bowbowのゆううつ~Returns

双極性障害Ⅱ型(躁うつ病)サバイバー&共生模索中のbowbowの日常。

心の傷のボタン。

2011-06-27 10:59:13 | 双極性障害・躁うつ病

臨床心理学の世界では「いま、ここに、生きる」という視点がロジャース等の系統にしろ、認知行動療法的な系統にしろ言われる。

自分にはトラウマ的な出来事が2つ?ほどある。

ひとつはある人の自殺の出来事に2才~3才位の自分が傍らにいたことである。 べつにトラウマの教科書どおりのサンプルを書くつもりではないが、この記憶は成長期には漠然とし、断片的な夢と現の間のようなはっきりとしないものだった。 高校生位から、かなりはっきりとした記憶、夢として認識され、20才すぎにその記憶が周囲によって事実であることが確認された。 かなり細部にわたる記憶であった。意味は違うかもしれないが「三つ子の魂、百まで」とはよくいったものだ。

もうひとつのトラウマ的?なものは自分の存在に関することだ。 直近の記事で書いたようにある間違った「犠牲」によって自分は存在している。

ハーマンの「心的外傷と回復」でいえば、解離・抑圧されていた記憶を想起をして、事実として味わって、哀しみ、それを昇華するという過程をとる。

問題なのは昇華して「いまここに生きる」覚悟をしたとして「外傷は外傷として存在しつつける」という事実だ。

当然であるが、心的外傷は他の精神疾患と同様に「外からは見えない傷」である。 足を骨折をしている人が前から歩いてきて、その足にぶつかっていく人はいないだろう。普通なら自分からその骨折に触れないようにする。

ところが精神疾患やトラウマの場合、表立って傷が見えない。 だから病気や傷をよく知る家族や周囲の者でさえ、ときに全く配慮する事なしに傷に触れる。 ときに蹴っ飛ばすこともある。

これはよく統合失調症等の家族療法で、家族は患者の「傷=ボタン」を押さないように指導される。 ボタンは大抵本人の自尊心に関係する「ことば」である。 もちろん、「病気」であるので一般常識から見るとその「ことば=ボタン」はまるで自尊心等のボタンとは「関係ない」と思ったり「遠い」と家族は思っている。 しかし本人の中では病的に、あるいはメタファーとして飛び越えて自尊心へ直結する。 家族もこうした精神的な病が心に見えない大きな「傷」や「障がい」を持っていることを、そうした通常では考えられない「直結」があることを認識することは大事だと思う。

たいてい家族自身は自分がどこで「ボタン」を押しているか分からないことが多い。だから医者や臨床心理士、精神科ソーシャルワーカー等の専門家に「どこがボタンか?」を教えてもらう、換言するとレントゲンやCTのように傷の「翻訳・解剖」して説明してもらうことが必要だと思う。

一方で患者の方は、残念だがどこかの塾CMのように「やる気ボタン」ならぬ「傷ボタン」を可視化することはできない。 従ってそれは非常に大変な作業ではあるが、自分の弱い「ことば」や「言い回し」「状況」を前もって家族に伝えることが必要になる。

あとは認知療法的にそうした「ことば」に振り回されないことも大事だ。 ボクは認知療法はたぶん初期の軽い患者でないとなかなか有効でないのではと思っている。 ボク自身が試みている事は単なる「認知の変更」ではなく、現実への「タフさ」だ。

また「ボタン」が押されそうな状況から一時避難することも、悪意はないにしろ相手の提案(ことば)を断ることも、大切な自己防衛である。