名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

¶ キネマ倶楽部 【名作映画の判断基準】

2022年05月25日 | 日記
 映画の完成度は、プロデューサーや名優、或いは「ゴッド・ファーザー」の様に音楽やカメラに拠って決定付けられる事が多々あります。  
 
 映画芸術の良し悪しを語る場合に、「別な音楽家だったらどうなっただろうか」というのも一つの観点です。例えば「ゴッド・ファーザー」の音楽が平凡であれば、いかに名優が居並んで極め付けの演技を披露しても作品全体が締まりません。歴史に残る様な名作は、複数の藝術家の相性やチーム全体の意気込み、或いは逆に反発が不思議な効果を醸し出す事さえあります。

 作家一人の創作である小説の執筆も同じ事でしょう。どんなエピソードを選ぶか、小道具ひとつの厳選、食卓に並ぶ料理の印象、人物同士の呼吸や反発によって完成度は全く異なって来ます。音楽や絵画にも、ドラマがあり、可笑し味もあり、中心には静謐があり、無心の創作時には意識しなかった作家の基本思想が底流に流れる。名作に共通する要素は、アクシデント(偶然)とインシデント(必然)の絶妙な間合いと云えるかも知れません。

 どんな風に出来上がるか、初めに予測し計画を立てるのは当然ですが、結果は前提を超えてしまう。逆に、予想通りに出来上がった名作が無いという結果から演繹推理すると、どんな名作も不可能の壁を乗り越えて出来上がるものだと分かります。非難ごうごうと成る事を承知で本音を申し上げると、連載小説などは次元の低い文学に過ぎません。「連載小説を書くのが作家の実力だ」という評論家諸氏の意見があります。確かに計画通りにミスも変更も無く書くのは基礎的修辞能力や構成の力と云えるでしょう。が、そういう観点は文学の本質を見失っているのです。何故ならば、藝術の核心は創作途上で生じるものだからです。

 映画は撮り直しが難しいものゆえ、製作チームの集中度は言語を絶するものです。チャップリンの凄い処は、非の打ちどころなく完成した場面でさえ全て捨てて撮り直すその迫力にあります。完成作品にそういう苦労が一点として見えないところが、映画作家の力量を示しています。ゆえに完全主義者と評されました。が、御本人は「愉しんでいただけ」と云ったそうです。愉しむ人間でないと創作の苦労は乗り越えられません。別な観点では、「天才の条件は異常な忍耐力を具えた人物」と云えるかも知れません。常軌を逸した苦労や忍耐が、愉しみに昇華されてしまうのです。

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