『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

◇◆ 風貌_(海外編)〜 ヨーロッパ人の尖った 【 狂気 】

2023-01-31 00:41:42 | 人間(魅)力

__ 映画でもドラマでも、主役でもラスボスでもないのに、どうにも気になって仕方のない俳優がいるものである。

 

役者とは、つまり、そういうものである。主役を喰らう役者は、映画🎞全体を眺めれば、バランスを崩す者ではあるのだが…… 

そーした異端分子が、とてつもなく面白い。そんな煌びやかな個性をまとめてみた。

 

 

 

🟣  クリスピン・グローヴァー

wikiより> クリスピン・ヘリオン・グローヴァー(Crispin Hellion Glover, 1964年4月20日生誕 )は、アメリカ合衆国🇺🇸ニューヨーク市出身の俳優、映画監督である。

 

【格闘中に指に絡みついた、チャーリーズエンジェルの髪の毛を頬になすりつけて、匂いを嗅ぐ変態的なシーンが印象的な「痩せた男」、殺陣シーンも流麗で高度なアクションもこなす多才な俳優】

 

 

【この、情けない風情の優柔不断な男が、かの変態俳優クリスピンだとは到底思えぬ変貌ぶりが見事である、オドオドした引っ込み思案のジョージが堂に入っていた】

 

 

気持ち悪いよーな、変な感じのホンモノ。ハリウッドきっての変人。

『チャーリーズ・エンジェル』(2000、2003)で、ステッキを持ってフォーマルにビシッと極めた変な男「 痩せた男(thin man)」を演じる。

『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(1985)で、主人公マーティの親父さん「ジョージ・マクフライ」を演じる。挙動不審で自信がない。

鼠🐀の映画『ウィラード』での狂気は、鼠より怖い。

 

 

 

🟣  音楽バンド🎵「ABC」のボーカル、マーティン・フライ

wikiより> Martin David Fry (1958年3月9日生誕) is an English singer, songwriter, composer, musician, and record producer.

 

 

カンカン帽に曲がった口元、ちょっとインセインな雰囲気。鮮烈な変態性(いや、尖った芸術性🎨

80年代ダンディズムの貴公子だったが、この御方だけは現在でもいい年の取り方をして、いまだに自分のスタイルを貫いていらっしゃる。最近のこの曲も聴かせる。

 

 

 

 

 

🟣  音楽バンド🎵「ブロウ・モンキーズ」のボーカル、ドクター・ ロバート(Dr. Robert ,  本名  Bruce Robert Howard)

生年月日 1961年5月2日 (年齢 61歳)
出生地:イギリス🇬🇧ハーディントン
 
 

> 「80年代半ばの英国で大量発生した “洗練された” ポップミュージック」のことを「ソフィスティ・ポップ(Sophisti-Pop)」と呼ぶ。

スコットランド出身、スタイル・カウンシルのポール・ウェラーとは友達。

「デイ・アフター・ユー(The Day After You)」では敬愛するカーティス・メイフィールドと夢の競演を果たす。

 

 

Digging Your Scene

 

横田基地の FEN で、頻りにポール・ハードキャッスル 「 レイン・フォレスト」が流れている時期だった。

 

 

1983年頃までは、百花繚乱という感じで、ミュージック・ビデオの隆盛も後押しして、実に彩り豊かなサウンドが世界中で雨後の筍のように、盛んに頭角をあらわしたものだった。

1984年から3年程は、弾も出尽くしたのか、ろくな楽曲が出なくて、冴えない日常を送っていた頃に…… 

鮮烈に、世界を明るくしたのは、このブロウモンキーズの曲だった。矢も盾もたまらず、渋谷のタワーレコードまで遠路を問わず(当時は埼玉県杉戸町在住)、ブロウモンキーズのカセット(まだまだCDは出ていない頃だ)を買いにいったのを鮮明に覚えている。

それほどショッキングな楽曲だった。

実はこの曲、AIDSにかかった友だちを想って、クラブで一緒に遊んだゲイ仲間たち(Dr.ロバートはストレートだったが)に向けて歌った曲だったらしい。

底抜けに明るいようでいて、ヨーロッパのゴシック的な荘厳な暗さを内包する奥行きがあるのだ。

いまや、Dr. ロバートも出川のように横に膨らんでしまったが、その眼光の煌めきまでは失っていないのだ。

さすがは、ヨーロピアンの騎士道と言わねばなるまい。

 

 

 

 

 

🟣  ミュージシャン、ブライアン・フェリー

wikiより> ブライアン・フェリーBryan FerryCBE、1945年9月26日生誕)は、イギリス🇬🇧のロック・ミュージシャン、シンガー、作曲家。ロキシー・ミュージックやソロ活動で有名である。CBEは大英帝国騎士団勲章。

 

 

 

ライブ・エイド(アフリカ難民救済チャリティコンサート)の時代に、日本のCMにも出演、異形のロックで魅了する。

スーツの似合うロッカーというものは、乙なものだが、当時ブライアン・フェリーとロバート・パーマーとが双璧であった。カッコ良かったものです。

 

 

【 R. パーマーは、デュラン・デュランとイヤイヤなんだが一緒に組んで『パワーステイション』という目覚ましいユニットもやっている。】

 

【ロキシー・ミュージック時代の佳曲、彼の哲学性や伝統的な教養が如実に感じられる、「 True To Life 」

 

 

🟣  映画🎞『マトリックス・リローデッド』で、貴族的な美意識を強烈に発散していた俳優、

ランベール・ウィルソン(Lambert Wilson1958年8月3日生誕 )は、フランス🇫🇷出身の俳優、歌手。

アイルランド🇮🇪系フランス人

マティーニ🍸で、オリーブの実🫒を舐め回す仕草が、百科全書派のディレッタント風で、その変態性ゆえにかえって奥深い知性を感じさせた。

役名の「メロヴィンジアン」は、フランク王国のメロヴィング朝に関係があるのだろうか?

