『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

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2023-12-20 03:22:00 | 人間(魅)力

⚫️大正デモクラシー以降の日本人

 

過去に傷付けられた自認トラウマや、他人から認定(心理学・精神医学)されたPTSDによって、

自ら自分を被害者に認定した人びと、普通の健常者のように厳しい世界に直面できないからといって思いやりを求める人びと……

彼らは、「民主主義」というものを上から賜り、「権利」を主張することを覚えた、にわか民主主義者とどこか似ている処がある。

 

明治の民衆は、彼らとは全く異なっていた。

明治人の特徴は、愚痴を言わない処にある。(何故なら、人生受け身で生きていないからである)

中村天風の「絶対積極」は、明治人の生き方を踏襲したもののように思える。(たぶん、それが人間本来の自然な生き方なのだろう)

 

【中村天風の師匠・頭山満翁の書】

 

 

日本人が、「弱くったっていい、人間だもの」と赤裸々に自分の弱さを語るようになったのは、

大正デモクラシー以降

のことなのである。(「偉大なる」太宰治あたりから)

明治以前の日本人に、被害者意識はあまりなかったようだ。出来ないのは自分であり、他人に救いを求めなかったし、そういう自分の現状を愚痴ることはしなかった。(言い訳は恥という感じ方じゃないかな)

 

これは私見だが、「小さい獲得」に一心不乱な人は、その他のものが得られないことには鈍感である。(たとえば、貯金で目標金額を設定している人は、節約によって他の幸せが手に入らないからといって、落ち込んで不幸になることは少ない)

つまり、明治の人は、獲得や達成に一心不乱であったと言える。それは、命懸けの志だったのである。

 

明治の孫である昭和世代は、そんな強靭な意志に憧れたわけですよね。(到底及ばなかったわけだが)

自分を奮い立たせて、あくまでも前向きに挑む人は、できなくても世間とはそういうものだと割り切って【前後際断して】、けっして受け身になって保護を求めたり、当然のごとく他者の思いやりを期待したりはしないものです。

究極の現実主義者というのが、明治人をいいあらわす言葉であろうか。

 

自律で生きる人は常に現在(現実)を相手にして前向きで、

受身(=他律)で生きる人は過去をくよくよ引きずってループさせる、そんな印象を抱いております。

__ 明治人が、愚痴や言い訳しないのは、徹頭徹尾自分を信じていた(自ら恃む)からであろう。

たかだか100年前の日本人はそうであったことを忘れてはなるまい。

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⚫️ドラマ『いちばんすきな花』を観て感じた、女による男の運用ミス

せっかくの、人間付きあいの「微妙な境界」を扱った珍しい種類のドラマが、藤井風の弾き語りが入ったことで台無しになってしまった。

この人は、日本人なら誰も合わないインド🇮🇳にバカ嵌りした珍しい個性。「GRACE」の動画は、地方の普通のインド人を描いていて、当のインド人から評判がいい。(実に素的な表情をしている)

この伝で、ドラマの主題歌「花」の藤井自身によるMVは、ドラマにそぐわない毒毒しいもの。

砂漠に棺桶⚰️、禍々しいまでに美しい原色の毒華に霊柩車……  自分さがしの旅、「内なる花」とは本当の自分であろう。

考察動画のコメント欄📝に、平野啓一郎の「分人主義」を挙げている人がいた。

本来の自分などという固定された確固たるものは無くて、他人に合わせて発露するそれぞれの自分が、本当の自分であるという注目すべき思想。

ヒンドゥー🛕のアートマン(個我)ではなく、分人とは仏教の「無我」に近い、つまり無常である。

それにしても、

藤井風のあの雰囲気(根源的な野生)で、ドラマにインサートされたら、ぶち壊しですよ、せっかくいいテーマ曲なのに。

 

この演出ミスを残念がっていたら、サイコパスおじさん・岡田斗司夫の云う「男の運用ミス」にもリンクした。

人間という霊長類のデフォルトは、女(雌性)であるということ。

現代の女(おそらく平成以降)は怖気づいてしまって、男と対等に付き合ってしまった。

人間社会において、その男を受入れるか(その男の子を産むか)を最終決定するのは、いつも女である。

 

また、偉大な人物たとえば、

釈尊を産んで育てたのも、女性である。

菩提樹下で瀕死の釈尊を大悟にみちびいたのも、女性である。

つまり、釈尊は女性の分身であると、そういうことなんじゃないかと思います。

女性は全体で、本質的には何も変わらないのでは。

 

女性が本来もっていた、その本能的な智慧を、不自然な現代生活が根こそぎ変えてしまったのだと思われます。

智慧は 思考の結果ではない。

[※  魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か〜 より]

 

女性は色々捨てて、思考を選んだということかな。

> 幸せ以上のことを求める者は、人並みの幸せが得られないからといって嘆いてはならない。(カール・ヒルティ)

…… ヒルティが言及しているのは、厳密には法悦(神人合一)のようなものを求めるキリスト者のことを指しているのだが、

神理に熱中する男性であっても通じそうだ。

女性はつまるところ、現実の「人並みのしあわせ」を求める者なので、形而上学へ向かうのは男性ということになる。

男は歴史上、つねに「おひとりさま」であることを余儀なくされることが常だったものだが(群れのボスになれなくて、あるいは役に立たなくて、群れから追放される)…… 

現今は、女もまた「おひとりさま」が激増している。

人類の大いなる叡智(=智慧)は、母娘のあいだで伝承されなかったのであろう。

男は相変わらずだが、女が様変わりしたのが、現在の少子化の根本原因であろうと思う……  いや、決して女を責めているわけではない。

そうしたい女の自由をさまたげてはいけないだろう。

ただ、それに気づいている女性が少ないのではないだろうか。

もう一度云う、人間のデフォルトは女である。

 

昔の男は、公の席では女の悪口は言わないものだった。

しかし、最近は女性に対して容赦ない一部の人人がいるようだ。この漫才も、笑いに紛れて痛烈に本音を吐露しているかのようだ。

いまが旬の漫才(M-1グランプリの敗者復活戦より)をひとつ、ご紹介しましょうか。

こりゃ、毒舌漫才のウエストランドより天下晴れている、どうぞ♪

 

__ 可愛らしく、ふところに入って、社会的なエクスキューズ(礼儀)は抜け目なく踏まえておくんだね、

この動画は、最後の不意の爆発音が神がかっていますね。女が納得するのは理屈(思考)じゃないんですよ。

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⚫️ 酒井玄蕃(庄内藩)のひととなり拾遺

 

先だって、NHKの磯田さんの番組『英雄たちの選択』で…… 

幕末最強!庄内藩の戊辰戦争〜徳川四天王・酒井忠次の遺伝子🧬

ということで、酒井吉之丞(玄蕃・げんば)が取り上げられた。(『歴史秘話ヒストリア』に続いて二回目)

▼ 関連記事リンク 《玉断》 庄内人らしく〜 悲劇的によく出来た名将 「酒井玄蕃」

 

番組の内容は、ほとんど既知のことで目新しいものとてなかったが、

あの当時の、徳川譜代としての「武士道」や豪商・本間家の莫大な献金で当時の最高峰の軍備を敷けた有様を、くわしく全国に知らせてくれたことと思う。

 

酒井玄蕃了恒・のりつね)といえば、文武ともに頗る秀でて、なんでも出来る御仁である。

新九流剣術・重正流馬術免許皆伝、長沼流兵学、漢詩、書、雅楽、笛…… と、なんでも御座れで文武を極める。「戊辰役二十絶」が知られている。

早熟の天才である。戊辰戦争で庄内藩・二番大隊を率いたときには、わずか26歳であった。

おまけに仁徳も備わっていると来ているから堪らない。

徂徠学が盛んで、自由で批判的精神の豊かな城下町・鶴岡である。

鶴岡衆(つるおかしょ)は、人を評するに文句から入り舌鋒鋭く欠点をあげつらうのが常だが…… 

そんな鶴岡衆にも、陰口をたたかれることなく、初手から諸手をあげて褒められる人傑が、ただ御二方いらしたそうだ。

ひとりが坂尾清風(藩校「致道館」の儒学者)、

そしていまひとりが酒井玄蕃である。

御二方ともに、その夭逝をいたく惜しまれた。

 

庄内武士の表芸は武芸、裏芸は「庄内竿による磯釣り」であった。じつに風流なところがあった、そのへんは映画『たそがれ清兵衛』によく描写されていた。

庄内藩は、「沈潜の気風」といわれた。質実剛健ながらも、一言でいって暗いのである。

そんな庄内藩にあって、若き侍大将・酒井玄蕃は誰からも後ろ指を差されずに、ひとしく敬愛されていたというのだから、恐れ入る。

 

ただ、そうせざるを得ない一面もあった。伯父の酒井右京(庄内藩家老)はお家騒動の末に切腹したのだが、当時の藩主・忠篤公はその累を若き日の玄蕃にまで及ばせなかった。深く信頼されていたのである。

この忠篤公から賜った御恩に報じるために、後年病いをおして清国へ密偵として潜入した。

忠篤公が、留学先のドイツ🇩🇪から帰朝なされたときに、援護できるように新政府の兵部省で功績を上げておきたかったのであろう。

この無理がたたって病死する。(毒殺説もある

享年34歳、駆け抜けた一生であった。

「敬家」と呼ばれる、庄内藩主酒井侯の分家筋にあたる、名門に生まれた玄蕃は常に庄内藩を背負って生きていたのである。

現在でも、鶴岡市は度外れて民度が高く、気難しい土地柄なんだけどね。

 

庄内藩酒井家は、徳川家康と先祖を同じくする三河武士の雄で、幕府の北の守りを任せられた責任感の強い藩である。(まわりは、強力な外様大名に囲まれていて、北の砦と言える藩である)

