2011.9.3
断薬1年と10ヶ月
昨日は”誰か大丈夫だといって欲しい”という感じでブログは終わっている。
大丈夫大丈夫と付け加えているが。
離脱症状の苦しさはどうにも例えようがないものだ。そしてそれが理解されないというところに拘るのは理解されないことで非常な孤独感を味わうからだ。
そしてまたこれはクスリからの離脱とクスリの副作用が精神症状も引き起こしているから状況を複雑にする。
自分の状況を認識しようにもツールが見当たらない。
クスリは勝手にどこかで買って飲んだわけじゃない。病院へ行き医者が処方したのだ。
病院へは自分で行ったんでしょ?自己責任?
別に赤ひげじゃなくてもいい。一生飲んでも大丈夫じゃないクスリを一生飲んでも大丈夫って出さないでね。
そのクスリで苦しんでいるのにその状況を判断できない医者。
学校で勉強している時にはまだこんな状況がなかったから分らないんだろうと思う。
向精神薬の離脱症状、副作用というラベルがなかったのね。
ちゃんと教えられる学問ではなかった。
だからそれについて苦しむ人間が指摘しても考えても見ようとしない。
医者にクスリ売ったクスリ屋さんもね。
自分の人生が根底から覆されるようなことには誰だって簡単には耳を貸さない。
病院や医者というツールが役立たずでは仕方ない。それが災いか不幸中の幸いかいずれ知らぬが。
個人の状況は日々辛く何かを待っているわけにはいかないのだ。
身体と精神の症状は個々それぞれで複雑なもので、また個人の特質もあるから難しい。
たとえ誰かが”それはクスリのせいですよ”、”大丈夫ですよ”と太鼓判を押してくれても、すぐ次の瞬間湧き上がる”不安”。理屈を越えている。それでもその”大丈夫”が聞きたくてネットの上をウロウロする。
症状の強弱の波間で人生を考え続けてきた。苦しみのなかで手放したくなかったもの。
人間の誇り。大げさなようだがこの苦しみに比べたら何でもアリだ!
自己責任なんかじゃない。そんなものクソ食らえだ!
渦巻く症状の最中でも間隙を縫うように光はたち現れる。自分自身の精神の光を見つけたときそれを掴んで離さなかった。
そして”大丈夫だ”と自分に言い聞かせた。全ては事実として起こる。しかしそれは起こるだけ。
私自身は苦しむか苦しまないかすら選ぶことが出来る。
現実は苦しいのだけれど私たちはそれを越える存在なのだと光の中で見つけた。
光はすぐに闇にとって代わってしまうけど掴んだものは消えはしない。
これは薬害という社会問題だ。しかし社会問題と捉えて問題提起することと個人が楽になることは全く別ではないけど違うアプローチが必要だもんね。
そんなこと思いつつ今日も夜が来ました。
断薬1年と10ヶ月
昨日は”誰か大丈夫だといって欲しい”という感じでブログは終わっている。
大丈夫大丈夫と付け加えているが。
離脱症状の苦しさはどうにも例えようがないものだ。そしてそれが理解されないというところに拘るのは理解されないことで非常な孤独感を味わうからだ。
そしてまたこれはクスリからの離脱とクスリの副作用が精神症状も引き起こしているから状況を複雑にする。
自分の状況を認識しようにもツールが見当たらない。
クスリは勝手にどこかで買って飲んだわけじゃない。病院へ行き医者が処方したのだ。
病院へは自分で行ったんでしょ?自己責任?
別に赤ひげじゃなくてもいい。一生飲んでも大丈夫じゃないクスリを一生飲んでも大丈夫って出さないでね。
そのクスリで苦しんでいるのにその状況を判断できない医者。
学校で勉強している時にはまだこんな状況がなかったから分らないんだろうと思う。
向精神薬の離脱症状、副作用というラベルがなかったのね。
ちゃんと教えられる学問ではなかった。
だからそれについて苦しむ人間が指摘しても考えても見ようとしない。
医者にクスリ売ったクスリ屋さんもね。
自分の人生が根底から覆されるようなことには誰だって簡単には耳を貸さない。
病院や医者というツールが役立たずでは仕方ない。それが災いか不幸中の幸いかいずれ知らぬが。
個人の状況は日々辛く何かを待っているわけにはいかないのだ。
身体と精神の症状は個々それぞれで複雑なもので、また個人の特質もあるから難しい。
たとえ誰かが”それはクスリのせいですよ”、”大丈夫ですよ”と太鼓判を押してくれても、すぐ次の瞬間湧き上がる”不安”。理屈を越えている。それでもその”大丈夫”が聞きたくてネットの上をウロウロする。
症状の強弱の波間で人生を考え続けてきた。苦しみのなかで手放したくなかったもの。
人間の誇り。大げさなようだがこの苦しみに比べたら何でもアリだ!
自己責任なんかじゃない。そんなものクソ食らえだ!
渦巻く症状の最中でも間隙を縫うように光はたち現れる。自分自身の精神の光を見つけたときそれを掴んで離さなかった。
そして”大丈夫だ”と自分に言い聞かせた。全ては事実として起こる。しかしそれは起こるだけ。
私自身は苦しむか苦しまないかすら選ぶことが出来る。
現実は苦しいのだけれど私たちはそれを越える存在なのだと光の中で見つけた。
光はすぐに闇にとって代わってしまうけど掴んだものは消えはしない。
これは薬害という社会問題だ。しかし社会問題と捉えて問題提起することと個人が楽になることは全く別ではないけど違うアプローチが必要だもんね。
そんなこと思いつつ今日も夜が来ました。