『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

《玉断》 カルロス・カスタネダ〜 「明晰さ」 の先にあるもの ‥‥

2022-06-13 11:33:26 | 小覚

__ 文化人類学者からスタートしながら、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスに出逢うことによって、フィールドワークを重ねて、いつの間にかメキシコ🇲🇽のトルテックの秘儀参入物語を描いてしまった、UCLA出身の作家カルロス・カスタネダについて、まとめてみたい。

 

【ドン・ファンの呪術的な盟友(ALLY)は、ワタリガラスであった。】

 

【ほとんどの訳は、真崎義博さんがご担当になられた。ドン・ファンのとぼけたユーモアや冷徹な箴言は、真崎さんのお力による処が巨きい。】

 

 

● ドン・ファン・マトゥス

古代メキシコ(トルテック)のシャーマンの流れを汲むブルホ( brujo =呪術師・医者等の意)、ヤキ族のインディアン

その軽妙洒脱で 深い人生経験による認識から紡ぎ出される語り口は、ボクの内ではグルジェフに匹敵する

ユーモアたっぷりだが、凄みのある怖さが漂う

彼は自らをナワールと称し、『イーグル』に呑み込まれないように闘う自由の戦士であるとの記述や 独特の世界観の中で、地球には48本の帯があるといった記述がグルジェフの『月の捕食』や水素表の48番に符合する

そーしたことから、UCLAに在籍した人類学者カスタネダによる、グルジェフのパロディとの見方もある

「管理された愚かさ」

「履歴を消す」

「世界を止める」

「自尊心をなくす」

「死はアドバイザーである」

 

(ドン・ファン・マトゥス)> 

非情に、しかし魅力的にな。

狡猾に、だが気持ちよく。

忍耐強く、だが活発に。

やさしく、だが容赦なくな。

女だけにそれができる。

ー非情さが苛酷さに

ー狡猾さが残酷さに

ー忍耐が怠慢に

ーやさしさが愚かさになってはならない

 

> 「何だって百万(もの道)のうちのひとつさ。

だからお前も、いつでも、道は道にすぎんということを心に刻んでおかにゃいかん。

お前がその道を行くべきでないと感じたら、どんな時でもそこに留まってはいかん。…… ()…… 

だが、その道を進むか離れるかの決心は、恐れや野心とは無関係でなければいかん。

忠告しておくが、どの道もじっくりと慎重に見るんだぞ。これで十分と思うまで何度でもそうするんだ。

そうしたら自分に、自分だけにひとつ問いを発するんだ。……

『この道には心があるか』……

もしあればその道は良いものだし、なければ何にもならん。

その道は両方ともどこへも導いてはくれんが……

それに従い、それとひとつになれば楽しい旅ができるんだ。」

 

> 「自分でしとることが、地上での最後の戦いになるかもしれんことを十分承知してやると

そこには焼きつくすほどの幸福感があるのさ。」

 

> 「最良の状態でいるためには、いつも心のある道を選ばにゃいかん。

そうすれば、いつでも笑っていられるんだ。」

(*ナワール・ファン・マトゥス)

 

あそこにある、あの岩が岩であるのは【する】からだ。

見つめることは【する】ことだが、

‘ 見る こと、それは【しない】ことなんだ。

あの岩が岩であるのは、

おまえがやり方を知っとるすべてのことのせいだ。

わしが【する】ことと言っとるのは、そのことだ。

たとえば、知者なら岩が岩なのは、【する】ことのためだってことを知っとるから、岩に岩であってほしくないときは、

ただしなければいいのさ。

世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、【する】ことを知っとるからなんだ。

世界を止めるためには、

【する】ことをやめにゃいかん。

 

日常的な世界が存在するのは、わたしたちがそのイメージの保ち方を知っているからで、

逆にもしそのイメージを保つのに必要な注意力をなくしてしまえば、世界は崩壊する。

 

ヘナロが言うには、

正しい選択か間違った選択しかないのだそうだ。

・間違った選択をすれば、身体でそれがわかる。

・正しい選択をすれば、

身体がそれを知り、緊張がとれて、選択が行なわれたことをすぐに忘れてしまう。

すると、そうだな、ちょうど銃に新しく弾薬をこめなおすように、

つぎの選択にたいして身体の準備がととのうのだ。

(*ヘナロとは、ドン・ファンの友で、最高点にまで達した戦士であるドン・ヘナロのこと)

 

宇宙は明らかに女性で、男性は女性の派生物であり、ひじょうに珍しく、ゆえに切望されている

たぶん男の少ないことが、この地球でのいわれのない男性中心の理由だろう…”

ードン・ファン・マトゥス(*) /カルロス・カスタネダ『夢見の技法』二見書房

 

【二見書房が、この本のみ講談社から翻訳権を奪われた一冊、名谷一郎・訳】

 

 

● 明晰さの先にあるもの…”

[2013-11-23 10:36:06 | 玉の海]

 

学問とゆーものが好きで、研鑽を積んだ歴代の碩学と呼ばれる先人たちを心から尊敬する私でありますが

その御方たちでさえ、知者と云えるかと云えば、必ずしもそーではないと感じます

「知者」=正知を知り行なう者といったイメージを抱いています

まー、そーゆー事で幽界のお話なんですが、ひょんなことから見つかった読書ノートより引用します

 

> “知者の敵

人は学びはじめの頃、自分の目的が決してはっきりしていないものだ。

目的は不完全で意志はあいまいだ。

学ぶことの辛苦をぜんぜん知らないから、決して物質化できない報酬を望むんだ。

彼は少しずつ学びはじめる― 最初はほんの少しずつだ。

それからたくさん学ぶようになる。

そして彼の考えはすぐにくずれちまうんだ。

彼の学ぶことは、頭に描いたことも想像したこともないことなんだ。

だから彼は恐れはじめる。

学ぶということは、思ってもみなかったことなのさ。

学ぶことのステップひとつひとつが新しい苦労なんだ。

 

こうして彼は第1の自然の敵に出会うんだ。

それが【恐怖】だ。

もし人がそれと面と向って恐れて逃げだしたら、彼の探求に終止符がうたれるのさ。

恐怖に打ち勝つには、

答は簡単さ、逃げないことだ

恐怖などものともせずにつぎのステップへ進むんだ。それからつぎ、つぎへとな。

きっと恐怖でいっぱいになるにちがいない。だが止まってはいかんのだ。

これが ルールだ。

そうすれば、やがて第1の敵が引きさがる時が来る。

一度恐怖を打ち消したら、もう一生それからは解放される。

どうしてかっていうと、恐怖のかわりに明晰さを手にするからだ。

 

そこで第2の敵に出会うことになる。

【明晰さ】だ。

それは得にくく、恐怖を追い払うが、同時に盲目的にしちまうのさ。

それは自分自身を疑うことを決してさせなくするんだ。

何事もはっきりと見ちまうから、自分のしたいことは何でもできるという確信をもたせるのさ。

彼は明晰だから勇敢だし、何事の前にも止まることがない。

だが、これはすべてまちがいだ。

もしこの確信させる力に従えば、そいつは第2の敵に敗北し、学ぶことに失敗するだろう。

辛抱強くあるべき時にあせり、急ぐべき時にのんびりしちまうだろう

第2の敵に)負けないためには、恐怖を負かした時にしたことをするんだ。(…… 以下続く)

 

[*引用文献は、二見書房刊のカスタネダ本から、大恩ある訳者・真崎義博さんの訳文で…… 次の投稿も同様に]

 

● …前の投稿から続く

>(第2の敵に)負けないためには、

恐怖を負かした時にしたことをするんだ。

明晰さを無視して

見るためだけにそれを使い、じっと待って新しいステップに入る前に注意深く考える。

特に、自分の明晰さはほとんどまちがいだと思わねばならん

そうすれば、

自分の明晰さが目の前の一点にしかすぎないということを理解するときがくる。

こうして第2の敵を打ち負かすんだ。

そうして、何物も二度と彼を傷つけない所へ着くわけだ。

これは、まちがいじゃないぞ。

それは単なる目の前の一点じゃない。

本当の力だ。

この時、彼は長い間追い求めてきた力がやっと自分のものになったことを知るんだ。

それを使ってしたいことができる。彼の盟友は意のままだ。彼の望みがルールになる。

自分を取りまくものすべてが見えるんだ。

 

