⚪️‥‥ 20230101
“ 小さい仏教と大きい仏教 ”
昨今は、東京🗼でも僧衣(袈裟)の坊さんが街角に立って、布教しているようです。
かれらは、日本🇯🇵の伝統仏教(お寺)の僧侶ではない。
スリランカ🇱🇰、ミャンマー🇲🇲、ラオス🇱🇦、タイ🇹🇭などのいわゆる「南伝仏教」の坊さんなのである。
昔は、かれらは「小乗仏教」と呼ばれたが、小乗(小さな乗り物)と呼ぶのは、大乗仏教側からの差別であり、蔑称だということで……
テーラワーダ仏教(上座部仏教、あるいは部派仏教)と正式に呼ばれることとなった。
日本には大乗仏教しか伝わっていないから、馴染みがないのだが……
大雑把にいうと、
・テーラワーダは、自利(個人の悟り)を追求して、
・大乗仏教は、自利利他(すべての人びとの救済)を追求します。
テーラワーダは、輪廻転生から解脱する「阿羅漢の悟り(灰身滅智)」であり、
大乗仏教では、衆生済度を目的とする「仏陀の悟り(無上正等覚)」であり、その行動は菩薩行となる。
最近になって、テーラワーダ仏教の スマナサーラ長老 が、『般若心経は間違い?』(2007年刊)というタイトルで、新書を出版された。
【かなり学問のある人という印象をうけるが、どうも日本で云う「上人」と敬われるお顔ではない。ときどき人相がなあ〜底意地がわるいような、なんとなく怖いお顔である】
葬式をとりしきり、墓を守ることで、漫然と生きながらえてきた日本の伝統仏教にとっては、スマナサーラ長老の激しい非難は、おなじ仏教徒からの内内の指摘として、襟を正す機会となったのではあるまいか。
スマナサーラ長老は、哲学の勉強をみっちりされた方で……
大乗仏教を産む原因となった、龍樹の哲学については高く評価しつつも、龍樹の仏教僧としての実践(仏道)に対しては烈しく攻撃している。
なぜなら、釈尊は形而上学や哲学を仏教に持ち込まなかったからである。争論のための哲学談義などもっての外だったのである。
それを龍樹は、「空」の哲学を押し立てて、釈尊の仏道を捻じ曲げてしまったというのが、スマナサーラ長老の説く処である。
一見するところ、小乗と蔑まれたテーラワーダ仏教が、大乗仏教の到達点である日本の仏教を攻撃している構図なのだが……
大乗サイドでは、小乗サイドの仏典や行法も尊んで研究する姿勢をとっているのに対し、小乗サイドでは大乗仏典を一切認めないで、小乗で定めた「お経(パーリ語やサンスクリット語の経典)」しか承認しないのである。
正統に継承されていれば、それもひとつの姿勢と見識とも言えるのだが……
スマナサーラ長老のスリランカ🇱🇰のテーラワーダ仏教は、歴史上2回も失伝している。
法灯が途切れているのである。
おまけに、テーラワーダ即ち「上座部」を名乗っているが、
釈尊歿後の第三結集において、伝統的な上座部の教えに反対したのです。つまり、上座部の代表的な「説一切有部」から分かれて「分別説部」と呼ばれるセクトとなったのです。
「結集(けつじゅう)」と呼ばれる、仏弟子が一堂に会しての「釈尊はこのように仰ったよね」と確認する会議が、100年毎くらいに開催されたが(最初はすべて暗誦による口伝で、文字で記録されることになったのは第4結集から)……
やっぱり仏弟子のあいだでも、認識の違いは生まれてきたようだ。
釈尊歿後100年で、仏教教団は二つの部派に分裂した。
・【上座部(じょうざぶ、保守的な長老たち)】と
・【大衆部(だいしゅぶ、革新的な一般僧たち)】
[※ 部派仏教が国から保護されると、どうしても貴族的な学問仏教になってしまう。いきおい、現実から乖離してポピュラーなものから離れてゆく。そうした状況に不満をもつのは、いつの時代も一般大衆である。
日本でも、比叡山や高野山は貴族仏教だったから、鎌倉の新仏教が庶民に浸透して大衆化させたのであろう。]
それ以降も、分裂をくりかえし、部派仏教と呼ばれるセクトに分かれていった。
最終的に、上座部と大衆部あわせて合計20部派のセクトが出来上がった。
スマナサーラ長老が所属する「分別説部」は、この20部派にも入らない、上座部から異端扱いされているマイナーなセクトなのです。
