた。「30リアル(144円)」と言うのでビックリ、買うのを諦めた。如何考えても高い感じがした。それとも外人の私に値段を吹っ掛けたのか。
 午後1時前に大使館に着いてしまった。彼女に会えると思うと、落ち着いて新聞も読めなかった。それに又、感じの悪い日本人大使館員に会ってしまって余計であった。約束の2時前から大使館の前で彼女が来るのを待っていた。2時10分頃、タクシーが停まり、中から白い毛糸の帽子を被り、グレーのロングコートを着てヒールを履いたMさんが下りて来た。制服姿が似合う美人の彼女であるが、又私服を着たそのセンスの良さは、さすがエールフランスのスチュワーデスであった。でも下りて来たのは彼女だけでなく、もう1人女性が下りて来た。
「こんにちは、Yoshiさん。待ちましたか。」と彼女。
「いいえ、そんなに待ちませんでした。」と私。
 「Yoshiさん、こちらの方は私と同じ会社のスチュワーデスのTさんです。」と彼女。紹介されたTさんも、Mさんと同じく美人で、着ている服もよく似合っていた。Mさん1人が来るとばかり思っていた私なので、Tさんを紹介されて貰ったが、残念な気持があった。『両手に花』でそれはそれで良いかも知れないが、1人の女性さえどの様に対応して良いやら分らない私であるので、2人では嬉しくなかった。
「何処へ行きましょうか。私達は昼食をまだ済ませてないので、もし宜しければレストランへ行きませんか。」とMさん。
 「私は済ませて来ました。貴女達がまだなので、レストランへ行きましょう。」と私。そう言う事で我々3人はレストランへ行く事になった。
 私は5~6ヵ月間も髭を剃らず、髪の毛もカットせず伸び放題にカーキ色のジャンパーを着て、紺のジーパンをはいていた。その格好はまるでヒッピーの様であった。彼女達と全く不釣合いな格好している私が、両手に花で美人2人を左右に従えながら歩いている光景は、通りを歩くイラン人の注目の的になってしまった。如何して注目なのかと言と、この国や他のイスラム諸国の女性は自分の顔・髪や体のラインを夫以外の男性に見せないよう、〝全身を覆ってしまう様な布製の被り物〟(「チャドル」、パキスタンでは「ブルカ」と言う。)を頭からすっぽり被っていた。そして中には眼も隠す為に黒の網目で覆っている女性も多かった。従ってこちらの男性は若い女性の素顔を見る機会が無いのです。ましてやヨーロッパで流行しているミニスカートの女性は、皆無であった。そんな理由で彼女達の(美しい)素顔とスタイルが余計に目立ったのでした。                  
 我々が入った店はヨーロッパスタイルの高級レストラン(それでも今一であった)の様で、メニューの方も高そうであった。テヘランは彼女達の乗務空路の中継地となっているし、それに前にも来た事があるのか、Mさんはスンナリこの店に私を案内したのだ。
「Yoshiさん、私が払いますから好きな物を注文して下さい。」と彼女は言ってくれた。本来ならばデートに誘った私が払うのが筋であろうが、懐具合が寂しいのでその言葉に甘んじた。しかしだからと言ってこれ幸いに高い物を注文する私ではなく、既に食事して来たからと言って、安そうな料理を一品だけ注文した。 
 我々がレストランに入ったら、10~15人位の日本人観光客の一団が席2つ隔て食事をしていた。彼等は美女2人と私の組み合わせが不思議そうに、興味津々と目線を我々に向けていた。     
「私達とYoshiさんの組み合わせが珍しいのか、あの団体じっとこちらを見ているわよ。」とMさんも気が付いて呟いた。その団体は若者中心の団体で、中に数人女性も居たが、やはりMさんやTさんの方が、その彼女達より全ての点(顔立ち、スタイル、着ている洋服及びセンス)で数段上であった。そんな訳で、私を羨望の目で見られているのも満更悪い気はしなかった。
 我々は私の旅の話、キブツの話等を、又彼女達からスチュワーデスの話等をして楽しい一時を過ごした。
「Mさん、日本へ帰ったら又、会って貰えますか。宜しければ貴女の日本の住所を教えて下さい。」と私は言った。
 「ご免なさい。婚約者もいるし、私との出逢いは今日一日だけよ。」と彼女にぴしゃりと言われてしまった。柔らかな口調であったが、確固たる説得力のある言葉で、私の想い(友達、否、それ以上の関係を願っていたのだが・・・)は一瞬で消えてしまった。                                                                             
