新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代44「学級新聞づくりを独りで」

●学級新聞づくりを独りで

 昭和半ばの柏崎市立小学生時代を振り返っていくと、今から思えば自身の特異な行動が次々と思い浮かぶ。
 年間三学期の学期ごとに選ばれる級長というものに小学3年生以来毎年なっていたようだった。おそらく都度立候補したのだろう。自分としてはクラスに他に適任は居ないのではと真面目に考えていたようであるが、自分より優れている他者は多いということを未だ心底理解できていないだけだったのだと思う。特に大人びるのが早い女子の皆さんなどは、利口で要領の良いので、そんな面倒な事を買って出ることはしないので、ピエロのような私が都度都度選ばれていただけなのだと思う。
 何のとりえもないのに出たがりということで今から思えば恥ずかしい限りなのだが、加えて、マンガを描いたり物事を書き記したりするのが好きだったので、「学級新聞」づくりのリーダーにも手を上げていた。
 学級新聞担当は男女何人かいたはずだが、メンバーから粗方の意見を聞くと、紙面づくりは私が殆ど一人でやっていたと思う。今や死滅したと思われる懐かしの「藁半紙」に「ガリ版刷り」という方式で、教諭達が簡単なテストや保護者へのお知らせなどつくる「印刷室」という狭い個室に閉じ籠って、手作業で一枚一枚版画のようにインクの付いたローラーで刷っていくものだ。
 授業以外のこうした活動は放課後に行うのが通例で、メンバー達はそれに時間を割くのを嫌っていたので、そんな作業を厭わない私が、記事原稿の手書きから印刷まで殆ど一人でやっていた。そう、当時半ドンだった土曜の午後に、たった一人で教室に残って、近所の行きつけのパン屋で買い込んできた総菜パンを掻き込むや否や、黙々と作業に取り掛かるという事を毎月一回程度繰り返したのだ。
 小学校の放課後と言えば、運動場や体育館でボール遊びなどに興じる児童の声で賑やかなのであるが、土曜というのは皆が昼食を取りに下校するので、その午後の校内はとにかく閑散として静まり返っている。今から思えばよくもたった一人で何の実入りにもならないような作業を何時間もできたものだと思う。
 でも、当時の私は何か”直向き(ひたむき)”だったのだ。つまらない四コマ漫画を描いたり、下手くそな字を書き綴ったりして何かを創造していくことに。これは正に自分本来の性分といえるものなのかもしれない。
 ”漫画家”については自身のレベルはそれに適わないということ、”物書き”というのもそんな才覚を持ち合わせていないことが、生きて来てのある頃合いで見極めがついたので、それぞれ諦めて未練なく振り切ってきたのであるが、こんな凡人の私は何を目指すべきなのかというのは、就職を考え始める段になって大いに悩んだものだ。
 具体の分野や方面が特定できず、むしろ、だからこそ、何にでも関わりながら各々の面白みを探り続けて、そして皆の役に立つことを生業にできないだろうかと。
 昔から低体温で高熱を出したことが無かった私が、おそらく生涯で初めて38℃越えするまで頭を悩ませたのが人生の進路について考えた時であり、その際に半生の振り返りの中で「学級新聞づくりを独りで」もひらめきの様に思い出されたうちの一つだった。

(「柏崎こども時代44「学級新聞づくりを独りで」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代45「卒業祝いの自転車選びで落胆(その1)」」に続きます。)
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