そこで第3の敵にぶつかる。

【力】だ。

第3の敵に勝つには)それをうまく無視することだ。

てっきり負かしたと思っている力は、実は決して自分のものじゃないことを悟らねばならん。

それまでに学んできたことを注意深く正確に扱って、いつでも自分をまっすぐにしておかねばいかんのだ。

もし自分自身をコントロールすることのない「明晰さ」や「力」が、

失敗よりも悪いことだということがわかれば、

あらゆるものが抑制されている点に到達するんだ。

そのとき自分の力をどう使えばいいかわかるだろう。

こうやって第3の敵を打ち負かすんだ。

 

そして、何の警告もなく最後の敵にぶつかるんだ。

【老年】だ。

これは四つのうちで最も残酷な敵だ。

完全に打ち勝つこともできず、ただ戦うのみだ。

この時こそ、一切の恐怖も心のせっかちな明晰さもなくなる時なんだ― あらゆる自分の力はチェックされ同時に休息への望みを強くもつ時でもある。

横になって、忘れようとする望みのために完全に戦いをやめたり、

疲労のために自分をなだめたりしたら、

最後の1ラウンドを失うことになっちまう。

敵はそいつを弱々しい年老いた生き物にまで落としちまうだろうよ。

引退したいという望みは、明晰さ~力~知をすべて無効にしちまうんだ。

だが、その疲労を脱ぎ去って、ずっと自分の運命を生き抜けば、

仮に最後の無敵の敵に打ち勝った、ほんの少しの間だけにせよ、

その時、知者と呼ばれるんだ。

明晰さ~力~知のその瞬間で十分なんだ。

¨

…… 本に登場する、ドン・ファン・マトゥスの述懐でした

【古代トルテックの「体術」「ダンス」「身体操法」】

 

● 小暴君 (*引用は、C.カスタネダ『意識への回帰~内からの炎』より)”

[2013-12-08 00:22:56 | 玉の海]

 

 

1500年代に、

スペインに滅ぼされたアステカやインカの文明~メキシコ高原からアンデスに続く中南米の地域は、それ以降スペインの専制下に蹂躙された

ドン・ファン・マトゥスの所属する知の体系、古代トルテカ文明を継承する「トルテック(見る者・知る者)」は…… 

この、征服して専横をほしいままにした暴君たちの中に…… 

彼らの修行(戦士としての鍛錬)に欠かせない、重要な要素を見いだした

但し、戦士の多くがスペイン人暴君にハエのよーに殺されてもいる

植民地では、支配者の気まぐれで命を落としたりする

生殺与奪の権力が、無限に行使された野蛮な時代でもあった

グルジェフが、あのラフミルヴィッチ(ルーシェ検索参照)を金で雇ってまで、導入しよーとしたものとも関連するかも知れんが…… 

ドン・ファンの師は、小暴君にめぐり会う戦士は幸運だとまで云っていた

それは、小暴君を使う戦略的仕掛けがもたらす効果が絶大だからである

 

▼ 超然とすることを教える

▼ 自尊心を追い払う

▼ 知の道で唯一重要なものは、完璧さだけなんだとさとらせる

 

…… かれらトルテックの戦士にとって、自尊心とはエネルギー問題なのである

 戦士が自尊心と闘うのは、カソリック的な道徳(モラル)の問題としてではなく、

戦略の問題としてなのだと云う

戦士は戦略の一覧表をつくるんだ。自分がすることを、すべてリスト・アップするんだよ。

それから、自分のエネルギーを使うことに関して、

ひと息つくためにはどの項目が変更可能かを考えるんだ。

…… つまり、戦士の一覧表の筆頭に自尊心が来る

大量のエネルギーを消費するものとして、彼らはそれをなくそうと努力しているわけである

こんな見方も面白い♪

生き残る為に、「流れ」の下流に位置せよと謙虚を説かれた老子とも、底では繋がってるよーな…… 

 

 

● “続・小暴君

[2013-12-08 01:18:44 | 玉の海]

 

どこの職場にも、強大な権限をもった、どーしよーもない小暴君がいたりする

古代メキシコのシャーマン「見る者」たちは、それら小暴君を、

わしらには管理できない外的な要素、それもいちばん重要な要素だ。

…… と認識した

なぜならば、

力をもった並はずれた人間を相手にする難行くらい、戦士の精神を強くするものはない…… ()…… 

そういう状態でこそ、

戦士は不可知のものの重圧に耐えるだけの平静さと落ち着きが得られるんだ。

…… つまり、知の道の戦士として、未知なものや不可知の存在(非有機的存在=悪魔のイメージの原型)に耐える為には、

この現実界で、

生身の小暴君と向かい合ったときに自分を守ることができなければならないのだ

その意味では、

スペインの征服者たちの振るった権力と横暴は、

「見る者」たちの自尊心を追い払い、完璧さ(エネルギーの適切な使い方)を身につけさせる、またとない重要な役割を果した

ふつうの人びとは自分というものを深刻に考えすぎている…… 

> (戦士が)自尊心を抑えているのは、

【現実というものは、私たちが行なう解釈だ】ということを理解していたからなのだ。

少しでも自尊心をもっていると、自分にはなんの価値もないと感じさせられたときに、ずたずたになっちまうものなんだ。

…… 彼らが小暴君を相手にする時には、四つの特質を使う

自分を踏みつけにする者がいるときに、精神を調和させるのが【管理】なんだ。

殴られているあいだに、相手の強味・弱味(気に入っていて失ないたくないもの)・気まぐれな行動等を思い浮かべるのが

【訓練】というやつだ。

【忍耐】というのは、あせらず、懸念をもたず、ただ待つこと。

出して当然のものを単純にひっこめておくことだ。

【タイミング】というのは、抑えていたものすべてを解き放つものだ。

「管理・訓練・忍耐」は、あらゆるものをせきとめておくダムのようなもので、

「タイミング」はダムにつくられた水門なのだ。

…… 戦士が小暴君より優位に立てる点は、考えぬかれた戦略、自尊心からの解放、そして

戦士は自分を深刻に考えないのにくらべて、

小暴君は決定的に深刻に考えるものだ…… 

…… ドン・ファンの手法の中に『管理された愚かさ』とゆーものがある

自らの戦略の為にあえて、コントロールされた愚行を演じるのである

そして、これが戦士と一般の人々を繋げる唯一の絆となっている

『アホウになれ』って事かしら?

【カスタネダ本の、ラスト2冊は結城山和夫・訳】

 

__ 一箇の文学作品としてみても、グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』などは、壮大な未曾有の宇宙SF物語だが、カスタネダの一連の「ナワール世界の物語」もまた、異次元にある「非有機的存在(悪魔の原型と云われる)」の醸しだす鳥肌が立つほどの存在感は、たとえばラブクラフトの「クトゥルフ神話」の畏怖すべき人外の化生に優に匹敵する凄まじさであろう。

                                  _________玉の海草


《玉断》 畏れるべき関西文化〜 「させていただく」 の是非

2022-06-10 18:30:22 | 日本語

__ きょう、カトパンのワイドショー『イット』のニュースで取り上げられていて、コメンテーターの明治大学の齋藤孝先生からのコメントもあって、参考になった今流行りの言葉が、「させていただく」である。

 

 

番組ではアンケート(30人だけだが)も取っていて…… 

20〜30代は「礼儀正しくて良い」「言葉自体が好き」という声であり、

50代以上は、「丁寧そうで丁寧ではない、好きじゃない」「何となく上から目線」との意見だそーだ。

文化庁の「敬語の指針」(2007年)に拠ると…… 

「させていただく」を遣うシチュエーションとして、ふたつの条件を満たす必要があると云ふ。

・相手・第三者の許可をうける場合

・そのことで自分が恩恵をうける場合

 

齋藤孝先生の話しでは、2010年頃から、政治家が多用し出したことも影響していると云う。当該者は、鳩山さんや麻生さんなどである。

この「させていただく」の言い方は、

「丁寧な言葉をつかうことで謙虚な姿勢を一見示しつつ、自分の意思は通させてもらう」という便利な言い方であると云ふ。

 

まー、なるほどと思いながら聞いていたが…… いまひとつ深掘りが出来るので、私見を加えよう。

関西発祥のコトバが日本を席巻する

[2022-02-22 06:27:18 | 8´11´22]

 