徳川幕府から任された使命のおおきさに常に直面して、泰平の世ながらも徳川四天王として、独特の「武士道」を保持しなければならなかった土地柄でもある。

幕末の庄内藩は、江戸市中取締役(現在の警視庁のようなもの)を仰せつかっていた。

京都の市中取締りにあたっていた会津藩・松平家(藩主容保は京都所司代を勤めた)も徳川親藩で、庄内藩酒井家と同じような立場にあった。

「会津は、東北じゃないんです」(井上ひさし・談)

会津藩の伝統文化や住民の意識が中央だという意味で言ったものらしい。

会津藩と庄内藩、このニ藩が戊辰戦争で最後まで新政府軍に反抗した。

 

酒井玄蕃が、先祖代々襲名してきた、この「玄蕃」という名前は、軍事を司る職掌を指しており、いわば「軍師」のような役回りを酒井玄蕃家では任じてきたというわけである。

そんな軍事のお家柄に生まれ、何事にもストイックに「武士道」を追求し、士道覚悟を強いられてきた玄蕃は、さすがに鎧兜も超一流品を所有していた。

武田信玄公の御兜は、「諏訪法性の兜」と称されて、甲冑師歴代日本一といわれる名人・明珍信家の作である。

(明珍家は、近衛天皇から「明珍」の名を賜った。鉄の含有量の多い、いたって堅牢な兜を仕上げた。甲冑師5家では最強の頑丈さを誇った。明治の天覧兜割りには明珍の兜がつかわれたために、豪剣・榊原健吉のみがよくそれを成し遂げたわけである)

【信玄公の諏訪明神法性兜、頭頂にはチベットのヤクの毛、獅子頭の前立てに、吹返しには武田菱(家紋)が刻まれている】

 

果して、酒井玄蕃の兜は「大圓山(だいえんざん)星兜」と称して、兜の吹返しに家紋(三ツ葉葵)が刻されている。

そして、これもまた明珍信家の作なのである。

さすがは玄蕃、最高級ブランド品を持ち合わせているものだ。

兜の姿は、法性兜をベーシックにしたもので、獅子頭の前立ても同じ、デザインフォルムも同じである。(残念ながら写真はない。酒田市の「松山文化伝承館」で展示されている)

玄蕃の鎧は、櫛引町(現・鶴岡市)黒川の「春日神社⛩️」に奉納されている。

ただ、戊辰戦争のときに玄蕃がこの鎧兜を着用したかどうかは定かではない。

 

 

__ 最後に、

司馬遼太郎がそのライフワーク『街道をゆく』で、いよいよ東北編に着手しようというときに、本当は庄内地方から書きたかったのだが、どうにも庄内が描けないので、その言い訳を長々と書き記して、ついにあきらめて秋田県から執筆している。

実に正直な司馬遼太郎であり、その直感は正しかったと私は思う。(そうだよなあと私も溜め息をついた)

その言い訳がすこぶる傑作で、庄内というものをよく表しているので引用しておきたい。

 

『街道をゆく』29巻、「秋田県散歩」の冒頭の見出し「東北の一印象」より

> そういう東北へゆく。

どこへゆくべきかと地図をひろげてみたが、なかなか心が決まらない。

ただ、気になる土地がある。
庄内である。
都市の名でいえば、鶴岡市と酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、

上方文化の滲透度が高かった。

その上、有力な諸代藩であるために江戸文化を精密にうけている上に、

東北特有の封建身分制の意識もつよい。


いわば上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
この『街道をゆく』を書きはじめたときから、庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。

 

このところ、この紀行の係がかわった。藤谷宏樹氏から、若い浅井聡氏になったのだが、このひととどこへゆこうかなと話しあっているうちに、

「庄内」

ときめた。が、数日経って、どうもまだ自信がないと思い、庄内も津軽もあとだ、と浅井氏に言いなおし、広大な秋田県地図を撫でつつ、

「ここにしましょう」

といった。べつに理由はない。

古代以来、一大水田地帯だったし、江戸期には杉の大森林と鉱山のおかげでゆたかでもあって、他の東北にくらべると、いわば歴史がおだやかに流れつづけてきた県である。

おそらく気分をのびやかにさせてくれるにちがいない、とおもったのである。

 

…… 末尾に「庄内も津軽もあとだ」と言った意味は、

「東北の一印象」の冒頭でこう云っているからだ。

> ひさしぶりに東北の山河や海をみたいとおもったが、どこへゆくというあてはない。

津軽は、かるがるとした気持ではゆけそうにない。

 

…… つまり、厄介な庄内と津軽は後回しにすると云う意味なのである。

私は、司馬遼太郎に高く評価されているようで嬉しかった。司馬の史観が精緻なのに今更ながら驚いた。

庄内に半世紀住んでいるが、わたしもいまだに皆目分からない土地柄ですよ。

山形県の内陸部(最上義光公と近江商人の影響)とも、秋田県羽前地方とも、はっきりと異なる風土である。

わたしは、上掲の司馬遼太郎の指摘の外に、西暦700年代に渤海国から庄内に一千人規模の移住者がいたという史実にも深く関係すると考えている。(庄内町の狩川にある小野塚のタタラ製鉄集落が怪しい)

司馬が「上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。」と言っているのは、西郷さんとの付き合いを言っていると解釈する人が多いのだが…… 

私は、司馬の著した清河八郎についての中編『奇妙なり八郎』で、よく書き切れなかった経験を踏まえての尻込みだったのではないかと思う。

「回天倡始、維新の魁」といわれる清河八郎が、勅状を賜わった結果、500人規模の浪士を動かせる段階にまで到達したというのに、行動に打って出ることを何故か躊躇い、暗殺者の忍び寄るに任せた、あるいはそれを待ち望んだような素振りのあったことに説明をつけられなかった。(おそらく幼時の、近しい村民が自分の行動によって斬首に追い込まれたことへのトラウマに依るのではないかと愚考する)

▼ 関連記事リンク   《玉断》 庄内人らしく〜 回天の魁、 ド不敵なニート 「清河八郎」

それは、板倉勝静(老中首座、松平定信の孫)の述懐「奇妙なり、八郎」をタイトルにしていることからも窺える。

大阪人でジャーナリストだった司馬遼太郎は、東北人に特有の引っ込み思案や天然の純朴さの如きものについては、把握・共有し切れないところがあったのではあるまいか?

まして田舎の商家(豪農にして造り酒屋)の長男で、武士ではなく郷士であってみれば、庄内藩における微妙な立場もあり、尚更分かりにくかろう。

清河八郎の庄内人らしいエピソードも紹介しておこう。

 

ひとりは、清河八郎の実家・齋藤家のご子孫(八郎の妹御のご子孫)、フランス文学界の大御所だった齋藤磯雄の八郎観である。

文壇では豪傑として鳴らした御仁であるらしい。

[※  澁澤龍彦『日本作家論集成(上・下)』では、「齋藤磯雄」の一章を設けるほどに尊敬していた。二人はしかし相見えることはなかった。澁澤は「会っておくべきだった」と酷く後悔なさっていた。例えば齋藤磯雄が、ラ・ロシュフコオ『箴言録』を訳してしまったが故に、後進が恐れて新訳を出せなかったほどに、圧倒的な翻訳力(詩的な調べも実現した)で知られていたらしい。酒田市の図書館に、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』(齋藤磯雄全訳、三島由紀夫から激賞される)が所蔵されている。]

「刻苦 自ラ 純情」

といふ八郎の感懐(安政3年作、『秋風吟』より)がある。

奉母西遊草を読み了った者は先づ、この語の空しからざるを覚えるであろう。

八郎は断じて、稗史野乗劇小説映画テレビに見るやうな、幕末の風雲に乗じた粗放の一豪傑ではない。

八郎の変幻自在な行動の由って来るところは遥かに世俗の視野を超えた彼方にある。

[※  東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の’ (齋藤磯雄)より]

 

 

 

八郎の人間性の特質は、豪放な一面、多年心にかけていた奉母旅行を実現し、それを克明に記録したところの濃やかな愛情である。

[※ 私注;いつもは漢文で日記をつける八郎であったが、『西遊草』は母が後日読み味わえるように和文で筆記した]

宮島(広島の厳島神社)は聞きしにまさる見事なりと、母の喜びしに、吾これまで遠くいざなひ来たりし益ありと心に喜び、別して酔ひをなしぬ(五月十九日)

となるように、母の喜びを我が喜びとする八郎の姿は実に尊いものである。

> この旅行中、八郎は実によく人に慕われた。

八郎は「愛情の人」

八郎の人間尊重の精神を挙げておかなければならない。

・下婢に帰らる(四月八日)

・馬方話されき(四月二十一日)

・野天は語られき(五月二十九日)

というような言葉の端々にそれが窺われるのである。

[※東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の解説’ (小山松勝一郎)より]

 

文武両道の私塾を開くほどに出来た清河八郎の、「易」を中心軸においた漢学のレベルは、東大大学院並みの教養がなければ読み解けない難解さであるそうだ。(そのために、未解読の文献が膨大にある)家紋も易の八卦紋を使うくらい凝っている。

幕末最強の武力を誇った庄内藩も、薩長中心の正史からは抹殺されている。まったくもって、西郷さんの「王道」に藩を挙げて歓喜したり、西南戦争には加担しなかったりと、幕末明治の庄内藩は傍目から見れば支離滅裂である。(内実は、士道の筋が通っている)

司馬遼太郎はまた、庄内人のすこぶる旺盛な批判精神にも身構えたことであろう。まるで王者の如く威風堂々とまくしたてる処があるからなあ。(大川周明、石原莞爾、最近では渡部昇一や佐高信もそうであろう)

『街道をゆく』では、最後まで「庄内」を書くことはなかった。

司馬遼太郎はつくづく慧眼だと思ったことだった。

      _________玉の海草

 


 酒田に いちから 「南洲神社⛩️」 を建てた人〜 長谷川素山のこころざし

2023-10-12 19:55:02 | 人間(魅)力

酒田にある南洲神社⛩️

 

 