 

【 イタリア🇮🇹の宝石と云われた、美貌モニカ・ベルッチをしたがえて、微塵もたじろがない貴族階級の貫禄が見事である。スノッブだけど品格を漂わせるのは至難である。】

 

【この、変態じみた優雅さはなかなか纏えるものではない、ルキノ・ヴィスコンティ監督のもつヨーロッパ貴族の退廃的な美学を思い起こす】

 

【サイト「Flying Blue」より引用、なんと、映画『マトリックス・リローデッド』のメロヴィンジアン卿に因んで、この名称になったのだそうだ】

 

 

 

__ さすがに、欧米人は一際ブッ飛んでいる個性が耀き溢れている。

どこか、爬虫類🦎っぽくあるな。

80年代初期の時代精神は、全くもって抜きん出ている。

1990〜2020年の30年間は、ひょっとして眠り込んでいたのではないかと疑うほどである。

       _________玉の海草

 

 


◇◆ 風貌を刻む〜 童子形おじさん、 渡辺隆 (錦鯉)

2023-01-26 02:00:36 | 人間(魅)力

__ M–1チャンピオンになった時も、まるで期待はしていなかったが、テレビに出るようになって、「錦鯉」としての冠番組も組まれて、観ているうちに…… 

 

その  純粋な精神性(=変態性)につよく惹かれたのは、「じゃない方」の 渡辺 隆 であった。

 

 

 

モデルを写真撮影するとかの企画では、AVビデオを撮影するかのように舐め回して、愉快な撮影風景に、その変態的な爛熟をいかんなく発揮してした ♪

意外に爆発力があるね、ツッコミ・スキルが高いのは当然か、芸歴の長さゆえか、落ち着いた捌き方に高い知性を感じたりする。

まったく予想もしていなかったスピンオフを、手慣れた口ぶりで無造作に出してくる、奥行きがあるんだよねえ。

 

 

その話術の妙に気付かされたのは、『あちこちオードリー』に出演された時だった。

このひと、話しがうまい、引き出しが豊富で、爛熟した数寄心を存分に感じさせた。

 

 

 

__ お笑いを語らせれば、マヂカルラブリーの野田との焚き火対談のように、けっこうしっかりとした理論家の一面も兼ね備えておられる。(事務所の先輩、バイきんぐ・小峠のブレインというか、ネタ作家的な実力をお持ちのようだ)

まったく普通の中堅サラリーマン的な安定した(社会常識から外れない)雰囲気

を醸し出しながら、ときおりチラリと覗かせる狂気の一瞥、そこにはタブーを侵すような豊饒さが仄見える。

 

【この、「普通さ」はとんでもない魅力を孕んでいる、ふと漏れ出る裏面の「狂気」に芸人たる本質を垣間見る】

 

 

【実になんでもなく渋い、堅実な風情。苦労人のもつ、凹凸を均したよーな落ち着いた隠者の雰囲気を纏っておられる】

 

 

 

【石原裕次郎張りのカッコ良さも、笑いの狭間にたしかに漂っている】

 

 

【スーツ姿が極まっているんだよね、取締役でも可笑しくない雰囲気と佇まいをお待ちである】

 

 

この一つ前の記事で、おほかみ(大神)に愛されし日ノ本の選択した、遺伝子🧬戦略とは「ネオテニー(幼形進化)」に他ならず、

そのホモソーシャルな男社会(南方熊楠は、それを「男色」とは截然と区別して「男風」として扱った)は、

女性嫌悪(ミソジニー)

同性愛嫌悪(ホモフォビア)

を共有する家父長制を基盤としていることは、上野千鶴子姐さんから教わった。

 

ネオテニーは、家父長制社会よりずっと深層にある。

そーした眼で、渡辺隆のネオテニー的なキャラクター(本人は無意識かも知れない)を観ると、実に愛さずにはいられない普遍的な人間性を感じて微笑ましくなる。

 

 

ー43歳独身(親と同居)、

痛風のいたみを覚悟して「モツ煮」を食べる覚悟、

無類のAV好きで熟女モノやNTR(寝取られ)モノを中心に3000枚のDVDを所蔵、

女芸人「やす子」に、廊下ですれ違いざまに放った自然な一言「やす子、キレイになったな ♪」で、その純な乙女心を鷲掴みにして、

キャバクラでは神客として降臨して、下心を表に出さずに、キャバ嬢に献身することに自分の愉楽をみつけて、単なるスケベおじさんと観音行者とを往復することで、周りに気を遣わせずに、自らの安息(リフレッシュ)を追求する中年オトコ…… 

現時点でのネオテニー進化形のいい貌として、渡辺隆大人(たいじん)を挙げておく。

 

 

__ そんな渡辺大人のもつ、幾通りものお顔を鑑賞できる動画をご紹介しておこう。

「みりちゃむ」への見事なまでのドM対応には、なにやら 金字塔的な偉業 を感じた。

【この動画には、正味衝撃を受けた。みりちゃむの、おのずからなる上品さも組合せの妙というべきではあるが、渡辺大人が心に懐く女性への揺らぎなき景仰の念が、なにやら尊さを帯び始める瞬間…… 】

 

 

渡辺大人は、Vtuberにも嵌っておられたなあ。(オードリーの若林から「まだ早い(公表するタイミングではないの意)」とアドバイスを受けていたが、なんとも引き出しの多いオトコだ)

柔軟心(道元)があって、受容力が高いのです。

道元といえば、「修証不二(修行と悟りは同じ)」と提唱するほどの修行好き。

 

霊的修行とは、即ち自己内完結させたSMの世界なんですよね。苦行をいやがる自分を駆り立てて、修行を強要するサディズム(sadism)…… 

そんなドSな自分を、ハイヤーセルフとして、じっと愉しみのうちに修行に埋没するマゾヒズム(masochism)。

人生の苦役に黙って堪えてきた苦労人は、

良く言えば「修行者」

悪くいえば「ドMの変態者」

とゆーことになろう。

 

そして渡辺隆の、お笑い芸人として稀有な処は、ドMの変態なのに、相棒のマサノリを叩いたり鋭く叱りつける、ドSのツッコミ担当をしている処なんです。

向上心とゆーのは、絶え間ない自己否定の上に成り立つものです

いわばドSの露われだからでしょう。弱い自分をイジメることで、強い自分になろうとする向上心です。(きのうの我に打ち勝つことで、きょうの成長を勝ち取るみたいな)