それでも、そんな部派仏教も次々と滅びて失伝していって、まがりなりにも「三蔵(経・律・論)」が揃っているのは、この「分別説部」だけなので……
スマナサーラ長老たちは、まるで上座部の代表のように「テーラワーダ仏教」を名乗っているというわけです。
この部派仏教は、二回失伝しているほかにも大きな問題を孕んでいます。
「分別説部」の三蔵は、5世紀のスリランカ🇱🇰僧・ブッダゴーサ(仏音)という人が、個人的に編集したもので、仏教の伝統的な正統性は無いのです。
釈尊の経典よりも、ブッダゴーサの説のほうが権威があるのですから、困ったものです。
最近になっても、マハーシ(1904〜1982)という僧侶の瞑想センターが人気があって……
その結果、テーラワーダで行する瞑想は、本来「止観」といわれる
・サマタ瞑想(=止)と
・ヴィパッサナー(=観)瞑想
の二つのうち、ヴィパッサナー瞑想に偏るようになっていまいました。
こんなに、仏教教団として問題をかかえているのに、
「わたしたちの説く教えは、釈尊の教えを踏襲する原始仏教である」と主張しているのですから、困ったものです。
テーラワーダ仏教というのは、日本で行われている大乗仏教のことは、釈尊の仏教として一切認めていないのです。
何故、こんなにも不完全な「テーラワーダ仏教」が、日本人に訴える処があるのかというと……
かれらは、かれらの修行メソッドで「悟った者」を実際に輩出しているからです。
かれらには、仏教修行の実践があるからです。
かたや、わたしたちの伝統仏教である大乗仏教では、高度な理屈でいいまかされることはあるものの、「悟り」や「解脱」にたいして、明確な方法論を持ち合わせていないのです。
私たちにとって、坊主とは宗教実践者ではなく、「葬式仏教」のエージェントに過ぎないのです。葬式担当のビジネスマンに堕してしまっています。
スマナサーラ長老は、「アンガー・マネジメント(怒らない)」の本📕を出版したり、仏教僧として仏説から「生きる智慧」を提供しています。
宗教者として生きているのです。
日本には、宗教者としての坊主が何人いるのか、ほんとに情けない有り様に泣けてくる。
伊勢白山道は、「宗教は無くなります」と予言しているが、そうでなければならないと思う。
現在蔓延っているような「職業宗教者」は本来いらないのだ。
仏教者は、釈尊も云われたように「流れにさからう者」である。だから、世間を出る=出家というのだ。
アウトサイダーであり、アウトローである坊主(仏教者)が、世間から受け容れられるために戒律がある。
日本の坊主は、戒律も自分律ももっていないからね。
こうした大乗仏教の腐敗ぶりを目の当たりにすると、スマナサーラ長老の怒り💢も分かるような気になる。
_ . _ . _ . _ . _ . _
⚪️‥‥20231231
“ 最高の女性ヴォーカリスト、山下達郎にコーラスを教えた無敵の女 ”
わたしらの世代は、フォーク音楽も知っているし、ニューミュージックの黎明から知っている世代だ。
シンガー・ソングライターが出始めた頃に、十代を迎えている。演歌・歌謡曲から〜フォーク〜ニューミュージック〜そのまま洋楽へという、夥しい変化量はそれは凄まじかったものだ。
そのころの象徴的なアイコンといえば、いまも活躍しているユーミンや中島みゆき、吉田拓郎・井上陽水から山下達郎に続く天才たちの系譜のなかから、彼女が露われた。
はっぴいえんど(細野晴臣、松本隆と親密)・ティンパンアレイやシュガー・ベイブでも、コーラスに参加したりしていたから、彼女の声は早くから耳に馴染みのあったものだったんだよね。
あらためて聴いてみると、70年代後半からは、目立ったヴォーカリストだったんだね。
ただ、雷⚡️を落とされたような衝撃を感じたのは……
1981年に、FMラジオ📻から鳴り響いてきた「TOWN」だった。なんだこのグルーヴは!、黒人そのものじゃないか、ブラック・ファンキーですよ……
日本人離れした黒人的リズム感覚をもって、鮮烈にデビューした久保田利伸が顕れる、あの「TIMEシャワーに射たれて…… 」がリリースされる5年前のことですよ。
松田聖子のデビューが、前年の1980年でした。
まず、聴いてください。「TOWN」(1981)