わたしたち庄内人にとって、明治初頭に旧・庄内藩士が編纂した西郷さんの唯一の語録  『南洲翁遺訓』 には、特別な想いがある。

西欧列強が日本を餌食にしようと、鎖国を破って侵入してきた時代……

徳川幕府の北の砦・庄内藩では、他の外様藩とは自ずから違う覚悟が求められた。

徳川四天王筆頭の酒井忠次を先祖に戴く庄内藩は、徳川親藩(徳川家と酒井家とは親戚)としての生き方と同時に、日本という国体としての生き方という二つの狭間で、真剣に迷い戸惑っていました。

それは、西洋と東洋との生き方(人生哲学)の相剋でもあった。

徳川幕府では、官学として朱子学を定めていました。

それなのに、彦根藩と庄内藩のみは、特に願い出て「徂徠学(古文辞学)」を藩を挙げて学んでいたのです。

[※  徂徠学=古い辞句や文章を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問

そうした、独自の取り組みから庄内藩独特の矜持が生まれ育ったのです。

 

幕末の戊辰戦争で、徳川親藩の庄内藩は幕府軍最強を誇り、徳川幕府と心中する覚悟で、最後の最後まで官軍に抵抗しました。(徂徠学による藩校教育は、庄内藩士を自分の裁量で自発的に学ぶ、戦場にあっては自分で判断して戦う兵士を養成しました)

しかし、時代の趨勢には勝てず、会津藩の降伏に伴って、無敗を誇った戦果のままに、降伏を受け入れたのです。

このとき、おそらく庄内藩士は絶望の淵にあったことと思います。いままで築き上げてきた武士の世の中が転覆するのです。そればかりか、官軍による横暴と他国による侵掠にも備えなければならない。

そんな切迫つまった時代でした。

庄内藩代々、徂徠学を探究して練り上げてきた「武士道」を棄てざるを得ない状況でした。

おそらく、すべてを諦めて決意した、官軍への投降であったでしょう。

 

下手すると、武士の意地から玉砕覚悟の最終戦すら辞さない庄内藩士に、丁重に向かい合ったのは、西郷さんの意を汲んだ黒田清隆でした。

黒田は、型通りに城の明け渡し交渉を終えると、上座から降りて、藩主の酒井候を上座に迎えて低頭したということです。(予想に反して、刀や武器も取り上げられることなく、そのままで許されました)

この、見事な武士道ぶりに瞠目して拍子抜けしたのは庄内藩士の方でしたでしょう。

 

🏯の明け渡しに、一筋の光明を見つけた庄内藩士は、後々までこれを覚えていて、ある時上京した折に「あのときの御礼」に黒田卿の下に参上することにしました。

そして、あの丁重な明け渡し劇の裏に、西郷という大人物の意向があったことを初めて知るのです。

 

庄内藩士たちは、西郷さんのその振舞いのなかに、自分たちが追い求めていた 「 王道 」 を見出したのですね。

嬉しかったことと思います。

もはや武士の世も終焉して、覇道の世の中になりそうな時に、王道的振舞いをする、亀鑑とすべき「最後の武士」を見つけたのですから。

 

新政府の明治が始まってまもなく、「明治六年の政変」で西郷さんは鹿児島へ下野します。

その西郷さんを追って、彼の創設した私学校で学ぶために、旧・庄内藩士たちは遠路はるばる西郷先生のおられる鹿児島までおもむきました。

旧藩主を筆頭に76人規模(全庄内藩士3000人から選りすぐった)で研修訪問したこともありました。

いわば、藩を挙げて鹿児島へ留学したのである。誇張抜きに言うが、生命をかけて学びとったのである。

そうした際に、肌身で感じた西郷先生の御姿を記憶して、庄内まで持ち帰って、元家老の指導の下に「語録」にまとめたのです。

不幸にも「西南戦争」の末に、西郷先生は国賊となってしまったために、そうしてみんなの耳目で集められた西郷さん語録も公開されないままに、旧庄内藩内で秘蔵されて、有志のあいだで勉強されて来ました。

 

西郷さんの語録は、沖永良部の牢獄生活でのものなど数少ない例をのぞいて、ほとんど後世に伝わっていません。

庄内藩の編纂した『南洲翁遺訓』が、西郷さんの生の口吻に触れることの出来る、まとまった唯一の第一次資料なのです。

三代目理事長・小野寺時雄翁は、仰っていました。

 

「荘内の先人たちが、直接(西郷先生へ)ききたかったことは何だったのか。

(後世の私たちに)遺したかったことは、何だったのか。」

 

つまり、庄内に生きる私たちは、『南洲翁遺訓』によって、

・ひとり偉大な大西郷の思想に触れるだけでなく、

・庄内の先人たちからの遺言(メッセージ)をも受け取ることのできる、

私たちだけの特別な読み方が可能な書 でもあるのです。

徂徠学で鍛えられた庄内藩士が、大西郷にひるむことなく、学人として対等の立場から放った真摯な質問によって、大西郷の深淵さが初めて世に露われたのです。

どんな気持ちで、それを西郷さんに訊ねたのか、その庄内藩士の底意をも私たちだけは学ぶことができるのです。

[※  例えば、荘内南洲神社建立に多大なるご貢献をされた澤井修一氏は、荘内藩士・戸田務敏のご子孫である。『南洲翁遺訓』には質問した荘内藩士の名前は記載されていないが、この条はどの藩士が西郷先生からご教示賜ったものか判明している。身近なご先祖がたが質問したものを結集して編集した集大成が『南洲翁遺訓』に成っているのである。]

聖賢の学を修めた、西郷さんの思想的な深みを世に知らしめたのは、他ならぬこの『南洲翁遺訓』であります。

小野寺理事長は、庄内藩士の先人たちのことを敬慕して、「荘内の大先覚者たち」と称えておられました。

 

 

荘内南洲会も、三代目理事長・小野寺時雄の執筆なされた『南洲翁遺訓に学ぶ』をもって初めて、長年研鑽を重ね講究してきた『南洲翁遺訓』の解説書を上梓するに至る。

長年の念願であった手引き書は、荘内南洲会の創始者・長谷川信夫の遺志(草稿と詳細な資料)を継いで、三代目の小野寺理事長が成し遂げられた。

荘内南洲会ならではの見解も、少なからず存在する。

[※  長谷川信夫『西郷先生と荘内』等参照]

『南洲翁遺訓』の原文に、逐一意訳と講究を添えるという学者並の労作を書き上げて世に問うた。

もう、これだけの見識をもった人物はあらわれないかも知れない。(荘内南洲神社の創立メンバーは、皆が日本農士学校卒で農業エリートであった。南洲会初代理事長・菅原兵治先生は元・農士学校長・検校だし、二代目・三代目理事長はその教え子である。それぞれに漢学の素養が豊かであった。)

 

 

そんな小野寺理事長が、「知己を300年の後に待つ」ために、南洲会員に寄付を募って、神社の境内に「銅像」を建立された。(小野寺理事長は、私費で300万円を寄付されている)

[※  上掲の写真では、鳥居の奥に、西郷さんと菅実秀(庄内藩家老)とが対面する坐像(銅像)が見られる。同じ銅像が、西郷翁の武邨(たけむら)の生家跡にも建立されている]

小野寺翁の気概たるや、ブラジル🇧🇷300年で完成予定の計画都市ブラジリアみたいな規模なんですね。

ある日に真顔で言ったんです、「銅像って、300年もつんだよ」

西郷さんの真精神に感応する人がいまはおらなくても、これから300年間のうちには誰か気づいてくれるのではないかと仰るんですね。

こんな銅像を建立するくらいに熱く西郷南洲翁を語っていた時代が間違いなくあったんだと感応できる人が必ずや現れると。

そのために銅像を建てるんだと。

『南洲翁遺訓』にも「誠篤ければ、たとい当時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし」と南洲翁が言っておられる。

 

 

今年の6月末をもって、新しい五代目理事長を迎えて、理事や評議員を総入れ替えして、荘内南洲会も刷新された。

五代目理事長は、三代目理事長のご子息である。

公益財団法人の仕事も、なかなか資金調達できなくて、運営も難しいらしい。もともと、山形相互銀行🏦(現;きらやか銀行)の肝入りで金銭的援助も受けながら存続してきた(二代目長谷川理事長と澤井頭取が親友だった)のだが、その資金を切られてからは、運営に支障をきたすことが多くなった。

理事長やキャストの給料も間々ならないような経理状態なので、引き受け手もいないのが実状である。

それで、ある強い覚悟をもって、五代目は全面的に引き受けてくれたものらしい。無給で奉仕してくれるそうだ。

 

ただスタッフが全面的に刷新されたものだから、どこまで従来の活動を継続してくれるかは皆目分からない。

まさに、三代目が予見した未来図が現実化しているのかも知れない。

 

元の理事や評議員の方々も、その強引なやり方に辟易して、どうやら南洲会の会員まで辞めて、完全ノータッチを決め込むようだ。

こうした地方に根付いた(無形の)精神文化を継承する場合、一緒にやるメンバーが好きだの嫌いだのは、本来関係ないはずである。

後世に遺すべきだから、継承するのだ。そこに私心はないはず。

それが伝統というものである。

体制が変わったからといって、会員(荘内南洲神社の氏子)資格まで全て放棄するなどとは、本来文化の担い手が取る手段ではあり得ない。

こういう、一時の感情にまかせて一気にすべてを思い切る辺りが、酒田に文化が育たない、そして根付かない原因ではないかと思う。

街おこしとか観光資源とか「お金を生み出すもの」にしか関心が向かない傾向があるようだ。

そもそも南洲翁への景仰は、鶴岡市(=庄内藩)の精神なのであって、酒田人の知る処ではなかったものなのだが。

長谷川信夫という傑物が顕われたのが酒田だったのが悔やまれる。酒田も本来は、平泉の奥州藤原氏の系統を継ぐ「浄土系」の街づくりが為された宗教的な土地柄なのである。いまも浄土門の寺は多い。

門徒の結束の堅さは、信長をも悩ませたはずなのに、何故か仲がわるい。昔、日本海有数の遊郭が栄えた怨念でも残留しているのだろうか?