しかし、そうしたサイクルの最中に、どうしても強くなれない自分との葛藤があるのも真実、責められる自分に酔ってもいるのです。痛みや苦しみとは、アドラーによれば「救済」にみちびくものだからでもあります。

「苦しみは解放と救済に通じる」アドラー)

 

だから相棒のマサノリは、いわば渡辺隆自身なのです。ドMな自分を引っ叩いている図式になります。

マサノリが自然(=神)であり、渡辺は人間として、どうにもならない自然にちょつかいをかけて、怒り、なだめ、話しかけ、感謝して、最終的に帰依しているような塩梅になっている。

 

渡辺さんのドMが露われた神客ぶりを観ていると…… 

どこか宗教的な無償の愛というか、キリスト者のマリア信仰を思い出す。

ご自分の信念(たぶん江戸っ子的な心意気)を貫いているゆえに、平然と最下層になった自分をも受け容れる、そこには寸分の卑下もないのであろう。

いや、卑しい自分にも興奮しているのかしら?

相手を認め、自分を認め、この関係性全体を祝福する、それは宗教(信仰)ともいえる姿勢であろう。

 

小太りにならざるを得ない「中年」の悲哀を、ネオテニーで可愛らしくイヤミの無い方向にもってゆくとは、無意識の生き残り術なのであろうな。

このひと、凄みがある、世間的にはお世辞にも成功者の道を歩んできた人ではない、それについても言い訳はしないだろうしね……

M–1チャンピオンになって(相棒の長谷川雅紀のお蔭だと公言している)、やっと世間様から認められて、いま自分の進んでいる道に自然と湧き上がる確信をもっていらっしゃる気がする。

こーゆー人があらわれる、斜陽国・日本も案外隅におけないのかも知れない。

 

ニコラ・テスラとか、南方熊楠翁とか、世に抜きん出た変態性の天才が、殊の外大好きなのである。

偏向するとは、特化すること

特化してしまえば、それは固まってしまった「限定」に他ならず、普遍には通用しない。

だから、普通のできる渡辺さんの、変幻自在な生態(=変態)こそが、尊ばれる常在成長(=常若)なのである。

 

なんにでも変化できる柔らかな可塑性は貴重である。

変態とは、生き残りのギフテッド(gifted)だからであろう。

       _________玉の海草

 

 


 大人の皮をかぶった 「子どもの日本」 〜  ネオテニー童子形

2023-01-20 03:30:14 | 小覚

__ 日本が好きで、日本人の先人たちの行いを調べては参考にしてきたが、インターネット社会に移行してからとみに感じるのは、

 

「日本人は、どうしてこんなに幼くなってしまったのだろうか?」

 

という、根本的な疑問というか鬱憤であった。

 

報道番組みても、童顔の論客ばかり御三方で国防を論じておられた。(童顔のコメンテーターは、日本では人気がある。橋下徹とか)

欧米ではしかし、歳取っても「ベビーフェイス」をしている人は人間的に信用されない。

顔は、その人の履歴書であるからである。

 

いい歳になっても、子どもの頃の習慣から抜け出せない、「永遠の少年少女」に何が出来るものかと反感を抱いていたが……

遺伝子の眼から、日本人の現状をみると……

叡智が選択した「進化の道」が、現在の幼稚化(のようにみえる常若志向)になっているのかなと思うに至った。

「ゆるキャラ」にしても、グローバルで認知されてきたKAWAII 価値観にしても、アニメや漫画の流行にしても……

大人の築き上げてきた老練な社会秩序に、くさびを打ち込んでいる。

日本は昔から、子どもを大切にするお国柄であった。

明治の開国後に来日した西洋人が一様にびっくりしたのは、よく笑うことと子どもを大切にする姿勢だった

 

日本は子供の国だ、子供がとても大事にされている」

 

西洋では、子どもは労働力として小さいうちから酷使されるのが普通だったからである。

現在でも、シャイで世界的に有名な日本人だが、

たとえば街中で外国人の子どもを見かけた時の反応は、異様なものがある。自分から近づいてゆくのである。

まわりの大人全員から笑顔を向けられるし、手を振られ、お菓子をもらったり、とにかくまるでヒーローかヒロインみたいにチヤホヤされる。(その子の親たちは、あまりの可愛がりぶりに吃驚するらしい)

子どもの国・日本では、他人の子どもでも外国の子どもでも、子どもはおしなべて宝物なのである。

子どもを大切にするだけでなく、みずからも「子ども」であろうとする現象を、ひとまず追いかけてみよう。

 

 

 

🔴大自然に生き抜く〜 遺伝子対応

 

NHK『ワイルドライブ』に惹きつけられました

ブラジルのパンタナール大湿原の乾季……

干上がりそうな川辺に集まってくる獲物を狙う、捕食者の大変な苦労と挑戦に目を奪われました

なんと、ネコ科第三の大型猛獣・ジャガー(体長約2メートル)が、巨大なカイマン・ワニ🐊(体長約3メートル)を襲うのです

ジャガーは、北米南米大陸に棲む「ヒョウ」の仲間ですが、身体の紋様は「ヒョウ柄」ではなく、豹柄の円内にドットがある「ジャガー柄」である

幻の猛獣と呼ばれるほど、その生態は用心深いが故にほとんど知られてはいない

 

それが近年、乾季の川辺に頻繁に目撃されるよーになったそーだ

その辺には、カピバラやカワウソも生息するのだが……

集団(群れ)で合図しながら警戒しているので、さすがのジャガーも容易に手が出せない

そこで、カイマンを獲物にしたとゆーわけなのである

ジャガーはネコ科なのに、川に躊躇なく入り上手く泳ぐ

それだけでも注目すべきことなのに、なんと水中でワニを捕食するまでに進化したのである

 

川辺に繁茂する草むらに隠れて、河岸に浮かぶワニに飛びかかる

ワニの喉元に噛みつき、一発で仕留める(ネコ科は脊髄を狙う習性がある)

ジャガーはトラやライオンと比べても、ズバ抜けて咬筋力が強いそーだ

そして、10回に1回位しか狩りに成功しない狩猟下手なトラなど問題にならない位、樹上でも岩場でも狩りが上手い

山岳高地に「雪ヒョウ」なんてゆー仲間もいるし、見事にさまざまな環境に適応してきたネコ科のエリートである

 