 レストランを出た後、彼女達は何か買いたい物があるらしく、「バザールへ行きたい」と言うので、そこへ行った。バザールはレストランからそれ程遠くなかった。レンガ造りの古びた門を潜るとテヘラン市内と違った空間がそこにあった。かなり奥まで真っ直ぐに伸びたメイン通りには、数え切れない程のたくさんの店が連なっていた。更にその通りから数多くの小路(枝路)に分かれ、その小路の両側にも店が並び、1つの別な街(数千・数万軒の店がある様に見えた)がそこに形成されていた。このバザールには、多種多様な物が売っていた。ここは知る人ぞ知る、『バザールとして有名で世界最大の規模』と言われていた。
  Mさんはペルシャ絨毯を、Tさんはアフガンコートを求めていた。彼女等はあちこちと店選び、そして品質が良く、安い品物を探し求めていた。私はただ彼女達の後に付いて行くだけであった。ただ危ない感じがする小路には、行かない様に注意していた。彼女達は英語が上手だし、外国での買物が慣れている所為か、イラン商人との値段の交渉も上手なもので、ついに絨毯とコートを買った。アフガンコートやペルシャ絨毯は、決して安い買物ではない。否、値切ったがやはり高額の買物であると思った。しかしスチュワーデスは高給取りなのか、ポンと支払ったのであった。いずれにしてもバザールは、日本人女性2人だけで来る様な雰囲気、場所ではなく、たまたま私が一緒で彼女達にとって正解だったのだ。
思うに、彼女達の本命は私と会って食事や会話を楽しむと言うのではなく、私に買物時のボディガード的な役割をして貰いたかった。ただそれだけであったのだ。そんな訳か、彼女達の買物が終りバザールを出たら用済みになったのか、Mさんは「それではYoshiさん、ここでお別れしましょう。元気で旅をして下さい。さようなら。」と言って私の前から去って行った。
よく考えて見なくとも、何処の者か分らない貧乏旅行者にスチュワーデスが惚れるものか。この2日間、たわいもない片想いであったのだ。それでもエールフランスの美人スチュワーデス2人とのデートは、忘れ難いイランの旅の思い出となった。
 彼女達と別れ、日の落ちかけた薄暮の空、何処(いずこ)からともなくスピーカーからイスラム教のお祈りを呼び掛ける声が響き渡ってきた。それは歌い上げる様な高らかに響く声であり、或は詩の朗読を聞いている様でもあった。『あぁ・・、私はイスラムの国に来ているのだ。』と再度、実感した。 
 夕方、ホテルに戻った。そこの談話室に私と同じ欧米の旅人15人程が寛いでいた。ある事を思い出した私は、皆に聞こえる程の大声で、「私はこれからインドに向けて旅をしようと思っています。誰か私と一緒に旅する方いませんか。」と言って、私と共に旅する仲間を募った。これは何回か誰かに、「イスラム圏からインドまでは1人で旅をするのでなく、誰かと共に旅をした方が安全・安心だ。」とアドバイスを受けていたからであった。
すると2人が私に近寄って来て、「一緒に行きましょうと。」と言う事になった。我々は互いに自己紹介して、直ぐに親しくなった。1人はアメリカ人のロン(Ronald Schwartz)と言って ニューヨーク出身、自称小学校の先生で、そしてもう1人はフランス人のジェーン(Jean Louis)と言う旅人であった。 
「Yoshi、どんなルートでインドへ行く予定ですか。」とロンが私に尋ねた。
「予定ルートは、テヘラン~Mashhad(マシュハド)~Heart(へラート)~Kandahar(カンダハール)~Kabul(カブール)~Peshawar(ペシャーワル)~Lahore(ラホール)を経由して、インドNew Delhi(ニューデリー)へ行こうと思っているのです。」と私。
「この時季にそのルートは行けないかもしれません。と言うのは、Afghanistan(アフガニスタン)は 9,000フィートの山岳地帯だ。積雪の為、バスの通行不能があるかもしれません。もし通行可能であっても、バスが積雪や凍結でスリップし、谷底へ落ちたらそれこそ大変、非常に危険だ。」とロン。
「それでは南回りで行くのですか。」と私。
「そうです。Kerman(ケルマーン)~Zahedan(ザーヘダーン)~Quetta(クエッタ)~ラホール、そしてニューデリーへの南回りの方が良いでしょう。」とロン。
「分りました。それでは南回りで行きましょう。」と言う事でジェーンも納得し、3人の意思は決定した。           
それにしても私はアフガニスタンの冬季山岳地帯の危険予知能力は全く無く、そしてそれらの情報に無知であった。しかし大声を上げて仲間を募った事は本当に良かった。1人では心細いし、『とにかくイスラム圏の一人旅は危険、不都合。』と言う事なので、仲間が見付かって良かったし、こんなに早く見付かるとは思ってもいなかった。考えてみれば大勢の外人を対象に彼等を前にして英語で大声を出し、旅の仲間を募るなんて、私も随分勇気があるものだ、と自分自身感心した。
  その後、私、ロンそしてジェーンの3人で安そうな食堂へ夕食を食べに行った。彼等も経済的な旅を願っているので、その点でも良き旅の仲間が見付かって安心した。

スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

2022-01-11 16:12:08 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年(1969年)1月17日(金)晴れ(スチュワーデスとの出逢い)               
*参考=イランの1リアルは、4.8円(10ディナールは、48銭)
 
 住み良い国?イスラエルを去る日が来た。今朝、キブツ・フレンド・ホステルにキブツ仲間のアメリカ娘のジョアンがバートと共に尋ねて来た。再びキブツの仲間に逢えた事は嬉しかった。ジョアンとバートに再び出逢えた記念に、日本の絵葉書を2枚プレゼントした。
 ジョアン、バート、そして私の3人は、例のフランス風のレストランへお茶を飲みに行った。我々はお互いに何ヶ月も遠い故郷を離れ、旅愁を感じていたのか、余り語らなかった。否、何も語らずとも胸の内はお互い分っていた。我々はハッゼリム・キブツで共に農作業をしたり、楽しいパーティをしたり、相撲をとったり、ボクシングをしたり、そして楽しい食事したりして共に1ヶ月間過ごしたのだ。その様な楽しい日々を思い出すと、いざ現実に30分後、10分後に別れるとなると、何を話したら良いのか分らなかった。事実、旅はいつも別れの切なさ、寂しさが漂い、私は辛かった。我々は別々に別れ、そして新たな旅をする事になる。キブツでは寝る所も食べる事も、何ら心配が無かったが、これから再び旅が始まり、色々な事が待っている。
 そして11時頃、我々は別れた。「ヨシ、日本に着いたら手紙を書いて下さい。それでは元気で旅を続けて」と言ってジョアンは私にキッスをして来た。
「有り難う、ジョアン。必ず書きますから」と言ったが、一瞬シーラと別れた時の事を思い出した。ジョアンのお別れキッスも何故か切なかった。
 「バート、グッドラック」、私とバートは握手して別れた。そして彼はエイラト(アカバ湾の港町)へ旅発った。急に私の周りから皆、居なくなった感じがして、寂しさが込み上げて来た。しかしこれはジョアンのキッスの温もりを頬に感じながら、新たな旅の始まりであり、そして又、新たな人との出逢いでもあった。
 昼食を取りに行ったレストランで、「満州で生まれた」と言う、ある日本人女性と出逢った。彼女は日本に住んだ事がない所為か、日本語を殆んど忘れていて、我々は英語で話した。『人それぞれ色々な人生航路があるものだ』と思った。 
 リックをホステルに置いて来たので、一端ホステルへ戻った。その後、乗合バスでELAL(イスラエル・エアーライン)の送迎バス発着場へ行き、そこから有料で1ポンドとチョッのそのバスでテルアビブロッド空港へ向かった。
 Tehran(テヘラン)行きの航空券は、アテネでテルアビブ行きの航空券購入の時に合わせて購入したので、この日どうしてもイスラエルを去らねばならなかった。そしてイラン入国の為の査証は、既に昨年の11月6日にロンドンで取得済みであった。
 所で、私はイスラム諸国やインドの諸事情を余り知らなかった。努力しない限り、それらの国々の色々な事、社会情勢等ついて情報が伝わって来ない、情報が無いと言うのが日本の現実でした。その反面アメリカやヨーロッパの事は映画、テレビ、或は新聞等で自然と伝わって来ているので、それらの国についてはある程度のイメージが出来ていた。そう言う意味で、これから訪れようとするイスラム諸国は、未知の世界であった。従って最近、旅に慣れて来た私であったが、不安があった。こちらに来てから色々な国の旅人からの話を端的に要約すると、『イスラム諸国の旅は、決して楽しい旅ではなかった。寧ろ厳しい旅であった』と言う人が多かった。インド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア諸国、そして中近東諸国の私の漠然としたイメージは、アジアとヨーロッパを結ぶシルク・ロードであった。そして何が楽しくないのか、何が厳しいのか、それらを一つでも体験する事が今回の旅の基本的な考え方でもあった。従って『今度の旅は、厳しくなるであろう』と漠然と想像が出来たし、同時にある反面、不安と楽しみが交差している心境であった。