【アルバム『Monsters In Town (1981)』の最初の曲が、Town 。2曲目も佳いよ、2. 06:19 Lovin´ You 、美奈子さんは、高揚と抱擁が交互に来ますね。】
あの時代、こんな曲聴いたらブッ飛びますよ。
なんか聞いたような、知った名前じゃないかと思って……
どんな女なんだと、音楽情報誌なんか見て、ぶったまげましたね。こんな髪型している女は当時いなかった。
根性入っているなと、感服した覚えがある。
ただ、お声は限りなく優しく、包み込むような大母性がある。人間離れしてるんだよね。
キャー♪、美奈子さん、突き抜けていらっしゃる。とんでもない人間力なんだよね。
ミチコ・ロンドンはUK🇬🇧なんだけど、どこか美奈子さんに似ている気がする。
ユーミンや中島みゆきからも天才シンガーソングライターと言われていたし、あの生意気な凄腕メロディメイカーで杏里成り金と云われた角松敏生さえ、美奈子姐さんのことは崇めておられる。
大瀧詠一「夢で逢えたら」(1978)も、歌いこなして大瀧を感心させている。
次の「恋の流星」(1977年)もその当時の作品。
アンルイス「恋のブギウギトレイン」(1979年)の作詞も手掛けている。
🗼FM東京『サウンドストリート』で流れた(1980)、美奈子さんと達郎のデュエット。コメント欄📝にこんな書き込みがあった。
> 達郎さんが、日本で一番歌が上手い女性歌手は美奈子さんだと言ってたのを思い出しました。
Niteflyte の知る人ぞ知る伝説の名盤からの一曲だが、SMAPの「がんばりましょう」の元ネタの曲 “ You Are ” もこのアルバムだった。
この “ If You Want It ” からインパイアされて出来た曲が、誰もの人生を鼓舞するギター・カッティング🎸曲 “ Sparkle ” (1982)である。
【以前貼った動画が削除された🆑から、替わりに2023年の公式MVを貼っておくが、この新しいMVは好きではない。「スパークル」がリリースされた80年代のウネルような陽性の爆発力💥が感じられない。こんな無機質でパステル調の楽曲ではないんだよね。わたしは、「プラスティック・ラブ」に匹敵する「魂を鼓舞する曲」(地面を踏みしめるリズム)だと思うんだよね。
達郎は、サブスクにも手を出さないように、著作権©️にすこぶる五月蠅いアーティスト(アルチザンか?)なんだよね。おそらく、YouTubeで自分の曲を使った気に入らない動画があると、抗議して削除🆑させてるんだと思うんだよ。
金や契約で苦労した達郎だけに、その気持ちや拘りは分からんではないけど、いまの時代感覚ではどーしても狭量に映るのは否めない。ジャニーズ問題でも老害扱いされていたし、恩義を忘れない昔気質の職人そのものですね、ただそこが達郎の良いところでもあるんですね。まー、アーティストは作品がすべてですよね。達郎の替わりは誰もいないものね。】
1978年のアルバムから〜
1. 00:00 愛は思うまま (Let's Do It)
3. 09:03 時よ (Time)
4. 12:38 海 (The Sea)
【このアルバムは、美奈子さんはあんまり納得していないようなのだが、良い曲が多い。まー、EW&Fが本来の自分たちのサウンドではないと言っていた大ヒット曲『ブギー・ワンダーランド』みたいなものですね。レコード会社の圧力が強かったんだろうね。達郎も当時苦しんでいたもの。】
1982年のアルバムから〜
1. 00:00 Light'n Up
2. 05:49 頬に夜の灯
4. 14:46 風
【デュエットの 4.「風」も佳い、渋いし温かい。美奈子さんの純粋な資質がよくあらわれたアルバム】
80年代の末尾を飾るアルバム。この頃、美奈子さんのご主人が亡くなって、精神的に一番大変だった時期の作品群。
【2. Gifted 5:23 は、けだし名曲。大聖堂(カテドラル)のミサ曲みたいな荘厳さに厳粛になっちゃう。】
__ 最後に、90年代の名曲アルバム『EXTREME BEAUTY』(1995)から
3〜4曲目の「Mistic Paradise 9:29 」「Coco 16:15」が心揺さぶられる曲、
