およそ40年前、北秋田市森吉地区(旧森吉町)に農村広場公園がオープンした。センターにスキー場を配置し、麓にテニスコートを要するスポーツパークの誕生である。65年の歴史を持ち、数々のオリンピック選手を輩出した北秋田学童スキー大会、初めて農村広場スキー場での行われた際は、選手・大会関係者・父兄を含めるとおよそ千人の人々がこの公園に集まり、今では考えられない程の大イベントとなっていた。当時、地元の小学校でアルペンのエースだった私は、当然優勝を狙って気合が入り、空回りして普通の成績で終わった苦い記憶が蘇る。あ、時を戻そうってゆーか話の雰囲気をタイトルチックな感じに戻そう。
農村広場テニスコートは現在クレーコート2面ナイター設備を完備する、当時の秋田県では最先端の設備であった。当時はナイター使用する場合、役場でコインを買い、それを入れると1枚で1時間ナイターが点灯するシステムであった。オープンから数年後には森吉中学校が全県春季で初優勝&合川高校が全県総体初優勝、現在ナショで活躍中の彼もこのコートから飛び立っていった。少なからず、このコートで恩恵を受けた選手が絡んでおり、この地区のソフトテニス発展の歴史を語る上では欠かせない施設である事は間違いないだろう。しかし、ほとんどの人がある存在を知らない。かつて、ここには第3のコートが存在していた事をこの物語は、幻のコート復活に全てを捧げた人々の物語である
風の中のすーばる~、砂の中のぎーんが~(今回はこんな感じでお送りする方向です)
第3コートは第1、第2とはフェンスを挟んで存在し、唯一ナイターは設置されていなかった。ここのテニスコートの使用時間はほぼ19時から21時、学校から帰ってきてや仕事から帰ってきてからの使用がメインのため、いつしか第3コートの使用は無くなっていった。数年後、使わないコートは草が生え、もはやテニスコートがあったとは誰も想像できないほどの草むらとなっていた。時は流れ、テニスコートはクレーから砂入り人工芝へと主流が移行し、だんだん農村コートの使用が減っていく。NASTCも当初は農村でのナイター練習を行ってきたが、時代の波には勝てず、砂入り人工芝コートを探して移動していった。このままこのコートは無くなって行くのかと思われた矢先、救世主が現れる。森吉ジュニアの誕生である。NASTCが農村撤退する数年前に発足。活動を土日の夕方と設定した事により、春から秋にかけての日中使用が増加した。その後、選手数は世の中の少子化で苦しみながらも、じわじわと増加をするという奇跡的な状況で現在まで活動していき、4人で始まったジュニアは現在約30人まで膨れ上がった。選手が増える事で問題も発生した。それは練習量の低下である。練習時間を増やすべきか、農村コート以外の別会場を模索すべきか、苦悩の日々が続いた。そんな中、救世主が現れたのである
プ〇ジェ〇トエッッッッ〇ス(ホント、某国民放送さん、すみません)
この難題に立ち向かったの歴代のジュニアの父兄たちである。7年ほど前、新入部員が多く入ってきて選手のレベルの差が大きくなった。基本的には全員同じ練習メニューで行ってきたものの、上のレベルの選手には物足りなくなりつつあった。何か策がないのか?そこで当時の父兄がテニスコートの隣の敷地、かつて第3コートがあった場所に気が付く。せめてサーブ練習する程度でも出来ないかそこで、父兄が立ち上がった。草刈りをし、ローラーを掛け、ネットと同じ高さの柱を埋め込んだ。簡易的ではあったが、サーブ練習をするには問題の無いコートが出来上がった。サーブ練習のほか、初心者の練習をメインに使う事が出来た。月日が流れ、その当時のメンバーがゴッソリ抜け、第3コートを使わなくても問題なく練習できる選手数になる。再び第3コートは草むらとなり、使用しなくなった。このままこのコートは消えていくのかここで新たな救世主が現れたのである
プ〇ジェ〇トエッッッッ〇ス(某国民放送さん、何度もすみません)
