大叔父が乗船していた「潜水母艦駒橋」について調べてみました。
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《潜水母艦駒橋》
当初は運送船として計画され、1912年に佐世保海軍工廠で起工。
1914年「駒橋丸」として竣工し直後に二等海防艦として艦名「駒橋」となる。
1920年に水雷母艦、1924年に潜水母艦へ種別変更。
1932年、横須賀海軍工廠で主機をディーゼルへ換装し、測量艦として整備。
その後、南洋群島、千島、カムチャッカ、中国大陸方面で測量兼警備任務に従事。
1942年、米軍機の攻撃を受けて小破。横須賀海軍工廠で修繕と整備を受ける。
1944年、尾鷲湾を基地とした第三海上護衛隊、熊野灘部隊の旗艦となる。
1945年7月28日、米海軍グラマン戦闘機6機(F6F-5)による攻撃を受け損傷、
尾鷲湾内にて浸水着底し、そのまま終戦を迎えた。
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戦争末期の敗戦濃厚な状況で、本土決戦に向け伊勢湾の水際防御を担当する
「第四特攻戦隊」に改変された潜水母艦駒橋搭載の潜水艦要員であった大叔父。
千葉のお寺で見た戦没者石碑の戦死日「1945年7月28日」は、駒橋が浸水着底した日と
合致するので、一連の呉軍港空襲による戦死であったと分かりました。
享年18歳という年齢を考えると、海軍に入隊して間もない環境下で戦死した
のであろうと想像すると胸が苦しくなります。
その他、当時の資料を調べる中で、駒橋が浸水着底したほぼ正確な位置が特定出来たこと、
近隣のお寺に駒橋の艦首紋である「菊の御紋」が大切に保管されているとの情報を得たので、
三重県尾鷲市まで行ってみることにしました。
つづく
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令和元年に亡くなってしまいましたが、小さい頃色々な戦争のお話を聞きました。
主の大祖父も駒橋の搭乗員であったということで、先祖が知り合いという可能性があり、運命的なものを感じております。
ぜひブログの更新をお願いします。
呉の空襲で戦死したということですが、自分の大祖父は、空襲を受ける数日前での怪我により三重県にある日赤病院というところで治療を受けておりました。大祖父のご冥福をお祈りします。
コメントありがとうございます。
また、お返事が遅くなり申し訳ありません。
コメントから察するにひいお爺さまと私の大叔父は同じ時期、駒橋に乗艦していた様ですね。
駒橋は大きな艦船ではありませんので、ほぼ間違いなく面識があり、同じ釜の飯を食べた戦友であったのだと思います。
ブログについては引き続き、更新をして参りますので、今後ともよろしくお願いいたします。