__幕末のナンバーワン剣士は、誰か?
幕末は、「戊辰戦争」でも近代銃器での戦闘が多かったとはいえ、国史上最後の内戦にして白兵戦だった「西南戦争」であっても日本刀での戦いが多かったし、倒幕派と佐幕派との熾烈な政治的暗躍もあり、双方で凄腕の刺客を放ち、刀による死闘となったわけである
黒船来航して、そんな社会風潮も加味して、260年振りくらいに、腕利きの剣客が重宝される時代となった
「新撰組」は、天然理心流の名を高からしめて、三段突きの沖田総司や実戦に強い土方歳三や近藤勇のカリスマ性がクローズアップされた
竹刀を使った剣術道場も、武士だけでなく町人の間でも盛んとなり、数々の名人を産んだ
一刀流系統では、中西派に寺田五郎右衛門や白井亨、「音無しの剣」の高柳又四郎、浅利義明、千葉周作など名だたる剣豪を産み、北辰一刀流の道場からも無刀流開祖・山岡鉄舟が出ている
その山岡が、千葉道場の若き麒麟児・海保汎平をまったく寄せつけなかった老年の剣客・中村一心斎(神道無念流〜不二心流開祖)を当代随一と尊敬していたし……
兜割りの榊原鍵吉(直心影流)や剣聖・男谷精一郎と島田虎之助、異色の剣豪だが加藤田神陰流の大石進(九州から江戸に乗り込んで大規模な道場破りを成功させる)にしても、地方の道場で磨いた腕が生半可な実力ではなかった
「薩摩の初太刀は外せ」と、非常に警戒された野太刀自顕流(示現流の分派)の猿叫を伴う切り上げの必殺剣…… 悠長に剣技を習っている余裕はないから、ちょうど中国の洪家拳のよーに急拵えの即成剣士も少なくなかったであろーが、ともかく剣客にとって群雄割拠の幕末ではあった
ーさて、武芸十八般、刀や薙刀に槍・鎖鎌などの武器術でも組打ち(レスリング)でも関節技や当て身(パンチ・キック)や暗器(秘密の武器)まで、なんでもござれの「バーリ・トゥード」で、反則OKで決闘した場合……
条件なし(ルール無用)でのストリート・ファイトで、いったい誰が最強であろーか?
伊勢白山道は、この問いに応えて、鬼の転生者・武田惣角に敵う者は誰もいないと明言されています
[※ 伊勢白山道からの「切り取り引用」は厳禁されていますので、私の理解の範囲内で伝えます]
いまや「合気道」として、世界中で修練されている武道の源流である「大東流合気柔術」の中興の祖と云われる(実際は創始者であろーと云われている)、一代の武才・武田惣角の武勇伝を追いかけてみよー
(拙稿)>幕末、新撰組の前身とも云える「浪士組」には、腕に覚えのあるさまざまな流派の道場主やら師範代、免許皆伝者が多数応募してきたものだと云ふ
とゆーのも、呼びかけた求人主たる清河八郎が、北辰一刀流の名の知れた剣客だったからである
千葉の小天狗と称された千葉栄次郎(千葉周作の次男)や道三郎(三男)につぐほどの剣の冴えで、山岡鉄太郎は道友であった
清河八郎は師・周作の分かりやすい指導をうけて、驚くことに一年で初目録までゆるされ、ほぼ10年かけて二代目栄次郎から免許皆伝を受けている
この、天才剣士栄次郎(たぶん生涯無敗)から同じように指導を受けた人に、のちの「突きの名人」下江秀太郎(1848〜1904)がいる
19歳で北辰一刀流玄武館の塾頭となったほどによく出来て、
明治維新後は警察の撃剣世話係を務めるが、とにかく無茶苦茶な強さで、特にその突き技は人間離れしていたと云ふ
[※『対談 秘伝剣術 極意刀術』BABジャパンより]
ー大東流合気武術の佐川幸義(武田惣角の後継者)によれば、武田惣角翁(1859〜1943)が「合気」をやり始めたのは四十歳からで、それまでは剣で身を立てた、一流の剣客(会津で一刀流の免許皆伝、佐々木只三郎が修めた神道精武流も学び、新陰流系の直心影流、渋川流柔術も修得)であったと云ふ
佐川先生に次の発言がある
> 「大先生(惣角)の偉大な太刀は 柳生流とか一刀流とか小野派一刀流とか直真陰流とかいう流儀を超越したそれ以上のものであったと確信しております。
