小江戸川越探訪 最終回
「知恵伊豆」と言われた松平信綱の功績で 今も発展を続けている川越ですが、麻生さんや歴代総理も少しは見習って地に足のついた施策をうって欲しいものですね。
大正浪漫夢通に続いて 酉の市でにぎわう熊野神社に立ち寄りました。
今年は三の酉まであるのですが、ここでは12月3日が三の酉?
川越を代表する観光地に五百羅漢の石像群で知られる喜多院があります。そこは、関東の天台宗の総本山で、徳川家康の関東入国の時に、彼の補佐役であった天海僧正が来住した所でもあります。
現在の建物の多くは、寛永16年(1639)に造られたものです。 前述の様に、川越の町の発展と新河岸川の水運とは切っても切り離せないのですが、喜多院の庫裏、書院、客殿は、江戸からわざわざ新河岸川を使って運んだものだそうです。
徳川家光は、寛永16年の喜多院の再建に当って、江戸城紅葉山にあった慶長期(1596-1615)の建物を解体して態々川越に移築しています。この時の客殿の中に、家光誕生の間と言われる12畳半の部屋があります。
また、喜多院の中に徳川家康を祭る仙波東照宮があり、それは久能山、日光と並ぶ三大東照宮とされています。こうして見ると江戸幕府が川越を重んじた事が伝わってきます。
仙波東照宮は日曜祭日のみオープンとされるとのことで この日はゲートの向こうにある建物を眺めましたが・・・。
◆「知恵伊豆」の功績
寛永16年(1639)川越領主になった松平信綱は、長く老中職をつとめ、 伊豆守の官名をもっていた為、「知恵伊豆」とよばれた名君です。 四代将軍徳川家綱が最も頼りにした補佐役が信綱でもありました。
松平信綱のときに川越藩の領地は七万五千石になっています。
松平信綱は、正保4年(1647)に新河岸川に河岸場を設けます。これは、川越藩の領内の米を江戸に運ぶ船着場として大いに役立ちます。のちに、河岸場は上下に分かれ、上新河岸、下新河岸とよばれました。さらに、新たに寺尾、牛子、扇河岸の船着場がつくられ、それらは、「五河岸」とよばれ、いずれも川越藩の外港として繁栄していきました。
藩の物資だけでなく一般荷物が輸送されるようになったおかげで、川越の町が大いに繁栄することになったのです。川越の市役所の庁舎が、江戸時代の川越城の西大手門に当ります。そして、その東方がかつての川越城の本丸で、中心部には本丸御殿が残っています。
本丸御殿は、嘉永元年(1848)に建設されたものです。この頃の藩主は松平斉典で、当時の川越藩は、17万石にまで成長していました。斉典の系統は、松平信綱とは別の家筋です。キャリアパスとなった川越藩主は何度も交代しています。柳沢吉保も領主であった時期があります。
本川越駅から約500メートル北方の仲町が、かつての城下町のはずれです。 最初に歩いたその北方の元町、幸町、仲町の一番街の通りに、数十軒も残った蔵造りの建物が現在の川越を観光地に変え 発展の礎となったのです。
ところで 蔵造りの通りも、町に残った建物はその多くが明治時代に建て替えられたものです。江戸時代の建物は、明治26年(1893)の大火で焼けてしまったものが多いからだそうです。
大正11年(1922)に川越町と仙波村の区域をもって県内で最初に市制を施行し、川越市が誕生。その後、昭和14年に田面沢村を編入、昭和30年に隣接する9ヶ村を合併し、市域を拡大しています。
埼玉県南西部地域の中心都市として発展。近年では、首都圏に位置する「歴史と文化のまち」として脚光を浴び古さと新しさが共生し、川越まつり・市立市立博物館・多くの文化財など観光資源とあいまって、毎年400万人近い観光客が訪れています。
ほぼ 要所を回り終え 本川越駅でお茶して 気づいたのは3人で撮った写真が無いことです。 駅の構内で 通りがかりの見知らぬ人にシャッターを押していただいて 無事記念写真撮影完了。
帰りは西武新宿線で都心部へ向かいました。帰途、狭山市のあたりで マジックアワーに車窓からくっきりと富士山のシルエットが見られ、お天気女であるお二人の運の強さを証明しているようでした。
(これは出発前に撮ったもので これがシルエットになっているのをご想像ください)
とこさんは 所沢から特急に飛び乗り、20分も発たないうちに池袋へ到着。
副都新線直通の到着を待ったカプリさんも所沢を午後5時過ぎに出て50分乗らないうちに渋谷へ到着。
新線開通の威力を再認識した一日でもありました。
ともあれ いも懐石は試食したし 小江戸川越のブラ歩きは無事終わりました。
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
注)記事のうち景勝地の紹介文はフリー百科『ウィキペディア(Wikipedia)』および各地の公式サイトから抜粋・加筆したものです。
ブログお立ち寄り有難うございます。
川越にお住まいの方のお役に立てたなんて お世辞でも嬉しいですね。
旋風@さんの面白いブログも拝見しました。いも膳から札の辻へ向かったときのタクシーの運転手さん(女性でしたが)が言っていたライトアップされた 夜の川越を見ることが出来ました。
早速 一緒に行ったお二人に連絡します。
また機会があればお立ち寄りください。
「丼」
川越に長く住んでますが、知らないことばかりで大変勉強になりましたヾ(;´▽`A``アセ
いも膳は確かにちょっと気取ったところがあっておいらも行きにくいです・・・ってか、隣の人がアルバイトしてるんで尚更です。
まとまりありませんがありがとうございました。
疑問が生じるのは まだ好奇心が持てている証拠です。 頭脳の細胞が若い証拠です。
それにしても川越がこんなに歴史的な事柄に関わっていたなんて...。
お二人の訪問希望がなければ 知らずに過ごしたかもしれませんです。ハイ
銭洗弁天様の ご利益がありますように.....。
「丼」
実際に訪問した後で初めてその土地をもっと知りたくなる、ってありますよね。 今回はそれを地で行きました。なるほど、こんな歴史が会ったのだ、とうなづきつつ読んでいます。
銭洗い弁天では思いのたけをこめて洗ってきました、最初は硬貨を洗ったのですが、次に千円札も洗いました! ご利益が楽しみ!!!
私も 今回の二人の案内で 事前に 川越の歴史を勉強しました。
無雲さんの要請にも応えブログ投稿前に更に深く掘り下げました。
信綱 謙信 天海僧正 とても 勉強になりました。
これからは 外を歩かないと 何もハップンしないですねえ。痛感します。
「丼」
で、川越にも功績があった訳ですね。
家光が紅葉山の建物を川越に移築したのか~
徳川家康を祭る仙波東照宮は気づきませんでした。
なんでまた日曜祭日のみなのだろう。
四代将軍徳川家綱の補佐役
川越藩七万五千石
五河岸の整備
本丸御殿1848に建設
松平斉典、川越藩17万石に成長
新線開通の威力は凄い。
川越探訪記ありがとうございます。
新しく川越の良さと歴史を学ばせて頂き
感謝に耐えません。