とはゆーものの、陸地の王者の印象がつよい大型肉食獣のジャガーが、なぜ「川」に進出しなければならないのか……

危険を犯して、自分より一回り大きいワニを捕食するなんて、ワニから噛みつかれたら致命傷を負うことになるのに……

そーせざるを得ない切羽詰った事情があるのだな、生態系の頂点に位する猛獣でも、大自然を生きてゆくのは甘くないのですなあ〜

 

ー四足動物の実話だが、他人事とは思えなかった

人間にも、生き延びるために通過せざるを得なかった分岐点がある

これまたNHK『食の起源〜第四回「酒」』において知らされたのだが……

樹上から落ちた腐った果実 アルコール分を含むある種の毒物を摂取することが出来た人間のみが、アルコール分解遺伝子を獲得して生き延びることが出来たとゆー厳然たる進化の歴史……

また、大人数の「社会」とゆーものを形成するために、意外にもアルコールが重大な役割を果たした

アルコール「al_co_hol」は、三分節に分けられるが、それぞれ「神」の意味を持つ三つの言葉が合わさって出来た単語だそーだ  (*リンパ球バンク株式会社HPより)

つまり、三重に神々しい「神」とゆーのが語源である

 

アルコールを摂取することで生じる アセトアルデヒド(毒物を分解する遺伝子を持っていない人間の分布と、稲作が盛んな土地の分布がピタリ照合する不思議……

アセトアルデヒド分解遺伝子を持っていないのは、稲作をするアジア人に多いという

日本人も該当する、水辺で稲作をすることで体内に取り込んでしまう有害微生物を死滅させるために、酒によって生成される体内毒物・アセトアルデヒドを利用して生き延びたとゆー不可思議な歴史……

酒に弱い者が生き延びた土地()もあったのである

臨機応変に、大自然をわが身に迎え入れて来た歴史が、われらがご先祖には存在する、私たちはその強靭な遺伝子を授かっているのだ、安心してよいかも知れぬ

 

 

 

 🔴明治維新が何故、最大事なのか〜 単なる歴史上の事件では収まらない

 

わたしたちの学校現場での、わが国の歴史教育(国史・日本史)を振り返ってみると……

古代から江戸時代の終わり(江戸幕府の崩壊)までで、90%という感じで、明治から現代までは3学期の末にちょこちょこ教わって、後は各自読んでおくようにといった杜撰な教え方だった。

いまも、それほど変わりはないと思う。

 

百田尚樹による、渾身の日本通史である『日本国紀🇯🇵』では、

古代から江戸時代の終りまでで、ちょうど半分である。明治から現代までが、丸々後編に当たられているのである。わたしも、そうであらねばならぬと深く共感している。

明治以前と以後とでは、別の国かと違えるほどに変貌をとげている。

 

西洋における、遺伝子的にみて人類を脅かす大事件だったのは、イギリス🇬🇧で勃興した「産業革命」であろう。

人びとの賃金収入は、産業革命以後には1020倍もアップしている。

人口は拠点都市(都会)に集中しはじめて、ムラ社会の自然から遠く離れた、反自然の人口稠密生活が激化する。

テクノロジーへ適応しなければ生きてゆけない故に、社会の様相は「知識社会」へと傾いていった。

そして、その流れについていけない人々が大量に現れ始める。

 

西洋の知識人でさえ、落ちこぼれるような劇的な「産業革命」を知り(強制的に知らされたというべきか)、その生活ぶりや生産活動の激烈な格差に直面した日本は、この人類史上最大の波(抜本的なイノベーション)にいきなり乗ろうとした。

その、無謀なる国家的な試みこそ、「明治維新」の名で知られる大転換だったのである。

 

そうした「知識社会」の格差は、現在でも「見ようとしないだけ」で、連綿と続いていよう。

学歴が尊重され、パソコンの操作スキルが重要視され、SNSの発信力やコミュ力も採用条件になったりするのは、まさしく「知識社会」への適応条件だからである。

 

 

 

 

 🔴遺伝子🧬の生き残り戦略〜 先祖代々の遺伝子が決めた道

 

古代から何万年と継続してきた「ムラ社会(最大150人規模)」の中で揉まれた遺伝子が、都市型に移行して、分業が進み、さらに「産業革命」によって「科学技術」=「知識」が一番の財産となってくる。

そして、20世紀末の「インターネット革命」によって、さらなる洗練された「知識社会」が決定的な形をとってくる。

 

なにごとにも知識が最重要な社会になったといっても、永い狩猟時代の記憶が刻み込まれた人類には、そうそう易々と適応できるものではない。

かといって、何千年何万年の月日をかけて突然変異を待つことは出来ない。事は急を要する。

となると、すでに獲得している「機能」を伸ばすしかないではないか。

 

そうして、遺伝子から選ばれた「特質」が「幼さ」なのであろう。この特質は、人類史上実績があるからである。

「ヒトは霊長類のネオテニーとして進化した」

(※  オランダの解剖学者ルイス・ボルク、1920年)

 

…… ネオテニーとは「幼形成熟」で、幼年期の特徴を残したまま成熟することをいう。

ヒトは、チンパンジーの幼形成熟といえるらしい。

チンパンジーのこどもの特徴が、いまの人類の顔になっている。

 

われわれの東アジアは、特に「幼形成熟」の進んだ区域であるようだ。人口稠密で「科挙」制度があった中華文明がそれを促進した、遺伝子戦略だったのであろう。

獣性(暴力)をおさえ、つまりテストステロン値を下げて平和裏に社会を営むために進化したのであろうか、アジア系の睾丸の大きさは、欧米の半分しかないそうだ。

 

衣食住たりてネット社会に突入するにあたり、日本人は「幼さ」を選んだのである。

「幼さ」は、常若であり、新しい意識を獲得する場合に、柔軟に対処できる(可塑性が大きい)。

なによりも、数千年かけての新たな進化(突然変異)を待たなくてもよい、幼さを捨てて成長するのではなく、幼さをそのまま残しておけば事足りるのである。革命的な省エネであろう。

つねに新しい、好奇心を失わない、嬉々として全力でとりくむ、それが「子ども(幼さ)」という強みである。

 

