YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

デモ騒動と夕日の美しさ~エルサレムの旅

2022-01-08 13:40:15 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和44年1月16日(木)晴れ(デモ騒動と夕日の美しさ)
 昨夜知り合ったイギリス人から靴を貰った。その靴は歩き易い感じがしたし、私も丁度欲しかったので戴いた。その彼が今朝になって「ベツレヘムへ行くから靴を返してくれ」と言うので返したが、私は考え直し「今日、私はテルアビブへ行くから駄目だ」と言って、彼に返した靴を取り返した。貰った物は既に私の物なのだ。可笑しな話であるが、人に物を与えてから今度返してと言うのである。又、貰った方の私も相手が必要なら返せば良いのであったが、これまた返さなかった。私は気まずい思いがした。
 エルサレムのユースを去り、テルアビブへヒッチで行った。ヒッチは容易であった。クリスマス・イヴの夜中のベツレヘムからハッゼリムキブツのヒッチは大変であったし、ベエルシェバから死海へのヒッチは、問題外であった。しかしそれ以外、イスラエルのヒッチはとても簡単であった。如何してなのか。私が思うに、ユダヤ人の心の中に、相互扶助の精神が生きているのであろう。   
 4時間位でテルアビブに着いた。ダン・ホテルがあるユーコン通りのKibbutz Friend Hostel(ユースではない)に泊まる事にした。このホステルにくる途中、フランスに抗議するデモに出くわした。ある情報によると、イスラエルはフランスから戦闘機を購入する為、既にお金を支払済みであったが、フランスは戦闘機をイスラエルに引き渡さないの為、フランスに対する抗議のデモであった。政治・軍事関係でイスラエルには欧米が応援して、アラブ諸国に於いてはソ連が後ろ盾になっていると言う、中東戦争の構図が顕著であった。そのフランスは今後、ソ連とも友好を保ちたいと言う意図があった為、そのソ連の後ろ盾になっている諸国と敵対関係にあるイスラエルへ、戦闘機をおいそれと簡単に引き渡せない事情があったのでした。抗議対象のフランス大使館は海岸通りにあり、学生中心のデモ隊と地中海に沈む夕日の美しさが、何とも対照的であった。 
  ホステルに着いて暫らくしたら、ベツレヘムで会った事のある日本人に再び出会った。彼とキブツ仲間のバート(Bart)の話をしていたら、そのバートが目の前に突然現れたのでビックリした。我々はここで待ち合わせをした訳でもないし、他のユースもある訳で偶然であった。夜、その日本人、バート、そして私の3人で近くのレストランへ出掛けた。ビールを飲みながら彼等と語り合い、そして色々な思い出が残ったイスラエルの最後の夜を過した。

ユダヤ教の祈り(その2)~エルサレムの旅

2022-01-07 07:47:32 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
      △正統派の女性の祈りー嘆きの壁にて

(NO1からの続き)城壁内の旧市街、オマールイスラム寺院やユダヤ教の聖地である宮の山(モリア山)を見学して嘆きの壁へ・・・

 この後、私はWailing Wall(嘆きの壁)を見に行った。嘆きの壁は、ユダヤ教神殿の唯一の遺物であり、それは中庭西側の壁だった。そして神殿唯一のこの壁は、ユダヤ人の苦難な放浪が始まってから2,000年間と言う長い間、彼等にとって最も神聖な霊場であった。嘆きの壁の前は、黒の長服・黒のズボン・黒の山高帽子を被り、揉み上げの髭をした何人ものユダヤ教信徒(正統派)が、壁に向かって泣く様な声で、しかも懸命に何かを訴えている様に祈っていた。彼等は一心不乱にユダヤ人同胞の祖国復帰と〝メシア来臨〟(救世主が現れる事)を祈り続けているのであろうか。
[イスラエルの民は苦難の歴史とその流れの中で、常にダビデ王の時代を理想と仰ぎ、懐旧の情を抱いて来た。ダビデ王への敬愛はやがてダビデの血を引く者がメシアとして現れ、民を救うとの信仰と確信に至ったのである。そしてそのメシアは、ダビデの生まれた町ベツレヘムにこそ生まれる、とイスラエルの民は期待していた]([ ]内は河谷龍彦書の「イエス・キリスト」より)。
 そう言えばイスラエルの国旗は、三角を上下二重にした星印の表示である。これは「ダビデの星」と言って、イスラエル国民はダビデ時代の再来を願い、その救世主の出現を切望している。長い放浪、迫害、そして戦いから得た彼等の望みは、ヘブライ語のシャローム(平和)であり、彼等の挨拶である「おはよう」「こんにちは」は、「シャローム」と言って、お互いに「平和であります様に」と言って挨拶に使っていた。 
  異国人、無神論者である私の様な心の不純・不潔な者は、一心不乱に祈り続けている彼等を物珍しいと言って、近づいてジロジロ見たり、写真を撮ったりするのは失礼になるかもしれないので、私は離れて彼等の様子を眺めていた。キリスト教、イスラム教、或いはユダヤ教にしろ、一心不乱にお祈りしているその姿、或いは自分の身を神に捧げているその姿は、どの宗教でも同じに見えた。彼等は真に純粋な、そして平和を愛する人々に思えるのであるが、中東を含むその周辺や世界で、如何して侵略戦争、民族紛争、或は宗教戦争が起こっているのであろうか。この中東戦争も、ユダヤ人対アラブ人(パレスチナ人)の領土絡みの戦争であり、またユダヤ教対イスラム教の宗教戦争に思えた。




