●イシザキ遊技場(その2)
昭和の半ばで未だ子供たちに清廉さが強いられていた時代…とは言い過ぎか。いずれにしても「小学生の友達だけで市内のゲームセンターに行きたいから小遣いをくれ」というのは躾に厳しめの我が家においては少しハードルが高いように思えた。
ところが母親は「いいよ。気を付けて行きなさい」と意外にも寛大なお答え。少し拍子抜けしてしまった。更に、私が訪ねられたら査定覚悟で希望を答えようと考えていたお小遣いの金額については、「暫く遊ぶにはこのくらい要るだろう」と、想定を超える額を提示してくれるほどだった。
結果オーライに安堵するも私はこの寛容さには何かウラがあるのではないかといぶかった。ただ、色々とここまでの母親とのやりとりなど思い返すと、さもありなんとも思えてきた。
私の父親は昭和半ば当時のステレオタイプのごとく、休日ともなれば競馬や接待ゴルフ、パチンコ、釣りなどに出ずっぱりで、家族旅行はおろか子供の相手をすることなど皆無に近かった。共働きの母親も休日にはたまった家事などに追われていたし、祖母は少し変わった人で子供相手などできず、兄も6歳も年上だったので遊ぶ上で疎ましい私を置き去りで出かけてしまうので、私は家に居る時は一人きりでヘタなマンガを描いたりして過ごすことが多かった。
母親は、そんな私を不憫に思っていたのか、今回の多めの小遣い額はそんな気持ちが表れていたのかもしれない。また、年上の兄で一通りの子供の”しでかし”は経験しているので、次男の私がやることなど大したことにはならないと見切ってもいたのだろう。色々考えると下の子供というのは親による規制のハードルが下がりがちになるので有難いものだ。
かくして、”ゲーセン攻略企画”の友たちが事前に集まり、各々の親との交渉結果を持ち寄ると、いずれも承諾を得てそれなりに遊べる小遣い額を手にできたとの朗報が出揃った。小遣い定額制の友などは割と貯めこんでいたようなので親に内緒で"突破"するかとも思ったが、きちんと承諾を得たというから感心した。
彼は、小さい街で顔の知れた小学生だけで街を徘徊していれば、それを見た大人達が他人であってもよけいな気遣いをして親に”通報”してくれちゃうので、親へ仁義を切っておくのはいらぬ面倒をさけるためのマストだという趣旨のことを言っていた。さすが長男の彼は私より揉まれているのか”オトナだなあ”と思った。
諸々事前にクリアすべきが片付いた僕たちはいよいよ意気を上げた。小学5年生の春まだ遠い2月頃であったか。土曜日の半ドン後に自宅で昼飯を食べてからの待ち合わせの時間と場所も決まり「いざイシザキへ」と相成った。めでたしめでたしだ。
(「柏崎こども時代22「イシザキ遊技場(その2)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代23「イシザキ遊技場(その3)」」に続きます。)
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