酒田という湊町は、利に流れて、すこぶる纏まりの悪い土地柄なのである。(我よしの縄張り争いが烈しい)

文化の継続とは、華やかで派手なものではなく、地道で険しいものである。

ただ、そういう軽いノリで参加している心情(人間のサガ)を見抜いて、300年の計を立てた三代目理事長はつくづく慧眼であることよ。

 

 

荘内南洲会は、酒田市在住の長谷川信夫翁が一念発起されて、日本農士学校🏫の安岡正篤先生の助力を仰ぎながら、酒田の地に、いちから西郷南洲翁を祀る神社を創建なされたところから始まる。

【長谷川素山先生の遺稿出版本📕『西郷先生と荘内』より、著者ポートレート。大正2年8月24日生れで、平成9年8月24日歿(1913〜1997年)、天寿満84才。

岩波文庫版『西郷南洲遺訓』を日本で一番多量に購入なされた人物であろう。その数、生涯でおよそ 25,000冊 超。

すべて素山先生のポケットマネーで買って、南洲神社⛩️参拝者に無料でお配りした。南洲会館に所蔵している西郷さんの真筆も、何百万円もするものを何幅も集められるだけご自分の給料から捻出して買い求めた。だから、質素倹約して衣服も持ち合わせていなかったのである。】

 

昭和51年(1976)の事だから、まだ歴史は浅いのだが……

長谷川信夫翁の熱誠は、本家の鹿児島だけではなく、沖永良部の和泊や都城市の人びとの心を動かし、南洲翁への敬愛の火をともして回ったのである。(毎年、人を募って、庄内から鹿児島県を訪ねる「西郷先生の遺徳を偲ぶ旅」を挙行した)

[※  この長谷川素山(信夫)先生は、ほんとうに対話するのが面白くて、私みたいな若僧にも襟を正してお相手してくださる、寛容で胆力のある古武士のような御仁でした。背筋がピンと伸びて、坐禅も参禅されて見性しておられました。ご子息を逆縁で亡くされており、西郷さんには本当に救われたのだと思います。

いつお会いしても和服姿なんですが、南洲会館で毎月行われる「南洲翁遺訓の講究会」で身につける一張羅の羽織袴と、普段使いの単衣の着物、この二枚しか衣服を持っていないのです。すべての報酬は、西郷先生の墨蹟や関係文献を求めるためにお使いになっていました。完全に突き抜けた、涼やかな佇まいをしておられました]

【『財団法人荘内南洲会 三十年のあゆみ』より、講究会はいつもこの一張羅の羽織でした】

 

そして、それぞれの地で南洲神社が建立されていった。

現在、「南洲神社」は鹿児島を筆頭に5社を数えるまでになっている。

【西郷さんの「敬天愛人」の書。鹿児島で揮毫されたものは、右から横書きの一行書きで、荘内では右から縦書きで二行書きなされたようです。】

 

 

 

■ 西郷南洲翁に出逢う以前の、佐幕の雄藩であった

庄内藩に醸成されていた独自の藩風

 〜幕末最強の庄内藩を生んだ、藩校「致道館」教育について〜

参考テキスト📘 ;
「現代ビジネス」講談社HPより
河合敦〜幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか? 〜


江戸時代のエリートを養成した教育システムとしては……

薩摩藩の「郷中教育」

会津藩の「什の掟」

とがある。

> 前回紹介した二藩(薩摩・会津両藩)がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、

庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

> 文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。
そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、
具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。

> (致道館の)初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)
と依頼したのである。
原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。



「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが  致道館の方針 
だった。

 

いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

> …… 戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、
一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

> 徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、

荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間 を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

【現在の「致道館」でも、「庄内論語(徂徠学による読み下し)」や「小学」などが学ばれている】

 

 

__ まーかくの如く、庄内藩の「自由すぎる学制」に、河合先生も驚かれたのである。
庄内の当時の領民は、江戸時代の打ち続く飢饉のおりにも、酒井の殿様が積極的に動いてくださって餓死者が出なかったことを恩義に感じている。
それに応えるよーに、庄内藩でも徳政を心掛けた。
豪商本間家を間にはさんで、封建制がうまく機能した。
庄内藩の方針を示す「易の卦」がある。「地天泰」の卦で、下からの動きが上(天)に通じて泰らかとなる。
いまでも、酒井家のご子孫は「殿様」と呼ばれている。
出羽三山神社の氏子総代⛩でいらっしゃるし、正月の三が日には鶴岡の政財界のお歴々が挨拶に訪れるそーである。
現在の「荘内銀行」にしても、「松ヶ岡開墾所」「山居倉庫」にしても、酒井家が明治時代に殖産事業に力を入れて実った成果であるからだ。
庄内の、一風変わった風土は一日にして成らず、先人・先覚たちの弛まぬ努力の賜物なのである。
小さな地方都市として、鶴岡市の文化度の高さは異常である。
文化人や大学教授も多数輩出している。
鶴岡が京都とすれば、酒田は大阪に相当する。
鶴ヶ岡城(鶴岡市)と亀ヶ崎城(酒田市)とが、陰陽となって、庄内を盛り上げて来た貴い歴史がある。

                      _________玉の海草

 

 


 岡本太郎と言葉を交した〜 魂のイニシエーション

2023-09-15 02:40:03 | 人間(魅)力

__ 若くてまだ心身ともに柔らかい時期に、「この人こそ真の人間」という人物に出逢うことは、邂逅ともいえる最大の慶事であろう。

わたしは、二十歳のときに岡本太郎と対峙した。ことばをやりとりした、わたしは何かを覚ったのである。

 

そのときの様子を書き記しておこう。岡本太郎の直接の風韻を伝える人びとも少なくなっている。

彼が何物なのか、芸術家とは何なのか…… 

わたしは、あのとき以来、詩人の魂(=アーティスト魂)を忘れて過ごしたことはない。

 

時は、1980年代初頭、わたしが足繁く大阪の中之島図書館に通っていた時分に…… 

岡本太郎が、大阪にやってきた。

梅田の「ナビオ阪急」で個展と講演会をするために。

わたしは当時、大阪の英語の専門学校に通っており、なぜか不思議と惹かれて意気投合した同級生(二つ年上だったが、誕生日が同じだった)とともに、まず個展を見に出かけた。

 

その同級生は、和田さんというのだが、彼と私は互いに忌憚なく批判精神旺盛なままに、存分に言い合う仲であって…… 

まるで、ちょっと「世界的な芸術家である岡本太郎(の作品)」でも見てやるかといった気分で、わりと狭い空間の個展会場へ入っていった。

おのおの、美術関係の素養は豊かで、それなりの見識もあったので、しずかにたんたんと作品を見て廻った。

そうしているうちに…… 

ざわざわと観客が列に並びはじめて、岡本太郎が来場した旨の場内アナウンスが流れた。

「おっ、本人が来たの?」と、まさか本人に直接逢えるとは思ってなかったから、自分に自信のあった私たちでもさえも、少々興奮を抑えきれなかった。

画集や何かが積み重ねられたカウンターテーブルの後ろのドアから、唐突に彼があらわれた。

まるで言葉も愛想も発せずに、しずしずと「どこかの小柄なおじさん」といった風情で、岡本太郎がテーブルに座った。

多分、画集を買った人びとへのサイン会だったのだろう。

私たちは、思いもよらずご本人に会える僥倖にひそかに歓んだことだった。

和田さんは、なんの蔑みの念もなく、「普通のひとやな」と大阪人らしい感想を一言もらした。

OSAKA人は、日常が舞台やからな、できれば派手に充実したものであってほしいのかも知れんな、まー悪気はないんです。

わたしは、翌日の講演会のチケット🎫も入手していたから、また眼のつけどころが違った。

平生の岡本太郎に相見えるのは、仕合わせだと思った。

わたしは、その佇まいの内に、ある密度を感じていた。

なにかしら、拒んでいるような、別世界にいる人のような、人間らしい親しみも微塵も見せなかった。

まるで「隠亡(おんぼう)」のようだ。

或る西洋詩人が、魚座♓️の太陽を待つ者の雰囲気を、隠亡のそれに譬えていたのだ。

岡本太郎は、魚座の第1デーク(魚座の最初の十日間、2/20〜2/30くらいの生れ)の生れ、正確には2/26日生れ。

もっとも魚座らしいキャラクターを帯びている。(畏れ多くも、今上陛下も2/23日ご生誕)

「隠亡」とは、生死の場に立ち会う特別な役割を担う者である。古神道にも「殯の森」ってありましたね。

 

彼のベストセラー、『今日の芸術』を三度四度と読み漁り、すっかり「わたしの神」となっていた岡本太郎は、

ひじょうに物腰がひくく、謙虚に「隠亡」のようにして、わたしの前に現れました。

 

 

 

彼にしたら、サイン会に臨むことは不本意なことなのでしょう。ご自分の作品を金に変えなかった、稀有な作家だからです。

サイン中には、一言も発しませんでした、ただ静かにたんたんと眼前のものごとをこなし続けました。

そーゆー、社会人としてまともに振る舞える処も岡本太郎なのです。万博の委員会で「太陽の塔」のプレゼンをするにあたり、居並ぶ大物のお歴々の前で、いたって真面目に理論的にご自分のコンセプトを披歴した動画でもそれは確認できます。

彼は一方では、ソルボンヌ大学卒のフランス語🇫🇷を流暢に喋るインテリ文化人なのですから。

この、余人には真似のできない「落差」が、岡本太郎なのです。

 

さて、次の日、一切口をきかない隠亡の岡本太郎がどのように変貌するのか……    ドキドキしながら、

大好きな「ナビオ阪急」に向かった。(マルーン色の阪急電車は、関西のセレブリティなのだ、スデンドグラス風の阪急デパートの採光もすこぶる好い♪)