 午後4時、バスはロッド空港に到着した。空港待合室で日本人と思い話し掛けたら、中国人(華僑)であった。彼は中共(正当な中国は台湾の中華民国)へ行った事ないし、今は行けないと言っていた。彼は日本人に似ていたので間違えた。
 エールフランスの飛行機に搭乗。午後7時に離陸して、イスラエルを去った。乗客は定員の半分程であった。墜落の事を考えると飛行機はどうも怖かった。スチュワーデスの中に美人の日本人が1人搭乗していたので、何となく落ち着く事が出来た。彼女がお茶や夕食を配ってくれた時、こんな綺麗な女性と話をした事が無かったから、機内であったが二言三言、話が出来ただけで私は嬉しくなってしまった。彼女も余り乗客が居ない所為か、或はエ-ルフランス機だと日本人の乗客に会えたのが珍しいのか、いずれにしろ若者同士で話し易かったのであろう。
 午後9時頃に搭乗機は、テヘランのメヘラバード空港に到着した。2時間位の飛行時間であったが、彼女ともっと話したい気分の私であった。あえてタラップを降りる際、私は最後になり又、彼女に話し掛けた。少しの間であったが、会話は盛りあがった。私の旅の事も少し話して、降りようとしたら、「もっと貴方の旅の話しを聞きたかったわ」と彼女は言って、ちょっぴり残念な様子であった。
私が入国手続きの為に並んでいたら、今度は彼女の方から遣って来て、又話をした。もし彼女が私を嫌であったら、自分の方から遣って来ないと思った。彼女の名前は「Mさん」と言って、今夜と明日、彼女がテヘランで宿泊する事を聞き出した。そして「明日は休みで、暇です」と言う含みある言葉を残して、彼女は立ち去って行った。
 両替をしてから待合室を出た。同じ飛行機に乗っていた乗客はいつの間にか散り散りになり、見当たらなくなっていた。テヘラン市内へ行くバスの便が無かったので、仕方なくタクシーで行く事にした。午後9時30分を過ぎていたが、それにしても国際空港前は閑散としていて、寂しさがあった。キブツ仲間のエンディから、「テヘランへ行った時は、安くて比較的清潔なAmir Kabir Hotel(アミル・カビル・ホテル)が良い」と教えて貰ったので、そこへ行く事にした。タクシー運転手にホテル名と住所を見せたら、「OK」と言うので乗った。
 街路灯の光が黄色に放ち、良く整備された道路をタクシーは一路テヘランへ向かった。行き交う車は全く無かった。テヘランに近づくにしたがい、交差点に交通信号機があったが、運転手は何度も赤信号を無視して突っ走った。私が「停止信号だ。止まれ」と言っても、運転手は「ノープロブレム」とか言って、信号を無視した。まるで過っての東京の神風タクシーの様だが、交通量が無いので怖くなかった。  
  運転手はアミルカビルホテル前に、迷う事なく到着した。タクシー料金は100リアル(480円)で高いと思った。でもかなり長い距離を深夜、ここまで無事に運んでくれたのだ。料金とチップ代を入れて、スンナリと言われた額を運転手に渡した。『値引き交渉が面倒であった』と言うより、私は着いたばかりで、この国の物価、お金の価値が分らなかったのだ。後から調べたら、空港から市内中心地まで約10キロ程であろうから、タクシー料金は37リアル+アルファーで良かったのだ。ヤラレタ、悔しい!! 
 アミルカビルホテルは午後の11時頃であったが開いていた。遅いにも拘らずベッドの空きがあり、運良く泊まる事が出来た。宿泊料金は、食事なしの1泊50リアル(240円)であった。このホテルはアメリカやカナダで若者向けの旅の本に広く紹介されているので、この宿泊料金は信用出来ると思った。マスターに案内されて部屋に入った。ベッドが2つあり、その1つに南アフリカ人(白人)が既に寝ていた。私も遅いので着いた途端であったが、リックを下ろしベッドに潜った。横になってからもあのスチュワーデスのMさんの事が気になり、と言うか頭から離れず寝付かれなかった。