 

 

🟣 ここで御断りがあります。

[※  以下、引用文と地の文が入り乱れるので、私的な要約は🚹印を、文頭に付けた]

🚹 産業革命は、単なる歴史のエピソードのひとつではない。人類の行く末を決めた、とんでもない出来事(未曾有の大変革)だった。

その結果、人類は自らを追いつめるだけでなく、ごく短期間で生態系の環境バランスを崩して、地球🌏のサイクルをも壊滅させてしまった。

ほとんどの人々が、その急激な変化についてこれなくなったのである。

 

 

橘玲『もっと言ってはいけない』あとがきより引用)

産業革命以前と以後で、世界はまったく異なるものに変わってしまった。

人類の第一の「革命」石器の発明で、

「誰もが誰もを殺せる社会」で生き延びるために自己家畜化が始まった。

第二の「革命」農耕の開始で、

ムラ社会に適応できない遺伝子が淘汰されてさらに自己家畜化が進んだ。

第三の「革命」科学とテクノロジーだが、

ヒトの遺伝子は、わずか10世代程度では知識社会化がもたらす巨大な変化にとうてい適応できない。

ここに、現代社会が抱える問題が集約されているのだろう。

 

 

🚹 成体として完了するサイクルを拒む、

つまりネオテニー【幼形成熟】とは、決して退行なのではなく、あえて云うなら、

「未完の大器」(完成しない最終形態)であろうか。

 

 

 

 

 ネオテニーまとめ 

 

🚹「かわいい(KAWAII💓)」に共通する特徴

 

多くの動物の赤ちゃんに共通する要素

・頭が大きい

・目と目の間が離れている

・鼻と口が小さい、ふっくらと頬がふくらんでいる

・目鼻が顔の低い位置にある

・手足が太くて短い、丸くてずんぐりした体型をしている

・しなやかで弾力性のある肌

・動作がぎこちない、不器用な動き方

 

「ベビースキーマ👶」と呼ばれる特徴

大人から、世話や保護をひきだすために、幼形がとる生存戦略

 

「かわいい」とは、自分の力だけでは生きていけない未熟な幼体(赤ちゃん)が、大人の力を借りて生き抜くための戦略である。

 

 

🚹 ネオテニーの発現

ネオテニーでは、脳🧠や身体の発達が遅くなるかわりに、適応するに際して可塑性が高くなる。

男は行動に出る。(子どもの遊び好きを残すために、女性に比べて事故に遭う確率が高い)

女は肉体にあらわれる。(多量の皮下脂肪をそなえることで、幼児体型に近づく➡︎ 男の保護欲求を惹きつける)

 

西洋女性は、髪を染める場合

90%がブロンドを選ぶ➡︎ ブロンド髪が少女らしい印象を与えるため

西洋女性の美容整形では、鼻を低くする手術をする

鼻が小さい➡︎ 子どもっぽく見える

 

アヒルぐち(めくれた唇💋)ーチンパンジーでは胎児期に現れるが、消えてしまう特徴、赤ちゃんのように見えるネオテニー戦略

 

 

 

🔴アシュレイ・モンターギュ(19051999)『ネオテニー』より

子供はネオテニーの本質であって、それゆえにつねに新しい存在なのである。

ネオテニーとは「遅滞」であって、実は「先駆」なのである。

 

 

🚹 動物学研究家の竹内久美子による

動物学で日本型リベラルを看ると〜 睾丸が小さい漢はなりやすい!!政治から学会まで本能の為せるワザ」

という産経新聞社『別冊正論31』に掲載された記事(2018.3)が、一部でそのあまりの暴論ぶりに物議をかもしたらしいのだが 、実に興味深い視点なので以下に引用してみる。

 

 「日本型リベラル」と呼ばれる人々をご存じだろうか。共産主義、社会主義が失敗に終わり、所詮は絵空事でしかなかったと判明した今でも、その思想にしがみついている人々。日本に特有の存在である。

共産主義、社会主義は睾丸サイズの小さい、つまり女にモテない男にフィットした思想であると私は考えるが、日本人の男は睾丸サイズの小ささという点においてそもそも、これらの思想に惹かれやすい要素を持っていると言えるだろう。

 

🚹 睾丸が小さいとは、男性ホルモンの代表であるテストステロンをつくりだす睾丸の性能が低いということなのだが、

社会主義が弱者救済の平等をうたっている点では、国民皆健康保険の日本は、理想的な社会主義国の一面は間違いなく兼ね備えていよう。

 

 

🚹 彼女は、動物学会からはトンデモ研究家扱いで異端視されているようだが、彼女の説の根拠にあげたデータ(エビデンス)は正確なものである。

平均の睾丸の大きさ(左右合わせて)

・ニグロイド(アフリカ系)ー 50グラム

・コーカソイド(欧米系)ーー 40グラム

・モンゴロイド(アジア系)ー 20グラム

 

 

🚹 進化論では、睾丸の大きさは性淘汰で説明されるそうだ。

意外なことだが、霊長類では

身体の大きなゴリラの睾丸が一番小さく……

その次は人間、そして一番睾丸の大きいのはチンパンジーなのである。

これはメスとの間柄で決まるようだ。

ゴリラは競争に勝ったオスがメスを独占するのに対して、

チンパンジーはメスを独占できず、複数のオスが同じメスとつがうために、メスの膣内で他のオスの精子に勝たなければならないからである。

 

ちなみに、今度は「脳🧠」から霊長類を比較してみると…… 

10〜20体の「家族」単位から成るゴリラ🦍の脳は小さい。

その群れの内では、見返りを求めない付き合いが見られる。

より大きな個体数で群れをつくるチンパンジー🐒の脳は、ゴリラと比べるとかなり大きい。これは、報酬のある(見返りのある)方に流れる「共同体(コミュニティ)」での生活となるので、付き合いの質が凄く複雑になり、勢い大きな脳に進化した。

そして、家族としての質も共同体としての質も、どちらも兼ね備えて、ともに高度な水準を求められる人間の脳🧠は、もっとも大きい。

最大限で150人規模の集団のひとり一人の顔容を覚えるだけの脳の質量は、およそ1500g位であると云う。

これ以上に、脳が大きくならなかったのは、人間が「コトバ」を発明したからである。

言葉の多用によって、巨きな記憶容量がいらなくなった。ここで、人類は生体的な変容進化を停止したことになろう。

 

