── 真田広之が、主演男優賞をはじめ「エミー賞🏆」18冠の快挙をお慶びしていたとき、
時代劇ってゆーのも、異なる時代の「文脈」を理解するってことだなと、教養の大切さが肌身にしみて分かった気がした。
それで教養なるものが、現代でも必要なのかどーか、について
三宅香帆『なぜ働いていると、本📕がよめなくなるのか』をヨスガに追ってみよう。
この本は、「なんで働きながらだと本を読めなくなるのか」を、解明しようとした労作なのだが……
その過程において、
明治以降の日本が辿った
・労動史と
・読書史とを
1950年代〜2010年代まで、並行して参照している点に特徴がある。
読書は、昔から行われていたように見えるが、さにあらず。
紙の貴重だった江戸時代も、寺子屋のおかげで庶民の多数が読み書きに通じていたが、
仮名草子や、草双紙(絵入り娯楽本)、戯作本などは、現代でいう「教養のための読書」には入らない。
いわば現代のスマホ📱みたいなもので、
スマホを読んでても「読書」とは言わないし、スマホは働きながらでも毎日見ることができるのだ。
つまり、この「読書」という行為が本格化したのは、たかだか明治維新以後ということになる。
それでは三宅香帆の著作によって、ざっと引用・要約して、「読書」の歴史的推移を辿ってみましょう。
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明治になって、
活版印刷の普及により
従来の「朗読して読む(素読、音読)」
➡︎「黙読の文化」が始まった
そして句読点が普及した
(明治10年代後半〜20年代)
1871年(明治4年)に、
立身出世を煽るベストセラーが生まれる
『西国立志編(SelfーHelp)』スマイルズ著、中村正直訳
この本は労働者階級に向けた立身出世物語で、
この本の中で、訳者中村正直が初めて「修養」という言葉をつかった( Cultivation, culture, cultivate 等の「勤勉」「努力」「洗練」「教化」「培養」「文明」に関連する言葉に「修養」の語をあてた]
この『西国立志編』が如何に売れたのか……
明治末までに、日本の総人口5000万人の時代に100万部売れたロングセラーとなった(福沢諭吉『学問のすゝめ』も、よく売れたが、県庁から公的に配布された経緯もあり、純然たる民間ベストセラーではない)
つまり「修養」とは、
明治時代にエリートの間で広まった
大正時代には、むしろ労働者階級の間にすでに根付いていた(図書館から借りて読む文化が発達)
その一方で、大正時代のエリート階級では「教養」が広まった(労働者階級の「修養」から差別化するためである)
・行動を重視するのが、「修養」
・知識を重視するのが、「教養」
大正時代から戦前にかけて、「教養」とはエリートのためのもので、教養主義が流行った
つまり戦前の概念では
・休憩 = 新聞・雑誌・ラジオ・レコード・運動など
・勉強・教養 = 読書
と、截然と分かたれていたのである
● 1950(昭和25〜)年代
戦後サラリーマン階級の出現〜 新しい娯楽が生まれる
「パチンコ、株、源氏鶏太のサラリーマン小説」の三つだった
源氏鶏太の映画化作品は、80作を超える
● 70年代
教養=学歴
司馬遼太郎『坂の上の雲』文庫本が大ヒット
(私注;70年代の大事件「オイルショック」は、日本国民に高度経済成長が終わったことを告げた。つまり終身雇用だと思っていた会社がリストラを断行し始めたからである。そんな時代だったからこそ、『坂の上の雲』にロマンを見たのであろう。この物語は明治〜日露戦争勝利までの右肩上がりに成長した日本を描いたものだったからだ。ちょうど、バブル崩壊以前の景気良かった「モノづくり日本」を描いた、NHKの『プロジェクトX』とおなじ構図である。要するに、古き良き時代への懐古がテーマだったのである。)
「歴史という教養」ビジネス教養主義
文庫本ふえる
通勤列車で読書
企業内教育において「自己啓発」はじまる
● 80年代
コミュ力=処世術
実用系雑誌・月刊「BIG tomorrow」(1980年発刊)が流行る
大正の大衆教養主義の系譜をうけつぐ、昭和の教養主義(=読書を通じた人格陶冶)を奉じた人生雑誌
学歴(教養)よりも処世術
労働に必要なのは、教養ではなくコミュニケーション能力
急速に「自分」の物語がふえる
・黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』500万部売れる
・村上春樹『ノルウェイの森』350万部
・俵万智『サラダ記念日』200万部
いずれも一人称視点の物語→ コミュ能力の劣等感より
女性のカルチャーセンターが隆盛する
原因は、進学できなかった学歴コンプレックスから
● 90年代
行動と経済の時代
春山茂雄『脳内革命』(1995)
「内面」の時代から「行動」重視の自己啓発本
350万部売れる
バブル経済以前の「一億総中流時代」が終わる
(消費で自己表現できなくなる)
新自由主義(ネオリベラリズム)の台頭
⚫︎国家の福祉・公共サービスが縮小され、
規制緩和されるとともに、
市場原理が重要視される社会
「自分のキャリアは自己責任でつくっていくもの」
企業への忠誠心が消える
非正規雇用が拡大する
● 2000年代
仕事がアイデンティティになる社会
仕事で自己実現することを称賛する日本社会