割と小規模で、100人入らないくらいの会場に、5人座れるくらいのテーブルが沢山ならべてあった。

この講演会は、ケーキ🍰と紅茶☕️付きの、ちょっとハイカラな催しだったのです。

わたしは、ルーズリーフのノートをもって、一言漏らさず、メモする気概でいた。

貧乏学生だったが、ケーキは口にしなかった。岡本太郎と対峙するのに甘いものはないだろうと真剣に臨んでいたからだ。

一緒に座った面々も、穏やかな人々だったと思う。向かいの人好きのする可愛いおばさんが、講演後の質疑応答で質問していたなあ。

「岡本画伯、血液型は? 好きな食べ物は?」みたいな、大阪のおばちゃん的なものだったのが可笑しかった。

まー、人数のわりにヒッソリとした雰囲気だった。知的な、文化的な人が多い印象がある。

東山魁夷とか横山大観とか、画壇の大先生みたいなイメージなのかも知れなかった。

アバンギャルド(前衛)芸術やらアブストラクト(抽象画)、キュビズム、シュールレアリズム(超現実主義)など…… 

岡本太郎に冠される肩書きなぞ、あまり興味のなさそうな、品の良い一廉の人物たちの集まりみたいだった。

 

そんな、大阪にしてはインテリ文化人めいた人たちの集う会場は、なにか「どれほどの人物か鑑定してやるわ」みたいなものだったかも知れないな。

そんな大阪ローカルな場に、東京🗼もんというか、フランス🇫🇷洋行帰りの世界的な文化人があらわれる構図でしょうか。

 

岡本太郎は、濃いグリーンの光沢スーツを纏って、さっそうと壇上にあらわれた。(オスカー・ワイルドも濃緑のブレザーを着こなしたらしいが、グリーンは英国🇬🇧紳士の定番らしいです)

机を前にして一拍おいて、やおら、サッと鳳凰の翼のように両手をひろげて高く差し上げた。

その瞬間、爆風が吹き荒ぶイメージに襲われました。

物凄い迫力というか、圧が押し寄せる感じなの。

ブワァ〜と、大波🌊が押し寄せてきたような体感でした。

 

 

映画『マトリックス・リローデッド』で、目覚めた人の原始的な世界・ザイオンで、民衆の前で演説を始めるときのモーフィアスに似ていたかな。

どこか、宗教的な厳粛さが漂っていました、意外な気配に一氣に呑み込まれましたね。

もう、心地よい興奮が湧き上がりました。

ルーズリーフ(B5判サイズ)ノートに、キーワードをメモするのが手一杯で、一瞬でも岡本太郎の表情をみのがさないように集中しました。

まるで瞑想しているような充実した集中の内に浸っていました。

話の内容はよく覚えていません。

ただ、いままで繰り返し読んできた、神格化された人物が目の前に(読解した通りにまさに)実在していることを、しみじみと実感していた。

ゾクゾクと嬉しくなったのをはっきりと憶えている。

こうやって生きてもいいのだと、心の底から納得した・理解した時間でした。いまでも、そうやって生きています。

自分の中から、岡本太郎を出して生きてる感じでしょうか。自分の中から観音菩薩を出すようにです。

 

あっという間に終わった講演であったが…… 

素の岡本太郎に迫る質疑応答の時間が取られていた。

みんな、どーでもいいような質問ばかりして、おおさか人は芸術を知らないのかと、岡本太郎が可哀想になってきた。

揃いも揃って「オカモト画伯」なんて、丁重に呼びかけていたな、私は岡本太郎の気持ちがそのとき分かるような気がした。

「画伯」と呼ぶ人は、岡本太郎の芸術を自分事として引き受けていない人であろう。

5〜6人の質問が終わった頃、会場の司会が「そろそろ…… 」と口走ったので…… 

岡本太郎への質問を聞いて、「そーじゃないだろ、そーじゃない、そんな芸能人に訊くような質問では失礼だろ」などと独りごちていました私は、

矢も盾もたまらず、ボルテージがMAXまで上がって…… 

ひときわ大きな声で、応援団長のように「はぁい!」と挙手した。

その時の岡本太郎の、「はい、そこ」と咄嗟に鋭く反応して、だらけた顔から一瞬に真顔となって私を指さして発言を促した機敏さには、やおら感動した。

常在戦場の如く、つねに芸術家たるもの瞬息の気合いに自分を表現するものなんだなという感慨である。

 

司会は、「時間が過ぎていますので、どうか、手短にお願いします🙏」と丁寧に私につたえてマイク🎤を渡した。

 

わたしは、あえて「岡本さん」と呼びかけた。

彼は心持ち頷いたように感じられた。

やっと、真剣に相手できる人間があらわれたたと、歓迎して対峙する構えである。

わたしは、この得難い瞬間にブルブル震えた。(武者振るい)肚に丹田に心持ち力をこめた。

当時、中之島図書館に通って、閉架から『原色の呪文』などを読んでいた私は、

「オカモトさんの『原色の呪文』に書いてあった、男性的な男性とは、どーゆー人のことですか?」みたいなことを訊いた。

しばし黙考した風の岡本太郎は、「男性的男性とは、君のような人のことだが…… 」と持ち上げるようなことも口にしながら、

「時間もないので」と断った上で、「男性とか女性とかに分けて考えないで、全身でぶつかる」みたいなアドバイスを僕にくれた。そして「そんなとこでいいかな?」と済まなそうに添えた。(岡本太郎が発見して、教科書に載るようになった「縄文式火焔土器」は、女性の作品だからねえ、それを考えると意味深)

わたしは、彼の真意が理解できたわけではなかったが、彼の真心をこめた応対には100%満足していた。

こーゆーひとが、実際にいるのだ。

対等に、同じ土俵で対峙してくれる芸術家。

そのことに、湧き上がってくる悦びを抑えきれなかった。岡本太郎とハダカで付き合ったと感じた。芸術家(創造する者)として、意識を共有した感があった。

この、神前におけるような真剣さは間違っていないことを確信した。そのとき、岡本太郎はわたしであった。

わたしが、岡本太郎であった。

この感じは、後年唱えられるようになった「BE  TARO」とは全然ちがうものだ。

「BECOME」ではない、「BE」なんだから、

原義は、「岡本太郎を生きる」ということ。

「岡本太郎になる」んじゃないんだよ。

岡本太郎として、真人間として、存在するのが「BE」の謂であろう。

自分の内なる岡本太郎を、しぼりだすのですよ。

そんな感じでしたね。

 

質疑応答が終わって、岡本太郎は壇上から観客席に下りて、テーブルの間を縫いながら退場していった。

わたしは、そのときスタンディング・オベーションで迎えれば、岡本太郎と握手できたかも知れないと、いまでも残念に思う。

歩み去ってゆく岡本太郎をじっと見つめるだけの私を、岡本太郎は歯痒かったかも知れない。

それほどの共感が、ふたりの間で生まれたことと思う。

濃やかに、あらゆるものの一致を共有した瞬間であった。

わたしは、それ以来作品を創らないアーティストである。(このブログは、作品にあたるのかも知れんけど)

 

わたしは、すべてに満足して会場を後にした、満ち足りた思いでエスカレーターに乗っていた憶えがある。

こんなとき、サッと立ち去るのが良いのだ。

 

 

岡本太郎は、1911年(明治44年)の生れである。あれで、明治の男なのだ。

変わり者の芸術家、母の岡本かの子について、

私にとっては母は、宇宙を支配する、おおきな

叡智をもつ先導者であった。

…… と後年に述べている。尊敬する画家ピカソと同じ背丈で、ひどいマザコンなのも同じで、おふたりは意気投合したものらしい。

 

 

岡本太郎は、フランス🇫🇷に渡って、画廊でピカソの『水差しと果物鉢』(1931)の抽象画に出逢う。

岡本太郎は「涙が出るほど感動した、感動したからには、あれを乗り越える」と、抽象芸術に入っていったもののようだ。

このへんは、わたしも同じだ。

感動したら、それを乗り越える。憧れだけに終わらないのが芸術家(詩人でもアーティストでもよい)なのだ。それが、真剣な対峙の意味するものである。

岡本太郎は、わたしの佇まいからそれを観受したのである。彼はそうやって生きてきたのである。出逢う人出逢う人に、偉かろうがそうでなかろうが、目の前の人に真剣に対峙してきたのである。

それがわかって、わたしは嬉しかった、飛び上がるほど嬉しかった。わたしもそうしようと思った。

 

 

__ 長々と体験を綴ったが、過去に書いた拙稿も載せておこう。

 

 🔴一無位の真人―岡本太郎

[2009-02-02 12:58:51 | 玉ノ海]

『岡本太郎』‘TARO’ の署名は ‘ROTA (輪・蓮)’ ‘TAROT(タロットカード)’ の意も含ませているのでしょー

エロスは、タブーの侵犯であると宣った、生命讃歌の哲学者_ジョルジュ・バタイユが主宰する秘教結社に、異国人ながらも誘いを受けるほどの霊的感性を具えもち

シュール・レアリズム運動を牽引した奇才_アンドレ・ブルトンが 絶大なる信頼を寄せ、

ピカソ・ダリのカタロニア~バスク地方の霊性からも等しく認められ

縄文式火焔土器、沖縄、韓国、東北、そしてメキシコの土地の大地性に 濃やかに感応し独自の表現をし続けた ひと

おおらかで、やさしく、なつかしい感じのする御方でした

…… ハタチの頃、大阪はナビオ阪急にて、ご本人と対峙したことがございます……  大仰ですが、まさにそんな感じの息詰まる対話でした

オスカー・ワイルドばりに英國紳士好みの濃緑(艶アリ)のスーツを着込み、演壇にスクッと立つや、両腕を翼のよーに広げたときの

まるで爆風のよ~な『オーラ』(私ハ零能デス)は、今にして忘れられません!

