35年以上前になりますけど、とあるレクリエーションの会で
とても素敵な女性に逢ったことがあります。
清楚で可憐。身も心も奪われてしまいそうでした。
当時、1枚撮ってお送りしました。
でも、その後、
たぶん彼女はある種の不幸に襲われてなかなか立ち直れなかった。
彼女と縁は、写真の返礼の手紙それっきりだったけど、
私はいまもその後の幸せを願っています。
私は過去に出会った人をイメージとして心(脳の記憶領域だと思う)
に保存していますが、お相手は覚えておられるだろうか。
もちろん、私が忘れている、逆に忘れられている可能性はもっと大きい。
めいいっぱい疲れていますが、
試験の受験用紙に記入事項が多くて、会社で数時間を要しました。
出勤の女性の方が覗き込んで、問いて来たのでこう答えました。
”生きた証として試験に、資格取得に挑んでいるのです。
いつまで生きているかわかりませんけど”
意欲は理解されたかもしれませんが。
誰もが自分だけが正しいと思っている。
消防団の例会でも、いろいろな人が意見を言う。
でも、例会は報告会であって、またイベントの参加者を募り
あるいは、反省会や学習等の講義をする時間であって
自分が正しい、◯◯分団は間違っている。◯✕は違うという
ところではないと私は思っている。
自分が、自分だけが常に正しい、
自分の主義主張が優れているなどと考えているのは悲しいことだ。
神仏の精神力、愛、正義に比べたら
人間など無に等しい。
白いと思っても、それは人の言う、思っている、知っている白さであって、
次元というかレベルというか、違う。
無論、私は誰よりも卑屈で惨めて、貧しいのだ。
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