明治の年間 仙台で下江秀太郎の籠手を初太刀一本取りの御話は何回となく大先生に聞きました。
この場合の出方はこの様に出る等の御話もききました。
大先生の門に入った下江秀太郎は、御承知の如く、北辰一刀流の達人で、警視庁の剣道師範時代、あの高名な【榊原健吉】と立会っても寄せつけず、榊原はぜんぜん下江には歯が立たなかったという実話を、当時の巡査より聞きました。
‥‥ あの、兜割りと撃剣興行で有名な、直心影流の榊原健吉が敵わなかった力量となると、更にその下江に勝った惣角翁の実力たるや…… 新天流槍術の天才・上遠野某を一瞬に倒したとゆー武勇伝もある
とんでもない剣の達人と云えよう
佐川先生は、あの 中里介山『大菩薩峠』の盲目の剣客・机龍之助のつかった甲源一刀流 であるが、二刀も遣われた
> 「武田先生の片手斬りは凄かった。剣を教わったが足運びが全然違った。武田先生は『勝負は一本、前へ出れ』とよくいっていた」
> 「どれほど剣の修行をしても、剣、とくに片手斬りでは武田惣角先生にはどうしても及ばなかった」
‥‥ この、惣角の「片手斬り」の秘術こそ、新陰流の秘伝『八寸の延金(のべがね)』だとゆーのだから驚きである
真新陰流の小笠原玄信斎(徳川家康の兵法指南役・奥山休賀斎の後継者)が明国に渡り、張良の子孫と交換伝授して手に入れた中華戈術の秘伝が『八寸の延金』と云われ、この間合いを誤魔化す秘技は、高弟・神谷伝心斎を通して直心影流へと脈々と伝承されていたのである
下江秀太郎からボロ敗けした榊原健吉は、自分の道場の内弟子(惣角)に『八寸の延金』を伝え、北辰一刀流への意趣返しを目論んだのではないかと私は推測している
もくろみは見事にあたり、惣角は天才剣士・下江から初手で小手を取る
ただし、その一本だけでその後は引分けている
佐川先生が描写する武田惣角翁の剣術を見てみよー
> 「武田先生の片手斬りはすごかった。背が小さい(147㎝)から自分で工夫したのだろう。シュッとのびて小手を横から斬ってしまう。すぐ手を持ち替えてしまう。
武田先生の剣は足が違うのだ。剣でも持ち替えると同時に足が動く。足さばきで相手はよけることが出来ないのだ。
右小手(内小手)を足さばきで斬ってしまう。武田先生の剣は構えている正面から手首をまっすぐ斬ってきて、次の瞬間、左右に手を返し、内小手を斬ってしまう。
武田先生は一刀流の形を学んでいて、良いところは自分のものにしてしまい、他は捨ててしまう人だった。先生の斬りかたは、よく考えたら一刀流のある形の応用なのだ。
武田先生は正面から敵の後ろ首を斬るくらい手を返していたので、手首を返すことを練習していたのだ。
姿勢が一番大切だ。武田惣角先生に口で教わったわけではないが、先生がまっすぐにしているのを見て気づいていったのかも知れない。
武田先生は極めるときは、びしっと極めた。崩す合気はあったが、私のようにどこでも掴まれたところで力を抜いてしまう合気はなかった」
‥‥ 「合気」をつかった比類なき大東流剣術 についても触れている
>「合気で敵の太刀の力を抜いてしまうのだ。いまの剣道では竹刀と竹刀を合わせて攻めあいをしているが、真剣勝負ではお互いの太刀を合わせてはいけないはずである。
達人になれば、合わせた瞬間、これを好機として利用して入ってくる。剣を合わせるとは、橋をかけてやっているようなものだ」
‥‥ 昔の武芸者は、けっこう他流の得意技に詳しいものだ(一刀流「切落し」、新陰流「合撃打ち」、柳剛流「脚薙ぎ」、無外流「指切り」等)
なにせ、命懸けの仕合いになるわけだから、同門の師弟間では、かなり正確な情報が共有されていたものと見ゆる、他流試合も多かったからである
しかし、武術家は弟子にすべてを伝授することは、本来ありえない事である
なぜなら、その技で弟子から襲われたときに、返し技を持っていなければやられて仕舞うからだ
