新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代5「警察に保護され母を呼び出す(その3)」

●警察に保護され母を呼び出す。(その3)

 調子こいて近所の友達と線路を歩いて駅まで来た幼稚園児の私は、抱きかかえている大人の男性に全く見覚えが無いことで身心を硬直させていたが、視線の先にあたるその人の腰のあたりの装備を見ると何かものものしさが伝わってくる。後から思えば拳銃だったのではないかと思う。
 そしてある場所に連れてこられてみれば、幼い私にもそこが何処か直ぐに分かった。国鉄越後線の比角駅(現在の東柏崎駅)のすぐ前にある交番だ。外装内装とも殺風景なコンクリにくすんだ白色で、シンプルな事務用机とパイプ椅子しか見当たらない6畳ほどの空間。取調室さながら我々幼児二人は並べて座らせられて、対峙する二人の警察官からの尋問が始まった。
 とはいっても我々は幼児であり、警官は武骨な顔に似合わない優しい表情と言葉遣いをしてくれていた。大人に捕まえられて座らせられれば、説教か、ともすれば平手打ちという時代だったので、警官の態度に安堵して、隣の友達などは声を上げて泣き出してしまった。
 日頃は遊びのリーダー格だった彼が大泣きを始めたのにはさすがに驚いたが、私の父親は高校卒業後に自衛隊を3年任期で勤めて心身ともに厳しさを磨いた人であり、私は何かしでかすと叱り声と併せて殴られたりしていたこともあり、交番の中という異様な状況に座してもあまり動揺しなかったようだ。単に鈍感だったのかもしれないが。
 加えて言えば、私には6歳も上の兄がいて、面倒も見てもらったが、兄の遊びを邪魔しては疎ましがられたり冷たくされたりもしていたので、大概にして鈍感になっていたように思える。対して隣の彼は長男で、工場の社長か何かをやっている父親から溺愛されていたようなので、ストロングスタイルへの免疫が低かったのかも。
 「どこに住んでいるのか言える?」と警官に尋ねられて、泣きじゃくる隣の彼をよそ眼に私は驚くほどすらすらと「桜木町○番○号です」と背筋を伸ばして応答したことを今でも生々しく覚えている。人に問われて正解を答えた初めての成功体験ではなかったか。調子に乗った私は自分の名前もフルネームで言えたようだ。
 そうなれば、自宅へ送還ということになるのだろうが、送り届けて家に大人が居るかどうかわからない。というのも、当時の電話機は確か隣の家に入ったばかりで、どうしてもという要件があるときに借りていた状況だったと思う。当時の警察のアナログな台帳では隣を探し当てられなかったか、掛けてみても不在で誰も出なかったかは定かでない。
 二人の警官はさてどうしたものかと思案しているようだった。少し強面の大人の男性が和やかそうに振舞いながらもいつまでもこうしてはいられないなあという雰囲気になってきたのが子供心に伝わってくる。私は何とかできることをしなければならないように思えてきた。

(「柏崎こども時代う5「警察に保護され母を呼び出す(その3)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代6「警察に保護され母を呼び出す(その4)」」に続きます。)
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