ここで動いたのが行政である。毎年、ダメ元でスポーツ振興課と相談していろいろな要望書を提出させてもらっていた。農村コートはメインコート自体も砂がほとんどなく、地面がコンクリートのように固くなっていた。水はけはいいものの、前日の夜に雨が降った場合はスリッピーな状態になりかなり危険な感じでの練習を余儀なくされていた。出来れば砂入り人工芝化をお願いしたいところではあったが、北秋田市のメインコートである中央公園コートでさえそれが叶っていない現状を考えれば、砂の入替えがせめてもの要望3年前、毎度の事ながらコート改修の見積を作成し、要望書を提出した。担当者からは、毎年市に上がってくる要望は数多く、いつか実現するために出し続けることが大切であり、すみませんが今回も期待しないで下さいとの返答をもらっていた。当然、期待していなかった。しかし、事は急転する。担当レベルでは下位に位置づけされていたコート改修の事業だったようだが、森吉ジュニアや森吉中学校の安定した活躍が新聞等にも取り上げられた事もあり、上層部側から拾われる事に会議の上、大逆転でコート改修事業が採用される事となる(この辺は裏取りした訳じゃないんで、フィクション系)。その際、第3コートに関しても作り直しを要望していたのだが、予算の都合でそれは叶わず。それでも、メイン2コートは砂で覆われ、第3コートも草刈りまでは行ってくれた。光が見え始めたものの、そこで終わってしまった事により再び第3コートは練習場所ではなく、あくまでも遊び場程度のレベルをキープしていくのであった。
月日が流れ、事態は突然動き出す5/23(土)、ジュニアのグループラインに親の会から連絡が農村コートの草が伸びてきたので、父兄のみんなで草刈りしましょうとのメッセージ。ところがメッセージが送られたその日の朝、そんな空気を読まずに動いていた人物が存在する。私である。その日の午前中、予定がなかったものの、最近いろいろ家の事をやってた関係で庭の草刈りをしようと計画。新しい刃に変えた喜び(?)で、庭の前にテニスコートの草刈りを実行してたのだった。そのため、慌てて草刈り終わってますと連絡したものの、第3コートの事に気が付く。そちらには手が回らなかったので、出来ればそちらの草刈りをお願いしたいと軽い気持ちでコメントする。すると…
大事業に
完成
ネットを張って第3コートが蘇る。これで再び基本練習やサーブをメインに練習できる場所が出来た。これで終わりのハズだったのだが、ある父兄からの何気ない一言が次へのプロジェクトへ動き出す「ライン張って、本物のコート作ってみますか?」。この何気ない一言をきっかけに、とりあえず市へ再び相談する。ここまで自力でやったんですって写真を提示したものの、そちらに回せる予算が無いため今年は諦めてくれとの回答。せっかくここまで来たので、正直ラインと釘、コートに巻く砂くらいならこっちで購入で行えないかと模索している時、突然の電話がそれは、市の担当部署からのモノであった。「いろいろ策を考えたが、わずかだが砂の購入の予算は出せそう。ラインに関しては以前購入して余っているものが見つかったので、それでなんとか勘弁して欲しい。また、釘は多少短いかもしれないけど、これも他で余ったものがある。」との事こちらでの購入も視野に入れてただけに、とてもありがたい提案だった。実際、提供された物はちょうどいいだけの量があり、こちらで負担せずに作業を開始出来ると確信した。材料は揃ったすぐに親の会に話してみた。すると早速5/31(日)にライン張りするんで来れる方はご協力をとのメッセージがそして、その日が来た。そこにはジュニアが始まる1時間半前から多くの父兄が集まり、作業が行われていた
この写真のバックで「へっどら~いと、てーるら~いと、旅はまだおわら~ない~」って音楽が流れてるイメージでご覧ください
およそ40年の月日が蘇るかのように、第3コート(正式にはCコート)が復活した。ラインを張り、砂を巻き、再びローラー掛けをし、最後はこのコートでゲーム形式を行った。みんな、笑顔だった。みんな、やり遂げた充実感で満ち溢れていた。
これからも、このコートを守っていかなければならない。時代が変わり、また廃れる事もあるかもしれない。しかし、ここを愛する人々がいる限り、何度でも復活するだろう。この町でソフトテニスを愛する人々がいる限り…
