自分のいのちが、「具体的他者」の「犠牲」によって成立している事を今日改めて数字で確認してしまった。
換言すれば、その犠牲がなければ、自分はこの世に「確実」に「存在」しなかったのだ。
村上春樹の「海辺のカフカ」は15才の少年が父親からかけられた「呪い」を発端にして物語が始まる。
別にそうしたことを否定している訳でも、引き受けないつもりもないが、もし言葉で表すなら上述のことはボクの事実としての「呪い」だ。
大江健三郎は「人生の親戚」という小説を書いた。スペインだったかどこかの国で「人生の親戚」とは「苦難」を意味するそうだ。もともと「苦難」や「呪い」を担うのは人間のひとつのあるべき姿なのかもしれない。
冷酷で大切なことは、「苦難」や「呪い」を人間は引き受ける自由はあっても、その運命事態を選択する自由は全くないということだ。 まるで「自由意志説」と「奴隷意志説」のような話だが。