労働そのものが「自分探し」の舞台となる
「やりたいことを仕事にする」幻想
>90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア敎育は取り入れられ始めていた。
労働市場が崩れ始めた90年代後半から、
「夢」を追いかけろと煽るメディアが氾濫するようになる
[※ 荒川葉『「夢追い」型進路形成の功罪ー高校改革の社会学』]。
実際、学生が想像できる「夢」、つまり楽しそうな進路は
「服飾・家政」や「文化・教養」などの就職率の低い領域であることも多かった。
しかしそういったリスクを伝えず、高校のキャリア教育は夢を追いかけることを推奨した。
村上龍『13歳のハローワーク』(2002、平成14年)が流行る
>2001年(平成13年)の日本労働研究機構(現労働政策研究・研修機構)によるフリーターへのヒアリングでは、
そのうちの4割が「やりたいこと」という言葉で自分がフリーターになった経緯を説明した。
[※ 速水健朗『自分探しが止まらない』]
この結果からも、
当時の就職活動や高校教育において、
いかに仕事における「やりたいこと」や「自分らしさ」の重要性が強く刷り込まれていたかが分かるだろう。
それはある意味、
日本の「夢追い」キャリア教育がうまくいった結果でもあった。
当時ニートと呼ばれる若者たちが問題になっていたが、
ニートをつくり出したのは、実は「やりたいことを仕事にすべきだ」という風潮だったのである。
● 2010年代
ビジネス書は「行動重視」傾向に
市場に適合しようと思えば、
適合に必要のない、ノイズをなくすことである。
コントロールできないものをノイズとして除去して、
コントロールできる行動に注力する
知らなかったことを知ることは、世界のアンコントローラブルなものを知る、
人生のノイズそのものだからだ。
> よくビジネス書では、
人に好かれる能力を磨きなさいと説かれていますが、
僕は逆だと思っています。人を好きになる能力の方が、よっぽど大事だと思います
人を好きになることは、コントローラブル。
自分次第で、どうにでもなります。
でも人に好かれるのは、自分の意思では本当にどうにもなりません。
コントローラブルなことに手間をかけるのは、再現性の観点でも、ビジネスにおいて当然でしょう。
[※ 前田祐二『人生の勝算』より]
本を読むことは、働くことの、ノイズになる。
新自由主義改革のもとではじまった教育で、
私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想を与えられるようになってしまった。
> 20世紀、私たちは常に、自分の外部にいるものと戦ってきた。
たとえば他国との戦争、政府への反抗、上司への反発。
ー私たちが戦う理由は、支配されないため、だった。
しかし21世紀、実は私たちの敵は、自分の内側にいるという。
新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。
むしろ、競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。
なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。
だからこそ現代においてーー私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。
戦いを望み続けた自己は、…… …… …… 疲れるのだ。
[※ ビョンチョル・ハン『疲労社会』より]
>資本主義論理=市場原理が至上
企業間の競争は激しくなる
個人の誰もが市場で競争する選手だとみなされるため、
自己決定・自己責任が重視される
組織や地域に縛られず自分のやりたいようにやること、自分の責任で自分の行動を決めることなど個人主義的である
近所同士の助け合いや
同じ会社だから連帯して組合をつくるなどの従来からある共同体論理には向かわない
「社会のルールに問題があるかもしれない」とは考えない
ノマド、副業、個で生きる
[※ ノマドとは遊牧民という意味を持つ言葉であり、オフィスに縛られない働き方を指す言葉だといえます。(NTTコミュニケーションズより)]
働き方改革の時代〜 労働小説の勃興
スマートフォン📱の世帯保有率の推移[※ 総務省「通信利用動向調査」より]
2010年〜 9.7%
2015年〜 72.0%
2020年〜 86.6%
「読書を娯楽として楽しむよりも、情報処理スキルを上げることが求められている」
娯楽から情報に変化
・本📕を早送りで読む人たち
・映画🎞️を早送りで観る人たち(目的が「観る」ことから「知る」ことへ)
・「ファスト教養」=自分と関係がない情報を「ノイズ」扱いする
全身全霊で働くことをやめよう
あなたの「文化」は、「労働」に搾取されている
>自分から遠く離れた文脈に触れることーそれが読書なのである。
> 君たちはみんな、激務が好きだ。
速いことや、新しいことや、未知のことが好きだ。
ー君たちは自分に耐えることが下手くそだ。
なんとかして君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。
もっと人生を信じているなら、瞬間に身を委ねることが少なくなるだろう。
だが君たちには中身がないので待つことができないー怠けることさえできない!