コミュ力において、関西と東京とでは比較になりません。まるで都びとと鄙びと(田舎者)ほど違います。

話しコトバの「柔らかさ」、対立に持って行かない「意図的なあいまいさ」、リズムを崩さない敬語「〇〇してはる」等々枚挙にいとまがありません。

何より、名前の判らない人に対して、つかえる言葉を持っている処は讃嘆せざるを得ません。

レパートリーが豊富で羨ましいです

たとえば、「にいちゃん」「ねーちゃん」「おばちゃん」「おっちゃん」「旦那さん」「坊ん(子ども)……

年上につかう「にいさん」「ねえさん」もありますな。

気軽に声を掛けられる、その土地で長い歴史の中で認められた、失礼のない言い方(言葉)をコミュニティで持っているとゆーことが素晴らしいことなのです。

京には主上がおわしまし、近畿は商人の街だからでもありましょー。

わたしは、東北人ですが、大阪では他人に気さくに声をかけることが出来ますが、地元にもどるとまるで会話が発生しません。

東北には、「名前のわからない人」に対する呼びかけの言葉(失礼のない言葉)がないからです。

都会的で洗練されているよーに見えても、首都東京でも事は同様です。東(あずま)びとは大勢の人々にもまれて仲違いすることなく生きることに未だ慣れていないのでしょー。

 

ー大阪で三年間大お世話になり、関西人を芯から尊敬する私くしですが、「めっちゃ」「〇〇させていただく」も関西発祥なんですが、何となくキライなんです。

「めっちゃ」は関西方言をあづまびとが盗用したといえますが……

「させていただく」は、もっと事情が複雑なのです。

 

司馬遼太郎『街道をゆく(24) 近江散歩奈良散歩』に拠ると……

> 日本語には、【させて頂きます】、というふしぎな語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。

「それでは帰らせて頂きます」。…… 略…… 

「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」

この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、…… 略…… 

絶対他力を想定してしか成立しない。…… 略…… 

「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。

 

__ どうやら「させていただく」は、浄土真宗の他力本願から出た「宗教的なコトバ」らしいのだ。

大阪芸人が師匠筋にたいしてつかう「勉強させていただきます」にしても……

自分が勉強するのに、師匠の許可が必要なはずはない。勝手に勉強すればよいだけだ。それをあえて「させてください」と許可を願う言い方をするのは、

師匠におもねるとゆーよりも、絶対他力で阿弥陀様のはからいにより、「させていただく」とゆーことなのだ

実に深い、宗教的なコトバなのである。

同じ消息で、「息させていただく」や「感動させていただく」など言いそーであるが、実に他力の思想では成り立つ言い方なのである。

この「させていただく」とゆー語法は、近江商人の行商によって全国に流布されたとする説もあるそーだ。

近江商人には一向宗の門徒が多かった。

なるほど、関西圏以外で「させていただく」を聞いたのは、新潟県上越市の人であったが……

新潟の海沿いは、親鸞上人にゆかりの深い土地だものなあ、妙好人がつかったのかも知れませんね。

「生かしていただく」も、まったく同じ消息ですね。

実に深い言い回しですが、「〇〇させていただきます」と言われるのが、何故か大っ嫌いなんです。

「させていただく」は、丁重なコトバではあるが

【敬語ではなく】、言い切る処に相手の意向を無視している慇懃無礼さがあると云います。

たぶん、他力信仰のない人がこの語法だけを使っている処にも異和感があるからだと思います。

ちょっと阿る(おもねる)よーな、胡麻するよーな腰の低さは、武士(プライド)を尊ぶ東国にはなじまないものかも知れません。

 

 

__ ほかにも、さすが関西圏のことばは強烈やわと再確認させられるのが、

「めっちゃ」や「わかれません」もあるんだす ♪

 

● “ コトバの棲み分けは大切 ”
[2019-12-04 02:44:33 | 王ヽのミ毎]


「めっちゃ」とゆーコトバに、これだけ意見があるとゆーだけでも、このコメント欄には日本語を大事に遣う方々が集まっていると云えるのかも知れん
私は、若い頃大阪で三年程住ませてもらったから、「めっちゃ」とゆー関西方言が遣われる場面は数多く見聞きしている(大阪を「めっちゃ好きやねん♪」)
大阪にも私の限られた経験からみても、いろいろな大阪弁のランクがあって、私は特に「船場言葉」と云われる、落ち着いた渋い感じの大阪弁にシビレておりましたわ
「おおきに」って、語尾下げて言わはる旦那衆なんか、なんとも云えん都びとの風情を醸し出しておられました
今回の「めっちゃ」は、大阪の若い女の子がつかう印象が強いです、男が云うのは聞いたことがない
もちろん、私も遣いませんでした


◆「めっちゃ」の本来
めちゃめちゃー滅茶滅茶ー目茶目茶
めちゃくちゃー滅茶苦茶
むちゃくちゃー無茶苦茶


‥‥ ってところでしょーか?
「無茶苦茶しよるな」とか「目茶目茶好きや」とかは僕自身ゆーとったと思う、「むちゃくちゃ」の音韻が男っぽい思うねん

まー、くだけた口語であるし、そもそも方言でもあるし、あらたまった席で遣う語彙ではない
きちんとした妙齢の日本婦女子の遣うコトバではない
人は、自分の身の回り(ネット環境も含む)で遣われるコトバしか、原則として遣わないので……
「めっちゃ」を多用するのは、底が知れるとゆーものだ
強調する表現を多用する人は、また最上級のコトバを遣いがちな人は、全体がよく分かっていない人です
世の中にはそんなに端倪すべからざることは、多くないものだからです
盛り過ぎた話は面白くない

「めっちゃ」を、関西以外の土地で遣うのならば、それは仲間内の符丁みたいなものだ
テレビ画面ではよく見聞きするコトバだからといって、限られた世界での流行りコトバに過ぎない
若者コトバと云ってよいかも知れない、口調が可愛いとゆーかむしろ幼い
ついでに云えば、なんらオリジナリティーの感じられる表現ではないのだ

昔の人、つまり日本語をつくってきた人々の書いた本も読まないし、年寄りの話にも耳を傾けない環境ならば、もはや致し方ない

 

●  [2022-02-21 17:01:44 | 8´11´22]

理解できないとゆー意味合いの「わからない」を、「わかれない」とゆーのは、一体誰が言い始めたのか?

「わかる」には、それ自体で「可能」の意味が含まれるから、「わかることが出来る」とは言わんし、ましてや「わかれる」なんて、普通の日本人は言わない。

 

🌷「わかれない」と耳で聞いたら、普通は、例えば男女間で「別れない」の意味だと思うだろー。

Yahoo!知恵袋にも、「見える」「できる」「わかる」などに可能の表現はないと記しておられる方がいた。

それゃそーだろー、「わかる」で充分なのにわざわざ「わかれる」とゆー人の気が知れない。

「わかれる」は、「わかられる」の「ら抜き言葉」だとゆー解釈も成り立つが、「わかられる」に「理解することが出来る」とゆー意味はない。

 

🌷「わかれる」と同じよーな使い方で、「生きれる」がある。

これは「生きられる」(=生きることが出来る)の「ら抜き言葉」である。

「いきれる」と耳で聞いたら、わたしなら「息切れる」と勘違いするだろー。まったく正反対の意味合いになってしまう。

「生きる」とゆー根本の話題について、誤解されやすい言い方はするべきではない。

 

🌷「見れる」と「見られる」と比べた場合……

「見ることが出来る」とゆー意味でつかうならば、一聴して「見れる」の方が意味は伝わりやすい。

「見られる」だと、誰かから見られている意味で「受動態」で解釈したり、「敬語」として解釈したりする恐れがあるから。

だけれども、「見れる」は音韻が悪いから私はつかわない。

 

「わかれない」とつかっている人の文章を読むと、しっかりとした文章で素養もありそーな人が使っている。少なくとも大学卒だと思われるのだが、いったいどこでこの「わかれない」と読んで覚えたのだろーか?

わたしは、知識人としては基本である「2000冊の読書」(中野好夫基準)をクリアしているが……

その読了した本のなかで、「わかれない」とゆー日本語に遭遇したことはない。

誰が言い始めたのか、ずいぶんアタマの悪い言い方だと思うが如何か?

