新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎中学生時代11「学業といえば英語で苦労」

●学業といえば英語で苦労

 昭和52年4月から3年間の柏崎市立第二中学校時代を振り返ると、とにかく初体験の、しかも肥満児だった私には極めてハードで泣きたいくらいだった、バスケットボールという部活動のインパクトが強くて、具体的に思い出せるのもその関連のあれこればかりだ。
 しかし、考えてみれば部活動は平日は放課後の夕方からせいぜい3時間くらいと土日や長期休暇期間は半日ずつくらいであり、中学校生活の大半はやはり授業だったはず。平日の3分の1、昭和の当時は半ドンと言われた土曜午前の半日分も含めて、学業やその合間の休憩時間、昼休みはどのようなものだったのか記憶を辿ってみる。
 教科で先ず思い出すのは「英語」だ。
 当時の英語は中学校に進学して初めて教科として学ぶ時代だったので、真新しさが印象深かったということもあるのだが、私としては中身についての苦々しい思い出が脳裏に焼き付いている。
 ご想像のとおり、昭和の当時の最初は”This Is A Pen”的な幼稚な文章の読み書きから始まるので、何かバカバカしいというか全く実用的でないのでやる気になれないというか、英語の授業になると内容に頭脳が全く前向きになれない。当時は教師の発語をそのまま反復して覚えようとすることが中心で、会話形式のやりとりが乏しいこともあり、好奇心や記憶したい気にさせるための刺激が殆ど無かったように思う。
 少なくとも、他の教科では日々の授業において何等かの新しい情報や知見が見出されることがあった。ところが英語というやつは、とにかく教科書に書かれた内容に面白みやインテリジェンスが感じられない。ただ、子供っぽい内容が英語に置き換えられているだけにしか見えないのだ。
 初度の内容のあまりの幼さに、私は英語の授業においては集中力はおろか毎度殆ど上の空になっていて、教科書やノートに漫画の落書きばかりしていたように思える。それでも授業中の時々に今先生が読み上げている教科書の記述部分などをチラ見すると、相変わらず小学生のお喋りのような内容なので、このまま努力も無しに暫くはやり過ごしていけるだろうと根拠も無しに漫然としていたものだ。
 しかし、ある時、ふと黒板を見ると板書されていた英語の文章が分からないことにハタと気づかされた。簡単なことなのだが、DoとDoesの使い分けとか、過去形の変化だとか、即座にどうしてそうなるんだっけというのが頭に浮かばなくなっていたのだ。
 そんな時に限って教師からの名指しが当たるもので、板書の意味を問われて立った私は一言も出てこない。心が青ざめ始めると、近くに座っていた優等生の女子が知ったかぶりに、もしくは私の危機を察しての助け舟のつもりなのか、少し小声でヒントを出してくれたので、それを頂いてなんとか答えることができ、それがその女子とのコントのような形になったことから教室内は少し笑いに包まれるような雰囲気になり、私は大いに助けられたものだ。
 教室は和やかでも私は氷のような心情だった。数週間に及ぶ授業中の怠慢により、ここにいる連中と英語に関して大きく離された、というか全く下の次元に沈んでしまっていることに我ながら愕然としたのだ。
 同級生からの遅れを取り戻さねばなるまいと思うも、もはや教科書を遡って見ても何がどの辺から分からないのか理解できず、入学最初の頃に友達に触発されてテキストまで買って聴き始めたNHKラジオの基礎英語などもスキップが続いていて疾うに追いついていけない状態になっていた。
 だましだまし過ごした中学一年生から二年生に進級すると、理解の格差が広がるばかりの英語の授業は憂鬱でしかなくなっていた。この先の高校進学なども英語抜きで行けないものかと本気で考えるほど心神が拒否反応を起こし始めていた。授業の都度に真剣に向き合えば少しずつでも成績が上がるのではないかと思うも、偏見かもしれないが英語の教師というのはどこか唯我独尊的な雰囲気が感じられて馴染みにくく、私はいよいよ追い詰められていったのだ。
 そんな時に"救世主"が現れてくれた。
 定期の席替えで前の席になってくれた女子はどのような経緯か分からないが英語が得意だったのだが、それを鼻に掛けるようなところがなく、普段からとても気さくに話してくれる人だったので、思い切って英語の悩みを打ち明けると、なんとも明るく優しく私の心の中でもつれた糸を解きほぐすように幾度となく指南してくれたのだ。
 目先の問題の直接の解答を教えて終わりというのではなく、それを解くためのヒントや、そうした考え方をできるようにするための学び方や覚え方といったことを、その都度面倒くさがらずに分かり易く丁寧かつシンプルに教えてくれたのだ。
 これには”目から鱗”だった。「勉強の仕方」というものを始めて教えてもらったような気がする。教師たちもいきなりテキストとテストということでなくその科目の上手な学び方というものを最初に教えれば良いのではないかと今でも思う。しかし、生徒一人一人の覚え方や考え方の違いや個性というものもあってそうはいかないのだろう。前の席の彼女のアドバイスはたまさか私に適うものだったということかもしれない。いずれにしても”救世主”のお陰で英語の成績は何とか平均ラインくらいには留まれるようになっていった。
 中学時代の級友で私が学業に関して一番に恩を感じている彼女は、その後、英語の力を活かしてなのか遠地のミッション系私立高校に進学した。高校に進学しても英語で悩まされるに違い無い私にとって、親しく話せるような友人関係が続けられなくなったのは少し残念だったのだ。

(「柏崎中学生時代11「学業といえば英語で苦労」」終わり。「柏崎中学生時代12「授業時間外の事件簿」」続きます。)
小学生時代までの「柏崎こども時代」(全46話)はこちら
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「活かすぜ羽越本線100年」をスピンオフ(?)で連載始めました。
↓柏崎市立第二中学校通学路の現況。昭和的な警察宿舎は廃止され売却か。

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