[※ ニーチェ『ツァラトゥストラ』より]
● 知識と情報の差異
・情報=知りたいこと
・知識=ノイズ+知りたいこと
(ノイズ=他者や歴史や社会の文脈)
「歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知」
● 読書と情報の差異
・情報ーノイズ抜きの知を得る
・読書ーノイズ込みの知を得る
(※ノイズ=歴史や他作品の文脈・想定していない展開)
>自己や社会の複雑さを考えず、
歴史や文脈を重んじないところー
つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、
そのノイズのなさこそに、《インターネット的情報》
ひいては ひろゆき的ポピュリズムの強さがある。
※「安手の情報知」「安直で大雑把」「反知性主義」(社会学者の伊藤昌亮によるひろゆき批判)
>求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことができる。それが《インターネット的情報》なのである。
つまり過去や歴史とはノイズである。
情報とは、ノイズ(偶然性)の除去された知識である
インターネットでは、自分の興味のないニュースは入ってこない
《要約、引用ここまで》
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三宅香帆は、全身全霊で仕事にのめり込むと、余裕がなくなり視野が狭まるので、読書📖しながら
「半身」で仕事に向かおうと提唱している。
プライベートも構わず自身のすべてを、仕事に捧げるような生き方は、ほとほと疲れてしまうのだ。
過労の末にうつ病を発症して「燃え尽き(バーンアウト)症候群」におちいるからと注意を促している。
さて、
戦前は「教養」というものが高く評価されて、仕事に役立ったものだったが、
世間で学歴が重視され、教育が行き渡ると、「教養」に変わるものとして、コミュ力が台頭してくる。
つまるところ、ビジネスは人付き合いなので当たり前のことなのだが、
物知りや蘊蓄は、処世術に取って代わられる。
やっぱりコスパが悪いからなのだろうか。
目の前の難題を、手っ取り早く解決する方向に向かい出す。
そうすると、「市場原理」という見えない神の手が、最優先されて大手を振って闊歩するようになる。
人びとは、その風潮にたいして「新自由主義」というレッテルを貼って、肯定的にとりくむようになる。
自分のキャリアは自己責任でつくるという足枷をみずから課して、所属会社をあてにせずに、会社への忠誠心を失ってゆく。
非正規雇用には、たしかに新しい形の「自由」はあったが、その代償は想像以上に大きかった。
しかし、日本は国を挙げて、「好き」を仕事にしようと、つまりは仕事で自分の理想を実現しようと無責任なことをそそのかすようになる。
その結果、まじめな「夢追い人」は狭き門をくぐることが叶わずに、こぞって夢叶わず、大量のニートを生んでしまった。
やりたいことを追求するあまり、甘んじてフリーターの立場をえらぶクソ真面目な人びとも多かった。
「失われた30年」と云われる不景気時代が、個々の夢追い人に苛烈な壁となってあらわれる。
人びとは、必死の思いで「バブル崩壊」「IT革命」の荒波のなかを泳ぎきり、適応をはかった。
市場原理に適合するためには、自分のコントロール下におけないノイズを出来るだけ除去しなければならなくなった。
自分でコントロールできる「手の内にあるもの」しか扱わなくなった。その中に「読書」が含まれる。
仕事のノイズになるものは、排斥することにしたのだ。
つまり仕事一辺倒のモーレツ労働者になって、適応しようという、涙ぐましい真面目人間なのであった。
なぜ、それほどまでに仕事に打ち込まなければならないのか、いや何故そんなに全身全霊仕事に打ち込みたいのか?