 

 

__ この拙稿に応えて、関西のISHK読者の方から、貴重な現場の使用例を教えてもらったのです。

わからないを、わかれないと使うのは普段、関西弁で、「そんなんわからんわ」と使うとキツクなるので、

普段は、これわかる?と尋ねられたら、

上司になら「すみません、わかりません」ですが、

同僚なら「ごめんなさい、私にはわかれませんわ」

「そんなん、わかれませんよ」普段使ってる方便の癖です。

 

__ なるほど、関西圏の人付き合いは濃密だなあと感嘆してしまう。そんな、微妙な使い分けをなさっているのですね。畏れるべし、関西人 ♪㊗️

天子さまの都のあった京は、徳川さまが治めるまで始終戦乱の巷でありました。隣の大坂は、生馬の目を抜く商売人の都でありました。

それゆえ、この近畿圏における「生き残りの知恵」は、到底よその土地の及ぶところではないことは容易に推測されます。

会話のスキルが、命にかかわることもあったことであろう。言葉は、他人の気持ちを逆立てるものであってはならなかったのです。

実際、大阪では全く個人的な情報をやりとりすることなく、うわべだけの親しい会話を延々と続けることができる。大阪弁とはそんな重宝な会話体でもある。

極端なはなし、大阪弁ならば内気な私でもナンパできますよ。

素晴らしい「しゃべくり」の高度な伝統、敬愛鋭く大阪はこれからも、中央の日本語に揺さぶりをかけて来ることだろう。

そのたんびに、懐の深いその使用法を学べば、日本人のコミュ力も飛躍的にアップするのは疑いがない。

困った流行り言葉だが、表現にレパートリーを増やした功績は見逃せない。どっちに転んでも、さすがの人間通の粋人・大阪人である。真の都びとの名に値いしよう。

最後に、『五常訓』から借用した齋藤孝先生の「愛の一句」を。

 慇懃無礼

  礼に過ぐれば

    へつらいに

        _________玉の海草


《玉断》 G.I.グルジェフ まとめー下巻

2022-06-05 15:30:10 | 人物山脈

__ グルジェフの『注目すべき人々との出会い』には、グルジェフに負けず劣らずの個性が目白押しである。畏れるべき人物のまわりには、凄いレベルの友人たちが犇めいているものである。ひとりの傑出した人物が出来上がるには、数多の同じような偉材が背景にいることは確からしい。

【グルジェフ自身による自著・森羅万象三部作のうち、第二作目がこの『注目すべき人々との出会い』である。造語に溢れて故意に難解にしあげられた大著・第一作の『ベルゼバブの孫への話』や、未完に終わった第三作の『生は<私が存在し>て初めて真実となる』と比べれば、グルジェフが邂逅した偉大な人物とのエピソードをまとめたこの本は、物語性もあり、一番読みやすいかも知れない。この本に記された太古から続く秘教スクール・サルムング教団については、オカルティスト達が躍起になって居場所を特定しようとしたものである。】

 

 

“ 存在に「語り」かける 

[2009-11-29 19:54:43 | 玉ノ海百太夫]

 

グルジェフが、旧友・スクリドロフ教授と連れ立ち、必死の潜入行を試みていた途次…… 

ギリシア人繋がりで邂逅した、世界同胞団の俗名「ジョバンニ神父」から学んだとして、知識と理解について注目すべきことを書き留めている

ある人が他の人に何かを話すとき、

話し手自身の内に形成されている資質の如何によって、聞き手に認識されることの質が異なると云う

その実例として、世界同胞団の二人の高齢の同志について触れている

 

ひとりはアル修道士、もうひとりはセツ修道士と呼ばれている。この二人は、わが派の全僧院を定期的にまわり、神性の本質のさまざまな面について説明するという仕事をすすんで引き受けておられる。…… 略…… 

聖者としてほとんど優劣つけがたく、同じ真理を語っているにもかかわらず、この二人の同志の講話はわが同志すべてに、とりわけわしに異なった効果を及ぼす。

 

セツ修道士の話は、まったくのところ極楽鳥の歌のようじゃ。その話を聞くと、人はいわば内面をさらけ出したようなかたちで忘我境をさまよいだす。

その言葉はさらさらと小川のように流れ、聞き手はもうセツ修道士の声を聴く以外何も欲しくなくなってしまうのじゃな。

ところが、アル修道士の話はほぼ正反対の効果を及ぼす。

話し下手で、曖昧なのは明らかにお歳のせいじゃろう。彼がいくつになるのか誰ひとり知らない。

セツ修道士も大変な老齢で三百歳とも言われておるが、まだまだかくしゃくとしておられる。それに比べて、アル修道士の老衰は目に見える。

セツ修道士の言葉を聞いた瞬間に受けた印象が強ければ強いほど、その印象は霧散してしまい、ついには聞き手の中に何一つ残らない。

しかし、アル修道士の言葉は初めはほとんど何の印象も残さないが、あとになって日に日にその骨子がはっきりとしたかたちをとり、全体が胸(ハート)の中に沁み渡って、永久にとどまるのじゃ。…… 略…… 

 

『セツ修道士の話は彼の 心から出て、われわれの心に作用するが、

アル修道士の話は彼の 存在から出てわれわれの存在に作用するのである。』

 

さよう、教授(スクリドロフ)。知識と理解はまったく違ったものじゃ。

存在に通ずるのは理解のみで、知識は存在の中の束の間のありようにすぎない。

知識は古くなれば新しい知識にとって替わられる。結果的に見れば、いわば虚から虚への移り変わりでしかない。

人間は理解を求めねばならない。

-引用『注目すべき人々との出会い』より

 

 

補足

[2009-11-30 23:59:36 | 玉の海百太夫]

 

ジョバンニ神父は、こーも云われています

> …… 理解というのは、いまも言ったように、意図的に学んだ情報の全体と、個人的な経験とによって得られるものなのじゃ。

それに対して知識とは、言葉を機械的に特定の順序で暗記することにすぎない

人生の途上でいま述べたようにして形成される内的理解を、他人に分け与えることは、たとえ心からそう望んだところで不可能なのじゃ。

-*G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』棚橋一晃監修・星川淳訳・めるくまーる社-より

 

…… 宮沢賢治が「自然の書を読む」といい、寺山修司が「書を捨て 街に出よう」といった消息…… 

釈尊の「拈華微笑」、禅の「不立文字 教外別伝」もまた…… 

イスラームの大賢ムーサー・ジャールッラーハが「神の不思議な創造の御業を実際にこの目で見るために、世界中を旅する」のも同様に、自らが直

面し直接触れて理解する『体験知』の見地に立ってのことだったのでしょー

存在に作用するのに、必ずしも言葉(≒知識)は必要ではないつーことなんですナ

無言の教えとゆーものは、確かなものです

【碩学・井筒俊彦に、アラビア語とイスラム文化を伝授した大賢者・ムーサー。】

 

グルジェフの、「エニアグラム」をはじめとする数々の叡智はイスラム由来なので、イスラム学者を代表する大賢ムーサーにも触れておこう。

● 本場のイスラーム社会で哲学者として活躍され、地元の人々からも 大いに尊敬された学者に 故・井筒俊彦がいます。 掛値なしに碩学と呼べる最後の人と評されたほどの御仁です

彼が生前、司馬遼太郎と交わされた対談『二十世紀末の闇と光』の中で

驚くべき天才学者 ムーサー・ジャールッラーハ との邂逅を 懐かしく振り返っておられます。

とにかくイスラーム世界にその人ありと知られた大先生との事で、『コーラン(クルアーン)』『ハディース』は固より

イスラームでやる学問の本なら 何でも頭に入って(暗記して)いるから、その場でディクテーションで教えてやる”(ムーサー・談)って具合で

本一冊持たずに 空手で一所不在に諸国を漫遊しているぉ方なのです 。出逢った頃は 世界旅行の途次、日本に寄られ 在日イスラーム・コミュニティーの世話になっていたのでした。

そうした大学者の家庭教師に 井筒は「何のための世界旅行ですか?」と単刀直入に尋ねている。

その応えを 以下に引用する。

「 神の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイスラーム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」 (ムーサー)

 

 

● グルジェフ『ベルゼバブ』より

毎日、日の出時に、

そのすばらしい輝きを見ながら、

おまえの身体全体のさまざまな無意識の部分と

おまえの意識とを接触させ、その状態が長く続くようにしなさい。

そして、無意識の部分が意識的だと想定して、

その部分に次のことを自覚させなさい。

もし無意識の部分が、おまえの機能全体を妨げるならば、責任ある年代になっても、その無意識の部分のためになる善をなすことができないばかりか、

その部分を含むおまえという存在全体は、われらが「共通の永遠なる創造主」に奉仕することもできなくなり、

その結果おまえは、誕生し生存していることに対する恩返しをするにも値しない存在になるであろう。

 

…… 昔からご来光を拜するのは、「無意識」に語りかける手段だったのですナ

 

● グルジェフは云っている

『隣人を見つめ、その人の本当の意味を知り、その人がやがて死ぬということを実感すると

あなたの中にその人への憐憫と慈悲がわき起こり、ついにはその人を愛するようになる。』

 

『人々があなたに言うことではなく、あなたをどう思っているかを考慮しなさい』(グルジェフ)