佐川先生も云われている
> 「武術というものは全部を教えるものではない。
一番大切なところは決して誰にも言わない。そこは自分が真剣勝負に使うやり方だ。
次の段階を一子相伝する。
更にその下を気に入った数名に教える。武術とはそういうものだ」
[※ 津本陽の遺作『深淵の色は 佐川幸義伝』より引用]
‥‥ 最近の研究で、武田惣角は中川万之丞とゆー密教行者から「易」を習ったと云われる
そのため直弟子の佐川幸義も、惣角翁の歿後、かなりの年数を「易」の研究に当てていらした
>「宇宙天地森羅万象のすべては融和調和によりて円満に滞りなく動じているのである。その調和が合気なのである」(佐川道場訓)
森羅万象は万物流転と共にある。
‥‥ 易は「中庸」を重んじる、つまり「調和」があるべき姿である
なんでも惣角によらば武術と易占には同じ理があるとの事である
伊勢白山道のリーディングでは、惣角翁は身の回りの物を何でも刃物に変えてしまうよーな容赦のない人で、忍者の教えも受けているとの事
忍術といえば、上記の密教行者の秘伝でもあろーか、佐川先生は惣角師に「壁抜けの術」は出来るかと直接問うて一蹴されているが…… 忍者の隠形術らしき技は目撃なさっているし、「千里眼」のよーな超能力を発揮された時も現場にいたらしい
>「相手がどう斬ってきても、相手の後ろにくっついてかならず斬れる位置につくやりかたがあるのだ」
‥‥ 惣角翁の身につけた技は、しかし「武道」ではない
危険な急所攻撃や致死技で、受け身もゆるさない殺人のための技だと伊勢白山道では云われていました
ただし、弟子(植芝盛平、佐川幸義等)の段階で緩和されて別物になっていると……
当の惣角翁は、そんな「武」の扱いを苦々しく思っていた節がある、なにせ健康目的で稽古したい者には教えない御方なのだ、あくまでも「武」とは強くなるためにやるものだとゆー信念をお持ちなのである
>「武田先生と嘉納治五郎先生は同じ1860年の生まれで、話は聞いていました。
その時分、武田先生が、嘉納のやつが、柔術を「道」にして、やったはいいけれど、昔の柔術を忘れてしまった、と言っていましたよ。」
[※ 久琢磨『合気柔術から合気道へ』より]
‥‥ 講道館四天王の西郷四郎(得意技が「山嵐」で、小説『姿三四郎』のモデル)は、同じ会津藩御留流「御式内」の相弟子である
惣角翁から、大変な苦労の末に、技を見て盗み進化させていった佐川先生であったが、そのお姿は武道家とゆーよりか真の武術家であった
自分が鍛えている姿でさえ、決して弟子に見せなかった
武術家(武芸者)は、いつ何時斬りつけられても応じるし、場所も選ばない、ルール無しの戦闘で生命のやりとりをする
>「敵が太刀を前に出したら、切先を殺しておいて突いて出ること、太刀をはたき落して突いていくことなどが基本だ。
真剣の場合は突くことが第一だ。斬るのはそのあとでいい。斬るより突くほうが速いのだ。
本当の勝負の場合は、身体で相手のふところに入りこむ。勇気というのではない。飛びこんだ相手のふところの内が極楽である。地獄に飛びこむのではない。
恐ろしいという思いを捨てて、そこに入れば勝つという思いを心に持つ。この境地にならなくてはいけない」
>「合気は力を入れてはだめだ。力は抜くが気は抜かないのだ。お互いにやって、頑張り合うと、これは出来るはずがないと思ってしまうでしょう。ところがこれが出来るのだよ」
>体捌きのご注意で、
「体をかわすのが早いと相手についてこられてしまう。突きなんか自分の皮膚に触れてからでも間にあうでしょ」
と言われたことがありました。このとき、やっと自分が突いた拳の先が先生のカーディガンに触れた理由が、これだと分かりました。
> 「合気の技は純粋な技術で、宗教性、神秘性などはまったくないのだ」
>「 合気 心ニ至レバ 我ナク人ナク生モナク死モマタナシ 」