竹内まりや「プラスティック・ラブ」や山下達郎「スパークル」に通じる、魂を鼓舞するヴァイブレーションが堪らない。
__ 美奈子さんも、現在御ん歳70歳になり、ちょっとぽちゃとして、可愛らしくなられた♪
まるで魔法使いのような、深い眼差しをしておられる。
可愛いおばあちゃんになってて、安心する。この御方は、菩薩や如来であっても驚かないであろう。
わたしは、おそらく吉田美奈子を信仰している。
_ . _ . _ . _ . _ . _
⚪️ ‥‥ 20231227
“ ぽんぽんと気持ちよく柏手を打つには ”
この15年、神前での拍手👏で、鼓を打つような妙音(ぽんぽん)を出せるように、日々試してきたが……
ようやくこのごろ、ほぼ確実に鳴らせるようになった。
わたしの拍手のやり方は、伊勢神宮の神官の拍手(両手を重ねてから、両掌をずらして拍手した後に、ふたたび両掌を重ねる)とは、異なるかたちになったことを予めお断りしておく。
まず、下準備として、
・リラックスするように、揃えた両足のかかとを三度上げ下ろす(合気道で、重心を落とす時に行う基礎動作)。胸のあたりで、てのひらを上にあげてから下におろす(二回)。「意識を下に、重心を下に」、武道の自然体を心する。
・ まず両掌を合せて腕を前に伸ばして真っ直ぐに。そして、心持ち胸元方向に引き寄せる。(拍手👏は、余裕をもって打った方がよい)[20240502. 付け足し]
…… 最初から胸元で掌を合せてもよいが、叩く時に力が入り過ぎるキライがある。肩に力みが入らぬように、身体をほぐしておくと良い。
二拝
1)両掌をズラさずにピッタリと合せる。
2)中の三指を揃えてから、
親指を上の方向に小指を下の方向に、すこし離す。
親指と小指の合わせた先を「こころもち」離す。
このときに、親指の反らし方が「PON音の鳴る空間」を造る。
[※ 掌全体を脱力してゆるませる。但し、ある程度緊張していても両掌の空間の形がよければ、PONと鳴る]
親指のねもと「金星丘」と小指側の「月丘」が軽く接する。
[※ 漫画『刃牙』で取り上げられていた赤ん坊の拳の握りがヒントになった。この究極の正拳突きのためのグリップを参考にした]
3)三本(人差し・中・薬指)の指先のみをかるく接する感じで、掌(たなごころ)の窪みで音の鳴る空間を意識する。[※ 掌の脱力か緊張か、どちらでも良い]
4)勢いを念頭にこめて、(10センチ位離して)ぽんぽんと潔く打つ。
左手が「《 」の形で、右手が「 》」の形を取る。両掌の「くの字」の頂点同士を勢いよくぶつからせる感じ。そのとき、両掌の「くの字」で形成される「菱形◆」が両側から押されて、「一本の棒」と化す。菱形の空間内の空気が勢いよく噴出される。
ちょうど井桁を畳むように。
それは、ぽんぽんと妙音となって響き渡る。
ニ拍
4拍(出雲系)や8拍(伊勢系)の場合には、打ち終わったあとに、そっと音の鳴らない【陰打ちを1拍添える】のが定法であるようだ。
一拝
…… ひとつひとつ着実に間違いなく履行すると時間がかかるが、そのくらいの心の余裕と落ち着きはほしい処だ。
かくて、能舞台で鼓を打つときの、ポンポンと明るく朗らかな音色が響き渡るわけである。
掌内の空間を無心に感じとると、妙音の鳴る形というものがあるような気がする。
__ ここで参考までに、山蔭神道の表博耀先生の拍手を紹介しておきます。古義に基づいたといいますか古式に則った「音が割れない、竹🎋を割ったような拍手」を詳しく解説してくれています。
【動画の、6:10秒あたりから、両掌をずらす拍手の古義とやり方を実演して下さっています。神社庁の神主の奏でる正統的な拍手の型です】
白隠さんの「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案を思い出す。
両掌相打つと、音声を生ずる。
その音を、神をお呼びする声(合図)にしているんだねえ。
神聖な音だから、なるだけ、ぽんぽんと気持ちのよいものにして奉納したいものだ。
小鼓を打った音色ってものは、乾いて円やかで天に達しそうな音だものね♪
_________玉の海草