 

『われわれは過去をふり返り、人生の困難な時期だけを思いだし、平和な時期は少しも思いださない。後者は睡眠である。

前者は奮闘であり、それゆえに人生である』(グルジェフ)

 

『ベルゼバブの孫への話』の中で…… 

グルジェフの敬愛する、トルコの賢者ムラー・ナスレッディンの格言を引用してみよう。

愛弟子ウスペンスキーの精緻なる理論書『奇蹟を求めて』と、グルジェフ自身による自著『ベルゼバブの孫への話』との違いは、大雑把に言って前者は論考・評論の形をとっているが、後者は壮大なスケールのSF寓話物語である。

そして、『ベルゼバブ』には、ムラー・ナスレッディン・ホジャ(Mullah Nassr Eddin)

の格言が鏤められていて、それが巧まざるユーモアに誘なう処が、決定的に違うのである。

つまり、レベルが段違いである証しである。

 

例えば、聖仏陀の教えに対する、知ったかぶりの大ぼら吹き(ハスナムス)による歪曲についてはこんな具合です

「もとの香りだけがかろうじて伝わってくるわずかな情報」(M=ムラー・ナスレッディン)

他にも

「あらゆる誤解の原因は、すべて女性の中に探らなくてはならん」(M)

「その中には何でもあるが、ただ核、あるいは芯だけが欠けておる」(M現代人の精神について)

~ずる賢さでは誰にもひけをとらない、われらがルシファーもうらやむほどの「とてつもない、でたらめな」お話をでっちあげた

「人間にーとってのーあらゆるー真のー幸福はー彼らがーすでにー経験したーこれもまたー真であるー不幸ーからーのみー生じるーことがーできる」(M)

~偉大なる自然、われらが共通なる母

「どんな棒にも必ず2つの端がある」(M)

~もし馬鹿騒ぎ(汎宇宙的な生の原理)をするのなら、送料も含めて徹底的にやれ

~いわゆる「率直で信頼にあふれた相互関係」が確立された時にだけ善きことを受け入れることに対する抵抗が消えるという人間特有の性質

~時間が経ってもおさまらない立腹というものはない(ロシア諺)

「自分の膝は飛び越えられないし、自分の肘に口づけしようとするのも馬鹿げている」(M)

「高まりゆくジェリコのラッパのよう」(M)

『魂をもつ者は幸いなれ、また魂をもたぬ者も幸いなれ、

しかし魂を受胎し、産み出そうとしている者には、嘆きと悲しみがあるであろう』(聖キルミニナーシャ)

 

 

● “アジア人の作法~ 全人的に付き合う

[2014-05-22 01:28:59 | 玉の海]

 

(*星川淳・訳『注目すべき人々との出会い』より)

グルジェフの、

「いまだ母なる大自然からそう遠く隔たっていないアジア人たち」

に対する信頼感は、

老ペルシア賢者の話に託して吐露される

それはヨーロッパ的な意味での知性ではなく、アジア大陸で理解されているところの聡明さ、つまり知識だけではなく【実存にもとづく聡明さ】をそなえた人であった。

地理的条件その他によって現代文明の影響から隔離されている今日のアジア大陸の住民のすべてが、ヨーロッパ人よりも遙かに高度の感受性を発達させていることは周知の事実である。

そして、感受性が常識の基盤であるために、これらアジア人種は、一般的な知識量の少なさにもかかわらず、現代文明のただ中にいる人々よりも、ものごとについていっそう正しい見解を持っている。

観察対象についてのヨーロッパ人の理解は、すべてに万能の、いわば『数学的情報』だけに頼っている。

それに対してアジア人の大部分は、ときには感受性だけで、ときには本能的直観だけで対象を把握してしまうのだ。

……… そんなアジア人にものを尋ねる際の作法について、グルジェフが解説している条りがある

>…… 私たちはくだんのエズエズーナヴーランに近づくと、

【しかるべき挨拶】をしたうえでその傍らに腰をおろした。

その地方の民族のいろいろな礼儀に従って、私たちは【本題にはいる前に】、彼と【よもやま話】を始めた。

…… G(グルジェフ)が云うには

ヨーロッパ人は、「頭の中にあることはほとんど必ずと言ってよいほど口に出る。」

ところが、アジア人にあっては、「精神の二重性が高度に発達している。」ために、外面は懇切丁寧であっても内面では何を考えているか油断はならない

アジア人は自尊心と自愛に満ちている。その地位にかかわらず、彼らのひとりひとりが、自分の人格に対してすべての人からある種の扱いを受けることを要求するのである。

彼らの間では、本題は背景にしまってあり、それを持ち出そうと思ったら、話のついでのようなふりをしなければならない。

この人の前に出ても、私たちがすぐに質問を切り出さなかったのはそのためだった。必要なしきたりを守らずにそうすることは厳禁だったのだ。

…… この辺りの呼吸は、うちの田舎の長老に払う礼儀に通じるものがある

不躾にいきなり、返答を求めるのは無礼なのだ

人間同士の信がない場合、情報のやりとりは無意味なものとなる

 

 

  [2014-05-23 00:56:00 | 玉の海]

 

きのうの “アジア人の作法” の舞台となった

パミールからヒマラヤ越えの探検行を、盟友カルペンコと伴にしていたグルジェフ等一行は…… 

奇観がつづく迷路のよーな山岳路を案内できる唯一のガイドを、途中失ってしまいます

筏をつくり、川路を進むために木材の調達のために地元の民に教えてもらう必要にかられました

道を尋ねる場合もそーですが、しかるべき礼儀を踏まなければ、ウソを教えられてもしょーがないのです

このコミュニケーションは、命懸けであり、ひとつ間違えば路頭に迷うこと必定でしたから…… 

そーした危機を数知れず潜り抜けてきたグルジェフのアジア人観には、心から感服致しました

アイゾール人はずる賢い悪党として知られている。

トランス・コーカサスにはこういう諺さえあるほどだ。

『ロシア人を7人煮ると

 ユダヤ人が1人できる。

 ユダヤ人を7人煮ると

 アルメニア人が1人できる。

 そのアルメニア人を7人煮ると

 アイゾール人がやっと1人できる。』

 

…… いまや世界にその名を轟かせる華僑とて、ユダヤ商人と比べたらまるで歯が立たないと聞く

世界のずる賢いランキングは凄まじい

グルジェフが育ったアレクサンドロポルは、当時ロシア領だったが現在はアルメニア領である

通った学校のあったカルスも、当時ロシア領であったが現在はトルコ領である

それゆえ、ロシア生まれのアルメニア人とゆーことになろーグルジェフの初期の著作は、アルメニア語で書かれている

 

 

● “ 御コロナ様でも関係ないさ

[2021-04-24 00:26:25 | 王ヽのミ毎]

 

グルジェフに「超努力」とゆー造語があるが、試練の先を見据えた言葉だなと思う

霊的な「所得」なんでしょーな、きっと

 

「われわれはいつも儲けています。

だからわれわれには関係ありません。戦争であろうがなかろうが同じことです。

われわれはいつも儲けているのです。」(P. ウスペンスキー『奇蹟を求めて』より)

 

‥‥ この発言は、風雲急を告げるロシア革命前夜、偶然グルジェフと列車に乗り合わせた著名なジャーナリストが、この不思議な東洋人(グルジェフとは知らなかった)との会話をある新聞に掲載したことから、知られることになった

ロシア革命の混乱を避けながら逃亡を続け、

そしてその逃避行そのものをワークに変換してしまうグルジェフという男。

多くの者が恐怖にとりつかれ、幻想と狂気に陥っていったあの大混乱を、実に「ずるく」泳ぎぬき、

コンスタンティノープルへ、さらにはヨーロッパへと脱出していった男。――この逃避行は本書(『グルジェフ伝』)の圧巻のひとつであり、またこれまでのどの類書よりも詳しい ものだ。

そこからは、コーカサスの山々を越える弟子たちの不満の声や荒い息遣いさえ聞こえてきそうである。

その苦難を、グルジェフはひとつのワークに変えてしまった。

【儲けて】しまった。

いつも、どんなことがあっても、たとえそれが戦争でも、そこから「儲け」を出す。

これがいかに至難の業であるかは、日々のちょっとしたことに苛立ち、怒り、嘆き、困難を避け、あるいは先送りしようとしている私/われわれの日常を振り返れば一目瞭然であろう。

われわれの通常の一日は、まったく「儲け」がないまま終わってしまう。「儲け」もないまま、喜怒哀楽に振り回される日々が続く人生の中で、誕生の時に渡された資金は数十年で底をつき、まったくの無一文になって塵に還っていく。