 

 

※ ネオテニーについて、あまりにも見事に要約されていた文章を見つけたので、以下に引用する

🔴参考文献;サイト『幼児教室コペル』より

【コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス】

2019年4月 「日本人はネオテニー度が高いから脳が成熟する」

 

ネオテニーというのは、幼少期が長くなり、かつ、大人になっても未熟だということです。
未熟化というのは一見、退化のように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。

特に脳の場合、未熟ということは、様々な知識や経験を柔軟に吸収・学習できることを意味しますよね。

私たち日本人を含むモンゴロイドは、ネオテニー度が最も進んでいます。
日本人の頭が大きい、顔が平べったい、体毛が薄い、肌がすべすべしている、手足が短い点は、まさにネオテニーの特徴です

日本人は、幼少期が比較的長く成人しても未熟である傾向が強いので、脳としては成長する時間が長くなり、より進化して成熟しているということになるわけです。

 

モンゴロイドとは、日本人のように赤ちゃんのときにおしりの青さが残っている人種のことです。(私注;蒙古斑・青アザ
白人や黒人も胎児期には、おしりにあざがありますが、生まれてくる前に無くなってしまいます。

日本人は、そのあざが78歳くらいまで残りますね。
人類の中でもさらに幼児期が延長されているのです。

そして、そのモンゴロイドが最もネオテニー化が進んでおり、知的能力が大きくなる可能性があるとされているのです。

日本人が ” や 茶道華道” といった精神的な世界観を持っていることも脳の状態から説明がつきます。

モンゴロイドは、幼児期が延長されているため、論理脳が感性脳にふたをしてしまう前に、両方をバランスよく使えるような精神的な人間性能力が発達する期間が残されているのです。

 

 

🚹 最後に……

純度の高い大和心との出会いをもとめて、足繁く通っていた伊勢白山道のコメント欄でありましたが……

美しい日本をあらわした文章なぞ、滅多に出会えなかったものです。

たいがいは幼稚でポップな若造りの投稿である。(40〜60才が主流ではないかな)

あまりの中身の薄さに辟易していた……

文化をつくるのは、文字と言葉である。

 

日本亡国を危惧して、いろいろと辛口に諫めてまいったが……

それも、もうお終いにする。

 

意識よりも無意識よりも、先祖代々の生き残り遺伝子がみちびいた「ネオテニー進化」なのであろう。

もはや、これ以上言うこともないわ。お蔭さまで分厚い雲がようやっと晴れました。

日本人のもつ幼さが、未知に対応するための準備であり、予兆であるなら、辻褄が合うというもの。

      _________玉の海草

 

 

 

 


 「中道」 の真骨頂㊙️〜 中間(バランス)を取って程々に、とは大違い

2023-01-08 16:16:37 | 小覚

__ いままで、

中道・中立・中正・中庸中観」の解説には、

どれだけ欺されてきたことか。その凡庸な解釈を鵜呑みにしていた自分を今更ながら悔いている。

「二つの中間を歩む、中間に立つ、中間を庸(もちいる)」だからといって、

「二つの極端を避けてほどほどに」という意味じゃないんだよね。

 

 

【蛇を頭上にのせた、宇宙人のような 龍樹(ナーガルジュナ)は、釈尊が生前に予告してした聖者であり、釈尊の原初の「仏道」を「大乗仏教」という別物に入れ替えてしまった、仏教史最大の哲学者でもある。上記の本に描かれている、ダイナミックな「転法輪」☸️は、龍樹の「中観(中道観)」の実相をよく表しているように感じられてならない

 

 

釈尊の中道は、初転法輪(初めての説法)において、

「快と苦のどちらにも偏るな、二辺を避けなさい

と仰ったことから、

「両極端を避けなさい」という意味で通説になってしまったが、そんなありきたりなものではないそうです。

「二辺」つまり二つの対立概念から離れなさい という意味だとか。ヒンドゥー🛕の非二元(アドヴァイタ)です。

 

孔子の中庸にしても、孫の子思が書いた『中庸』では、「喜怒哀楽未発の中」と述べています。

喜怒哀楽の感情が生まれる以前の「中」ということです。

意識・無意識の生ずる前の真我、仏教の「無分別智」といった処でしょうか。

 

「中」という文字は、日本語で「あたる」と読むように、ちょうどいいという意味合いもあります。

一休の「この橋わたるべからず」とは、端(二辺)をわたるなという意味ではなく、真ん中の大道(道の真ん中ではない)をゆけと解きます。

 

 

Rさん(伊勢白山道)も、グルジェフの自己想起を解説した記事のなかで、4段階の自己想起をした上で、「常に相手と自分との中間を意識する」と云われています。

この「中間」という言葉のチョイスが誤解の元なのですよ。

これは、相手と自分のどちらにも肩入れせずに、斜め上から静観するということでしょ。

聖ラマナ・マハリシの「映画の喩え」📽でいうと、相手と自分とは映像であり、中間とはスクリーンのことだと思います。まー、神の視点でもよいでしょう。

 

だからして、中道とは「バランスを取る」ことではないのです。「両極端を避けてほどほどに」ではないのですよ。

もし中道の意味する処が「バランス良くほどほどに」であるのならば、釈尊ご自身のたどった軌跡は、中道だと言えるでしょうか。

妻子のある一国の王子の身で、すべてを捨てて出家する、生死の危険が伴うレベルまで極端な荒行(例えば「断息行」では鼓膜が破れるまで極めている)をやり続ける、それらのどこが「中道」なのでしょうか。

 

菩提樹下での成道以前のことがら故、釈尊ご自身よく分かっておられなかったという解釈も成り立ちますが……

大悟なさった後でも、それを修正することはありませんでした。「中道」をとるといっても、還俗なさったりはしませんでしたし、故国シャーキャ国の滅亡も静観して見送っておられます。

 

