●授業時間外の事件簿
昭和52年4月からの柏崎市立第二中学校での3年間において、教室での授業を振り返ると殆ど覚えていることが無く、中学から新たに教科となった「英語」が最初の段階の内容的なつまらなさから嘗めてしまって後々痛い目を見たということくらいしか頭に浮かんでこない。
教室を出て行う「体育」については、おそらく生まれながらの運動センスの無さに加えて、小学時代に休日ともなれば自宅でマンガを描いてばかりいたことによる肥満体型が更に災いして、陸上競技でまともにできる種目は無く、鉄棒などは目も当てられず、まして水泳は殆どカナヅチなので恐怖の時限でしかなかった。「体育」は思い出したくも無いのだ。
放課後といえば、当時の肥満体型から脱却すべく清水の舞台から飛び降りるような気持ちで門を叩いたバスケットボール部の練習が毎日あり、この中学の部活動において一二位を争うと言われていた昭和時代お約束の新入生へのシゴキにマジで死にそうな思いで耐えているだけの時間だった。よくぞ3年間続けられたものだと未だに自分を褒めたいほどだ。
ならば、授業の合間の10分間休憩とか昼休みは何をしていたのかと思い出してみる。
入学したての頃は、別の小学校卒の生徒たちと混ざってなんとなくよそよそしい感じが教室内にしていた。同じ小学校卒で馴染みの友人が同級に少ない私は、給食を終えると一息つくかのように高学年の頃から何かと連れ立つようになっていた数少ない”同朋”に声掛けして、当時の柏崎市立第二中学校の自慢だった中庭に出て、ベンチで向き合って座って三将棋とか五目並べなどに興じていたと思う。ほんの数十分ではその程度しかできなかった。
やがて放課後のバスケの部活動が日々本格化していくと、そんな昼食後の僅かな憩いのひと時すら貴重となってきて、身体を休めるために机に突っ伏すか、どこか静かなところでうたた寝していたかもしれない。同じ部活でバスケに執心だった同学年の部員の中には、日々の基礎練習と称する新入部員シゴキではボールに触る事さえできなかったので、その憂さを晴らすように昼休みにドリブルとか練習している強者もいた。肥満体からの脱却を第一義に入部した私はヘトヘトで日々疲れ果てていたのだ。
そんな私でも、中学生くらいだと不思議とバイタリティが日々湧いてくるもので、授業の合間の短い休憩時間や掃除の時間などでは教諭の目が届かないことをいいことに、丸めた雑巾をボールに、箒をバットにして、教室の隅で野球もどきに興じていたことを思い出す。上下主従関係の厳しいバスケ部での窮屈で厳しいだけの鍛錬の日々の中で貴重な息抜きになっていたのだと思う。
狭い所で大騒ぎしていたので女子には不評だったが、そうしたチョイ悪感が遊びをエスカレートさせていた。そして、案の定、過ぎたる事には戒めが訪れるのだ。
1年生も後半のある秋の日であったか、理科室の清掃当番にあたっていた私は、同じ当番の友人と意気投合して、誰もいない室内で例によって野球もどきを始めた。水道の蛇口とシンクが備わっている理科実験用のテーブルが並ぶ合間を野球のダイヤモンドに、場所決めをした所を塁ベースにして、投げて打って走り回る。うるさい女子達も教諭も居ない空間なので潜めがちな声も次第に大きくなってきたものだ。
そんな盛り上がりの最中、普段ホームにしていたクラスの教室と異なるアウエーであったためか、それとも元来の運動音痴ゆえなのか、私は3塁を回ったところで勢い足を滑らせてしまった。倒れまいと身体を支えるように反射的に横に出した右腕の先には理科教材のガラス戸棚が。手先を引っ込めるも時すでに遅しで肘からぶち当たって硝子が放射線を描くように割れてしまった。
大丈夫かと駆け寄る友人に大したこと無いと応答したかったが、右肘の少し上を見ると見事に尖ったガラスが突き刺さっている。即座にそれを抜くと次第に出血も増えて来た。不思議に痛みはそれほどでもないのだが、頭の中はマズイ事になったという思いで一杯だ。遊び惚けて学校の貴重な財産を壊したことの償いとは如何ほどになろうものかと。
普段は生徒として何気なく有難みも感じずに使っているのだが、理科実験用の器具というものは安価なものではないだろうというのは12歳くらいの頭でも有に想像できるところ。案じて割れたガラスの奥の棚を見ると、ビーカーやフラスコといった”割れ物”は無く、金属製か木製の器具ばかりだったので、一見して割れたガラスによる損傷は無さそうだ。何となく胸をなでおろす。
となれば、あとは我が身の出血とガラスを割ったことの始末だ。一緒に騒いでいた友人が、ガラスの粉が血管に入ると厄介な事になるぜと無責任に知ったようなことを言うので、丁度手近にあったペーパータオルで傷口を抑えて保健室へ。「掃除当番で理科準備室にいたら転んでガラスを割ってしまった」と話しながら手当をしてもらう。嘘はついていないなと思いながら。
続いて、教務室へ向かい担任の教諭のところへ。保健室と同じように話すと開口一番に何よりも怪我を案じてくれた。経緯をなんの疑りもしないこの先生はいい人なんだなとしみじみ思った。次第にジンジンと強まってくる傷口の痛みを後ろめたく感じながら。
中学校時代の休み時間といえば思い出すのはこんなろくでもないエピソードくらいなのだ。この先どうなっていくのやら。先の事を全く考えていなかったけど何故か何ら心配にはならなかった。中学受験とか中学入学早々から進路を考えるとか、そんな煩わしさが無くて気持ちだけはひたすら伸び伸びと日々を送れたことは今から思えば至福の時期だった。右肘の上に今も残る”あの時の傷跡”を見る度に思う。
(「柏崎中学生時代12「授業時間外の事件簿」」終わり。「柏崎中学生時代13「受験で担任を慌てさせる」」に続きます。)
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