[ 浅井雅志『トランスパーソナル心理学の一源泉としてのグルジェフ』より]

 

‥‥ 呆れた力業とゆーか一大プロジェクトですよね、

革命の大混乱の中、自分の家族どころか大勢の弟子まで引き連れて次から次へと脱出行を成し遂げつづける

平然と弟子の「ワーク」として、その試練を提供しながら、ともに乗り越えてゆく

グルジェフは、その費用の金策も独りで間違いなく行なった

弟子から借りて質入れした宝石を後年律義に探し出してそのものを返している

 

グルジェフにとっては、いまのこの御コロナ騒動も何の支障もあるまい

正しく受け容れることを知っているとゆーことか

詰まる処、「生活費」の捻出なのだが、グルジェフの場合これに霊的「活動費」が加わる

物質的問題についてとゆー小篇(正確には速記録、『注目すべき人々との出会い』の巻末に収録されている)がある

これが、涙なしには読めないグルジェフの金作り(つまり「物質的問題」あるいは金策)物語で……

本当か嘘か、ニューヨークでアメリカ支部の資金を稼ぐために、ドル肥りの富豪たちから寄付を募る腹づもりで語ったものだった

優秀なセールスマンは「どうか買ってください」なんて哀願トークはせぬ様に、グルジェフも「どうかお金を寄付して下さい」などとは一言もいわないのだ

グルジェフは、素知らぬ素振りで売りつけるよーな真似はしない、これから売りますよ と宣言してから見事にその通りになるのである

潤沢なドル保持者に呼びかける口上はこんな具合である

…… 私のポケットそのものがドルの種を蒔くにふさわしい肥沃な土壌であり、そこで芽を出したドルは、種を蒔いた者に客観的意味合いでの人生の真の幸福をもたらす性質を持つにいたるということに、皆さんの誰もが気づくような語り方をするつもりである」

ただでさえ困難な寄付募集を、グルジェフは通訳を介して行なうのである(声の抑揚が大切らしい)

いかに人間とゆーものを熟知しているか窺える

そんなグルジェフの心に刻印されているモットーは、トルコの賢者ムラー・ナスレッディン(ナスレッディン・ホジャ、トルコの「一休さん」みたいな庶民の人気者)の格言より

「人生のいかなる状況にあっても、つねに有益なるものと、意にかなうものを結びつける努力をせよ」

上記の逃避行中も、これで乗り切ったのだろー

            _________玉の海草

 


《玉断》 G.I.グルジェフ まとめー上巻

2022-06-05 13:00:39 | 人物山脈

__ 真に驚嘆すべき人物、G.I.グルジェフ(1866〜1949年)について、折に触れて綴った拙稿をまとめておきたい。

およそ30年に渡って、こんな私を鼓舞しつづけてくれた掛け値無しに偉大な人物グルジェフ、天下の奇書『ベルゼバブの孫への話』を後世のわたしたちに遺してくれた大作家でもある。

ひとり精神世界に屹立する先達であるのみならず、13世ダライ・ラマを指導し、ナチスドイツのヒットラーまで手玉に取った「詐欺師」の一面を併せ持つ異能の人物。現代に名を成した叩き上げの実業家でも、彼ほど高密度に働いた(稼いだ)商売人はおるまい。日常的に、自らの限界を突破する「超努力」を継続してきた、真の自由人で物好きでイタズラっ子である愛すべき人物。

人類史は、彼が現れたことによって、ユーモアに溢れた優しい父性物語を復活させることになる。善悪両面に抜きん出た実力を兼ね備えた、端倪すべからざる個性、彼に似た人などどこにもいない、突出したオリジナリティー。語り尽くせぬ人間的魅力、誰も彼のようには出来ないし、難しすぎて誰も彼の真似はしようとはしないだろう。うう、喋りすぎた…… …… …… 

人間は自分一人でいたのでは、自分の弱点は絶対に分らないままである。

自分自身の弱点は、他人の上に存在する。」(グルジェフ)

 

 

● “ グルジェフの呪縛 ”

[2008-09-16 11:26:52 | 玉ノ海]

 

わが邦に初めて グルジェフの体系を伝えてくれたのは、舞踏家・笠井叡の奇書『天使論』1972・現代思潮社刊/であろうか?

1981『奇蹟を求めて』P.D.ウスペンスキー著・平河出版社刊

そして、遂に

1990浅井雅志氏が、大著『ベルゼバブ~』を翻訳なされたと聞いた時には驚喜したものだった

偉大なるG.I.グルジェフの指示どおり近代教育によって植え付けられた思考経路を解体すべく、故意に難解な表現を採っているこの大作を 3回読んだ(メモを取りながら)

…… パートクドルグ義務(意識的苦悩)、ヘプタパラパーシノク、アカルダン協会十年以上経った今でも 不図、アタマに浮かぶ グルジェフ独特の造語群…… 

この、いたって父性溢るる(雄々しい)神秘思想家の 他の諸々の賢者とハッキリ違う点は― 仕事中でも 日常の家庭生活でも出来ることを提示していることだ

もちろん、ヤりましたよ…… 馬鹿みたいに♪こんな時、グルジェフなら…… ?”って具合に 恒に念頭に、あの抜け目のない 慈愛に充ちた顔が在りましたョ

『ベルゼバブ』の次に読むよーにと指示のあった 3部作の2番目―

『注目すべき人々との出会い』星川淳訳・めるくまーる社刊/ には、グルジェフが邂逅した 愉快な友人たち♪が 続々と登場するがその無類の個性(オリジナリティ)に触れると なるほど自分は眠っているなと 認めざるを得ない! その愛すべき人間的魅力には圧倒されたものだ

真物の吟遊詩人であった父君への尊敬、プリウレ(グルジェフの私設研究寮)における ご母堂や妻への全霊的な献身を垣間見るにつけ催眠術師としての暗い過去やスパイ疑惑、イカサマ商人としての世渡りを割り引いても このオトコ、全幅の信頼をおける人間らしいイイ男だと感じた

彼の人生には、ブレが無い 人間ここまで成長出来るものなのかまったく驚嘆すべき人物である

いまだに 楽天的に人間が好きと云えるのは 彼のよーな個性に出逢っているからかも知らん

そーこーするうちに 生活に漬かり やっと懐かしい人になりかけた時に現れたのが… ISHK・Rさんである アチャー、せっかく忘れかけていたのに

とは云え、疾風怒涛の青春期をグルジェフと伴に過ごした私のよーな者からすると 本日の記事は 一入滲み入る 『感謝想起』は『自己想起』より優しい

 

“ プリウレのアマノジャク 

[2008-11-24 21:59:17 | 玉ノ海]

 

G.I.グルジェフ・談

『だれもがトラブル・メーカーであることはできないということを理解していないね。

これは人生で重要である― パンをつくるのに必要なイーストのような成分である。

トラブルや対立がないと、人生は死である。人々は現状維持の状態で生活し、機械的に、習慣だけで生きていて、良心をもっていない。

いつも、いちばんミス・マジソンを怒らせたから、いちばんたくさんの報酬を得たのだよ。ミス・マジソンにとって良いことだ。対立がないと、ミス・マジソンの良心が眠ってしまうかもしれない。…… 

 

『人々は、学ぶことを知らない』、彼は続けて言った。

いつも、話すことが必要だと考える――頭で、言葉で学ぶと考える。そうではないのだ。

感情と、感覚からだけ学べることがたくさんある。

だが、人間はいつも話しているので― 連想器官(フォーマトリー・アパラタス)だけを使っているので―このことを理解しない。

この間の晩にスタディ・ハウスでミス・マジソンが新しい経験をしているのがみなにはわからない。

かわいそうな女性だ、人から好かれない、人々は彼女をおかしいと思う、彼女を笑う。

だが、この間の晩、人々は笑わない。私がお金をあげるとき、ミス・マジソンが居心地悪く感じ、当惑するのはほんとうである。たぶん、恥を感じる。

だが、大勢の人が彼女に同情し、哀れみ、思いやり、愛情さえ感じる。

彼女はこれを理解する、だが、すぐに頭で理解するのではない。

あの時彼女は、彼女のもつこの感じを知ろうとさえしない。

だが、彼女の人生が変わる。去年の夏、子供たちはミス・マジソンを憎んだね。もう憎まない。彼女をおかしいと思わない、かわいそうに思う。好きでさえある。

たとえ彼女がこのことをすぐに知らなくとも、彼女にとってよいことである― 子供たちが、彼女が好きであるのを隠そうとしても、隠せない、表れる。それで、彼女に友だちができた 以前は敵だった。

