写真は 川越の老舗和菓子屋「亀屋」の栗をベースにしたシュークリームです。
先日川越に出かけたときに撮ってきた写真にあった物を見て、 数日後 家人が出向き 買って帰りました。 思ったとおり、モンブランの上に乗っている、クリームとほぼ同じ食感でした。
おそらく マイミクMさん(この頃はまっていたMixiの友達)の大好きな味覚ですが、季節限定商品。 この日を最後に クリームの中味は冬メニューに変ったそうです。
さて 連ドラ「だんだん」は 双子姉妹の歌手への道をテーマにしたものですが、双子と言えば 私が社会人になった年に下宿していた杉並区のお宅にも双子の息子さんがいました。 すでに独立され 老夫婦は何不自由の無い暮らしをされ、隣家にアパートも経営されていました。
息子さんはお二人ともに別居して、有名企業にお勤めでした。 このため空部屋になった二階に 社会人1年生二人を下宿させることにしたのです。 私は新宿区の下宿先から、杉並へ移りこの家にお世話になっていました。 九ヶ月があっという間に過ぎ、年の瀬を迎えていました。
1971年(昭和46年)12月8日金曜日夕刻のことでした。 この日は社会人になって初めてのボーナスを手に、友人と飲み歩く予定でいました。 午後六時過ぎ、会社を出ようとした時に 夜間直通電話に 私宛の緊急電話が入っていると別のフロアから知らせがありました。
午後六時過ぎ交換台がいなくなると、夜間は部門ごとの直通電話に切り替わる仕組になっていました。 電話の相手は下宿先の大家さんの息子さんでした。 ただ事ではない事柄を冷静に しかも正確に伝えてきたことが強く印象に残っています。
「今 杉並の実家が火事です。 隣のアパートから火が出て、類焼してこちらに燃え移りました。 ちょうどあなたの部屋が燃えている最中です。 すぐに帰ってください。」 八重洲口からタクシーに飛び乗って 戻ったときにはすでに鎮火していましたが、私の部屋はほぼ全焼していました。
一瞬にして 大学時代に集めた書籍・古文書も、衣類も、家財道具の全てを失いました。正真正銘の無一物になった私は、その夜はひとまず練馬の伯父の家に転がり込むことにしました。 翌朝から普通ではない闘いの日々が始まるのだということを まだ気づいてもいませんでしたが・・・。 社会人になって最初の冬に与えられた試練のスタートでした。
幸いにして銀行口座には少しとはいえボーナスが入ったばかりで 行きつけの店への支払いを終えても半額くらいは残っていました。 さしあたり無一文ではありません。しかし、無一物というのは 替えの下着一枚、歯ブラシ一本から手元に無いのです。誰もが体験できることではありませんでした。
それから 数年間は季節が変るたびに衣類を買い揃え、カメラや趣味用品など 到底手が出ない日々が続きました。 何よりも書籍や 廃刊になっていた古書そして貴重な資料など失ったことがその後の人生に大きく影響していきました。
笑ってこの話が出来るようになるまでに3年いや5年の月日が必要でした。 37年前の今日 12月8日は 私の人生では大きな転換期になった思い出の日だったのです。
ドラマや落語の世界では よく裸一貫とか すってんてん とか 丸裸とかいいますが、実際にそうなることは人生において たびたびあることではありません。
無一文とか無一物になると その後の価値観形成に大きく影響することを身をもって体験したのです。
時節柄皆様ご自愛いただきますように。
37年前の12月8日の大変な出来事のお話、
ありがとうございます。
ドラマのような出来事が事実とは唖然です。
ご本人様はどんなお気持ちでしたでしょか。
お察しするにあまりも心の整理ができません。
大切な書籍や書類を失くされたこと、いや全てを
失った虚しさ無念さを感じます。それも延焼で。
12月8日は太平洋開戦ですが、ドン・キホーテ
さんにとっても忘れられない日であった事を
知りました。
ありがとうございます。
12月8日はあの真珠湾攻撃の日ですが、私の人生における 運命の女神の不意打ちの日でもありました。
この日を契機に 女神のいたずらはこれでもかとばかりに続き ドラマや小説よりも数奇な時の流れに 私は身をまかせることになります。
74年出張時にハワイで撮った写真の着用スーツはまだ冬物でした。3年経っても夏用の衣類は買えなかったんでしょうか。
後にこの写真を見るたびに笑っていました。振り返って見ると みな貴重な思い出です。
マイミク モンブランさんいわく
「思い出は 人の宝物です。」
「丼」
時間の猶予も無い、
一度に持ち出せる量とて知れている。
そんな時、お母さんは何を持って逃げる?」
と姉が息子(私からは甥です)に聞かれました。
姉は「現金、通帳、貴金属宝石!」
と即座に答えました。
そして、息子に嘆かれました。
「お母さん!、写真を一番に持って出て欲しいな。
俺達家族の思い出の写真は、何処にも売っていな い。それが消滅する方が、俺は嫌だな!!!」
ウ~~~ン!
ドン・キホーテさんの人生も
色々な事がお有りだったのですね。
辛い思い出をも
笑いに姿を変えることが出来る人の心は
素晴らしいですね!
人生の彩りですね!
12月8日は、ジョン・レノンの命日でも有ります。
夫の哀しい日です。
まだ若くて自信に満ちていましたから、極力弱音を吐かないようにしようと思い 翌週月曜日から出社しました。
しかし、土日が来る都度、そして季節が変る都度、あれがない、これも無かったのだと気づき経済的に許される範囲で買い求めました。
何より困ったのは 子供の頃のアルバム小学校・中学・高校の卒業アルバムや住所録でした。復活させようも無いのです。
この時から、人生とは はかないものだと思うようになり、全てを失くすことが さほど恐ろしいものとも思わなくなっていきました。
生きてるだけで丸儲け、火元のアパート住人であった若夫婦には 一切の補償を要求しないことにしました。
「丼」
強さとは、優しさと言うことですね。
私が思っていた通りの方です、ドン・キホーテさんは!
この様な、状況下で火元の住人のご夫婦に対する優しさは、なかなか出来る事では有りません。
それにしましても、
アルバムを失くされた事は、余りにも哀しく、
お慰めの言葉も見つかりません。
火元となった若夫婦の生涯はいったいどうなっただろうと今も時折思い出します。心の優しい若い奥さんで産まれたばかりの赤ん坊を可愛がり幸せの絶頂にいたのです。
類焼により被害を受けた5世帯は 連名にて損害賠償を請求するので一緒にやろうと言ってくれましたが、火元の 若い奥さんの憔悴しきった紫色の頬を見たら とてもこの人たちには 何も望めないと思いました。
奥さんは火災の現場から赤ん坊を抱いて飛び出すのが 精一杯だったのですから・・・。
あれから37年 その後 どうなったのでしょうね? とても支払能力があるとも思えないし・・・。
「丼」