それは、自分と向き合うのが怖いからであろう。
仕事にかまけているうちは、「自分を知る」という孤独な営みには目を向けないで過ごせるからである。
他人というのは、自分の抱くイメージ(幻影)を投影したものだというから、他者と自分の関係をつきつめることは、つまり他者との付き合い方を理解することは、そのまま「自分を知る」行為になる。
自分の殻に入っていては、自分の姿が分からない。
だから、自分が自らの他者にならなければ(客観視)自分というものは分からない。
自分の殻にこもっている人は、他人がその客観視の役を勤めてくれる。
他人とは、自分の殻を抜け出た自分なのである。
そうして離れた処から見なければ、自分の輪郭というものは分からないものである。
つまり、「自分を知る」とは、他人を通して「自他を知る」の謂いであろう。
自分と誰か他人が付き合っているのを、「離見の見」でみる。それはいわば神の視座である。
自分ひとりしかいない時は、斜め上空から眺めているつもりで自分を観るしかあるまい。
この境地にあるとき、、ゆめゆめ自分にのめり込むことはあるまい。
自分の文脈だけで、ものごとを断罪するとき、それはただの拘りというか執着をあらわすものに過ぎない。
他人の文脈が入ることは、とりも直さず「離見の見」(客観視)ができているのである。
つまり、自分に慢心していない、油断していないときであろう。
洞察は、斜め上からの「INSIGHT」(外から覗き込む)が本来であろう。
人は誰でも、自分を外から眺められるものだと思う。
南方熊楠の云う萃点というものが、おのずと分かっていて使っているのではあるまいか。
斜め上に、ℹ︎クラウドの収納点があるのじゃあるまいか。
いま活躍している年代の人は、コスパ・タイパに執心するあまり、自分を大事にし過ぎるんです。
自分を内側から見てばかりで、自分の輪郭(キャラ)が分からないのでしょう。
> コスパよくしたいなら死ねばいい。(成田悠輔)
> Happiness is not a goal … it’s a by-product of a life well lived.
「幸せは目指すものではない、それはよく生きた人生の副産物なのです」(エレノア・ルーズベルト、第32代フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)
だから、読書📖したらいいんですよ。
本を開けば(電子書籍でもいい)、そこに他人が存在している痕跡があります。
読書人は、進んで読むという行為によって、その他人に寄り添っていって、次第に自分を無にして、その他人の文脈に乗ってしまいます。
そして没入して、他人の眼👁️🗨️に成り切ったとき、見つめているのは自分自身なのです。
そう、自分自身が世界🌏です。
世界は、わたしの脳内にあるものですから。
…… と、つらつら思いを巡らしてみると、
自分の文脈しか分からない人(=いわゆる馬鹿)は、一見自由気ままのようでいて、実は受け身で生きている人でしょう。
なぜなら、自分の内側しか見えないから、外からの刺激を受けないと自分の反応が分からないし、自分の反応が見えないからです。(内側の反応を見るというか感じることは出来るでしょう)
自分を外から知ること、これを教養と云うのでしょう。
教養があるとは、外の離れたものと自分との接点があるということだと思います。
自分の文脈と同じ文脈が、そこに息づいていることを感じられる。
摂理が、自分を貫徹していることが実感できる知の働き(≒知性、神性)を持っていること。
それが通常の世間知や人文知と一線を画する「叡智」というものだと思います。
やはり、やれば「ひとりにされる」読書📖という行為には、自分の文脈から離れる、あるいは忘れる効果があり、
他人の文脈に浸かることによって、自分の文脈をも深く知ることのできる営みなのだと思います。
自分の文脈と、他人の文脈との間にながれる地下水脈みたいなものを、本来は味わっているものでしょう。
いつの日か、自分の文脈が、世界創造の文脈になるのです。
文脈というからには文章があるわけですが……
案外そのうち文章は要らなくなるのかも知れません。
(聖ラマナ・マハリシ)> おそらく私の学問はすべて過去世で学び尽くされ、私は辟易していたのでしょう。それゆえ、現在その分野にサンスカーラ(精神的傾向)が作用しないのでしょう。
[ラマナが学問しなかった理由、14歳まではした]
それ以来、私は読みたいとも学びたいとも思いませんでした。
そんなこともあるのかも、、、大自然の書物を読むという言い方もしますしね。
山川草木・岩石・鉱物にも文脈はあります。
あらゆる文脈を読むことは、きっと楽しいに違いない。
_________玉の海草
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