クリスマスの昼下がり、上野広小路で久しぶりに「救世軍社会鍋」を見かけました。今年で日本伝来100周年を迎える「救世軍社会鍋」。米国救世軍がスープつぼを三脚にぶら下げ、「慈悲鍋」として募金を呼びかけたのが発祥だそうです。
未曾有の経済危機が日本全体に暗い影を落とす中、互いに救い、救われたいと願う庶民の思いが、例年以上に「鍋」の存在を際だたせていました。12月25日付夕刊フジによれば 街頭募金を呼びかける師走の風物詩「救世軍社会鍋」に“異変”が起きているのだとか。
バブル期には全国で最高5000万円以上を集めた年もあったそうですが、現在は2800万円前後まで低下。 金融危機が直撃している今年末はさらに厳しい結果が予想される中で、“鍋のフタ”を開けると東京都内だけでも24日時点で、昨年同時期に対し大幅プラス。
金額的にも今期は、バブル以降最高の3000万円超えは確実とのこと。ひとりでは どうすることも出来ないのですがこの未曾有の大不況の日本を「どげんかせんといかん」 と思う人が世の中にはまだたくさんいることを知りホッとした瞬間でした。日本はまだまだ捨てたものではないようです。
さて 上野広小路から師走のアメ横へ足を運びました。 細い路地より少し幅がある程度の道は買い物客でごった返していて、人混みと雑踏で買い物どころではありませんでした。
アメ横名物 チョコの叩き売り、何度か見ているとやみくもに袋に詰めているのではなくパターンがあることに 気付きました。 差があって一個かあるいは二個追加していますが、商品の個々の価格まではチェックできません。定価の2倍近くの商品を入れているように見えましたが。
現在のアメ横の原型は、終戦直後、現在のJR山手線上野駅~御徒町駅間に多数のバラック店舗が軒をつらねた簡易マーケットが建設されたところにさかのぼります。
食料難の時代であり、砂糖なども不足していました。昭和22年後半になると、サッカリンという砂糖に代わる甘味料を原料としたアメ菓子や芋アメマーケットで売り出され大ヒット。周辺にあった商店の次々とアメ菓子をうるようになり、その数は、300軒近くにのぼりました。
アメ一色の街はたちまち評判となって、上野駅を起点とする沿線(遠くは、北海道、青森など)から連日買出しの人たちで賑わいを見せました。いつしか、『アメ屋横丁』と呼ばれ親しまれるようなりました。
昭和25年以降になると、朝鮮戦争の勃発の影響もあり、駐留米軍などからアメリカ物資がマーケットに大量に流れ込んできました。このころは『アメリカ横丁』と呼ばれました。
やがて芋アメのアメとアメリカ物資のアメが重なり『アメ横』というネーミングの由来となりました。
昭和30年代後半になると、米軍の放出品などをあつかっていた業者が直接海外買い付け、輸入しはじめ様々な輸入商品が並び始めました。
昭和後半になると上野駅前京成百貨店跡に丸井が出店しました。この頃になると、アメ横も2代目へと代替わりが始まり本物志向(価値あるものを安く)が多くなり、若者向けファッションやスポーツ、ゴルフの街として人気を博しました。
大手ドラッグストア(コクミン、マツモトキヨシ)などの出店で薬の街としても存在を高めています。
アメ横の戦後の歴史は次のURLで克明に詳しく綴られています。
http://www.hakuraido.com/hakuraido_01/ameyoko/ameyoko.html
次回は上野不忍池にある「下町風俗資料館」探訪結果をお伝えする予定です。
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
お時間があるときにでも、またお気軽にお立ち寄りいただければとても嬉しく思います。
アメ横の店先の灯りの列と沢山の買い物客の
一コマがいいです。
アメ菓子を売る300軒、駐留米軍物資の両方から
アメ横と言う名がついたんですか。
知りませんでした。
ありがとうございます。
さすがに お正月用品のお店はいっぱいの人だかりで売られている数の子など商品の撮影は不可能でした。
救世軍は年の瀬になると登場しますが 今年ほど必然性を感じた年はありませんでした。
「丼」