第4次中東戦争(10月戦争)の話し、及び平成18年(2006年)現在の状況の話~エルサレムの旅

2022-01-10 09:05:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
△古都・エルサレムの全容で中央の黄金のドームがオマールイスラム寺院(CFN)

・第4次中東戦争(10月戦争)の話し
 テルアビブ空港乱射事件の翌年の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争が勃発した。ナセルの死後、エジプト大統領になったサダトによって企てられ、第3次中東戦争の敗北で失ったシナイ半島の奪還を目指したものだった。戦闘は当初、アラブ側が有利であったがイスラエル軍が反撃し、膠着状態になった。
 ここでサウジアラビアを始めとするアラブ産油国は石油戦略を用いた。彼等はOAPEC(アラブ石油輸出機構)を結成し、原油価格を一気に70%も引き上げた。さらにイスラエルを支援するアメリカへの石油輸出を禁止し、又アラブ諸国に協力的でないとみなした国家にも同様の処置を取ると宣言した。これが『石油危機』(第1次オイルショック)の原因であり、日本を含む世界経済に大きな衝撃を与えた。
 日本政府はアメリカ追随外交で、アラブ諸国に無関心であったが、手のひらを変える様に〝アラブ詣で〟(風見鶏外交と言って非難された)をして、石油確保に躍起になった。
  この戦略の発動によってエジプトのサダトは政治的な勝利を得た。戦闘は膠着状態のままアメリカのカーター大統領の仲介によって、エジプトはイスラエルと和解し、第3次中東戦争で奪われたシナイ半島を奪還したのであった。

・平成18年(2006年)現在の状況の話
 「人間(人類)は、勇気と知恵を持っている」と言われておりますが、私がイスラエルのキブツに滞在していた時から40年近く経っても、パレスチナ問題は一考に解決されておりません。
  私がイスラエルに滞在していた頃、ユダヤ人もパレスチナ人もある地域では共に暮らしていた。しかし、現在は高い障壁を築き、一定の地域(ガザ地区及びヨルダン川西岸地区)にパレスチナ人を集めた隔離政策を取る様になり、双方が暴力の応酬を繰り返されていると言うのが現実である。そして暴力行為は寧ろ悪化の一途を辿っているのが現状であり、私は憂慮している。
 
*(注)この見出しから14年後の2020年になってもパレスチナの状況は余り変わっていない様です。むしろイスラエルはヨルダン川西岸地区を自国領に編入しようと企て、又トランプ大統領と組んで首都をエルサレムにしています。日本を含む多くの国はこれについて認めていません。イスラエルの首都はテルアビブです。しかし2020東京オリンピック・パラリンピックのウェブサイトでイスラエルの首都を主催者はエルサレムと表記して問題になった。主催者側の無知を世界に曝け出してしまった、情けない話でした。

テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話 ~エルサレムの旅

2022-01-09 09:17:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・テルアビブ・ロッド空港乱射事件とシーラおばさん達からの手紙の話              
 私がイスラエルを去ってから3年後、昭和47年(1972年)5月31日(水)発行の夕刊の一面に次の様なセンセイショナルな記事が載った。
[5月30日(火)夜、日本人ゲリラ3人(岡本公三、奥平剛士そして安田安之)がテルアビブ国際空港で軽機関銃を乱射、手投げ弾を数発投げ、乗降客に100人近い死傷者(実際は死者28名、重軽傷者78名)が出た。
  3人はローマから到着したエールフランス航空機に乗客として紛れ込んでいたもので、1人は流れ弾で死亡、1人は自殺、残る1人は逮捕された。逮捕された男は『赤軍派』と名乗っているが、日本赤軍派のメンバーなのか不明。しかし、アラブゲリラ組織の1つPFLP(パレスチナ人民解放戦線)はイスラエルに対する報復行為と発表しており、アラブゲリラに同調した日本人急進派による国際ゲリラ事件と見られる。日本人による海外の事件では最大で、国際的にも直ちに大きな反響を呼んでいるが、特にユダヤ系人達の対日感情の悪化が憂慮されている]と、報道された。   
注~岡本公三は生存し終身刑になったが、後に獄中自殺した。岡本公三の兄・岡本武は昭和45年の日航機『よど号』乗っ取り犯の1人で北朝鮮へ亡命。奥平剛士はこの時に射殺、彼は赤軍派最高幹部の重信房子の夫。安田安之はこの時に手榴弾で自爆)                                                                             
 この事件が発生して、日本人の1人としてイスラエル国民にお詫びしたいと言う気持で、イスラエルに知っているミセズ・シーラ・クランケル(シーラおばさん)とキブツ代表者へ私の気持を書き送りました。
 2週間後、シーラおばさんとキブツから折り返し手紙が届きました。イスラエルの一国民がこの事件及び日本に対して如何に思っているのか、日本・イスラエル両国の小さな橋渡しとして、是非皆様にも読んで頂きたく、私が訳したシーラおばさん、そしてキブツ代表者からの手紙をここに紹介致します。

○シーラおばさんからの手紙 
拝啓
 貴方の友好的な心温まるお手紙を受け取り、大変嬉しく思います。日本人は立派な国民であると言われておりますが、テルアビブ空港で如何してこんな恐ろしい事を起こしてしまったのか、とても信じられません。彼等(岡本公三とその一派)の行為は愚かで、きちがいじみていると誰もが思っています。しかし、日本政府及び日本人がこの事件に対し取った態度は、尊敬されるものがあった、と信じております。私はイスラエルに対しこんなに面目を重んじ、又振舞ったくれた国が他に無いと思います。
 今日(こんにち)、世界的に自尊心と道義心が欠けて来ている傾向になりましたが、日本政府及び日本人が振舞ったその行為は、人間性を見るものがありました。私は紳士的に振舞ってくれた日本政府及び日本国民の皆様に、日本の新聞紙上(実際は職場新聞)を使って、私の感謝の気持を伝えたいと思っています。
 この恐ろしい事件に対し、紳士・淑女は如何に名誉ある振る舞いをすべきか、日本は一つの教訓を世界に示しました。イスラエル国民はこの愚かな挑発に対して、毅然とした態度で臨むべきだと思っております。アラブ諸国は他国の人達を使ってこれらの暴力行為をやらせている、なんと臆病者なのか、と我々は嫌悪感を抱いている次第です。
 私が最も恐れている事は、この事件によって大変悩んでいるのは日本人ではないかと・・。現にイスラエル警察当局に嫌疑を掛けられている日本人旅行者を見掛けたからです。
  最後に日本・イスラエル両国家の友好関係が益々発展される事を希望いたします。貴方のご多幸をお祈り致します。                                                 
                             敬具

○キブツ代表者からの手紙                                                                                                                                                                                                                                                                                 拝啓
  今回の事件は我々に取っても、そして日本政府、国民に取っても衝撃的なものでした。我々はイスラエル・日本両国の友好関係がこの事件で悪化する事なく、我が政府が冷静に対処される事を切に望んでおります。我々ユダヤ人もパレスチナ人も昔(パレスチナ戦争以前、所謂第一次中東戦争以前)は仲良く、又助け合ってこの地で長い間、暮らしておりました。悲しい戦争が何度か繰り返されましたが、この地に再び平和が訪れ、以前の様にユダヤ人もパレスチナ人も共存共栄して行ける、そんな時代が早く来る事を我々強く望んでおります。
 貴方はハッゼリムキブツで我々と共に仕事と生活をされて来ましたので、我々ユダヤ人の事、イスラエル国家の事を良く理解されていると思います。日本からは遥かかなたの地でありますが、どうか私達、及びイスラエルを温かい、そして理解ある気持で見守って下さい。---省略--ー                                                                                       
                             敬具