釈尊は、「二辺(二元性)」がある現実が恐ろしかったから、出家したのです。そして見つけたのが釈尊の「無」であり、後世の龍樹があらためた「空」でありましょう。

空=仮=中ということで『中論』を書いています。

釈尊はつねに実践が伴う哲学でしたけど、龍樹はズバ抜けた抽象理論家(物理学者)の感じがしますね。

 

結論として、中道の意味は「ニュートラル」(エンジンは動いている)が一番実態に近いと思います。

 

「有る無し」の彼方に控える「無」だとすると、ニュートラルには、中立や中性の他に、「無性」の意味も含みます。

中間色とともに「無彩色」の意味もあり、去勢された動物の意味もあります。

「ニュートラル・カンバセーション」で当たり障りのない会話となります。

 

ギアの入っていない「喜怒哀楽未発の中」のニュートラル状態動力源は稼動中が、「中道」に相応しいと思います。

 

 

ABとの中間を取る(=バランスを取る)といった複雑な操作では、咄嗟の場合に複雑すぎて選択できないと私は思っています。動いているA B、その中間なんて、三点も瞬時に把握できないでしょ。

だから、「バランスを取る」じゃなくて、動く映像に心動かさないでスクリーンを意識する「中道」を採用するなのだと思います。静観するというのは、そこまでしなければならないということでしょう。

 

中道の本来の意味は、「普通」の原義(あまねく通用する)と近いのではないかと推測する。

「道(TAO)」にあた(中)れば、普く通るからです。

 

※(wikiより、ナーガルジュナの「中観(=中道観)」について)>

「中観」のサンスクリット Madhyamaka madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある

 

ー 中道の奥深い意味を辿ってきたが、それを生活現場に落とし込めば、「ああでもない、こうでもない、無難な道」という処世術もあり得るのかも知れない。

人間には、倒れないように踏ん張る「生存本能」がある。そんなときには、必死に踏ん張っているわけで、必ずしも「中間」を意識してやっているわけではない。

 

巻き込まれた交通事故にあっても、咄嗟に神がかったように正確な判断をして、九死に一生を得ている素人のケースも、数多く報告されている。

無心にあって、中道(=正しい道)を間違いなく撰びとることが出来るのは、非二元(アドヴァイタ)の神の眼で観ているからではあるまいか。

      _________玉の海草

 

 


《玉断》 ドリームキラー(夢の破壊者)は言う〜 「夢をもて ♪」

2023-01-08 04:44:02 | 雑感

🔴「夢をもて」なんて言い始めたのはいつから?

進学校において、成績のよい生徒は教育学部にはいかないとは、私の生の実感である。

「先生」と呼ばれる方々は、ほどほどで諦めた経験が多いと思う。

日本の教育現場は、最高の頭脳と徳性を持つ者からは避けられる処に、国策の根本的な誤りがある。教育者は、本来最高の者が担うべきなのである。

その学校教育の現場で、しきりに「夢を持て」と言われ出したのは、いつ頃のことなのであろうか?

 

こういう意見があります。

「夢を持て」と強要する、大人たちがダメすぎる

 

子どもの将来のために「よかれ」と思って、「夢を持て」と励まし続けた結果、子どもから言わせると「ドリーム・ハラスメント」になっていたと。

単細胞で善人づらした、ほどほどで諦めてきた凡庸な大人たちは、

杓子定規な善意から、子ども達の「ドリームサポーター」であろうとして、

かえって「ドリーム・キラー(夢の破壊者)」となっていることに気が付かない。

老子的な現実認識に欠けているからである。

 

 

北野武『新しい道徳』のなかに、こんな言及がある。

今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、やたらとそういうことを子どもたちに強調する。
道徳の授業もそうらしい。

夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。

節約とか節制なんて言葉もあまり見かけなくなった。
時代が変われば、道徳は変わるのだ。

 

夢をかなえた、ごく一握りの人にスポットライトをあてて、夢を見ろと煽る。宝くじの宣伝と同じ程度の話なのに、学校の教師までが、子どもに夢を持てなんていっている。

夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。

夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。俺は心の底からそう思っている。

 

どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。

 

人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
まだ遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。

 

…… 夢破れた凡庸な教師に、学校🏫で教えられた「夢を持て」を、そのまま何の疑いもなく子どもに教えている未熟な大人たち。

[※  昔はよく「でもしか先生」と言われたものだ。「先生にでも成るか」「先生にしか成れない」凡庸な成績の学生さんの行く末を揶揄した言葉である。]

「地に足を着けて生きる」と「夢をもつ」を両建てで進めるのが、成熟した大人のあり方であろう。

「夢を持て」といわれて、現実を見つめずに現実逃避し始めたのは、「団塊ジュニア世代」以降ではないかな。

つまり、きわめて底の浅い人生観といえる。

大人が子どもに厳しいことを言うのは、子どもの人生に責任があるからに他ならない。

夢ばかり語っているのは、精神年齢が子どもなのである。

 

 

🔴ポジティブ一辺倒な危うさ(薄っぺらな人生観)

戦後、自分たちの権利を主張するためにリベラルに便乗した「団塊の世代」は、欲望のおもむくままに「自分探しの旅」と称して、親や大人社会に逆らうようになった。

戦前の日本を全面的に拒絶した彼らは、権威という権威を壊しまくって飽きることがなかった。

その子らが子供を持つ頃には、調子に乗って「夢をもて」だの「有意義な人生をおくれ」だの、「自分らしく個性を磨け」だの、ポジティブ一辺倒なことを口走り始めた。

そんなことを言い始める以前の日本人は、つつましくささやかな幸せを尊ぶ「清貧」が皆の共有する道徳だったのである。(たけし談)

 

史上、ネガティブな思想の代表が、釈尊の「諸行無常」(すべては過ぎ去る)であろうか。

人生に、生きること自体に意味はない、自分が思っているほど自分という存在は確かなものではない。

ほんと、一見、救いようのない達観ですが……

深く思いを致せば(静観すれば)……

本当にそうだとすると、「前向きに生きる」とか「自分の個性を発揮する」とか「有意義な人生をおくる」とかと、別に肩肘はって自分の課題とする必要はないということです。

「自分探し」して、「生きる意味をみつける」なんて、生きてゆく上で特に不可欠なものではない。

それは、日本の高度成長期に全世界的に流行した、リベラルの一過性の思想に過ぎないことが腑に落ちてくる。

 