長文、ご清聴ありがとうございました。このプロジェクトに関わった選手、父兄、行政の皆さま、本当に本当にありがとうございました。これから日に日に暑くなっていくでしょうけど、~挑戦者たち~としていっぱい練習しましょうね。
農村広場テニスコートは現在クレーコート2面ナイター設備を完備する、当時の秋田県では最先端の設備であった。当時はナイター使用する場合、役場でコインを買い、それを入れると1枚で1時間ナイターが点灯するシステムであった。オープンから数年後には森吉中学校が全県春季で初優勝&合川高校が全県総体初優勝、現在ナショで活躍中の彼もこのコートから飛び立っていった。少なからず、このコートで恩恵を受けた選手が絡んでおり、この地区のソフトテニス発展の歴史を語る上では欠かせない施設である事は間違いないだろう。しかし、ほとんどの人がある存在を知らない。かつて、ここには第3のコートが存在していた事をこの物語は、幻のコート復活に全てを捧げた人々の物語である
風の中のすーばる~、砂の中のぎーんが~(今回はこんな感じでお送りする方向です)
第3コートは第1、第2とはフェンスを挟んで存在し、唯一ナイターは設置されていなかった。ここのテニスコートの使用時間はほぼ19時から21時、学校から帰ってきてや仕事から帰ってきてからの使用がメインのため、いつしか第3コートの使用は無くなっていった。数年後、使わないコートは草が生え、もはやテニスコートがあったとは誰も想像できないほどの草むらとなっていた。時は流れ、テニスコートはクレーから砂入り人工芝へと主流が移行し、だんだん農村コートの使用が減っていく。NASTCも当初は農村でのナイター練習を行ってきたが、時代の波には勝てず、砂入り人工芝コートを探して移動していった。このままこのコートは無くなって行くのかと思われた矢先、救世主が現れる。森吉ジュニアの誕生である。NASTCが農村撤退する数年前に発足。活動を土日の夕方と設定した事により、春から秋にかけての日中使用が増加した。その後、選手数は世の中の少子化で苦しみながらも、じわじわと増加をするという奇跡的な状況で現在まで活動していき、4人で始まったジュニアは現在約30人まで膨れ上がった。選手が増える事で問題も発生した。それは練習量の低下である。練習時間を増やすべきか、農村コート以外の別会場を模索すべきか、苦悩の日々が続いた。そんな中、救世主が現れたのである
プ〇ジェ〇トエッッッッ〇ス(ホント、某国民放送さん、すみません)
この難題に立ち向かったの歴代のジュニアの父兄たちである。7年ほど前、新入部員が多く入ってきて選手のレベルの差が大きくなった。基本的には全員同じ練習メニューで行ってきたものの、上のレベルの選手には物足りなくなりつつあった。何か策がないのか?そこで当時の父兄がテニスコートの隣の敷地、かつて第3コートがあった場所に気が付く。せめてサーブ練習する程度でも出来ないかそこで、父兄が立ち上がった。草刈りをし、ローラーを掛け、ネットと同じ高さの柱を埋め込んだ。簡易的ではあったが、サーブ練習をするには問題の無いコートが出来上がった。サーブ練習のほか、初心者の練習をメインに使う事が出来た。月日が流れ、その当時のメンバーがゴッソリ抜け、第3コートを使わなくても問題なく練習できる選手数になる。再び第3コートは草むらとなり、使用しなくなった。このままこのコートは消えていくのかここで新たな救世主が現れたのである
プ〇ジェ〇トエッッッッ〇ス(某国民放送さん、何度もすみません)