  △ユダヤ教徒の巡礼者の一団の写真2枚―嘆きの壁前にて
 
 嘆きの壁を見た後、その周辺とあのオマール・イスラム寺院の間をウロウロしていたら、私が不審者に見えたのか警備兵に呼び止められ、職務質問と旅券の提示を求められてしまった。彼からすれば、私の行動が挙動不審に思ったので、任務として対応したのであろうが、私としては余り良い気分でなかった。
 旧市街のエルサレム観光を終えて、新市街へ歩いて戻って来た。ユースへ帰る途中、疲れたので歩道脇のベンチに腰掛け休んだ。そして思う事がたくさんあった。旧市街で多くの乞食や無気力者を見掛けたが、やはり格好良いものだと私には見えなかった。ベンチに暫く休んでいたら、私の目の前で一人の道路作業員が、ツルハシやスコップを使って一生懸命に作業をしていた。その男は、額に汗して働いていた。その姿を見て、『仕事は大変であるが、どんな職業でも良いから働いてお金を得るべきである』と思った。パリ滞在中、私の考え方に強い影響を与えたマサオは、「働くなんてバカらしい。金のある人が無い人に分け与えるべきなのだ。」と当然の様に言っていた。しかし与えて貰う人よりも、与える事が出来る人の方が、より人間らしいではないか。お金や物を乞うのはやはり惨めである。私はそんな事を考えていたら、一生懸命に道路工事をしている薄汚れた服を着たその作業員が、後光を照らしている神様の様に見えた。 
 ユースへ帰る途中、ある墓地の墓標の前で7人の兵士が整列していた。亡くなった兵士(戦死したのかも)の墓標の前で、兵士達がその墓標に『捧げつつ』の儀式を行っていた。最後に7人の兵士が1人ずつ鉄砲を空に向けて撃ち、そして儀式は終った。彼等が去った後、私はその墓地へ入って見た。そこはやはり戦没墓地であった。多くの墓標を見たら、皆18歳から25歳までの間に亡くなっていた。彼等は何の為に生きてきたのであろうか。いくら祖国の独立、建設、防衛の為とは言え、私と同じ歳か私より若い兵士の青春が散って行ったのである。可哀想であるし又、人生の虚しさを感じ、涙が出そうであった。又アラブ側も多くの兵士や市民がイスラエルの攻撃で亡くなっているのだ。
 私は心が重苦しくなってユースに帰って来た。早くこの中東戦争が根本から解決出来ないものか、切に願うだけであった。シャローム!

ムスリムの祈り(その1)~エルサレムの旅

2022-01-06 15:17:59 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
        △壮麗、荘厳のオマール・イスラム寺院(CFN)