 

芸術は‥爆発だっ!!”

この有名な言葉の中の『爆発』とは、

無音の爆発のこと、即ち静寂のうちに推移する命のほとばしりのことを云っているのです

ぉ大師さんの 生生死死始終暗冥(秘蔵宝鑰)’ の句に似た 静けさが支配する中で営まれる、人間的な命の燃焼=発光を物語るものだと解釈しております

ふだんの彼は、いたって謙虚で音無しく、隠亡のよーなイメージがしました

うちの県にある蔵王スキー場によくぉ越しになった頃、インストラクターをしていた近所の兄チャンの印象も同様との事

それが、一度び獅子吼するや、無類のオリジナリティを発揮して已まないのです

 

酔狂にも、臨済禅の師家の集まる法会で 講演したこともあるそーデス

居並ぶ禅匠を前にして、仏に逢うては仏を殺せ…” について禅問答を吹っかけたんですから底が抜けています♪

詳細をご紹介できないのが残念だが…… たしか街の辻で自分に逢ったら、如何せん?とかいった内容でした

師家連中が、固唾を呑んで見守る張り詰めた空気のなか、岡本太郎が垂示した切り返しは、それは見事なものだったと嘆声が漏れる場に居合わせた師家が書いてました

存外に禅定力あったんだナァ♪

BE TARO!』は、自分の存在認識運動であろー

 

 

__ 上記の拙稿の中で、「臨済禅の師家の集まる法会」の詳細を以下に引用します。

◆◆◆(岡本太郎『自分の中に毒を持て』より)>

京都文化会館で二、三千人の禅僧たちが集まる催しがあった。

どういう訳か、そこで講演を頼まれた。

ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。

日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉に、臨済禅師という方はまことに立派な方で、

道で仏に逢えば、仏を殺せ

と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。

有名な言葉だ。ぼくも知っている。

確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。

今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。

とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

 

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。

では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。

自分自身に対面する。

そうしたら己を殺せ」

 

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、【条件】に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。

その時、切実にぶつかるのは己自身だ。

己が最大の味方であり、また敵なのである。‥‥ ()‥‥

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、

実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。

禅の真髄として、そうでなければならないと思う。」

 

 

…… この、禅坊主どもを唸らせた講演も、司会の山田無文老師が、結構なお話でしたと、そつなくまとめて何事もなかったかのように終わるのだが、岡本太郎はその非凡な力量を認めつつも「喰えない坊さんだなあ♪」と苦笑まじりに述懐している。

それでも「臨済将軍」と云われるほどに機鋒の烈しく、公案(禅問答)で錬られているバリバリ現役の臨済宗の坊さんが一堂に会している場で、いくら依頼されたからといって、まともな神経で臨めるものではない。

岡本太郎の生き方は、それを力むことなく平然とやるところに、禅的な境涯が多分にあると思える。

あの、レタリングのような筆字は到底いただけないが(祖父が書家だった血筋もあるのだが)、岡本太郎の絵画作品は禅宗坊主の「墨蹟」に優に匹敵するとはいえるのではあるまいか。

なんにせよ、破格に面白い御仁であった。

岡本太郎以前と、岡本太郎以後とでは、芸術(=岡本太郎にとって生きることと同義であった)の捉え方・あり方がまったくといってよいほど違う。

 

 

【毎日新聞の動画より。1975年に石原裕次郎の石原プロモーションで制作した秘蔵フィルムである。「3:44」からのヘラ刷毛による描画がすこぶる佳い】

 

破天荒な人物と思われるかも知れないが…… 

岡本太郎は東京美術学校でも、トップの成績で入学した。

ダリやピカソの如く、人並外れた精緻なデッサンを描ける基礎があった。

それゆえ、美術伝統の「型」をマスターした上で、「型破り」をしたわけで、ただの出鱈目な抽象絵画とは、その成り立ちを異にする。

岡本太郎は、なんでも基礎は徹底して修練した。

フランス語でも、子どもたちと共に寄宿舎に入って、習い覚えて、フランス語を母国語とする現地人を驚かせるほどにフランス語を使いこなしたものである。フランスのテレビ番組でもそのコメントが大人気であった。

ただの、世間知らずの絵描き👨‍🎨とは別物なのである。

「太陽の塔」を作っていた頃に、メキシコ🇲🇽で「明日の神話」の壁画も作っていた。黒い太陽と、原爆のドクロは、メキシコの髑髏信仰と呼応するのである。

圧倒的な生を描くことは、圧倒的な死を描くことでもあった。

それゆえに、生身の岡本太郎に対面することは、わたしにとって「成人式」にも等しいことに思えたわけである。

大阪は、わたしのそんなイニシエーションの聖地であった。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 


 「大母性」〜 小松左京の 或る言葉

2023-09-12 18:30:14 | 人間(魅)力

__ 1970年代に、既に

『日本沈没』(海面上昇・大津波)や

『復活の日』(新型コロナウイルス🦠)、

『首都消失』(地球外知的生命体)

『エスパイ』(超能力・テレパシー⇒インターネット🛜に漏れ出る潜在意識)など、

映画化もされ、現在の地球が直面する死活問題をとりあげ、詳細なデータまで添えて、SF小説の形をとって予言した作家、

小松左京は、偉大な作家であり知識人であり教養人である。

 

SF作家の体裁をとりながら…… 

文壇では高橋和巳や開高健、三島由紀夫などを知己としながら、持ち前のバイタリティーと探究心で何でもやってしまう。

漫画かいたり(松本零士と知り合う)、桂米朝と一緒にラジオ📻やったり、歌舞伎や文楽にも造詣深く、1970年の大阪万博(民俗学の梅棹忠夫・岡本太郎と出会い一緒に「太陽の塔」の内部構造を練った)や1990年の「国際花と緑の博覧会」でも活躍、関西国際空港にも関わり、「ベ平連」(小田実と出会う)の呼びかけ人となったり…… 

阪神・淡路大震災と東日本大震災の復旧にも、積極的に関わり続けた。

文壇にも科学界にも、財界人にも政治家にも、建築家・クリエイター・学者にも幅広く人脈を有していた。

 

そんな小松左京の、広範な領域での業績と旺盛な活動力に敬服した岡田斗司夫や唐沢俊一らは、

「平成極楽オタク談義 第六夜 小松左京」の中で、

荒俣宏立花隆宮崎駿を足して3で割らない」と評している。(wikiより)

とにかく、何んでも知っている、該博な知識量の持ち主であった。

マージャン🀄️が強く、ヘビースモーカーで、昼からグラスを傾ける酒豪でもあった。

関西をとことん愛した巨大な文化人だったと私は思う。SF作家なのに、古典芸能の「芸道小説」までモノしている。個人的には、気難し屋の稲垣足穂が彼を高く評価していたのが印象深い。

 

 

そんな小松左京の、しみじみとした述懐(約40年前の対談での発言)を書き残しておきたい。

 

>「自分は ただ土であって要するに人を生み出す役である。

なぜ人を生み出すかといったら、

生み出した子供が 要するに宇宙を理解したり、宇宙を動かして知るために生み出したんだということがわかっている『母そのもの』のような人もいるんです。

たいへん大きな女の人がいると思うんですね。」

 

 

…… なにやらまさに、酒井順子女史の言われる「男尊女子」みたいな感じがするので、彼女に触発されて書いた拙稿をまとめてみた。

 

 🔴昔日のオンナは怖かった
オトコだけが持つY遺伝子は、オンナのX遺伝子に比べて、かなり細いし短い。
遺伝学の研究では、Y遺伝子は時代と伴にますます縮小していっているそうです。(そのうち無くなるようです)

「女は全員、気が強い」(<酒井順子)のに対して、男は実に繊細な生き物なのです。
だから、女から立ててもらわないと男らしく振舞えないわけです。それが分かり過ぎるほど分かっていた女が、男を丁重にかつ丈夫に育て上げたのです。(身体も弱く、死亡率も女子より高かった)
「泣くな! 男の子でしょ」と常にハッパをかけ続けて、励まし続けて、女の望む姿に大事に育ててきたのが、日本の伝統 です。
そうやって男系Y遺伝子(自然界で貴重なもの)を大切に守ってきたのです。

頼り甲斐のある殿方のいないことが、現在の女性たちの不幸であることは言うまでもありません。
しかし、戦後の女性たちは、よく組織化された伝統を容赦無く壊してきたのですから、そうなるのは当然の帰結なのです。
昔は、自分用にあるいは自分の娘たち用に、立派な男を計画的に育てた、強く賢い女達が存在したということです。

女性の側も、おそろしいほどの鍛錬を欠かさなかったのです。大和撫子(やまとなでしこ)と敬意を込めて呼ばれたのは伊達ではないのです。いまさら貴女がたに言っても詮なきことではありますが。

 

 🔴男尊女卑のロールモデル

最近、
「男尊女子」(<酒井順子)という圧倒的な表現に巡りあった。
この、「男を立てる」女子の持つ、したたかな生存戦略が素晴しい。聖母性とか菩薩性とか無駄に憧れるまえに、この真に現実的な選択を見よ。こーゆー女にはとてもとても敵わん。
これと反対に男卑女子は、オトコを56し、みずからの本性をも56すということね。

内閣府の令和4年度版『男女共同参画社会に関する世論調査』の中の一項目、

「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に対する意識調査では……
上記の「男尊女子」が、確実に「3%」はおられるという集計結果となっている。「どちらかというと賛成」という女子を含めると、約28%が「男尊女子」ということになる。
東日本大震災の直後の2012年には、この女性の賛成票がほぼ50%まで激増したことがあったそうです。


> 非常事態になった時に、伝統的な男女のあり方が最注目されたのでしょう。(酒井順子『男尊女子』より)


[※ 内閣府のHPで、「世論調査」を参照してください]