ここで動いたのが行政である。毎年、ダメ元でスポーツ振興課と相談していろいろな要望書を提出させてもらっていた。農村コートはメインコート自体も砂がほとんどなく、地面がコンクリートのように固くなっていた。水はけはいいものの、前日の夜に雨が降った場合はスリッピーな状態になりかなり危険な感じでの練習を余儀なくされていた。出来れば砂入り人工芝化をお願いしたいところではあったが、北秋田市のメインコートである中央公園コートでさえそれが叶っていない現状を考えれば、砂の入替えがせめてもの要望3年前、毎度の事ながらコート改修の見積を作成し、要望書を提出した。担当者からは、毎年市に上がってくる要望は数多く、いつか実現するために出し続けることが大切であり、すみませんが今回も期待しないで下さいとの返答をもらっていた。当然、期待していなかった。しかし、事は急転する。担当レベルでは下位に位置づけされていたコート改修の事業だったようだが、森吉ジュニアや森吉中学校の安定した活躍が新聞等にも取り上げられた事もあり、上層部側から拾われる事に会議の上、大逆転でコート改修事業が採用される事となる(この辺は裏取りした訳じゃないんで、フィクション系)。その際、第3コートに関しても作り直しを要望していたのだが、予算の都合でそれは叶わず。それでも、メイン2コートは砂で覆われ、第3コートも草刈りまでは行ってくれた。光が見え始めたものの、そこで終わってしまった事により再び第3コートは練習場所ではなく、あくまでも遊び場程度のレベルをキープしていくのであった。
月日が流れ、事態は突然動き出す5/23(土)、ジュニアのグループラインに親の会から連絡が農村コートの草が伸びてきたので、父兄のみんなで草刈りしましょうとのメッセージ。ところがメッセージが送られたその日の朝、そんな空気を読まずに動いていた人物が存在する。私である。その日の午前中、予定がなかったものの、最近いろいろ家の事をやってた関係で庭の草刈りをしようと計画。新しい刃に変えた喜び(?)で、庭の前にテニスコートの草刈りを実行してたのだった。そのため、慌てて草刈り終わってますと連絡したものの、第3コートの事に気が付く。そちらには手が回らなかったので、出来ればそちらの草刈りをお願いしたいと軽い気持ちでコメントする。すると…
大事業に
完成
ネットを張って第3コートが蘇る。これで再び基本練習やサーブをメインに練習できる場所が出来た。これで終わりのハズだったのだが、ある父兄からの何気ない一言が次へのプロジェクトへ動き出す「ライン張って、本物のコート作ってみますか?」。この何気ない一言をきっかけに、とりあえず市へ再び相談する。ここまで自力でやったんですって写真を提示したものの、そちらに回せる予算が無いため今年は諦めてくれとの回答。せっかくここまで来たので、正直ラインと釘、コートに巻く砂くらいならこっちで購入で行えないかと模索している時、突然の電話がそれは、市の担当部署からのモノであった。「いろいろ策を考えたが、わずかだが砂の購入の予算は出せそう。ラインに関しては以前購入して余っているものが見つかったので、それでなんとか勘弁して欲しい。また、釘は多少短いかもしれないけど、これも他で余ったものがある。」との事こちらでの購入も視野に入れてただけに、とてもありがたい提案だった。実際、提供された物はちょうどいいだけの量があり、こちらで負担せずに作業を開始出来ると確信した。材料は揃ったすぐに親の会に話してみた。すると早速5/31(日)にライン張りするんで来れる方はご協力をとのメッセージがそして、その日が来た。そこにはジュニアが始まる1時間半前から多くの父兄が集まり、作業が行われていた
この写真のバックで「へっどら~いと、てーるら~いと、旅はまだおわら~ない~」って音楽が流れてるイメージでご覧ください
およそ40年の月日が蘇るかのように、第3コート(正式にはCコート)が復活した。ラインを張り、砂を巻き、再びローラー掛けをし、最後はこのコートでゲーム形式を行った。みんな、笑顔だった。みんな、やり遂げた充実感で満ち溢れていた。
これからも、このコートを守っていかなければならない。時代が変わり、また廃れる事もあるかもしれない。しかし、ここを愛する人々がいる限り、何度でも復活するだろう。この町でソフトテニスを愛する人々がいる限り…
長文、ご清聴ありがとうございました。このプロジェクトに関わった選手、父兄、行政の皆さま、本当に本当にありがとうございました。これから日に日に暑くなっていくでしょうけど、~挑戦者たち~としていっぱい練習しましょうね。
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