・昭和44年1月15日(水)晴れ(エルサレム観光と異様なイスラムの祈り)
 今日、私は1人でJerusalem(エルサレム)観光に出掛けた。エルサレムはユダヤ教、キリスト教の聖地であると共に又、「マホメットが昇天した地」と言われ、イスラム教にとっても聖地である。 三つの宗教が共に「エルサレムは、我々の聖地である」と言っているので、必然的に宗教争いが起こるのも頷けた。中世おいてはイスラム教からキリスト教を守るための十字軍の遠征、第二次世界大戦後はイスラエルの独立に伴う第一次から第三次中東戦争、又その裏にはユダヤ教対イスラム教と言う宗教戦争でもあった。そんな事を思いながらエルサレムの観光が始まった。
  エルサレムは、新市街(New city)と昔から存在する都市・旧市街(Old city)に分かれていて、ニューシティはここ20年の間に出来上がった都市で、そこにはイスラエル人が住んでいて、街も明るく活気があった。そしてオールドシティは、城壁に囲まれていた。                     そのオールドシティに入るのには幾つかの門があり、一般観光者が入るのは『ダマスカスの門』が一番便利で、私も橋を渡りその門を潜ってオールドシティへ入った。入った途端、20世紀後半の西洋的近代文明の世界から、中世のアラブ世界に迷い込んだ様な錯覚に陥り、私は強いカルチャーショックを受けた。偏見な言い方かもしれないが、住民は彫りの深い、何を考えているのか分らない、そして取っ付きの悪いアラブ人がそこに住んでいた。勿論、街の中に車は走っておらず(車道が無い)、車以外でも近代的文明はここに無かった。道幅は狭く、迷路の様に曲がりくねっていて、所によっては地下になっていて、昼間でも薄暗かった。
 城壁内通路では羊の皮を剥ぎ取ってそのままぶら下げている肉屋、いつ採って来たか分らないような魚や野菜類が並べてある魚屋や八百屋等があった。又、オリエントらしい装身具屋や陶磁器屋、ペルシャ絨毯などの織物屋、金や銀の細い針金を使った細工物屋があり、狭い道路や通路階段まで商品を並べられていた。しかも通路は長い歴史の中から醸し出す変な臭いと商品の生臭い匂いが混ざり合って、異臭が発ち込めていた。商売人は薄汚れた汚い手で食べ物を扱っていて、全ての点で非衛生であった。ここはアラブ人だけで、私以外に他の旅行者は全く見当たらなかった。私は怖い感じがして、その様な所に長居は出来なかった。

     
      △エルサレムの城壁内のオールドシティ

 この後、ユダヤ教の聖地の中でも真の聖地、過ってユダヤ教の神殿(第一神殿)があったとされる宮の山(モリア山)の台地へ行って見た。そこからのエルサレム旧市の眺めは、正に何千年と言う長い時を経ての古都であり、そしてイスラムの影響を受けた中近東である事を強く感た。  ローマ帝国の徹底したエルサレムの破壊と2,000年以上の風雪の為か、宮の山の台地に神殿らしき形跡は、数本の柱(?)を残すのみで、全く無かった。それどころかそこには立派な、そして目にも眩しい巨大な黄金のMosque of Omar(オマール・イスラム寺院) が建っていた。詳しく言えば、黄金のドームと青と白を基調として、良くコントラストされた大理石造りの荘厳壮麗なイスラム寺院であった。この場所はイスラムの預言者・モハンマド(モハメットAC570~632)が昇天された所と言われ、イスラム教にとっても聖地でした。彼が生まれた場所は、サウジアラビアのMecca(メッカ)である。従ってイスラム教の3大聖地は、メッカ、Medina(メディナ)、そしてエルサレムなのです。
 しかしこの寺院及び周辺の観光客は、私だけであった。その寺院からコーラン(イスラムの聖典)が流れるその寺院に少し立ち入って、顔を覗かせて見た。ドーム天井は何とも言え難い極め細やかな模様で出来て、美しさが溢れていた。そして寺院の中には1,000人、或はそれ以上か、何しろ大勢の男だけの〝イスラム信徒〟(ムスリム)が前後左右接触するぐらいの間隔で、整然と並んでコーランのリズムで、一斉に立ったり座ったり、尻を持ち上げたり、頭を垂れたり、身体を前屈みに臥せたりして、一心不乱にお祈りをしてた。                                                     
 私にとって不思議な事に、彼等が懸命にお祈りしているその正面には、何も無かった。仏教であったら仏像、釈迦如来像、聖観世音菩薩等の偶像があり、キリスト教では十字架に張り付けられたイエス・キリストやマリア様の偶像があって、拝む対象物があるのだが、イスラム教には何も無かった。寺院の外観と内側のドーム天井の美は凄かったが、寺院内はガランとして、何の飾り気も無かった。これは私にとって一つの発見であった。ムスリムは偶像崇拝をしないで、ただメッカに向かってお祈りをする慣わしになっていた。いずれにしても彼等の一糸乱れずその祈るその姿、そして一心に祈る人々が放つ迫力は、初めてイスラムの本格的な礼拝を見た私にとって、神聖さを通り越して、何だか恐ろしさすら感じた。                            
私に気が付いたのか、後ろの方の数人のムスリムが、私を刺す様な目で睨んでいた。『寺院内は、外国人の私が立ち入る場所ではない。トラブルになってはまずい。』と察し、寺院から早々退散した。それにしてもイスラム教の祈りは、正に圧倒、圧巻な儀式であった。そしてイスラム寺院は観光者が気軽に入る場所でない雰囲気があった。以後、外国で宗教上のトラブルになってはまずいので、私は2度と礼拝中のイスラム寺院の中へ入らなかった。しかし寺院の見物は何度かあった。

*その2に続く(明日掲載予定)