世の中が平穏な時代には、好き勝手にリベラルでも生きられるが、果して現在わたしたちの置かれている大変革の時代ではどんなものなんだろう。
もはや昔の伝統には戻れないにしても、しあわせなカップルは「あるべき姿」を披露しているようで、見ていても気持ちがいい。
まー、日本人はその失われつつある団欒を、皇室に求め過ぎるから残酷なんだけどね。

 

 

 🔴現代女の系譜
始まりは、
いま70歳代前半の「団塊の世代」の祖母たちです。彼女らの母親は戦中派で「青春時代」をもてなかった世代でした。そのせいもあり、娘には青春を謳歌してもらいたいとばかりに、随分と甘やかして育てたのです。
「彼氏と楽しんでいらっしゃい、お父さんにはうまく言っといてあげるから♪」
こうして、大事に自由な雰囲気で育てられた娘は、同じように娘 (団塊ジュニア世代) を育てて、その娘がまたまた同じように育てたのが「ゆとり世代」の娘でした。

戦後に恋愛が解放され、1960年代の半ばには見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転すると、
70年代には恋愛結婚の割合がどんどん高まり、
80年代になると、恋愛結婚の割合が 8割を超えます。
それはすなわち、恋愛、結婚、そしてセックスをも自己責任で行う時代の到来ということでした。
さらに、1980年代は、仕事を持つ女性がぐっと増え、「女の時代」などと言われるように、
アイコイ(愛・恋)結婚セックス仕事……と、若い女性達は忙しかったのです。
[※ 酒井順子『日本エッセイ小史』より]

…… 三代にわたって連綿と受け継がれた亡国の所業をひとつ挙げれば、「韓流ブーム」であろう。
このブームを生み出して牽引していたのは、「団塊の世代」の女性たち(お祖母さん)なのである。
そして、その伝統は娘と孫にも受け継がれて、いまも続く「Kーpopブーム」へと繋がってゆく。
BTSが、裏で(本国では)何を言っているのか、知らないわけではあるまい。
国を挙げて、日本を敵国指定して教科書でも偏向教育しているような国を親子三代で応援するものかしらねえ。

ー現代の女性は、何よりも擬似アイコイ(推しの男子)が大切だということを物語っている。

 

 

…… あいや〜、令和の日本婦女子に対する嘆き節になってしまいましたね。

幼い頃より女姉妹と同居していた男子はそんなことはないのだが、男所帯で同居する異性は母や祖母ぐらいだった男子は、「女というもの」への憧れを美化して、男特有のロマン主義という陥穽にはまって、どうしても抜けきらない傾向が強い。

ゲーテの云う「永遠に女性なるもの」で、女の不可思議さをもって「女神」に置き換えて、あやまった信奉者になってしまう。

 

ただ、小松左京の「大母性」についての上記の言及は、彼が「女シリーズ」というものを書いていた経緯からも、昭和の時代にはそうしたオナゴが間違いなく存在したものだと思われる。

子ども心にも、拝みたくなるような神々しい女はいたものだった。

そんな女性(にょしょう)を書き綴った懐かしい拙稿を二つばかり載せときましょう。

 

 

 🔴“彼に、猛烈に嫉妬したことがある”
[2013-04-19 23:32:50 | 玉の海]

> 「本当に愛したひとは三國さんだけ」

…… これは、かの伝説的女優・太地喜和子がのたもうた
昭和の時代精神と風土が産んだ、稀有なる女性(にょしょう)…… 
品よく、婀娜(あだ)っぽく、猫みたいに可愛らしく、並外れた感性で世の男性陣を骨抜きにした…
魔性とも云える、圧倒的な存在感を醸し出した妙なる演技者であった

 


五木寛之「忘れえぬ女性(ひと)たち」(婦人公論連載)

「太地喜和子は、どこか聖なる場所からやってきた女という気配があった~ガルシア・ロルカの影」より

強烈な個性の持主のように見られる彼女は、実際には自分がない人間なのかもしれない。その虚無の深さが、役者の才能というものではあるまいか。とかく男の噂の絶えない太地喜和子だったが、彼女のなかには男性への根づよい不信感がわだかまっていたような気がする。

太地喜和子の体のなかには、なんとなく昔の大道芸人の血が流れているように感じることがあった。同時にどこか聖なる場所からやってきた女という気配もあった彼女は自分が笑うとき、ガバッと大口をあいて笑うのが男心をそそるのだと言っていた。

(以下、1971年五木寛之が三十代で書いた雑誌の人物論から)>

太地喜和子は男っぽい女である。
 と、いうことは、官能的に見えながら、実はその反対の硬質の精神に充ち満ちた存在であるということだ。
 しかし、真に官能的である女、性的に卓越した女は、常に女性的ではない。表面的に女らしい女、セクシュアルな女に、本当の女はいない。この意味で太地喜和子は、本当の女になり得る可能性を秘めた、目下のところはそのどちらともつかぬ地点をさまよっている男っぽい女である。

> 夢野久作の小説をもし舞台か映画にするとすれば、そのヒロインには彼女が最もふさわしいような気がする。】

 


私の大好きな女優、高橋惠子にとっても、憧れの大先達であった
>どんな役柄でも女の情念を感じさせるその演技力は、私の大きな目標だったのです。


…… 高橋さんは、どうしてもお会いしたくて、太地さんに事務所を通じて連絡してもらう
そして、太地の自宅に招かれた時に聞いた言葉がこれである
>「私はね、女優としてサービス精神がある限り、見てくれている人に
『ああ、太地喜和子も家に帰ったら家庭があるんだろうな』と想像させてはいけないと思っているの。
だから、一生結婚はしないつもりよ」


……  昭和の艶っぽい姐さんと云えば、太地喜和子を想い浮かべる
年上の、溢れる母性も、蠱惑な娼婦性も、あろうことか聖なる少女性さえすべて兼ね備えた…
さっぱりした男気性の粋な姐(あね)さんであった
この、モテる女の代表格だった彼女が、19歳の時に、ぞっこん惚れ込んだ男こそ、三國連太郎である
太地はマリリン・モンロー、三國もデ・ニーロには匹敵するなぁ……

そういやぁ、彼女は現代の名優・十八代目中村勘三郎(コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げる)をも育てたといってよい。19歳の勘九郎時代にゾッコン惚れられたが、歌舞伎役者としての将来を見据えて、彼女の方から身を引いたと云ふ。

―彼の演じた『釣りバカ』の鈴木一之助社長も、その自然なリアリティーにゾッとすることがありました
企業のトップに襲いかかる、途轍(とてつ)もない孤独感と、熱き一人の人間としての釣り道楽…
そのハザマに揺れ動く、落差の表現が恐ろしいほどリアルだった氣がします
ご子息の浩市もよいですネ
血はあらそえぬ物です

―名優と呼ばれた方々は、なぜか癌で亡くなることが多いと感じていましたが…
三國さんは、そーではなかったし、御歳九十をむかえられました
やはり、どこか違うのだと思います
―勘三郎の、【永遠に女なるもの】でもあった太地喜和子…… 
伊勢白さん(私注;伊勢白山道リーマンさん)も、お人がわるい♪
私の初恋の人のおもいびとは、川崎麻世でした
長身で脚が長いのです(私注;当時リーマンさんが、足が長い川崎麻世似であることをご自分で言っていた)
そしてまた、昭和を象徴するイイ女のおもいびとを記事になさるなんて…
美智子さまをお射止めになられた今上陛下にかつて嫉妬したよーに…
またも、埋み火がメラメラと…
静観、静観とばかりもいきませんが…
こんなにも心掻き乱す魅力的な人物を輩出する、日本とゆーお国柄がたまらなく好きです

 
 
 
 🔴『肝っ玉かあさん』の聖母性
[2009-07-10 11:44:24 | re; 玉ノ海]

映画『三丁目の夕日』を観て、昭和の匂ひ(有機的な臭い)がしないのは仕方ないにしても、根本的に何か足らないものを感じたが…… 
 
読者さんのご投稿を読んで、はたと膝を打った!
そー、あそこには…
『京塚昌子 (1930-1994) 』的な本質がなかったのだと...
若かりし頃は細身の美人だったことを偲ばせる彼女の美しい和顔♪
この女人の前では、悪いことは出来ないなと芯から思わせる、圧倒的な存在感―慈しみで出来ているよーな御方であった
それに、なんとも云えぬ艶っぽさも兼ね備えていらした(カナリ、ぉモテになったと聞く)
平成の御世には、『京塚昌子』は、もはや見られない(*┯_┯)…ウッ

> 恰幅が良く割烹着の似合う母親役で絶大な人気を誇り「日本のお母さん」とも呼ばれた。(Wikiより)

…… 小・中学生時分、ぽっちゃりふくよかな女子は、
教科書に載った ‘正倉院樹下美人の図’ にちなみ…
天平美人とか平安朝美人と、からかわれたものだが… 当時私は、そーした佳さが微塵も分からない奥手のガキであった
年を経て、目の前から消えて初めて、強烈にあの日本そのものでもある女性性を懐かしむ

昭和元禄と云われた時代、家庭の母なる人と水商売の人とは截然と分かたれていた
子どもの眼からみても、化粧や仕草に明らかであったものだ
―化粧は古来、禁忌(タブー)と密接に関わる
大雑把にいえば… 近づいてはならぬ者を一目で分かるよーに施されたのが「化粧」の始まりである
例えば芸人は、推参(押しかけ)が許されているが… 社会の埒外にある者として、差別マークとして化粧せねばならなかった
それが今や、良いのか悪いのか総芸能人化している

かなり水商売寄りの聖母性では…
田宮二郎主演『白い巨塔(1978-1979)』での愛人役・太地喜和子が忘れられない
 
>財前五郎の愛人、花森ケイ子を演じた太地喜和子は素晴らしかった!財前の母への思いやりが深くて、愛人としての立場もわきまえた細やかな態度は度を越えて美しく不思議な母性を感じさせる。すべてにおいて大人の女としての格が違う、そんな演技を魅せてくれました!(立木義浩)