皮肉にも、親に反抗して好き放題に日本文化を踏みにじった「団塊の世代」の子供たちが成人して就職するころには、日本は「就職氷河期」を迎えていた。

過大な夢を抱かされて、その夢に敗れた子供たちは、ニートに堕ちていった。

 

75歳ー50歳ー25、「団塊の世代」の孫世代は、祖父母からも両親からも(日本古来のものではない)厄介な思想を吹き込まれて、いまがある。

二代に渡る反面教師と、同じ屋根の下で暮らすのも結構なストレスであろう。

往って還る、登って降りる、その帰り道や下り道にも見るべきものはある。

アンチエイジングではなく、エイジング(老い)で徐々に弱ってゆくことの中にも救いがある。

 

遺伝子🧬レベルの生存戦略では、人間はネガティブな情報(危険性)を優先させる。

ネガティブな釈尊と表裏一体、太陽族の王子だった陽気な(ポジティブな)釈尊もいることを忘れてはなるまい。

ポジティブ一辺倒なんて、疲れるし長続きしない。

無理が通れば、道理がひっこむのである。

自然体の内に、安らぎがある。(身の丈に合った分相応の境涯)

 

 

__ 夢を持っている人も、修行に打ち込んでいる人も、将来のために今の時間を使っていることでは同等である。

🔴「修行」を美化しないこと

使い古されて、スピ系の垢がついている言葉「修行」には、

何かしら努力し続けて、報われる図式みたいなウソを感じます。

タモさんの「ジャズな人」じゃないけど……

修行者なんて、「明日の(悟りの)ために生きている人」ですよ。「今を生きている」わけではありません。

ある目的のために、全力で努力することは、目的(例えば「悟り」)に対する凝視があるわけで、それは強い執着ということです。

いわば、明日への執着のために今日という日を犠牲にしている人です。

道元のいうように、修行に果てしがないのならば、準備し続けて終わる人生もあるでしょう。

 

 

__ 最後に、人類全体が己自身にかけた呪縛というか、ポジティブに言えば「夢」。異性と一緒になって幸せになる夢を持てと無意識にけしかけられているが、そのステレオタイプに潜む、本質的な二律背反の罠。リベラルの目指した「自由恋愛」は、社会的な結婚制度の崩壊をもたらした。

男の思い描いた「理想の女」、女の思い描いた「自分だけの男」、互いの夢は決して交わることはないのに、薔薇色のカップルになろうとする悲哀。

「夢をもて」とばかりに、高望みして現実を踏まえない無邪気さは、後年深刻な心のキズを刻むこととなるだろう。

以下の拙稿は、ブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄では、不掲載だったものだ。なにゆえに拒まれたのか、かえって興味が湧いた。

 

🔴人類の男女ツガイ・モデルは崩壊したのか、自由になったら結婚しない皮肉

NHKEテレの特集で100分deフェミニズム』を興味深く拝見した。

お笑いの賢女バービーのMCで、出演者全員女性で、わたしの贔屓の上野千鶴子女史も出ておられた。

 

その筋では、名の通った論客を集めたものだった。

お一人ずつ、フェミニズムに多大な影響をもたらした著作を推薦しながら、話が進められた。

千鶴子さんのは、セジウィック『男同士の絆』であったが、男性社会における女性排除によるホモ・ソーシャルな構図女性蔑視と同性愛嫌悪を共有する男同士の仲間意識)が、イラストで図解されると、ほんとうに分かりやすく理解された。

家父長制そのものが、女性差別だったことに思いあたると慄然とせざるを得ないものだ。

日本の旧家や、庶民でも『寺内貫太郎一家』のような昔ながらの頑固親父は「家父長制」を礎にしている。

ヨーロッパからロシア・アジアまで、貴族から一般家庭までみんなそうである。お父さんは例外なく家庭の支配者だったのである。

女優の安藤玉恵ちゃんのロックな朗読も素的でした

 

【NHK朝ドラ『あまちゃん』にもご出演、あまりの色っぽさに仰天した、知性あふるる女優・安藤玉恵】

 

 

中美津・水田宗子・上野千鶴子の本をかじり、男女の溝について理解が進んでくると、同時にそのどうしようもなさにお手上げするしかないようだ。

ミロクの世の到来(2039年)、半肉半霊とは、最早男女のツガイでは人類は成り立たなくなっていることを示唆してはいまいか。

女に対する、大母性に対する、あらゆる幻像が完膚なきまでに破壊される体感がある。

天照太御神が輝かなくなったと言ってよい。

釈尊のサンガ(僧のコミュニティ)に女性を引き入れた阿難尊者は、果して正しかったのだろうかと、いまでも時々アタマを過(よぎ)る。

 

ービートたけしの云われた、戦前の日本人が尊んだ「清貧」の美徳。

高度成長期では、大量生産・大量消費を謳っていたから、まさしく「清貧」の逆のベクトルを進んだ。それがバブル経済が崩壊して、30年にも亘ってゼロ成長時代を続けた日本国は、また揺り戻して「清貧」の現実性に立ち返るのではあるまいか。

文字通りの「清貧」とは行くまいから、今流行りのコトバで「カチヘン(価値の変化)」ということになろうか。

NO MUSIC, NO LIFE の産みの親、箭内道彦が云っておられた。

特技を生かすじゃなくて、短所で生きるみたいな事がカチヘン(=価値を変える)だと思っている。

 

…… これは、アンチ・エイジングではなく、エイジング(自然に老いる)を受け入れることにも繋がる。「価値とは欠けている何かである」と言ったのは誰だったか?(サルトル?)

堂々と朽ち果てて、没落のうちに生を全うするといった風情になろうかのう。

欠けてゆくことを豊かさに転換する、生存のスキルをこそ「老人力」というのであろう。まだまだ、愉しみは続くのである、

青春が終わったら〜 朱夏〜 そして白秋〜 最期に玄冬

それぞれに、時分の花があるというもの、螺旋状にステージは上昇してゆくみたいですね。終わったら始まる、始まったら終わるもの、何の気なしに移り変わってゆく、そーゆーものであるということで、いいんじゃない。

        _________玉の海草