彼女に私がしてあげる良いことである。彼女がすぐに理解するかどうかは、私は気にしない― いつか理解し、心を暖める。

ミス・マジソンのように魅力のない、自分自身と仲のよくない性格にとって、これは稀な経験、これは暖かい気持ちである…… (中略)…… だが、こういうことを理解するのには時間がかかる。』

引用:フリッツ・ピータース『魁偉の残像-グルジェフと暮らした少年時代-』前田樹子・訳 めるくまーる社

 

● “ ラフミルヴィッチ -生来のアマノジャク 

[2008-11-24 23:14:09 | 玉ノ海]

 

プリウレ=“人間の調和的発展のためのグルジェフ研究所

この研究所の主な目的の一つは「他人の不快な発現」と一緒に暮らせるように学ぶことであると言う

 

グルジェフは、人々と仲良くやってゆくことをまなばなければならない―あらゆる種類の人々と、あらゆる状況において一緒に暮らすこと、つまり、いつも人々に反応しないという意味で、一緒に暮らすことを学ばなければいけないと言った

 

> …… 中に、特筆すべき一人物がいた 六十歳ぐらいのラフミルヴィッチという名の人で、彼が他の「(プリウレ内の)ロシア人」たちと違っていたのは、あらゆることについて、飽くことを知らない好奇心を持っていたためであった

沈鬱で、陰気なタイプの人で、災難ばかり予言し、あらゆることに不満をもち、食べ物や住まいについて絶えず不平を言い、お湯がぬるいとか、燃料が足りないとか、人々が不親切だとか、世界の終末が来るとか、とにかく、どんな状況も、どんなできごとも、あらゆることを、惨事と言わずとも、惨事寸前に到らす才能をもっていた

『憶えているであろう』とグルジェフは切り出した

(彼は)トラブルを起こす子供だと言ったのを。このことはほんとうだが、子供はまだ小さい。ラフミルヴィッチは大人。

それで、子供のような悪さはしないが、彼が何をしようと、どこに住もうと、いつも摩擦を起こす性格をもっている。

重大なトラブルは起こさない。だが、いつも人生の表面に摩擦を起こす。彼はこれを直せない― 変わるには、年をとり過ぎている。

ラフミルヴィッチはすでに金持ちの商人だが、私は彼に金を払ってここ(プリウレ)にいてもらっている。驚くであろうが、そうなのだ。

彼はとても古い友人で、私の目的に、とても重要なのだ。…… (中略)…… 

ラフミルヴィッチがいないと、プリオーレ(プリウレ)は同じではない。私は彼のような人をだれも知らない。

ただいるだけで、意識した努力なしに、まわりの人々全部に摩擦を起こす人は、他にはだれもいない。』

 

『他の人が、その人自身に必要なことをするのを助けることができるほどに、あなた自身を発展させる必要があり、たとえ、相手の人がその必要性に気づいていないときでも、また、あなたにとって不利なことになっても、助けることができなければならない。

この意味においてのみ、道理に適切にかなった愛と言え、真の愛の名に値いする。』

*同上掲書『魁偉の残像』より

 

“ 得がたき内的ショック 

[2008-11-30 03:34:14 | 玉ノ海]

 

ともあれ、伊勢白山道『内在神と共に』のタイトルが 『グルジェフと共に -Our Life with Mr.Gurdjieff-』に似ていることに 今頃気づいた私し、本書から引用

 

人間は、たいてい「本質とは無関係」の心で生きている。人は、自分自身の見解をもたず、他人から聞かされることにいちいち影響されている(だるかの悪口を聞かされたばかりに、その人に悪意を抱く人の例が挙げられた)

研究所(プリウレ)では自分自身の心で生きることを学ばなければならない。

…… 略…… 

そのため、研究所に新入生が来ると、わざとむずかしい状況をつくり、あらゆる類の問題を発生させて、仕事・ワークへの関心がその人自身のもつ関心なのか、それとも、人から聞かされた関心にすぎないのか、自分自身でこの点を明確にさせるように仕向けるのである。

…… 略…… 

人が人生でみじめに感じる一時期も、これと同じ状況から発生する。

人は、外的影響により偶然自己の内部に形成された「本質とは無関係」の心で暮らしている。

そういう生活が続くかぎり、人は満足している。

ところが何かのきっかけで、外部からの影響が存在しなくなると、人は関心を失い、みじめになる。

自分自身のもの、自分から取り去ることのできないもの、常に自分のもの―が存在していない。これが存在し始めるとき初めて、このみじめさがなくなる。

トーマス&オルガ・ド・ハートマン夫妻共著 前田樹子訳 めるくまーる社刊

 

●  グルジェフのワークに意識的苦悩が必要なわけは、それが即 『自己想起』が大切であることを思い出させるからだと認識している

タバコ好きが禁煙すれば禁断症状を覚える度に、なぜ禁煙しようとしたのかを思い出す

人間は、いくらいいことに思い至っても、次の瞬間には容易に忘れる生き物だからである

かの神のごときプラトンですら、生涯の(見神による)至高体験は、わずか四回に過ぎない 皆等しく、忘れるのである

してみれば、四六時中経営を念頭において忘れない社長は良さそーなものだが、さにあらず…… Rさんは、驚くべき方法論を述べておられる

高度な集中から忘却、そして没入― この過程においても、切れ目(隙間)なく『感謝の思い』だけは存続される

仏門における正念存続とは、自己想起=感謝想起のことだったのかあ

とすれば、ひとつしか出来ない男にも望みはある

この無能には、恩寵がふくまれている

創造的な仕事は、隙間あるながら作業からは産まれない

冗談めいているが

生死の原点に戻る『感謝の思い』により不断に神ながらに生きることのみが、唯一ゆるされるながら作業なのかも知れん...

 

 

『自分自身のことだけを考えなさい(もちろん、正しい方法で)……

なぜなら、そのとき初めてあなたは他人のことを考えることができるようになるからだ』 -ベルゼバブ

『私に従えば、あなたは私を見失うだろう。

自分自身に従えば、あなたは私と自分自身の両方を見出すだろう』 -グノーシス主義に伝わる、キリスト=イエスの箴言

『太陽より眩しく、雪よりも白く、エーテルよりも精妙なものは、私の心の中にある自己である。

私はその自己であり、その自己が私なのだ』 -Gの直弟子・オレイジによるマントラ

[*引用:C.S.ノット『回想のグルジェフ』コスモス・ライブラリー-より]

 

けたはずれの人物

[2009-11-13 23:24:59 | 玉の海]

 

「彼はけたはずれの人間だった。どれくらいけたはずれだったか、君には想像もつかないだろう」

/ウスペンスキーのグルジェフ評

 

桁外れな人物とゆーものはいるものである

南方熊楠を、いまから四半世紀前に初めて知った時(今東光経由)…正直、「嘘だろう!?」と思った

あまりに度外れていたからである

しかし、仔細に裏を取って調べて行くうち

熊楠翁と同時代人には(つまり明治人)、彼に限らず途轍もない図太い個性が目白押しである

ちなみに、グルジェフも1866(cf.明治維新1868)生まれ

土性骨といいますか、この時代の人間は徹底している

うちの爺さまも明治生まれで、ご近所にはシベリア抑留帰りの身も竦むほど怖い爺さまもおった

この世代の特徴は、男女共に愚痴を言わないのと、人はやれば出来るとゆー強い信念を持っていたことだと思う

弁解が大嫌いだった

そんな自ら恃むことの強く潔かった日本人が…… 「人間は弱いものだから」とか云い始めたのは、太宰治に象徴される『大正デモクラシー』以降のことだと聞いている

明治大好きの私としては、このブログによく出てくる「ヘナチョコパンチ」「ミジンコパワー」には、どーも抵抗がある

遣る前から、それではあまりに覇氣がない

 

明治の氣骨に触れるには、杉山茂丸『百魔()()巻』講談社学術文庫-あたりが、読み物としても無類に面白い

著者は、『ドグラ・マグラ』の夢野久作のご尊父。国士頭山満の盟友で、人形浄瑠璃の世界に偉大な貢献を果した。「インド緑化の父・杉山龍丸」は茂丸の孫である。)

 