……  “五郎ちゃぁ~ん♪” と微笑みかける彼女の声音が、いまでも耳に遺っている
和歌山生れの彼女は、熊野の国津神つながりか、青森の淡谷のり子の生涯を演じたこともある
 
 
 

淡谷先生♪は、
>戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念(Wikiより)
で歌われた女傑である
山田五十鈴といい、綺麗で性根の怖い、深情けな『いい女』がいらした時代であった
[※ 太地喜和子は、山田五十鈴の隠し子だという噂があった、当時の文学座の先輩・悠木千帆(樹木希林)は太地が酔ってそう言ったのを直接聞いている]
まるで鎮守の森の如くに巨きく深く神秘的な―“ たいした魂消た! ” この二人の独身女たちを想い起こした
 
 
 
【ドラマ『肝っ玉かあさん』撮影当時、彼女はなんと37歳だった】
 
 
…… あくまでもひと昔まえの素懐なのだが、十何年も前の拙稿になりますね。当時の跳ねるように弾んだ文体を、なにやら懐しい思いで見つめている自分がいます。
おなごに対する根本的な認識は、いまも変わっていないと思います。
ただ、最早それを熱く語ることはできない。
それを体現した幻想の女人は、御二方ともに、生涯独身女だったことは、いま思えば意味深長であります。
いまの世界にはそんな女人は存在しないようです。
 
でも、平成〜令和と、日本女性は本当に綺麗に変貌したと思います。これは、偽らざる私の心情です。
小顔になって、スタイル(フォルム)も麗しく、よくもまあ30年ばかしの短期間で変わりおおせるものかよと感嘆すること頻りであります。
 
ただ、いまとなっては、昭和のオネエサンがたに抱いた息詰まるような女性への憧憬は無くなってしまいました。
宗教性も変わってきたからでしょう。
女神といっても、女夜叉やカーリー母神、はたまた玉藻の前や妲己(九尾狐)やダキニ天のような魔性も実感するからです。
そのへんの、お隣のお姉さん的な女性にも、束の間垣間見られることは往々にしてあります。
「男は夢と寝たがるが、女は男としか寝ない」
…… これ即ち、つねに生身の女の怖さが、凄みが分かるようになったということでしょうか。
 
これからの、変革の時代、いや圧政の時代かしら?
女たちが、どのように変貌して進化してゆくのか、なにやら楽しみでもあります。
他人事みたいで、申し訳ありませんが、男子も男子で切羽詰まった展開を強いられています。
 
インセル(弱者男性)にミソジニー(女性嫌悪)…… 
素直に自分の母親を尊敬するマザコン男子(決して卑下しているわけではない)は増えつつあるが、
果して私たち男性は、小松左京のいう「宇宙を理解したり、宇宙を動かして知る」存在にまで到達しているだろうか?
本当は、そーした境涯に辿り着いてこそ、女性たちの大地母性が生きるのである。
 
 
 
 
あらゆる局面において、その大母性のお蔭を決して忘れてはなるまい。私もまた、小松左京に倣いて「未来をあきらめない」大阪魂を忘れないつもりである。
伊勢白山道に拠れば、小松左京は「啓示をうけた人」であるそうだ。
      _________玉の海草
 

◇◆ 風貌_(海外編)〜 ヨーロッパ人の尖った 【 狂気 】

2023-01-31 00:41:42 | 人間(魅)力

__ 映画でもドラマでも、主役でもラスボスでもないのに、どうにも気になって仕方のない俳優がいるものである。

 

役者とは、つまり、そういうものである。主役を喰らう役者は、映画🎞全体を眺めれば、バランスを崩す者ではあるのだが…… 

そーした異端分子が、とてつもなく面白い。そんな煌びやかな個性をまとめてみた。

 

 

 

🟣  クリスピン・グローヴァー

wikiより> クリスピン・ヘリオン・グローヴァー(Crispin Hellion Glover, 1964年4月20日生誕 )は、アメリカ合衆国🇺🇸ニューヨーク市出身の俳優、映画監督である。

 

【格闘中に指に絡みついた、チャーリーズエンジェルの髪の毛を頬になすりつけて、匂いを嗅ぐ変態的なシーンが印象的な「痩せた男」、殺陣シーンも流麗で高度なアクションもこなす多才な俳優】

 

 

【この、情けない風情の優柔不断な男が、かの変態俳優クリスピンだとは到底思えぬ変貌ぶりが見事である、オドオドした引っ込み思案のジョージが堂に入っていた】

 

 

気持ち悪いよーな、変な感じのホンモノ。ハリウッドきっての変人。

『チャーリーズ・エンジェル』(2000、2003)で、ステッキを持ってフォーマルにビシッと極めた変な男「 痩せた男(thin man)」を演じる。

『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(1985)で、主人公マーティの親父さん「ジョージ・マクフライ」を演じる。挙動不審で自信がない。

鼠🐀の映画『ウィラード』での狂気は、鼠より怖い。

 

 

 

🟣  音楽バンド🎵「ABC」のボーカル、マーティン・フライ

wikiより> Martin David Fry (1958年3月9日生誕) is an English singer, songwriter, composer, musician, and record producer.

 

 

カンカン帽に曲がった口元、ちょっとインセインな雰囲気。鮮烈な変態性(いや、尖った芸術性🎨

80年代ダンディズムの貴公子だったが、この御方だけは現在でもいい年の取り方をして、いまだに自分のスタイルを貫いていらっしゃる。最近のこの曲も聴かせる。

 

 

 

 

 

🟣  音楽バンド🎵「ブロウ・モンキーズ」のボーカル、ドクター・ ロバート(Dr. Robert ,  本名  Bruce Robert Howard)

生年月日 1961年5月2日 (年齢 61歳)
出生地:イギリス🇬🇧ハーディントン
 
 

> 「80年代半ばの英国で大量発生した “洗練された” ポップミュージック」のことを「ソフィスティ・ポップ(Sophisti-Pop)」と呼ぶ。

スコットランド出身、スタイル・カウンシルのポール・ウェラーとは友達。

「デイ・アフター・ユー(The Day After You)」では敬愛するカーティス・メイフィールドと夢の競演を果たす。

 

 

Digging Your Scene

 

横田基地の FEN で、頻りにポール・ハードキャッスル 「 レイン・フォレスト」が流れている時期だった。

 

 

1983年頃までは、百花繚乱という感じで、ミュージック・ビデオの隆盛も後押しして、実に彩り豊かなサウンドが世界中で雨後の筍のように、盛んに頭角をあらわしたものだった。

1984年から3年程は、弾も出尽くしたのか、ろくな楽曲が出なくて、冴えない日常を送っていた頃に…… 

鮮烈に、世界を明るくしたのは、このブロウモンキーズの曲だった。矢も盾もたまらず、渋谷のタワーレコードまで遠路を問わず(当時は埼玉県杉戸町在住)、ブロウモンキーズのカセット(まだまだCDは出ていない頃だ)を買いにいったのを鮮明に覚えている。

それほどショッキングな楽曲だった。

実はこの曲、AIDSにかかった友だちを想って、クラブで一緒に遊んだゲイ仲間たち(Dr.ロバートはストレートだったが)に向けて歌った曲だったらしい。

底抜けに明るいようでいて、ヨーロッパのゴシック的な荘厳な暗さを内包する奥行きがあるのだ。

いまや、Dr. ロバートも出川のように横に膨らんでしまったが、その眼光の煌めきまでは失っていないのだ。

さすがは、ヨーロピアンの騎士道と言わねばなるまい。

 

 

 

 

 

🟣  ミュージシャン、ブライアン・フェリー

wikiより> ブライアン・フェリーBryan FerryCBE、1945年9月26日生誕)は、イギリス🇬🇧のロック・ミュージシャン、シンガー、作曲家。ロキシー・ミュージックやソロ活動で有名である。CBEは大英帝国騎士団勲章。

 

 

 

ライブ・エイド(アフリカ難民救済チャリティコンサート)の時代に、日本のCMにも出演、異形のロックで魅了する。

スーツの似合うロッカーというものは、乙なものだが、当時ブライアン・フェリーとロバート・パーマーとが双璧であった。カッコ良かったものです。

 

 

【 R. パーマーは、デュラン・デュランとイヤイヤなんだが一緒に組んで『パワーステイション』という目覚ましいユニットもやっている。】

 

【ロキシー・ミュージック時代の佳曲、彼の哲学性や伝統的な教養が如実に感じられる、「 True To Life 」

 

 

🟣  映画🎞『マトリックス・リローデッド』で、貴族的な美意識を強烈に発散していた俳優、

ランベール・ウィルソン(Lambert Wilson1958年8月3日生誕 )は、フランス🇫🇷出身の俳優、歌手。

アイルランド🇮🇪系フランス人

マティーニ🍸で、オリーブの実🫒を舐め回す仕草が、百科全書派のディレッタント風で、その変態性ゆえにかえって奥深い知性を感じさせた。

役名の「メロヴィンジアン」は、フランク王国のメロヴィング朝に関係があるのだろうか?

 

【 イタリア🇮🇹の宝石と云われた、美貌モニカ・ベルッチをしたがえて、微塵もたじろがない貴族階級の貫禄が見事である。スノッブだけど品格を漂わせるのは至難である。】

 

【この、変態じみた優雅さはなかなか纏えるものではない、ルキノ・ヴィスコンティ監督のもつヨーロッパ貴族の退廃的な美学を思い起こす】

 

【サイト「Flying Blue」より引用、なんと、映画『マトリックス・リローデッド』のメロヴィンジアン卿に因んで、この名称になったのだそうだ】

 

 

 

__ さすがに、欧米人は一際ブッ飛んでいる個性が耀き溢れている。

どこか、爬虫類🦎っぽくあるな。

80年代初期の時代精神は、全くもって抜きん出ている。

1990〜2020年の30年間は、ひょっとして眠り込んでいたのではないかと疑うほどである。

       _________玉の海草