‥‥ 「合気」で投げられることは不思議な体験だそーで、投げられた方は徐々に身体が強くなり、その後投げられにくくなるのだそーだ(佐川先生談)
>あるとき先生が、「彼を強くしよう」といって彼を
何回も投げ始めた。一週間くらいたつと、先生以外、彼を倒せる門人がいなくなってしまった。
体の密度が上がり、芯ができて崩れなくなってしまったのだ。
‥‥ そんな合気を、おそらく密教の気合術をヒントにして身につけ、わずか一代で実戦でつかえる処まで発展させた武の偉才・武田惣角は、幕末最強の武人にふさわしかろー
たしか素手の当て身を探求する場合でも、わざわざ当時の沖縄にまで「武者修行」で渡って、現地の名人から学んでいる
[※ 沖縄の地で、惣角師が琉球唐手の達人から「二段蹴り」を喰らったとの言い伝えがあり、その達人とは、「本部の足蹴り」の異名をとった本部御殿手古武術第11代宗家の本部朝勇(1857-1928)師ではないかと推測されている]
剣の卓越した武技、長物(槍・薙刀)から小太刀から素手の組討ち(体術)まで、あらゆる武器をつかいこなし、瞬間催眠のよーな行者の気合術もマスターして、忍術までこなした上に、独創的な「合気」を創始した、稀代の「武」の達人である
宮本武蔵も、二階堂主水の「心の一方」とゆー「不動金縛りの術」に似た心法には要慎して近づかなかった、警戒して避けたのは、武蔵自身が「縮みの術」をつかったからであろー(気合で威圧して追い詰めることが出来た)
武者修行者に必須のたしなみとは「手裏剣」であると聞く、それで野山の小動物を狩って、食糧を手に入れる為に必要な飛び道具なのである、手裏剣術を修得した達人は数多い
惣角翁も、昔ながらの武者修行者の典型で、旅の空に暮らし「非日常」の中に身をおいて技を磨いたものかも知れない
伊勢白山道の霊視では、人を多数あやめた宮本武蔵はアノ世で苦しんでいるのに対し、ほとんど人を殺していない、殺さないよーに配慮した惣角翁は、鬼神界にそのまま戻っていると云ふ
武田惣角は、これだけの達人であるにも拘らず、おのれが大成した武術の「宗家」となろーとは決してなさらなかった
そのへんに、武を極めた者の潔さを感じてならない
はてさて、そんな闘いの連続であっても、充実した面白い人生だったのであろーか?
昔日の「武者修行者」は、こんな心得であったのか、佐川先生が云っておられた
>「何でも教わろうというような弱い精神では教わっても覚えきれなくなって忘れてしまうのだ。
自分で開拓しようという気概に満ちている人が、教わったことを生かせるようになる。心構えが違うのだ」
‥‥ 達人技は、今後修得する人が少なくなるだろーか?きょうのニュースで、ボストン・ダイナミクス社の二足歩行の人型ロボット「Atlas」がバク転するのを観た
AIで学習しながら(失敗を繰り返して)その動作を覚えるそーなのだが、ロボットが只歩いている映像や斜面でからだを支える姿勢には強く惹きつけられた
何か気のせいか、達人の佇まいなのだ、最小限の力でバランスを保って歩くとゆープログラムは、達人に要求されるものと相似ているのかも知れない
猿渡哲也『TOUGH〜龍を継ぐ男』でも、AI搭載の人型戦闘ロボット兵器「トダー」が出てきて、修練を積んだ古武術の達人がまるで歯が立たないシーンが現出するのだが…… 痛みのない、身体を考慮しない戦闘マシンは如何にも怖しい
果して、AI が達人の体術をマスターできるのか、武術の歴史を考えると興味は尽ない…… 私見では、達人の無意識で行なう、骨や筋の濃やかな操体は、到底剛体(鉄や合金の体)では成しえないと思っている
達人の一挙手一投足は、宇宙の真理を体現しているものだと思いたい
_________玉の海草
わたし個人の趣向で、ネットの文章は「音声表記」(口語の発音どおりに書く)にしている。
明治末期につかわれた「棒引き仮名遣い」というのですよ ♪