それと昨年、絶版だった『弓と禅』(中西政次著・春秋社刊)が復刊された

かのオイゲン・ヘリゲル博士の同名の書とは別物

ここに、桁外れの人物、弓術家『梅路見鸞』がお目見えする

Wikiに拠れば…… 

円覚寺の釈宗演老師より印可を受け、

明治42年からの7年間で、柔、剣、居合、馬などの武術と書、浄瑠璃、俳句、茶ノ湯などの芸道を修行 いずれも傑出したと云う

心は万物の宗なり、これを得れば聖賢となり、これを失すれば狂愚となるという。

この心とは各自本有の心、即ち不垢不浄なる真の清浄(宇宙当然の真理)である。この心の胎得顕現を道を得ると云い、真の修行と云う。

本来修行は、名人達人或は学匠となるのではない。

唯人間の本来は不垢不浄たるの清浄そのものであることを相対絶対を超えて、内証大自覚することである。

故に 師によって受くべき無く、又与えらるる無き、『無師成道』である。

            _________玉の海草


《玉断》 長身で腕っぷしも強い〜 大霊能者の孔子

2022-06-02 18:00:12 | 人物山脈

●  “ 大霊能者としての孔子

[2020-05-05 02:10:24 | 王ヽのミ毎]

 

孔子(BC552BC479年)の言行録『論語』に関しては、私達は教科書で習うものの、何か根本的に間違って教えられたのではあるまいかと…… 歳とってから、沸沸と疑問が湧き上がってきた

『論語』が、たんなる人生訓や処世術めいたフレーズだとしたら、2000年以上もの間最重要古典として大事に反復学習されるはずはないのだ

碩学・幸田露伴をはじめとして、孔子を「萬世の師表(=永遠の師)」と仰ぐ人々を見ると各々並大抵の人物ではない事も気になった

 

儒教の中心的書物『四書五経(「論語」「大学」「中庸」「孟子」/「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)』は……

本来ならば、四書【六】経であり、

秦の始皇帝が断行した焚書坑儒によって、「楽経(がっけい)がコノ世から抹消された(失伝した)のだと聞く

何故消されなければならなかったのか?

この点について、内田樹と安田登(能楽師)の対談で触れられていたのを興味深く拝見した

> 内田「孔子を読むなら、まず儒者という職業は実在したし、現に雨乞い(儒の旁である需は、雨を求めるの意)として機能していたのだという前提がないと始まらないと思うんです。

『論語』は古代人の経験を踏まえた実証的で具体的な技術書なんであって、

それを抽象的で道徳的な教訓だと思って読むからつまらなくなってしまう。」

安田「そして、論語に書いてある【礼や楽に関する技術は危険】であり、だからこそごく一部の人にしか知らせることのない秘伝だった。すごいマニュアルですよね、きっと。

ただ孔子がこれを書いても安心だと思ったのは、そこに行くだけでは出会えないからではないでしょうか。

出会える人しか出会えないし、聞いても聞けない人はいっぱいいる。」

 

‥‥ これは単なるダジャレではなく、礼 白川静に拠れば「鬼神を祀る儀礼」)であるので、

> 安田「『論語』の冒頭の  “ 学んで時にこれを習う ”  のあとに ()た説()ばしからずや ”  という句がありますが、

この  “ ”  という字の孔子時代の文字である  ”  は、巫祝(ふしゅく、神につかえる者)である「兄(祝)」の頭部から神気が立ち昇るさまで、脱魂状態の姿です( “” の中にも ” があります)

また『論語』の中で孔子が最も大事だといった  “ 恕(じょ)”  も、憑依状態の巫女が神託を述べている姿です。

孔子一門の  ”  の基本は脱魂や憑依という巫祝の技法を通じて祖霊や神霊という  “ 超越的なもの ”  と出会ったり、一体化したりすることであり、顔回はその技法の第一の継承者でした。

また、孔子のお母さんも顔家の娘ですし、孔子や顔回や顔真卿(唐代の忠臣・書家)がその血を引く 顔家 ”  というのはそのような巫祝体質を継ぐ家系なのではないでしょうか。」

 

‥‥ よくよく読み込めば、巫祝としての儒者のサインが汲み取られるが、孔子は霊能者の家系に生まれながら「怪力乱神を語らず」と仰って、オカルト的な内容を一切書かなかった処に底知れない懐の深さを垣間見る

釈尊も、オカルト神秘については一切口にされなかった

大霊覚者であられる明治天皇が、一部の祝詞や祭式を厳しく禁じた様に、

秦の始皇帝が、「楽経」を存在させてはならないと決断なさったのは、よくよくの事情があったのだと云ふ

「もう想像を絶する音楽」「人間の感覚器官をすべて変えてしまう音楽」であったろーと安田師は述べておられる

ちょうど『注目すべき人々との出会い』でグルジェフが言及していた、ピアノの鍵盤で、ある音を奏でるだけで、足におできを生じさせることが出来た、客観科学に基づいた音楽のよーに、

また神々もひれ伏す威力の、弁才天の「天の詔琴」の最終兵器みたいに……

 

『春秋左氏伝』より)> 

時は春秋時代、紀元前563年。

宋の平公が、晋侯を饗応するに際し、

【桑林(そうりん)の舞】を奏したいと申し出た。

宋は前代の王朝、殷の末裔だ。

晋公の重臣の一人はこれを辞退すべきだと侯を諫めるが、ほかの凡庸な二人の重臣は、せっかくだから見るべきだという。

桑林の舞とは、聖王と呼ばれた殷の湯王(とうおう)が伝えた雨乞いの舞だ。桑林は伝説の舞で、これを伝えるのは宋一国であり、しかも見る機会などはめったにない。

そんな舞だ。ぜひ見るべきだという意見に従い、晋公はこれを受けることにした。

桑林の舞楽が始まる。

最初に楽人たちが登場してきた。その列の先頭には、楽師が旌旗(せいき)を立てて現われた。

晋公は驚いた。そして、すぐに脇の部屋に引き下がったのだが、その帰路に重い病を得た。

 

‥‥ 「桑林の舞」というのは、人を殺す力を持ったほどの舞と云われているそーです、いわば、スーパー・ソニック・ウェポンです

孔子ご自身も、殷の末裔である宋人の子孫だと言っていたとか

> 安田「『論語』の中にも彼らが雨乞いの舞をしたと思われる  “ 雩(ぶう)”  と呼ばれる場所が登場します。

そこで舞を舞うと、舞っている人の【陰陽のバランス】が整う。それが天に感染して、狂っている陰陽が整ってくる。そうすると、雨が必要ならば雨が降るのです。」

 

‥‥ かくの如く、孔丘は、古代中国の最大の呪術師だったのかも知れない(老子にこっぴどく叱られてはいるが ♪)

そんな異能の孔子像を堪能できる著作を、内田さんは三つ挙げておられる

 

・白川静『孔子伝』-中公文庫

・諸星大二郎『孔子暗黒伝』-集英社文庫

・酒見賢一『陋巷(ろうこう)に在り』-新潮文庫

 

 

【『陋巷に在り』全13巻 新潮社、1992 - 2002 のち文庫本となる】

 

【この加地伸行さんの本は、酒見賢一さんが推薦しておられたので載せた】

 

なんといっても白川静の作品があってこそ、後の二作が大傑作と成り得たのである

白川御大の独自の漢字辞典は、たしかISHKのRさんもお持ちだったと思う

この御方も「見える」人であったのであろー

わたしの愛読書、酒見さんの大長編『陋巷に在り』には、孔子の母上として、自立した強い女、きわめて魅力的な大母性・顔徴在が登場する

妖艶なる傾国の美女・芙蓉(ふよう)や、凄腕の南越の呪術師・少正卯(しょうせいぼう)と、顔回・孔子師弟コンビとのサイキック・ウォーは、割と史実に沿ってトレースされてあって、裏面の歴史として、手に汗握る面白さであった

モテる顔回(顔子淵)とゆーのも新鮮だ

孔子も圧倒的貫禄で、儒者(葬礼を司る霊能者)の真の姿を見せる

Rさんの見立てでは、この偉大なる孔子は8次元、なんと青森魂・棟方志功もまた8次元なのである

日本人は、文武両道の達人を好む処があり、この孔子や顔真卿(空海さんは顔法が大好き)や関羽雲長や王陽明など、その精髄を余す処なく汲み取ったと思われるが……

日本という国は、孔孟の「儒学」は重用したものの、この「儒教」は一切取り入れなかった

一方天皇家では、「道教」の礼式を取りいれている(線香や位牌など)

 

 

[※ 引用文献 ; 内田樹・安田登『変調「日本の古典」講義〜 身体で読む伝統・教養・知性〜』より]

 

                                  

                       _________玉の海草